「天翔ける女帝」創作ノート1

1998年


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仕事始め。
読売新聞夕刊「恋する家族」は2月末までの連載だが、
草稿はすでに昨年末に完成している。
当面の仕事としては、「ジャンプノベル」の100枚だけ。
他に『週刊小説』に断続的に書いている「遮那王伝説」が、
あと一回で完成するので、「女帝」に取り組む前に仕上げておきたい。
この「女帝」という作品は、自分にとっては大きなステップと考えているので、
他の仕事とはなるべく併行させたくない。まあ、朝日の日曜エッセーは3月までの約束なので続けることになるのだが。
従って「女帝」に集中するのは2月以降ということになるが、1月は準備期間として資料を読み、構想を練ることにする。
これからはおりにふれて、このノートに構想を書き込んでいく。

1/19
『ジャンプノベル』の100枚がようやく完成した。次の仕事は「遮那王伝説」最終回だが、この作品は頭の中ではすでに完成しているので、考えるべきことはない。
いま、学生のレポートを読んでいる。「総合講座」の「聖書の文化史」という講義で、これは十人くらいの先生が交代で講義するものだが、わたしあてのレポートがあって、読まないといけない。
ネスコから出した拙著「聖書の謎を解く」を読んで自分なりの十二使徒観を書けというもので、
ついでにわたしの代表作の一つである「地に火を放つ者」を読んでくれればいう思いもあった。
何人か、ちゃんと「地に火を放つ者」を読んでくれているのが嬉しい。
だがそれよりも、「聖書の謎を解く」をしっかり読んで、こちらが伝えたかったメッセージが、かなり学生たちに伝わっていることが新鮮な驚きだ。
福音書からわたしが受け取ったメッセージが、わたしの本を介して学生たちに伝わっている。
言葉が人から人へ、バトンタッチのように受け継がれていく。だからこそ、言葉というものは面白いのであり、書くという作業は、生涯をかけるに値する行為なのだ。
というわけで、学生たちのレポートを読んで、元気が出てきた。
今日は大学へ行って、上述のレポートを受け取ってきたのだが、ついでに神田へ回って本を買ったりもした。
さて、「女帝」だが、ここに主要登場人物を書き留めておく。
何よりも、孝謙女帝と道鏡。
中心となるのは孝謙女帝で、道鏡はあくまでも脇役だが、控えめで知的な人物として、また苦悩する実存として、重要なキャラクターであることは間違いない。
孝謙はナイーヴで、感じやすい女の子として描く。この繊細だが凡庸な女性が、やがて怪物と化していくところに、人生の不条理性と、人間というものの面白さがある。
他に脇役として重要なのは、弓削浄人、義淵、藤原仲麻呂、吉備真備、和気清麻呂などがポイントとなる。
このうち誰を悪役とするか。吉備真備、和気清麻呂は、道鏡にとっては、敵となる。もちろん藤原一族も敵だし、宇佐八幡宮というのが、重要な謎になる。
そもそも八幡大菩薩とは何なのか。
実は、よくわからない。
わからないからこそ、書きたい、という内的モチーフがある。
この作品は、「霧隠れ雲隠れ」「遮那王伝説」続く、三番目の時代小説となるが、キリストを主人公にした「地に火を放つ者」も一種の時代小説と考えることができる。
ということは、この作品は三田誠広の文学の中心的作品と見ていいわけで、ただのエンターテインメントだとは考えていない。
いずれ、聖徳太子や天智天皇についても書いてみたいと思っている。
まだ資料を読んでいる段階だが、徐々に構想はふくらんでいる。
聖武天皇、光明皇后、役小角なども重要なキャラクターだ。
それとインド人の菩提遷那、中国人の鑑真なども関わってくる。
何やら大変な作品になりそうだ。

1/25
さて、現在は、卒論を読む作業と併行して、「遮那王伝説」を書いている。これは、『週刊小説』に断続的に掲載してきたもので、一回が50枚、これまでに7回、掲載している。
今度の8回目が最終回になる。
内容としては、遮那王というのは言うまでもなく源義経の幼名(もちろん最初は牛若丸だが、鞍馬にいるころは遮那王と呼ばれていた)だ。
主人公は鬼若、すなわち武蔵坊弁慶。なーんだ、義経と弁慶の話か、などと思わないでいただきたい。
この作品は歴史小説ではなく、仏教と神道のさまざまなキャラクターが跳梁跋扈する幻想的冒険小説なのだ。
ただしストーリーの面白さでひっぱっていくものではなく、幻想的なイメージを文学的に味わっていただきたい。
遮那王は弥勒菩薩の化身で、現世で苦難に遭遇して修行を積み、その結果、次の時代の仏陀となる。
苦難の旅、というのは「西遊記」の三蔵法師と同じで、鬼若が孫悟空にあたる。
八戒のようなキャラクターは出てこないが、伊勢の三郎という大男がバイプレーヤーで、沙悟浄にあたるキャラクターとして、常陸坊海尊が登場する。
遮那王はこの作品ではアンドロジーナスということになっている。すなわち両性具有。
この遮那王と鬼若のロマンの物語でもあるが、中心になるのは、観音菩薩を始めとする仏教の菩薩、天、怪物たちと、日本の神々の闘いである。
さて最終回は、前回の吉野の別れのあと、琵琶湖から愛発山を超えて北陸路をたどる。
ここで白山のククリ姫が出てくる。実際に古典の「義経記」には、この山の峠で、義経と弁慶が、白山の女神について語り合うくだりがあるのだが、こちらの小説では実際に女神が妖怪となって登場する。
その後、安宅の関の勧進帳の話、平泉での弁慶の立ち往生の話と進んでいくのだが、その最後のところで、立ったまま死んでいる弁慶と、義経が、交わる、というシーンがある。
この作品のロマンとしてのストーリーの締めくくりとなる重要なプロットだが、そのための伏線として、女神の妖怪との闘いが必要になる。
安宅の関に関しては、謡曲をそのまま引用する。弁慶が義経を叩くところは、当然、SM的になるだろう。なぜなら、二人は愛し合っているのだから。
弁慶が死んだあとも、あと一シーン、エピローグがある。これも古典の鬼ヶ島伝説からの引用で、作者に教養があるところが示される。
まあ、そんな構想で書いている。何だか、「遮那王伝説」の創作ノートみたいになってしまったが、この作品を仕上げないと「女帝」に取り組めないので、進行状況はここに書き留めておく。
「女帝」というのはまだ仮のタイトルだ。「孝謙天皇」などと書いても誰も知らないだろうから、固有名のない「女帝」でいいと思っている。
いま資料を整理しているところだが、玄方(漢字が出ない)、鑑真、行基などの僧も重要人物だ。これらを道鏡とどのように関わらせるか、設計図を作るのにかなりの時間が必要になるだろう。
最初に道鏡が出てくる場面では、役小角の亡霊が出てくる、というところは、最初に考えてある。
これは「地に火を放つ者」の冒頭、トマスが「男」と出会うシーンに呼応している。
人と人が出会う、というところから、物語は始まるのだ。
ただしこの作品では、その出会いの前に、孝謙天皇が幼女で阿倍姫と呼ばれていた頃のエピソードを置く。
女帝がタイトルロールだから、まず阿倍皇女の物語から始めなければならない。
父の聖武天皇に対するファーザーコンプレックスが一つのモチーフになるだろう。


2/8
「遮那王伝説」は完了した。いよいよこれから、「女帝」が本格的にスタートする。
すでに冒頭の部分は書き始めている。
ぼうとうは幼児の阿倍皇女が、父の聖武天皇の座所に忍び込む場面。
父は病弱であり、魔の世界に片足をつっこんだ人物である。
そこで父の周囲には十二神将が護りを固めている。
魔の領域のものは、一般人には見えないが、聖なる人間には見える。
聖武天皇、光明皇后、阿倍皇女などの皇族は聖なる人間である。
聖なる人間とは、神の末裔である。もう一つ修行で神の領域に突入した人間、例えば役の小角などがいる。
この時代の僧たちも修行によって魔の領域に踏み込んでいく。
ここではプリミティブな呪術の世界を導入したい。この時代には、呪いによって人が殺せると信じられていた。
同時に、祈りや祓いによって、病を癒すこともできた。
これらはすべて魔の領域との関わりによって事態が進行する。
このあたりの世界観をどのように描き、読者を引っ張り込むかが、とりあえずの課題だろう。
本を開いて数ページ読んだ時点ですでに読者はこの世界に入り込んでいなくてはならない。
そのために冒頭部分は重大だ。
阿倍皇女を描いたあとで、今度は道鏡の青年時代を描く。
道鏡の正確な年齢がわからないが、阿倍が十歳で、道鏡が二十歳過ぎくらい、ということでスタートさせたい。
あとでツジツマが合わなくなる可能性もあるが、とにかく書き始めなければならない。
登場人物が増えていくにつれて、「神の視点」の導入ということも考えなければならないが、とりあえずは、阿倍の視点、道鏡の視点で行く。
問題は他の登場人物をどう描くかだ。
吉備真備は割合に重要。藤原仲麻呂は敵役として重要。あと、鑑真をどうするか。行基をどうするか。
役の小角から始まって、修行者、僧が大量に出てくる。一人一人のキャラクターを丹念に描いていくのは大変だし、あまり長いものになっても困るので、かなりテンポよく書いていくことになる。
文章が重くならないように心がけたい。
参考資料として、黒岩重吾の「弓削道鏡」は面倒だから読まない。道鏡に関しては資料が少ないので作者の想像力だけで書かれている部分がおおく参考にならない。
というわけで、読んだのは里中満智子の「女帝の手記」と、石ノ森章太郎の「日本の歴史」の6・7巻。
両方とも漫画だ。漫画は衣装や建物などは参考になる。
これだけでスタートしていいのかとも思うが、他にも歴史学者の著作は折りにふれて読んできた。
まあとにかく、しばらくはひたすら書いていこうと思う。


3/8
留学中の長男を訪ねてベルギーへ行っていたので、しばらく作業が中断していた。
さて、これからピッチを上げて書いていきたい。
すでに文章は書き始めているのだが、しばらくは阿倍姫、のちの孝謙天皇が中心になる。
第一章は阿倍姫の少女時代。とくに年齢や時代は特定しない。父の聖武天皇の周囲に十二神武将が守っている。
これが作品のファーストシーンになる。むろん十二神将はリアルな存在ではない。
この神将すなわち夜叉を登場させることによって、この作品がリアルなものではなく、一種の幻想小説であることを読者に提示する。
ただし、この作品は幻想小説ではない。歴史を踏まえ、リアルな世界を描く。
簡単にこの作品のコンセプトを言うと、リアルな世界の上に超越的存在との接点をもった二人の人物、すなわち天皇の系脈で巫女としての超能力をもった神宿る女、阿倍姫と、 「華厳経」の主要登場人物、善哉童子をモデルとした悟りへの求道者道鏡、この超越的人物二人の対決を描く。
超越者同士の対決の背景としてリアルな世界が必要だ。
そのリアルな部分を担う重要人物として、吉備真備と藤原仲麻呂を置く。
以上の四人が主要人物と考えていい。
ただし、道鏡を導く人物として、役行者、行基、バラモン僧菩提仙那、留学僧玄肪(文字が出ないが本当は日扁)そして鑑真などが出てくる。また和気清麻呂も一種の超能力者と考えるべきだろう。
登場人物が多いので、テンポを早くする。多くのシーンはアラスジだけでストーリーを進めていく。
第二章は阿倍姫十二歳。ここでは二十四歳になった藤原仲麻呂が登場する。
この段階の仲麻呂は単なる内舎人にすぎない。しかしたぶんハンサムな人物であったろうから、阿倍姫の目にとまるはずだ。
仲麻呂を登場させる前に、阿倍姫の母、光明皇后の奇蹟について描かなければならない。
おりを見て、話を道鏡に切り替える。道鏡の方は、話が抹香臭くなりがちなので、阿倍姫の話をなるべく長く引っぱっていきたい。
とくに父の聖武天皇に対するファーザーコンプレックスをしっかりと描かなければならない。
すなわち阿倍姫はエレクトラだ。

3/18
皇族には神と交信する力がある。それが前提となる。簡単に言えば未来を見る透視能力ということだが。
父の聖武天皇と阿倍姫が未来を見るシーン。そこで黄金の大仏を見る。
こういう神秘的なシーンが随時おりまぜていかないとただの歴史小説になってしまう。
母の光明皇后は兄の藤原四兄弟と、現実的な政治に力を入れている。
聖武天皇は未来を見ることの他には、現実的な力をもたない。
その無力さと、父の一種の狂気に気づいて、ファザコン気味であった阿倍姫が、父との間に距離をとろうとする。
もう一つ重要なのは遣唐使の帰還。父は遣唐使を救いの神と見ているのに対し、阿倍姫は恐怖を覚える。
この時点での阿倍姫の透視能力には限界があるので、恐怖の正体は具体的には見えない。
未来がはっきり見えすぎると話にならないので、今後も見えそうで見えない、という展開になるだろう。
言うまでもなく遣唐使が帰還し、吉備真備と玄ボウという重要人物が登場する。
吉備真備は阿倍姫の支えとなる知的な人物だが、玄ボウの方はかなりいかがわしい人物という設定になっている。
遣唐使の帰還によって疱瘡が流行し、藤原四兄弟が全員死ぬ。また重職にあった皇子二人も死ぬ。
このことによって政界は急速な若返りを余儀なくされるが、光明皇后の独裁を許すことにもなる。
このあたりの展開はスピーディーに、もたれないようにする。
登場人物が多すぎるので、どうでもいい人物は割愛する。光明皇后の母方の兄、橘諸兄なども、あなり顔が見えないように処理したい。
大仏開眼のシーンまで、阿倍姫を中心に展開し、そこで道鏡に視点を移して、時間を少し戻して道鏡の側から大仏開眼までを展開させる。
道鏡の話が移ると理屈っぽくなるので、阿倍姫だけで100枚くらい進めたい。

3/26
昨日、早稲田の卒業式があり、大学関係の仕事はしばらくない。朝日新聞の日曜エッセーも終わった。昨年末まで読売新聞夕刊の連載小説を書いていた。そこから休みなしで、『ジャンプノベル』の「少女エクレール」、『週刊小説』の「遮那王伝説」最終回と、小説を書き続けてきた。
大学の卒論とレポートを読む作業もあり、朝日の日曜エッセーもかなりのプレッシャーになっていた。
何だか言い訳をしているみたいだが、実はそうだ。「女帝」への取り組みが少し遅れた。
資料をじっくり読んでいるヒマがなく、集中力もなかった。
ようやくすべての作業が終わり、「女帝」一本に絞れる態勢ができた。
書き下ろしの作品はこういう感じで書かないと、ずるずると作業が遅れることになる。
少なくとも4月いっぱいは「女帝」に集中できる。
さてここまで、1章20枚くらいの感じで、ほぼ4章の終わりまで書いた。
1章では、阿倍姫と父聖武天皇の関わりと、異母姉井上内親王との出会い。
2章は弟基親王の死と光明皇后について。
3章は重要人物藤原仲麻呂の登場と、聖武天皇の未来予知能力について。
4章では吉備真備および玄ボウの登場と大仏造営の計画について。
ここまでで、主要登場人物が出揃った。ただし道鏡を除いてだが。
ここから大仏開眼に向けてまっしぐらにストーリーを展開させていく。
重要なポイントは、まず聖武天皇の母、宮子のこと。宮子は聖武天皇を産んだ直後に発狂して、皇后宮の奥に幽閉されている。
玄ボウが宮子を治療し、快癒させる。これはおそらく強いヒステリー症状を、精神療法によって治療したものと考えられるが、現代でも性的不満がヒステリーの原因になっている場合、セックスのオルガスムス(絶頂感)によって不満が解消し、治癒する、といったことが精神医学、心理学などで言われている。
当時からそういうことは人に知られていたようで、玄ボウと宮子の関係については、怪しい噂が流れた。
後に同様の噂がさらに拡大されたかたちで、阿倍姫すなわち孝謙天皇と道鏡についても言われることになる。
ここには神話に見られる物語構造のようなものがある。
宮子と玄ボウ、阿倍姫と道鏡は、パラレルの関係にある。
以上は史実である。史実をなぞるだけでは幻想小説としての新しさがない。
この作品では玄ボウを後退させ、宮子の治療にも道鏡があたったというふうに設定する。
ただしストーリーの展開上、この段階では道鏡は姿を見せない。
ゴーストライターが他人名義で本を出すように、道鏡はゴーストドクター、あるいはゴーストプリーストとして、つまり影武者として、玄ボウの名において宮子を治療する。
ストーリーでは、玄ボウが治療したことになるのだが、ただ快癒した宮子が、自分を癒してくれた僧はどこにいるか、と孫の阿倍姫に問いかけるシーンを、実は治療したのが道鏡であるということの伏線として読者に提示しておく。
道鏡はまだ現れない。大仏が開眼してもまだ出てこない。
大仏開眼儀式で大仏に目を入れるバラモン僧、菩提センナの通訳として、梵語に堪能な道鏡が登場するのだが、ここでも道鏡の名は伏せておく。
さらに吉備真備の失脚と藤原仲麻呂の台頭、阿倍姫の即位、光明皇后の死、などさまざまなストーリーがあって、最後に孝謙天皇と道鏡の出会いを置く。
そのあたりまで阿倍姫の視点で物語を進行させてから、時間を元に戻して、最初から、ストーリーの流れを道鏡中心にたどり直す。そのことによって、同じ歴史がまったく違う視点から描かれることになる。
これがこの作品のミソである。道鏡中心のストーリーでは、道鏡の悟りと勉学が語られるわけだが、重要な登場人物としては、最初に登場して預言をする役小角、実際に道鏡を指導する行基、道鏡の友人となる菩提センナ、そして当然、吉備真備と玄ボウも登場する。
歴史的には鑑真も出てくるのだが、話がややこしくなるのではという気もする。しかし鑑真を抜きにしてはこの時代を語れないとも思う。
無視できない人物として、吉備真備の同僚の留学生阿倍仲麻呂がいる。
この人物は唐に渡ったまま帰ってこなかった留学生だから、割愛してもいいかもしれない。
阿倍姫と藤原仲麻呂の対立がストーリーの中心なのに、阿倍仲麻呂という名前の人物が出てきたのでは話がややこしくなる。百人一首にも出てくる人物だから名前をかえるわけにもいかない。歴史小説は難しい
名前といえば、阿倍姫というのは正しい呼び名ではないだろう。皇女(ひめみこ)または内親王と呼ばれるのがふつうで、「ひめ」と呼ばれる場合は「媛」の字をあてるべきだ。
しかしややこしいので、とりあえず「阿倍姫」と呼んでいる。そのうち皇太子になり、天皇になるのだが、その段階でどう呼ぶかは、その場で考える。
というようなところで、毎日少しずつ書き、つまずけば資料を読み返し、また書くということを続けている。
読売の「恋する家族」も、朝日ソノラマから出る岳真也、笹倉明氏との「大鼎談」も、ゲラが出て校正を終えているので、手はかからない。
次の作業としては、「遮那王伝説」単行本のゲラ、プレジデント社から出る大学関係の共著の本の作業がある。
「少女エクレール」の続編についてはまだ担当者と細かい詰めを話し合っていない。
以上の作業が絡んできて、さらに4月後半からは大学が始まる。
ただし大学は、昨年と同じカリキュラムなので、準備は要らない。教室に体を運んで話すだけだ。学生の宿題やレポートを読む作業で時間をとられるだろうが、毎日少しでも、「女帝」を書く時間はとれるだろう。
けっこう大変だと思うが、集中力を持続させたい。


4/20
オープニングから100枚書いたところで、文体に不満を覚えた。
小説を30年書き続けていると、自分が書こうとしている作品の規模と文体の関係がある程度見えてくる。
簡単に言うと、文体はピラミッドの土台のようなものだ。大きなものを載せるには土台を堅固にしないといけない。
かなり作品を書いてしまってから動きがとれなくなる、という体験が、何度かある。
「デイドリーム・ビリーバー」が3年もかかってしまったのもそのせいだ。
さて「女帝」という作品は廣済堂の谷口くんから依頼を受けて書き始めたもので、何年か前に谷口くんに出してもらった「霧隠れ雲隠れ」と同じような乗りで書くつもりだった。
上述の作品は霧隠才蔵を主人公にした忍術小説で、時代小説というよりも、ドタバタ喜劇である。
今回はユーモア小説ではなく、幻想的なロマンを書くつもりでスタートした。当初はエンターテインメントだからある程度軽く書くつもりでいたのだが、書いているうちに作品のスケールが大きくなりすぎていることに気づいた。
「迷宮のラビア」は作品のスケールの割に枚数が少なく、その割に文体は大げさなのだが、これはそういうものを書こうと当初から企画したもので、だから問題はなかった。
女帝の場合は、幻想小説ではあってもある程度のリアリズムを維持することをこころがけて書いている。
というようなことで、作品の規模と文体がアンバランスであることが気になりはじめた。
これは、もう少し先までいくと、コケそうだという予感であり、危ないと思い始めると集中力が低下する。
で、100枚、全部書き直すことにした。
書き直すといっても、ワープロだから、まるまる書き直すわけではないが、一字一句にまでチェックを入れた。
この作業に一ヶ月近くかかってしまったので、先月からここまで、作品はまったく進展していない。ようやく100枚ぶんのチェックが終わったところで、聖武天皇の母、宮子の病気治療の場面に戻った。
本来この作品は2月から4月までの3ヶ月で本一冊書く、という計画だったのだが、結局、3ヶ月で100枚しか書けなかったことになる。
プロの作家としては困ったことだが、メインの仕事は、アマチュア精神でいきたいと思っている。アマチュア(愛好家)すなわち、書くことが好きな人。
書き下ろしというのは、締切を気にせずに自由に書きたいことを書く場だと考えている。
というわけで、この作品はいつ完成するか、まったくわからなくなった。谷口くん、ごめん!
今度の水曜日から大学が始まる。集中力の持続は大変だが、毎日コツコツ書くことを約束する。
当面なすべき仕事は、細かい原稿を除くと、何もない。
「恋する家族」は再校も終わった。「大鼎談」もあとは本が出来るのを待つだけという状態になっている。
『週刊小説』に断続的に連載した「遮那王伝説」は、まったくいじらずに本にするつもりだ。
3年前に出した「父親学入門」が集英社文庫になる。3年たつとこちらの考え方も変わるし、朝日に連載した「ぼくのリビングルーム」の読者が読む可能性があるので、文庫版には、あとがきよりも少し長い新たな原稿を加えようと思う。この締切が4月末。当面はこれが急ぎの仕事ということになる。
それから、去年出した「聖書の謎を解く」の第二弾、「般若心経」もそろそろ書き始めないといけない。そう考えると、えらい忙しいことになった。
いろいろ大変だけれども、とにかく「女帝」はコツコツ書く。三田誠広の代表作になる。

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