Japan Ueo Railroad
夢鉄道JURで行く
旅の
えっせい
旅を楽しく・・・・・
旅立つのは簡単・・・・・
でもそれは目的のある旅・・・・・
何の目的もなく、足の向くまま、気の向くまま・・・・・
そんな旅が最高・・・・・
でも、暇と言う名の時間と費用がいっぱい
いるだろうなぁ・・・・・
日本を走ったオリエント急行をご存知ですか?

ゆめとき駅に駆け込んできたのは・・・
オリエント急行・・・・・

1977年5月19日
パリ・リヨン駅からトルコ・イスタンブールへ最終列車が出発しました。
数日にわたる長旅のため、1930年代に全盛期を迎えたオリエント急行も、
空の旅の普及とともに、廃止となってしまいました。
94年間パリ〜トルコ・イスタンブールを走り続けたオリエント急行が、
1977年に廃止となった原因?のひとつには、ヨーロッパ各国の鉄道に
車両提供サービスを行っていた会社・・・・・ ワゴン・リ
「国際寝台車会社」が、1971年にその経営から撤退したことでした。
その後、このワゴン・リが所有する車両をアメリカの
海運業者が買い集め、豪華な鉄道による一夜の旅を提供するとして
ロンドン〜ドーバー、ブローニュ〜ベニス間の営業を開始しました。
このときスイスとイタリアの国境にあるアルプスの要衝「シンプロン峠」
を貫いた シンプロントンネル を通過したことから
その名を、VSOE ヴェニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス
としてオリエント急行を復活させました。
一方、スイスの小さな旅行社が、時を同じくこの ワゴン・リ
の車両を使って、パリ〜イスタンブール間に不定期ながらも再び走らせた
オリエント急行が、ノスタルジック・オリエント・エクスプレス
NOEで、後にイスタンブールを名前に加え、 NIOE
ノスタルジック・イスタンブール・オリエント・エクスプレスとしました。

1988年、日本のテレビ局が記念事業としてJR東日本とタイアップ!
なんとこのオリエント急行がヨーロッパ、シベリア、そして中国を経て
大陸を走りぬけ、日本に来ることとなったのです・・・・・
線路は繋がっていた!!
計画は最初、VSOE車両で進んでいたのですが、費用等で契約が不成立となり
頓挫しかけたものの、技術的なアドバイスを受けていた
NIOEの車両が使用されることで、実現することとなりました。
1988年9月7日・・・・・
世紀のイベント列車がパリ・リヨン駅を発車しました。
もちろん行く先は TOKYO・・・・・SPECIAL

正式な国際列車として認められた パリ〜香港間15,494Km は
ギネスにも認められた最長国際列車となりました・・・・・

パリからヨーロッパを駆け抜け当時のソビエトへ・・・・・
3回の台車(車輪)の交換が必要でした・・・・・
標準軌間1435mmのレールから1524mm軌間のソビエト
シベリア鉄道の線路を抜けて中国へ、再び1435mmに・・・・・
豪華な車体も砂塵にうっすらと汚れながら、悠久の国を駆け抜け
ついに香港に到着!
そして、香港からは船に積み込まれ日本へ・・・・・
山口県の日立工場で、今度は日本の1067mmの狭軌台車に交換・・・・・

左は日本の狭軌台車、右はヨーロッパ標準軌間台車です。
日本の狭軌台車は、さらに車両の高さを下げるために車輪の直径を
標準から一回り小さくして低くした台車なのです・・・・・
車両の大きは、幅はほぼ同じものの、長さが日本の車両より約3m長く
重量も日本の車両よりはるかに重く50トン近くあります。
この車両を日本国内で運行するには、国内の安全基準をクリアさせる
ことはもちろん、各種法令に適合させる必要がありました。
車両そのものにも税関など関係機関の許可が必要なのはもちろん車内の
観葉植物まで検疫、車内で使用する石鹸には薬事法・・・・・などなど
関係する機関はいっぱい!!
その運行には奇跡に近いものがありました・・・・・

当社工場で作業中の日本型台車はまだ標準サイズの車輪・・・・・
それでも右のヨーロッパ台車と車輪は大きい・・・・・
クリスマスから新年へ、1989年1月9日再び山口県下松港を後に
するまで、なんと日本国内を44,000Kmも走行したのです。
20年ほども前にオリエント急行が日本を走りました・・・・・
そして・・・JURにもクルーズトレイン誕生です!
オリエント急行が走ります・・・
その後・・・ヨーロッパへ戻ったオリエント急行の車両は・・・・・
ソビエト用の台車を使ったツアーなどに使われたらしいが・・・・・
当社のオリエント急行は、いつまでも走らせよう!
ワイングラスを片手に・・・・・
JURの走行音を聞きながら・・・・・
ささやかな夢路に入った私!!
・・・・・・
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