――「俺は用心棒」とその周辺――

4.「俺は用心棒」の評価

 「時代映画」昭和35(1960)年3月号に、結束信二の対談が載っていたので、引用します。
「僕は、商売でシナリオを書いているんだから、どんな悪い条件を与えられても、それが出来なければプロじゃないといった。 (中略) 僕は、東映の仕事というのは、最高の職人芸だと思うんですよ。また、作品の面白さということも職人芸の面白さだと思うんです。いかにして多勢のお客さんをたのしませるかということでやっているんですからね。(中略) ですから、技術的な苦労しか感じないですね。」
 これは彼が35オ頃のものですが、この姿勢はその後も変わってはいません。特に伏線による人間描写の巧みさでは、おそらく彼の右に出る者はいないでしょう。彼のひたむきなそういう姿勢が「俺は用心棒」という「見るなといっても見たい」傑作を生んだのでしょう。「俺は用心棒」も決して突然湧き出たものではなく、先に挙げた150本にも及ぶ作品の集大成と見る時、その出来の素晴らしさも領けるのです。
「真葛ケ原にて待つ (俺は用心棒ビデオ十 VCTM02286 に収録)」は、1967(S42)年度芸術祭参加作品でした。これは、カラー(総天然色)の特別編で、美しい京都の映像を背景に、キャストが活躍する、マニア必携の作品です。「帰ってきた用心棒」では京染め職人の話が、芸術祭参加作品でした。

 しかし彼もその傾向を変えて行ったようにも思われます。五社英雄が週刊平凡か何かに「新・三匹の侍」を監督するに当たって「ただながめててもわかる作品はもう作りたくないネ、やっばり見る映画、思わずすいこまれる映画を作りたい。」と言っていました。彼もこんな意識を持つようになったのではないでしょうか。
 今日のように伝達媒体の種類がふえ、従ってその絶対量が以前と比べられない程増大している時に、一つのメディアのしかもその中の一つの作品が、都市から僻地に至る老若男女に享受されるなどと考えることは、もはやできないでしょう。つまり伝達媒体が、外岐のジャンルに分かれ、多様化し、大衆も複雑に分割組合わさった形でそれを個々別々に選択享受する時代になってきているのです。産業、文化の発達が、大衆社会の中でコミュニケーション・メディアを、マスコミからよりプライべートなメディアヘ変革しつつあるのです。
 後に引用する、吉本ばななの父吉本隆明や、高橋和巳を初め、当時の雑誌「週刊TVガイド」の読者欄での投書を見るに、彼は確実に固定ファンを持ちました。

 彼の他の作品に移りますが、彼は司馬遼太郎の「新選組血風録」「燃えよ剣」(共に新選組の話で彼は混合し脚色しています)を原作に同名の二作品を作りましたが、内容が若干異なります。

 人はより豊かな生活を常に望み、その為に組織を作ってより大きく有効な生活を指向します。組織は従って継成員の最大公約数的利益を求めて活動を始めます。しかし組織が有効に活動を行なうように整備されて来たとき、本来の目的を離れた組織の維持がそれに代わります。構成員をではなく、掟を中心とする行動に転化し、権成主義を呼び、従って、そこに弱い人間の生きる「よりどころ」を求めて来た者をして、却って逆境に立たせ、流れ行く大きな渦の下に累々とその屍を押しひいてゆくのです。それは組織の持つ内的必然なのですが、その明確な転換点こそ、その制服に見い出されるものと思います。そこに段だら染め新選組の悲壮感があり、組織の効率と人間の自由との二律背反(antinomy)のドラマがメロとしてその哀感を、シンバシーを引き起こすものとしてあります。

 そうした「新選組血風録(1965)」に比し、後者の「燃えよ剣(1970)」に於いては、組織内に於ける派閥争いすなわち内ゲバが主たる骨子をなします。そう言ったからといって私がその構成に於いて結束信二の意図的な、「70年代初めの時代」との関連性を認めるというわけではありません。彼は先に上げたように職人であり、だからそこに見い出すとすればプロデューサーのそれでこそあるでしょう。組織はその結成時代を過ぎると、ある神格化された権威が成立し、それに対する服従あるいは追従、盲従という形をとるようになりますが、従って逆に形骸化した権威は少数の策士によって分割され、さらに権威に対する従属が各構成員によって理論化されておらず極めてエモーンョナルであるが故に派閥としての分離が表面化しやすく、かつ嫌悪といった形をとることが多いわけです。さて、今日では人間性ヘの不信、親密性の拒否等のやばい位置に自らを据えざるをえず、又そうしなければ現代に於ける社会的矛盾に対する糸口は見つかり得ないかのようです。だから、だからこそ逆に我々は人間性・組密性に対する思慕を、憧れを強く懐くのではないでしょうか。

 結束信二のテーマは、沖田総司に言わせた「みんないい人ばかりですね。」ということでしょう。骨子となるのはヒューマニズムであり、描き出すのは詩情であり、リリシズム(叙情性)です。ここで、庶民を虐げるものをやっつけるわけですが、それが、やはり役人を斬ることだけではどうしょうもないみたいなものを余韻として流すことで、そこでの悪が生まれた時から悪人ではなく社会機構に必然的に内在する悪によってそうならざるをえなかった背景を盛り込むことによって、安っぽいヒューマニズムに堕することを免れていると言うか、もっと的確に言うなら、そこがチャームポイントで売っている訳です。

 彼は作詩もしますが、東映で和製ミュージカルみたいなのも作っていたからでしょうか。それから、たまにシリアス(まじめ)な話に遊びをやって、ズッコケさせることがあります。「待っていた用心棒(1968)」の最終回で、若山富三郎に「俺たちは待っていた用心棒だからな。」と言わせたのなど極みでしょう(注:6)

 吉本隆明が、映画芸術昭和45(1970)年8月号に書いているのを、以下引用します。

「わたしは『用心棒シリーズ』が好きであった。『待っていた用心棒』の伊藤雄之介の鮮やかなニヒリスト浪人の演技、伊藤雄之介がおりたあとの『帰ってきた用心棒(1968)』の栗塚旭、左右田一平、島田順司のやたらに人を斬ってしまう浪人たちの演技。もし、転向テレビドラマというのがあるとすれば、このシリーズはわりあいに真摯にその問題をあつかっているとおもわれた。」

俺は用心棒の場合、彼はほとんどの場合敵を峰打ちにするだけでした。それは彼等もまた往々にして妻子親兄弟もあり、彼等の立場を守っていかなければ生きて行けない弱い人達であり得るからです。

「ところで脚本の結束信二はしだいに変わってきている。志士であろうと佐幕派の武士であろうと、胸くその悪い奴はやたらに斬りころしてしまう無垢の浪人たちをえがいているうちに、大学紛争、安田講堂事件いらい、しだいにニュアンスが変わり、志士気どりで諸国から京都にあつまってきている浪士たちが、集団強盗をはたらく非人間的な悪党であったり、猪突猛進して庶民に仇をなす暴力浪人にすぎなかったりで、三人の主人公は『天を斬る(1969)』では、幕府の喰いつめ別働隊としてもっぱらこういう浪士を斬りまくる役になっていった。そして、暴力をふるって猛進する浪士たちは、ひと皮むけばとんでもなく非人間的な男たちで、その末路は哀れなものだというようなお説教をたれるようになった。現在の『燃えよ剣(1970)』では、新選組善玉物語にまで変わっている。わたしは、べつだんテーマ主義者ではないが、おもしろおかしい転向テレビドラマをみせてくれていた結束信二の変わりかたをみていると、そぞろうら哀しくなってくるのはたしかである。この何ものかであるようにみえていた脚本家が、変貌するさまをみるのはさびしい。」

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