――「俺は用心棒」とその周辺――

3.俺は用心棒

 「俺は用心棒」を初めとする用心棒シリーズは、用心棒の浪人とその仲間が、町の片隅に生きる弱い人間の用心棒をするという構成です。ドラマは毎回完結の形ですが、彼等は事件に偶然出くわしたに過ぎず、一仕事終えたという感慨を抱かせることなく、すれ違っていくのです。それは、正義の為などという名のもとにヒロイックな行動をとる主人公に、我々が単純に感情移入しカタルシスを味わうことを否定し、素通りすることによって逆に、人間社会の深部に流れるヒューマニズムに対するあこがれを我々に呼び起こさせずにはいません。それが何とも言えない感動となってストレートに我々の内面にここちよくしみ込んでくるのです。

 「かわいそうなものは、助けたいか・・」
(「拾った道」ビデオ第12巻VCTM02343)というセリフでテーマが語られ、全26話のクライマックスに続きます。

 用心棒シリーズは、承認することができない不条理やみじめな限界に満ちたこの世界を描くことが中心であり、用心棒達はその水先案内人です。極端な場合、狂言回しに過ぎないこともあります。ドラマは、若党物、やくざ物、郷士物、奉公人物、身売女物、若夫婦物、父物、不良志士物、善良志士物等のパターンにも分けられますが、大局的には、それほどの違いはありません。そこに描かれる人達にとっては命を賭ける重大な出来事も人に知られることはありません。すなわち、結束信二は、用心棒シリーズにより、歴史に描かれることのない庶民の歴史の発掘を指向するのです。そこで庶民の善良さとして表現されるのは、他人を評価の原点に置く誇りとか体面ではなく、まさに自分が誠実に生きているという自尊心です。

 ストーリーは、恋愛、男同志の相克、あるいは藩と藩士との対立等、こういったものが巧みにかみ合わされて盛り込まれています。これは人間生活が単一の事象によるのではなく、複雑な要因からなることですから当然そうならなければならないのですが、彼の作品の場合は社会の複雑な綾の機微をリアルに描くということより、むしろドラマチックなドラマを構成するためにそういう手法をとるようです。例えば、恋愛にしろ、彼と彼女の馴れ初めはと、くどくどしいイントロを付けるより、時代の流れ社会の動きの中でそれを描いた方が、より生き生きとおもしろくなるわけです。これが結束信二の基本的なドラマツルギーでしょう。

 「何物だ? 名を名乗れ!!」
 「俺か・・・俺は・・・用心棒。」
 というセリフで「俺は用心棒」は始まりますが、その、ため息のように吐かれる、「俺か」という言葉には、諦めというか空しさというか、そんなものが感じられます。それは悪に対する怒りであり、悪の存在に対する悲しみでしょう。この作品で、悪は、時代劇にありがちな、むほんを起こして本当に苦しむのは民百性だ、そういう平和な町民の生活を脅かすものが悪だ、という単純な割り切り方とはいささか趣を異にします。だから後に引用する吉本隆明の言う転向ドラマということにもなるのでしょう。誠実に生きる人、何か、それは保守的というより社会変革があったとしても脈々と流れ続けるだろう極めて人間的なもの、を守り続けてきた純朴な人達の存在を、無残にも切りさいていくものに対する空しさでしょう。しかし、主人公がいくら強くても一匹狼である以上、しょせん女衒につれられていく一人の娘に救いの手をさし延べるに止まり、非人間的な体制を変革する力とはなりません。そして、そういった娘の命さえ力及ばずして、うたかたに消えてゆくのです。ヒューマニストにこそ空しさは付いてまわるのです。そこでの哀感悲愴感はしかし、人々の親密なる友愛信頼関係と表裏をなすものなのです。だから「俺は用心棒」のカタストロフィ(悲劇的な結末)は、作家の精神の存在により、むしろ逆に人間愛に対するオプティミズム(楽観主義)を感じさせます。

 「その女がどうなったか、誰も知らない。」
 というナレーションは、人間の、「生きる」ということの根元に対する問として捕えなければなりません。そういう、「気掛かり」によって、情感の余韻に沈潜することで、このナレーションは強烈なノスタルジアを引き起こすのです。「俺は用心棒」は清純な魂に対する賛歌です。

 「あのう旦那これから?」
 「俺か・・・」
 「───この男がどこヘ行くのか、それはこの男も知らない───」

 彼が街道に消えた後、私は本棚の歴史の本をあさってみたものです、何故か彼がそこに出て来るような気がしたからです。この最終回は1967年のことです。

 用心棒のキャラクターは悲壮ではなく、脱体制的でありかつ強いという所から出て来る寂寥感(せきりょうかん)、ある寂しさです。用心棒の野良犬という自覚です。扇千景にささやかな心の通じ合いを感じた時、人とのつながりを見せますが、扇の死によってそれは打ち消されます。それはまさに、何等かの共同体に関わる庶民の対偶なのです。そしてその両者の間に第三者的人物として品田万平がいました。彼等のそういうキャラクターゆえ沖田総司をして「たいヘんな旦那たちだ。」と言わしめるのです。

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