――「俺は用心棒」とその周辺――

6.あとがき

 「俺は用心棒(1967)」の視聴率30%という成功のため、テレビ局は彼に「用心棒シリーズ(1968-69)」「天を斬る(1969)」「燃えよ剣(1970)」と立て続けに同一キャラクターによる作品を作り出させてきました。それはマンネリ、惰性に過ぎませんでした。

 映画の面白さは観客がどれだけその世界に没入し追体験によるカタルシスを味わうかにかかっているといっていいでしょう。従って片手間にドラマを見る限り、その世界に入って行けないので見ていても少しも面白くないのです。忙しい現代に於いてテレビでは、歌謡番組やクイズ番組、バラエティ・トーク番組がハバをきかせていますが、それはドラマと違い長時間没入する必要が無い為、ながら族の伴奏として最適だからです。

 ドラマは多くの場合、主人公に対するシンバシーつまり同一化によって観客をその世界に導き入れます。だから人間性というものがそんなに変わるものでない以上、当然主人公の類型化が生じます。あるいはシチュエーンョンの類型化が起こるのです。「俺は用心棒」も弱きを助ける無償の剣という点では類型的ですが、その発展のオリジナリティーが魅力でした。しかしそれが情性となった用心棒シリーズに魅力は有りませんでした。彼の作品がその後 ちゃらんぽらん になったのは、社会情勢のためか、企業の圧力によるのか私は知りません。しかし後者であるなら (注) の所は、「待ってました。」とばかりにしゃしゃり出た企業に対するささやかなシッペ返しだったのかも知れません。

 商業ベースでここまできた結束信二は、1969年「続・俺は用心棒」と「あゝ忠心蔵」と日本初の一時間半テレビ映画「花のお江戸のすごい奴」と一週に三本も書きまくるという曲芸をやりました。おかけでこの年、彼は関西文化人の高額所得者のべスト10に入りました。しかしこれ等は結局、死の哀感と安っぽいユーモアに則った薄っべらなドラマにしか成り得ませんでした。

 京都大学助教授で、1971年39歳で夭折(ようせつ)した、小説家・ 高橋和巳 の小説「白く塗りたる墓」にも「俺は用心棒」は登場します。
「 NHK はむろんのこと、他のテレビ局においても、政治に対して批判的な番組は急速に姿を消していた。明治百年をドラマ形式でたどるはずだった番組は、アジアに対して侵した日本の罪科をおおいえない昭和の時代に入るまえに雲散霧消し、ニヒリスティックな流浪の浪人たちが活躍していたはずの時代劇は、あっと気付いてみると主役達の役柄がいつの間にか幕府の隠密に転じて威張りかえっていた。」
 1970年とは、そんな時代でした。

(それにしても、「文学の責任」の著者が、どんな表情で「俺は用心棒」を見ていたのか、想像するのは楽しいですね。)

 「燃えよ剣」の土方の「蝦夷の毎日は無意味だったように思える。俺の一生には、余分のことだったのかも知れない。やり過ぎた者の名は、すべて悪人の名前として人々の中に残るもんだ」というセリフが、私には何か二重の響きを持って聞こえました。はかなく消えるテレビだからといって死に急ぐ必要はありません。彼も「私もこれから本当の映画の仕事を考えたいと思っている」と書いていましたが、「世の中が変わったのだ、新しい生き方があるだろう。」

 黒須洋子の『テレビ映画「新選組血風録」の世界』(新人物往来社2000年10月刊、本体価格2800円(ISBN 4-404-02875-X))に当時の制作環境が詳しく書かれています。
「ところがテレビも昭和50年代(1975)ころから変容し(中略)た。氏は『うければ何でもいい』といった局の姿勢に疑問を感じた。局と対立し、ある番組はホサれ、ある番組は自らおりた。それまでストレスで毎日険しい表情をしていた氏が、仕事をやめたら、スッと穏やかな顔に戻ったというから、その葛藤がどれほどのものであったかが窺える。」

 彼は、その後、シナリオ教室の講師をしました。
http://school.toei-kyoto.com/course/scenario/curriculum.html

 結束信二、昭和62(1987)年5月30日、脳こうそくで倒れ死去。享年60歳。

 彼の作品が、公開後40年以上もたった今日でも、なおビデオでいつでも見ることがき、また新しい視聴者を獲得しており、こうしてホームページでも紹介できることは、ファンとして何よりもの喜びです。

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