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『ジャンプノベル』の100枚がようやく完成した。次の仕事は「遮那王伝説」最終回だが、この作品は頭の中ではすでに完成しているので、考えるべきことはない。
いま、学生のレポートを読んでいる。「総合講座」の「聖書の文化史」という講義で、これは十人くらいの先生が交代で講義するものだが、わたしあてのレポートがあって、読まないといけない。
ネスコから出した拙著「聖書の謎を解く」を読んで自分なりの十二使徒観を書けというもので、
ついでにわたしの代表作の一つである「地に火を放つ者」を読んでくれればいう思いもあった。
何人か、ちゃんと「地に火を放つ者」を読んでくれているのが嬉しい。
だがそれよりも、「聖書の謎を解く」をしっかり読んで、こちらが伝えたかったメッセージが、かなり学生たちに伝わっていることが新鮮な驚きだ。
福音書からわたしが受け取ったメッセージが、わたしの本を介して学生たちに伝わっている。
言葉が人から人へ、バトンタッチのように受け継がれていく。だからこそ、言葉というものは面白いのであり、書くという作業は、生涯をかけるに値する行為なのだ。
というわけで、学生たちのレポートを読んで、元気が出てきた。
今日は大学へ行って、上述のレポートを受け取ってきたのだが、ついでに神田へ回って本を買ったりもした。
さて、「女帝」だが、ここに主要登場人物を書き留めておく。
何よりも、孝謙女帝と道鏡。
中心となるのは孝謙女帝で、道鏡はあくまでも脇役だが、控えめで知的な人物として、また苦悩する実存として、重要なキャラクターであることは間違いない。
孝謙はナイーヴで、感じやすい女の子として描く。この繊細だが凡庸な女性が、やがて怪物と化していくところに、人生の不条理性と、人間というものの面白さがある。
他に脇役として重要なのは、弓削浄人、義淵、藤原仲麻呂、吉備真備、和気清麻呂などがポイントとなる。
このうち誰を悪役とするか。吉備真備、和気清麻呂は、道鏡にとっては、敵となる。もちろん藤原一族も敵だし、宇佐八幡宮というのが、重要な謎になる。
そもそも八幡大菩薩とは何なのか。
実は、よくわからない。
わからないからこそ、書きたい、という内的モチーフがある。
この作品は、「霧隠れ雲隠れ」「遮那王伝説」続く、三番目の時代小説となるが、キリストを主人公にした「地に火を放つ者」も一種の時代小説と考えることができる。
ということは、この作品は三田誠広の文学の中心的作品と見ていいわけで、ただのエンターテインメントだとは考えていない。
いずれ、聖徳太子や天智天皇についても書いてみたいと思っている。
まだ資料を読んでいる段階だが、徐々に構想はふくらんでいる。
聖武天皇、光明皇后、役小角なども重要なキャラクターだ。
それとインド人の菩提遷那、中国人の鑑真なども関わってくる。
何やら大変な作品になりそうだ。
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さて、現在は、卒論を読む作業と併行して、「遮那王伝説」を書いている。これは、『週刊小説』に断続的に掲載してきたもので、一回が50枚、これまでに7回、掲載している。
今度の8回目が最終回になる。
内容としては、遮那王というのは言うまでもなく源義経の幼名(もちろん最初は牛若丸だが、鞍馬にいるころは遮那王と呼ばれていた)だ。
主人公は鬼若、すなわち武蔵坊弁慶。なーんだ、義経と弁慶の話か、などと思わないでいただきたい。
この作品は歴史小説ではなく、仏教と神道のさまざまなキャラクターが跳梁跋扈する幻想的冒険小説なのだ。
ただしストーリーの面白さでひっぱっていくものではなく、幻想的なイメージを文学的に味わっていただきたい。
遮那王は弥勒菩薩の化身で、現世で苦難に遭遇して修行を積み、その結果、次の時代の仏陀となる。
苦難の旅、というのは「西遊記」の三蔵法師と同じで、鬼若が孫悟空にあたる。
八戒のようなキャラクターは出てこないが、伊勢の三郎という大男がバイプレーヤーで、沙悟浄にあたるキャラクターとして、常陸坊海尊が登場する。
遮那王はこの作品ではアンドロジーナスということになっている。すなわち両性具有。
この遮那王と鬼若のロマンの物語でもあるが、中心になるのは、観音菩薩を始めとする仏教の菩薩、天、怪物たちと、日本の神々の闘いである。
さて最終回は、前回の吉野の別れのあと、琵琶湖から愛発山を超えて北陸路をたどる。
ここで白山のククリ姫が出てくる。実際に古典の「義経記」には、この山の峠で、義経と弁慶が、白山の女神について語り合うくだりがあるのだが、こちらの小説では実際に女神が妖怪となって登場する。
その後、安宅の関の勧進帳の話、平泉での弁慶の立ち往生の話と進んでいくのだが、その最後のところで、立ったまま死んでいる弁慶と、義経が、交わる、というシーンがある。
この作品のロマンとしてのストーリーの締めくくりとなる重要なプロットだが、そのための伏線として、女神の妖怪との闘いが必要になる。
安宅の関に関しては、謡曲をそのまま引用する。弁慶が義経を叩くところは、当然、SM的になるだろう。なぜなら、二人は愛し合っているのだから。
弁慶が死んだあとも、あと一シーン、エピローグがある。これも古典の鬼ヶ島伝説からの引用で、作者に教養があるところが示される。
まあ、そんな構想で書いている。何だか、「遮那王伝説」の創作ノートみたいになってしまったが、この作品を仕上げないと「女帝」に取り組めないので、進行状況はここに書き留めておく。
「女帝」というのはまだ仮のタイトルだ。「孝謙天皇」などと書いても誰も知らないだろうから、固有名のない「女帝」でいいと思っている。
いま資料を整理しているところだが、玄方(漢字が出ない)、鑑真、行基などの僧も重要人物だ。これらを道鏡とどのように関わらせるか、設計図を作るのにかなりの時間が必要になるだろう。
最初に道鏡が出てくる場面では、役小角の亡霊が出てくる、というところは、最初に考えてある。
これは「地に火を放つ者」の冒頭、トマスが「男」と出会うシーンに呼応している。
人と人が出会う、というところから、物語は始まるのだ。
ただしこの作品では、その出会いの前に、孝謙天皇が幼女で阿倍姫と呼ばれていた頃のエピソードを置く。
女帝がタイトルロールだから、まず阿倍皇女の物語から始めなければならない。
父の聖武天皇に対するファーザーコンプレックスが一つのモチーフになるだろう。
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皇族には神と交信する力がある。それが前提となる。簡単に言えば未来を見る透視能力ということだが。
父の聖武天皇と阿倍姫が未来を見るシーン。そこで黄金の大仏を見る。
こういう神秘的なシーンが随時おりまぜていかないとただの歴史小説になってしまう。
母の光明皇后は兄の藤原四兄弟と、現実的な政治に力を入れている。
聖武天皇は未来を見ることの他には、現実的な力をもたない。
その無力さと、父の一種の狂気に気づいて、ファザコン気味であった阿倍姫が、父との間に距離をとろうとする。
もう一つ重要なのは遣唐使の帰還。父は遣唐使を救いの神と見ているのに対し、阿倍姫は恐怖を覚える。
この時点での阿倍姫の透視能力には限界があるので、恐怖の正体は具体的には見えない。
未来がはっきり見えすぎると話にならないので、今後も見えそうで見えない、という展開になるだろう。
言うまでもなく遣唐使が帰還し、吉備真備と玄ボウという重要人物が登場する。
吉備真備は阿倍姫の支えとなる知的な人物だが、玄ボウの方はかなりいかがわしい人物という設定になっている。
遣唐使の帰還によって疱瘡が流行し、藤原四兄弟が全員死ぬ。また重職にあった皇子二人も死ぬ。
このことによって政界は急速な若返りを余儀なくされるが、光明皇后の独裁を許すことにもなる。
このあたりの展開はスピーディーに、もたれないようにする。
登場人物が多すぎるので、どうでもいい人物は割愛する。光明皇后の母方の兄、橘諸兄なども、あなり顔が見えないように処理したい。
大仏開眼のシーンまで、阿倍姫を中心に展開し、そこで道鏡に視点を移して、時間を少し戻して道鏡の側から大仏開眼までを展開させる。
道鏡の話が移ると理屈っぽくなるので、阿倍姫だけで100枚くらい進めたい。
3/26
昨日、早稲田の卒業式があり、大学関係の仕事はしばらくない。朝日新聞の日曜エッセーも終わった。昨年末まで読売新聞夕刊の連載小説を書いていた。そこから休みなしで、『ジャンプノベル』の「少女エクレール」、『週刊小説』の「遮那王伝説」最終回と、小説を書き続けてきた。
大学の卒論とレポートを読む作業もあり、朝日の日曜エッセーもかなりのプレッシャーになっていた。
何だか言い訳をしているみたいだが、実はそうだ。「女帝」への取り組みが少し遅れた。
資料をじっくり読んでいるヒマがなく、集中力もなかった。
ようやくすべての作業が終わり、「女帝」一本に絞れる態勢ができた。
書き下ろしの作品はこういう感じで書かないと、ずるずると作業が遅れることになる。
少なくとも4月いっぱいは「女帝」に集中できる。
さてここまで、1章20枚くらいの感じで、ほぼ4章の終わりまで書いた。
1章では、阿倍姫と父聖武天皇の関わりと、異母姉井上内親王との出会い。
2章は弟基親王の死と光明皇后について。
3章は重要人物藤原仲麻呂の登場と、聖武天皇の未来予知能力について。
4章では吉備真備および玄ボウの登場と大仏造営の計画について。
ここまでで、主要登場人物が出揃った。ただし道鏡を除いてだが。
ここから大仏開眼に向けてまっしぐらにストーリーを展開させていく。
重要なポイントは、まず聖武天皇の母、宮子のこと。宮子は聖武天皇を産んだ直後に発狂して、皇后宮の奥に幽閉されている。
玄ボウが宮子を治療し、快癒させる。これはおそらく強いヒステリー症状を、精神療法によって治療したものと考えられるが、現代でも性的不満がヒステリーの原因になっている場合、セックスのオルガスムス(絶頂感)によって不満が解消し、治癒する、といったことが精神医学、心理学などで言われている。
当時からそういうことは人に知られていたようで、玄ボウと宮子の関係については、怪しい噂が流れた。
後に同様の噂がさらに拡大されたかたちで、阿倍姫すなわち孝謙天皇と道鏡についても言われることになる。
ここには神話に見られる物語構造のようなものがある。
宮子と玄ボウ、阿倍姫と道鏡は、パラレルの関係にある。
以上は史実である。史実をなぞるだけでは幻想小説としての新しさがない。
この作品では玄ボウを後退させ、宮子の治療にも道鏡があたったというふうに設定する。
ただしストーリーの展開上、この段階では道鏡は姿を見せない。
ゴーストライターが他人名義で本を出すように、道鏡はゴーストドクター、あるいはゴーストプリーストとして、つまり影武者として、玄ボウの名において宮子を治療する。
ストーリーでは、玄ボウが治療したことになるのだが、ただ快癒した宮子が、自分を癒してくれた僧はどこにいるか、と孫の阿倍姫に問いかけるシーンを、実は治療したのが道鏡であるということの伏線として読者に提示しておく。
道鏡はまだ現れない。大仏が開眼してもまだ出てこない。
大仏開眼儀式で大仏に目を入れるバラモン僧、菩提センナの通訳として、梵語に堪能な道鏡が登場するのだが、ここでも道鏡の名は伏せておく。
さらに吉備真備の失脚と藤原仲麻呂の台頭、阿倍姫の即位、光明皇后の死、などさまざまなストーリーがあって、最後に孝謙天皇と道鏡の出会いを置く。
そのあたりまで阿倍姫の視点で物語を進行させてから、時間を元に戻して、最初から、ストーリーの流れを道鏡中心にたどり直す。そのことによって、同じ歴史がまったく違う視点から描かれることになる。
これがこの作品のミソである。道鏡中心のストーリーでは、道鏡の悟りと勉学が語られるわけだが、重要な登場人物としては、最初に登場して預言をする役小角、実際に道鏡を指導する行基、道鏡の友人となる菩提センナ、そして当然、吉備真備と玄ボウも登場する。
歴史的には鑑真も出てくるのだが、話がややこしくなるのではという気もする。しかし鑑真を抜きにしてはこの時代を語れないとも思う。
無視できない人物として、吉備真備の同僚の留学生阿倍仲麻呂がいる。
この人物は唐に渡ったまま帰ってこなかった留学生だから、割愛してもいいかもしれない。
阿倍姫と藤原仲麻呂の対立がストーリーの中心なのに、阿倍仲麻呂という名前の人物が出てきたのでは話がややこしくなる。百人一首にも出てくる人物だから名前をかえるわけにもいかない。歴史小説は難しい
名前といえば、阿倍姫というのは正しい呼び名ではないだろう。皇女(ひめみこ)または内親王と呼ばれるのがふつうで、「ひめ」と呼ばれる場合は「媛」の字をあてるべきだ。
しかしややこしいので、とりあえず「阿倍姫」と呼んでいる。そのうち皇太子になり、天皇になるのだが、その段階でどう呼ぶかは、その場で考える。
というようなところで、毎日少しずつ書き、つまずけば資料を読み返し、また書くということを続けている。
読売の「恋する家族」も、朝日ソノラマから出る岳真也、笹倉明氏との「大鼎談」も、ゲラが出て校正を終えているので、手はかからない。
次の作業としては、「遮那王伝説」単行本のゲラ、プレジデント社から出る大学関係の共著の本の作業がある。
「少女エクレール」の続編についてはまだ担当者と細かい詰めを話し合っていない。
以上の作業が絡んできて、さらに4月後半からは大学が始まる。
ただし大学は、昨年と同じカリキュラムなので、準備は要らない。教室に体を運んで話すだけだ。学生の宿題やレポートを読む作業で時間をとられるだろうが、毎日少しでも、「女帝」を書く時間はとれるだろう。
けっこう大変だと思うが、集中力を持続させたい。