「天翔ける女帝」創作ノート2

1998年5月〜9月


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5/4
最初の100枚あまり(1〜5章)は完全に仕上がった。
この作品は、当初の計画では、1章は阿倍媛の視点、2章は道鏡の視点、という具合に、交互に二人の視点を交錯させていくつもりだったが、途中から予定を変更した。
前半はすべて阿倍媛の視点で押し切ることにした。
5章までで、阿倍媛の登場から、聖武天皇、光明皇后、吉備真備、藤原仲麻呂など、主要登場人物が揃った。
道鏡は登場しないが、聖武天皇の母、宮子を治療した禅師として、影の存在として話題には出てくる。
ここまでで文体が確立された。後半、道鏡の視点になると、どうなるかわからないが、この文体で全体の半分以上のところまで進んでいける。
これからの展開としては、真備と仲麻呂の対立があり、真備は左遷される。
阿倍媛の異母妹、不破媛の呪詛があり、藤原広継の反乱がある。
天皇は行幸と遷都を繰り返す。このあたりで藤原仲麻呂がのしあがってきて、やがて独裁政権を築くことになる。
皇太子阿倍媛の五節の舞があり、やがて大仏開眼となる。
ここで天竺の僧侶、菩提仙那の通訳として、道鏡の姿が遠目に見える。もちろんセリフはない。
ここまでで250枚、半分になるか。あるいは300枚か。 道鏡が出てきてからの部分の方が短いかもしれないので、全体は500枚というところだろう。
完成の日程はまったく立っていない。
4月半ばから大学が始まり、忙しくなった。とくに年度の始めは学生のレポートや作品を読むのに忙殺される。
それでも毎日コツコツと先に進みたい。
今年の学生はレベルが高そうだ。
第一文学部の1年生は、意欲的で、教室の中に緊張感がある。
4年生はすでに就職活動が始まっているので集中力がない。こちらも諦めているので、毎回、肩の凝らない雑談をするつもりだ。
第二文学は今年から新しいカリキュラムになった。これまでは「文芸専修」の3年生を対象にしていたのだが、3年前から専修制度が改編され、文芸は、美術、演劇と合体して「表現・芸術系専修」というものになった。
その新しい「表現・芸術系専修」の演習は、まず学年ごとの配当がなく、また他の専修の学生も受講できるようになった。
要するに、これまであった枠組を解体して、学生に大幅な自由を与えるもので、一文と二文に質的な差をつけて、夜間学部というマイナーイメージを払拭する試みが実施されている。
むしろ「一文より二文を魅力的にする」という目標が、かなりの範囲で実現されつつある。
そういうわけで、三田誠広の演習も今年から、専修の枠もなければ学年の枠もない。 ただし1年生には基礎演習の割り当てがあるので、実質的には2〜4年生ということになるし、今年の4年生は旧課程の学生なので、今年だけは2〜3年生が対象ということになる。
さてその今年の演習だが、2人がけの椅子に3人がけしてもらって、ぎっしり満員の教室になった。
抽選にしたくなかったので、志望者全員をとったので、60人近くいる。
連休明けに全員が30枚の作品を提出するので、読むだけで大変だ。
二文ではもう一つ、大教室での「小説論」を担当している。
満杯の400人。1回目は立ち見が出た。出席をとらないと伝えたので、2回目は少し減った。これ以上減らないように、講義の密度を持続させないといけない。
レポート用紙1枚の「自己紹介」を全員に提出させたが、400人ぶんを読むのだから、気が滅入る。
今年はリレー講座にも参加していて、担当は9月だけだが、レポートは読まないといけない。
700人の教室の上、人間学部にはテレビ中継するという。受講者は後期の担当者数名の中から一人を選んでレポートを出すのだが、さて何人が提出するか。
という具合に、大学が始まってしまったので、「女帝」のペースは落ち気味だが、主要登場人物の輪郭が見えてきたので、気分は乗っている。
ジャイアンツは勝ったり負けたりで元気が出ないが、まあ、仕事に集中したい。
元気が出るニュースがあった。
昨日(5/3)、わが長男が、バルセロナのコンクールで2位に入賞した。
長男は昨年秋から、ベルギーのブリュッセルに留学しているのだが、初めて参加した国際コンクールで入賞するというのは、こちらも予想外だった。
2月にベルギーに行った時、ベルギービールを飲みながら、「きみのベートーベン」は迫力がない、と酔いに任せて批判したら、長男は本気で怒っていたが、それだけ自信があったのだろう。
そのベートーベンで1次予選を2位で通過、次の得意なショパン、ラヴェルでも2位のままファイナルに進んだ。ファイナルに残ったのは4人だけだったので、4位以内は確定していたのだが、決勝のビリにならなくてよかった。
1位はハンガリーの男子だとのこと。またどこからライバルになるだろう。
というようなことで、息子が頑張っているので、こちらも頑張らないといけない。
大学の仕事の他にもいろいろと雑用があるのだが、「女帝」のピッチを落とさないようにしたい。

5/23
1章から7章まで完成。ここまでで200枚ほどになる。
プリントして担当者の谷口くんに渡す。 冒頭の阿倍媛が父の聖武天皇のいる内裏に忍び込むシーンから、五節会の皇太子の舞いのシーンまで。
ここまでに登場する主な人物は吉備真備と藤原仲麻呂。双方とも魅力的な人物として描かれている。
結果として仲麻呂は悪役になる。真備は一種の傍観者的立場になるが、野心をもった冷静な人物として描かれる。
書き手にとって真備は、好きなタイプなので、力がこもる。
弱者の聖武天皇と強者の光明皇后もそれなりにうまく書けていると思う。
道鏡はまだ登場しないが、影だけはちらちらしている。
ここまで相当うまく書けている気がしていたが、7月発売予定の「遮那王伝説」(実業之日本社)のゲラを読むと、こちらの方が面白い。
ということは「女帝」の方は何かが不足していることになる。
この点についてはじっくり考えたい。


6/3
集英社主催の高校講演会から帰る。
飛行機の中などで、7章までを読み返す。あまり気分が乗らない。
やはり「遮那王伝説」の冒頭部の方がうまくいっている。
こちらは『週刊小説』にとびとびに連載したものだが、そのつど全力投球しているし、文体が安定しているのでスピード感がある。
ギャグも飛び出すユーモア小説と幻想小説のハイブリッドなので、一定の距離感がある。
「女帝」は理屈っぽいところがあり、ユーモアはまったくない。まあ、仕方がない。
力のこもった作品なのでゆとりに欠けている。反省しつつ、先に進みたい。

6/26
大学の仕事と、プレジデント社で出す「大学は誰のものか」(仮題)の執筆に取りかかっているため、「女帝」が先に進めない。
この本は東海大学で実施されている授業評価の取材を中心に大学のありかたについて考察するもので、東海大学の先生方や取材の担当者との共著というかたちになる。
実際に自分で東海大学で一回だけ講義をやってみて、学生諸君に評価をしてもらった。
その体験の感想と、実際の講義の内容、それにぼくなりの大学論を書く。
これを7月半ばに完成させて、夏休みは「般若心経」についての本を書く。
これらと併行して「女帝」を進める。
草稿の200枚は読み返して、かなり書き加えた。このまま先に進んでいけるという状態になった。
後半、道鏡が主人公になってからのプランも徐々に進めている。
まあ、あせらずにじっくりと書き進むことにする。


7/13
ようやく大学の前期が終わった。単行本『遮那王伝説』と『ぼくのリビングルーム』が出た。
この間、学生の宿題を見るなど大学の仕事がけっこう忙しく、合間に公演やインタビューが入って仕事に集中できないかった。
とりあえずは7月末締切の共著『大学は誰のためのものか』(仮題)の原稿を書いている。
夏休み中に『般若心経の謎を解く』も書かなければならないので、『女帝』の方はスピードが上がらない。
孝謙女帝を主人公にした部分はもうすぐ終わるはずだが、道鏡が主人公になってからが難しい。道鏡に関しては何の資料もないし、イメージがわかない。
それに、道鏡が修行の末に悟りの境地に至るまでを表現するのは大変な作業だ。
出来たばかりの単行本『遮那王伝説』をパラパラと読んでみる。書いた本人が言うのもおかしいが、実によく出来た作品だ。 登場人物のキャラクター設定がうまくできていて、ストーリーがなめらかに進行していく。
ユーモアをまじえたパターン化がうまくいっているためだと思われる。『女帝』にはユーモアがない。そこが難しいところだ。この作品は生真面目すぎる。
女帝が主人公なのでギャグが使えない。道鏡の方も、真面目な人間なのでストーリーにふくらみがない。
『遮那王伝説』の主人公、鬼若武蔵坊は、一種のトリックスターなので、展開が速い。遮那王にも謎めいた美しさがある。
女帝の方は、主人公にして内面を描いているので神秘性がうすれている。このあたりを根底から検討する必要があるだろう。

7/29
『大学は誰のためのものか』の原稿がようやく完了した。この間、『女帝』にはまったく取り組めなかった。これからもしばらくは『般若心経の謎を解く』を書くことになるので、作業は進行しないが、仏教について考えることになるので、この作品の後半、道鏡に悟りについて併行して考えていくことになる。
この作品はプランをもった段階では孝謙と道鏡を交互に登場させてストーリーを進行させていくつもりだったが、書き始めてみると、前半は孝謙、後半は道鏡の視点で書いた方がいいと思い、その方向でここまで書いてきた。
なぜそう思ったのかいまとなっては不明だが、道鏡のキャラクターについて、まだイメージが煮詰まっていなかったせいもある。
しかしここへ来て、道鏡がまったく登場しないのもどうかという気がしてきた。当初のプランどおり、早い段階で道鏡を出すべきではないか、というふうにも考えるようになった。
ただしそうすると、ここまでチラチラと道鏡の影を伏線として出してきたのが無駄になる。
まあ、実際に道鏡を書く段になって、どういう構成にするか、もう一度じっくり考える必要があるだろう。
もう一つ考えなければならないのは、ここまでは専用ワープロで書いていたのだが、『般若心経』をノートパソコンで書くことにしたので、そのプロセスで辞書が整備され、仏教用語が出るようになれば、『女帝』にも使えるかなと考えている。
現在使っているノートパソコンは大学から貸与されているもので、ウィンドウズ3.1などというとぼけたものが入っていて使いづらい。でもかなれ慣れてきたのでこれでもいいし、おりを見て新しいのを買ってもいい。
パソコンは壊れやすいけれども、まあ、ある程度は信用できるようになっているので、パソコンにしてもいいかなと考えている。
「チャレンジ公募」の短篇賞の応募原稿を読んでいる。レベルが低い。これなら早稲田の学生の宿題の方がましだ。


8/13
三ヶ日の仕事場に10日間ほどいて、『般若心経の謎を解く』の出だしを書く。
1日10枚のペースで書くつもりだったが、80枚くらいしか書けなかった。まあ何とか今月中か、来月のあたまくらいに仕上げたい。
9月からはようやく本来の仕事、すなわち『女帝』に戻れるはずだ。
この前の7/29の項に書いた、「道鏡をもっと早く出す」というプランは、どうもうまくいかないということが判明したので、これまでどおりで進行することにした。
道鏡はできるだけ出さずに書く。この作品の本当の主人公は道鏡だが、孝謙天皇(女帝)のキャラクターが完全に定着するまでは、道鏡を出さない方がいい。ということは、実際に道鏡と会って治療を受けるシーンまでは、物語の表面に道鏡が出ないようにしないといけない。
道鏡のキャラクターは頭の中では固まっている。日本の仏教史上、最高の僧侶の姿を描く。
昨日、中央公論社の仕事で仏教学者二人と鼎談をした。「親鸞」がテーマだったが、そのため久しぶりに『歎異抄』と『教行信証』を読み返した。親鸞という人物はなかなかのものだが、道鏡はこれを超えないといけない。

8/24
『般若心経の謎を解く』完了。思ったより早く完成した。
実は8/10に実家に思いがけない不幸があり、困難な事態に遭遇したのだけれども、簡単に解決できる問題ではないので、とりあえずは仕事をするしかない。
そういう状態だったのでかえって集中力が持続したのかもしれない。この集中力を『女帝』の完成まで持続させたい。
とりあえず『般若心経』の原稿をプリントアウトしてチェックしながらフリガナをつける作業が残っているが、2日あれぱ充分だろう。
『女帝』再スタートの手順としては、これまで書いた1〜7章を読み返し、直しを入力してプリントする。そこからただちに8章を書き始める。
うまく気持ちを切り替えられるかわからないが、とりあえず試みてみる。

8/29
1〜7章のプリント読み返す。うまくいっている。直すべきところはない。このままの勢いで先に進みたい。
これまで小説はノートワープロ(専用機の東芝ルポ)で書いていたのだが、しばらく『女帝』から遠ざかっていた。
その間、『大学は誰のためのものか』と『般若心経の謎を解く』と、本2冊ぶん書いたわけだが、すべてノート型パソコンで書いた。
このパソコンは大学が教員に貸与しているもので、どういうわけかウィンドウズ3.1という古いOSが入っている。まあ、昔は自分も3.1を使っていたから、使い方はわかるし、通信などには使わないからこれで充分だ。
東芝製でワープロはかなり旧いワードが入っていて、しかもワードなのに漢字変換システムは一太郎のATOKだ。このATOKもかなり旧いヴァージョンで、いま自分が使っているものとは使い勝手が違う。
ということで、小説は慣れた東芝ルポで書き、短いエッセーだけノートパソコンのワードで書いてテキスト文書でフロッピーに入れて、デスクトップのパソコンの一太郎でプリントしたり、FAXで送る、というめんどうなことをしていた。
最近は短い原稿はメールで送るので、テキスト文書を貼り付けるだけでいいので不便は感じていなかった。
で、何が問題かというと、本2冊ぶんの原稿を書いているうちに、ワードの画面と旧いATOKの使い方に慣れてしまって、東芝ルポの使い方を忘れてしまったということだ。
しかも『般若心経の謎を解く』を書いているプロセスで、仏教用語を辞書に登録したので、かなり使いやすくなっている。『女帝』は道鏡が主人公なので、当然、仏教用語が頻繁に出てくる。ここまでは孝謙天皇阿倍媛を中心に書いてきたので、仏教用語はあまり出てこなかったのだが。
というわけで、思いきってワードとATOKで『女帝』の続きを書くことにした。
そこでこれまでの1〜7章(現在は一太郎8文書になっている)をテキスト文書でフロッピーに入れて、ノートパソコンのワードで呼び出した。それから固有名詞が重要語をチェックして辞書に登録するという作業をやった。
これでオーケー。準備が整ったところで、いよいよ8章のスタート。


9/2
『女帝』8章完了。1つの章を書くのに、5日もかかった。まあ、久しぶりに再開したのだから仕方がない。1章は25〜30枚。一日に10枚のペースなら3日が書き上げなければならない。この間、『る・ら・る』という雑誌の5枚の小説(?)を書いたりしていたので、仕方がない。
それよりも、この8章が終わって、ついに阿倍媛の視点で展開してきた部分が終わった。
8歳くらいの阿倍内親王が父の聖武天皇がいる内裏に忍び込んでいくシーンから始まって、皇太子となり、ついに天皇になるところまで進んだ。
ここまでの重要人物は、吉備真備と藤原仲麻呂だ。真備は味方、仲麻呂は敵という、実にわかりやすい大衆小説的な構成になっている。
歴史上最大級の悪役道鏡を英雄として描くのがこの作品の目的なので、仲麻呂は悪役に徹してもらう。
真備の方は陰気な戦略家というイメージで、カッコよくはないのだが、作者(わたしのこと)好みの人物なので、肯定的に描くことにする。
わかりやすくいうと天平の諸葛孔明といったところ。この真備が左遷されて、孝謙天皇が孤立し、しだいに病に冒されていく、という悲劇的なところで8章が終わる。
病というのは、まあ、ヒステリーみたいなものだろうが、火の神が憑く、ということにしておく。これを一種の悪魔祓いによって道鏡が治療することになる。
ここで時間は一挙に元に戻る。すなわち阿倍媛8歳の時点に戻る。道鏡の年齢が不詳なのだが、一般的に阿倍媛と道鏡の年齢差は15歳くらいと言われているけれども、それでは45歳の孝謙天皇を治療した道鏡は60歳になってしまう。
そこで年齢差を12歳くらいにしておく。すなわち道鏡(俗名鏡丸・わたしが勝手につけた名前だ)20歳の時点から九章が始まる。
主人公が急に変わってしまうので、読者も戸惑うだろうが、書いている方はもっと困る。
これまで阿倍媛になりきって主観描写で世界を描いてきたのに、突然、鏡丸というまだなじみのない人物の視点で世界を描かなければならない。慣れるまでに時間がかかると思う。

9/5
9章完了。やや、すごいペースではないか。鏡丸が葛城山で修行しているところに、まずプロッケン現象(いわゆる後光が射すという現象で実在する物理現象)の中に役行者(えんのぎょうじゃ)が姿を見せ、お告げをしてから幻影をみせる。
実はこの前の8章に仕掛けがしてあって、大仏開眼の儀式のさなかに孝謙天皇が幻影の中で20歳の鏡丸の姿を見ている。そのシーンを今度は鏡丸の側から見ることになる。
時空を超越してシーンがつながっているわけだが、SFファンタジーを読み慣れた現代の読者にとっては、違和感はないだろう。
このあと、行基が現れ、道鏡の物語が始まっていく。主要登場人物は行基の従者の弓削浄人、行基の弟分の修行者良弁、いまのところはその程度だ。
まず行基が、ヒステリーの治療法を道鏡に伝授する。この行基のキャラクターは自由奔放なもので、かつて書いた『地に火を放つ者』のイエスを明るい老人にしたようなもの。
一種の超人として描いている。道鏡の方は超人ではないので、イエスの十二弟子の一人みたいな感じ。つまり『地に火を放つ者』のイエスとトマスの関係だが、今回の作品はユーモアをまじえて書いていく。
弓削浄人はそれほど重要な人物ではないが、道鏡の弟として出世していく人物なので、出さないわけにはいかない。
3日で1章書けた。すごいすごい。9章からは主人公が道鏡に変わったので、まったく新しい作品を書くような感じだが、それにしては最初から集中して書ける。
道鏡については、これまでもおりに触れて考えていたので、キャラクターが確立されていたのだろう。
直前に『般若心経』を書いていたので、仏教についてもそのまま持続して考えていける。
『般若心経』の訳者、玄奘三蔵の直弟子が道昭で、その弟子が行基、そのまた弟子が道鏡で、道鏡の「道」は道昭の「道」からとった(とわたしが勝手に決めた)。
というわけだから、『般若心経』と『女帝』はつながっているのだ。道鏡は般若思想を体現した菩薩として描かれることになる。どうだ、すごい作品だろう。

9/8
10章完了。3日の1章のペースを持続している。この章では良弁とともに修行している道鏡の前に金剛力士像が現れて預言をする、という展開になっている。
良弁と金剛力士像の関係は『日本霊異記』からとった。ちゃんと勉強しているのである。
ここでは般若思想と華厳思想について、やや理屈っぽい説明がある。これがなければもっと面白い作品になるのだが、ただのエンターテインメントではなく、文学作品としてレベルの高いものを書きたいので、少し寄り道をする。
ここまで阿倍媛を中心にストーリーで引っぱってきたので、読者もついてきてくれるだろう。退屈だったら読み飛ばしてもらえばいい。
道鏡が孝謙天皇(その時点では上皇だが)を治療するくだりは、世間の俗説では、道鏡の巨根によって女帝の欲求不満が解消され、ストレスによるヒステリーが治療された、というふうに解釈されるわけだが、この作品はその種の俗説を全面否定するかというと、そうではない。
面白い俗説はそのまま採用して、哲学的な解釈を付加することによって作品としての深さを求める。そのためにも『華厳経』の思想を展開しておかなければならない。
『般若心経の謎を解く』という本を書いたばかりだが、この『女帝』という作品は、『華厳経の謎を解く』というタイトルにしてもいいくらい、哲学的なレベルの高い本にしたい。
それでいて圧倒的なストーリー展開をもっている、という作品にして、小説の面白さと深さを読者に満喫してもらう。
というわけで、もしかしたらこの章はほんの少し、理屈が多すぎるかもしれません。次の章ではいよいよ吉備真備が登場して、この作品の二大ヒーローが出会うことになる。
このあたりから、この作品は本当に面白くなっていく。

9/13
11章完了。8〜11までの3つの章で、道鏡の登場から宮子の治療までを描いた。8章までは阿倍媛の視点で大仏開眼までが描かれている。ということは、次の12章で、阿倍媛の側から書いた部分に追いついてしまう。
少し急ぎすぎて物足りないかもしれない。道鏡のキャラクターが充分に描けていないのではないかという気もする。
菩提僊那とのやりとりなどで思想的な面を強化したい。
この作品は実は思想小説なのだが、女の子をヒロインにしたオカルト小説とも読めるようになっている。
道鏡が主人公になってからの3章でも、どの章も章のしめくくりに悪霊に憑かれた病人を呪法によって治療する場面が出てくる。
ヨーロッパの悪魔祓いの儀式のようなものだ。3回も出てくるのでワンパターンになりがちだが、それなりに工夫している。
そして、次の章のラストにも悪魔祓いが出てくる。いよいよ道鏡による阿倍媛の治療というこの作品の最も重要な場面になる。
ところで9/11に担当編集者の谷口くんと三宿で軽く飲んだ。谷口くんには7章まで渡してある。
7章まで読んで、面白かったけれども、系図が必要だという意見。確かに、天皇家と藤原氏の系図は必要だろう。ついでに年表もつけておいた方がいいかもしれない。
飲みながら「女帝三部作」の構想を話した。いずれ書きたい、というくらいのプランだったのだが、話しているうちに、来年は第二作を出すべきではないか、ということになった。
「女帝三部作」というのは、推古天皇、持統天皇、孝謙天皇の三人を描くもので、これを時代とは反対に、孝謙と道鏡、持統と額田王、推古と聖徳太子、というセットで描いていく。
実は本当に書きたいのは聖徳太子なのだが、キャラクターが『地に火を放つ者』で描いたイエスと同じなので、少し間を置いて書こうと思っていた。
道鏡はストレートなキャラクターなのでこちらの方が書きやすいと思ったのだが、書き始めてみると吉備真備など面白い脇役が出てきて、けっこうすごい作品になりそうだ。
持統天皇と額田王では、もちろん天智、天武の兄弟天皇の対決が話の中心になるのだが、これを女性の視点で描く。
脇役として中臣鎌足と藤原不比等の親子が出てくるので、それなりに深い作品になる。
聖徳太子は日本史の中で最大のキャラクターなので、ライフワークになる。
というような将来のことはともかく、この作品を早く仕上げなければならない。
どうやら「女帝三部作」というのを本当に書くことになりそうなので、いま書いている作品は「女帝・阿倍媛と道鏡」と呼ぶことにする。

9/21
ようやく12章完了。1章を書くのに1週間もかかってしまった。反省。
『般若心経』のゲラで一日。『週刊小説』の17枚の原稿で1日。大学に3日出講したのだから忙しかったことは事実だが、やや行き詰まっていたことも確かだ。
この作品は8章までは阿倍媛の視点で、9章以後は道鏡の視点で書いている。道鏡が出てきたところで時間を出発点に戻しているので、同じ事実を別の視点から眺めることになる。
そのため起こった出来事はすでに読者は知っているわけで、細かい説明は不要だ。そのためテンポが速くなるのはいいのだが、急ぎすぎてアラスジだけみたいになってしまうと、文章が軽くなる。
そうなると道鏡という人物に存在感がなくなる。道鏡が悟りの境地に到達していることを読者に伝えたい。
いろいろ考えたが、結局、『華厳経』を道鏡が読むシーンを章の冒頭に置くことにした。引用で逃げているようだが、読者に仏典のイメージを伝えた方が、悟りというものを正確に読者に伝えることができるだろう。
『八千頌般若経』とも思ったのだが、こちらは菩提僊那が語ることにした。
この章の中心となるのは、皇太子阿倍媛の五節舞を道鏡が眺めるシーン。
阿倍媛は神がかりになっている。その神を道鏡が念力で祓う。一種のスペクタクルシーンだが、もたれすぎると、のちに出てくる悪霊祓いのシーンが二番煎じになってしまうので、コンパクトに描いて次の章に突入する。
さて、9/16から大学が始まった。雑用はほとんど片づけたので、執筆のペースを落とさないように、大学の出講日にも集中してノルマを果たすように心がけたい。
年に一度の人間ドックの日が近づいているので酒を控えている。わるい結果が出て酒をストップされては困るので、検診の前には控えることにしている。
そのため、原稿執筆の乗りがよくない。精神力でカバーしよう。このところ気分が落ち込みがちで、胃がわるくなっているのではと心配。

9/27
13章完了。また1週間かかった。大学が始まったので時間がとられるが、今週は人間ドックがあり、落ち着かなかった。検診の結果はまだわからないが、気管支に陰があるなどと言われ再検査。春先に風邪が長引いた時の後遺症だろうが、現在は咳が出るわけでもなく、まあ、大丈夫だろう。肝臓がきれいだと言われたので自信をもつ。これで安心して酒が飲める。
この13章は、つなぎの部分だが、菩提僊那と道鏡の哲学的議論があり、思いのほか、深い展開になった。こういう理屈っぽい議論はエンターテインメントとしてはストーリー展開のスピード感をそぐことになる。しかしシドニー・シェルダンではないのだから、スピードだけでは作品の奥行きがでない。ただのエンターテインメントではなく、背後に深いものがある(事実あるわけだが)と感じさせるテクニックが必要だ。
夏に『般若心経の謎を解く』を書いていたことが、思いがけないほど影響力をもっている。道鏡の時代は般若思想が最も哲学的に把握されていた時代で、のちの空海になると陀羅尼中心の把握になってしまう。その意味では道鏡は哲学者であったはずだ。
ここまで菩提僊那の出番が少なかったのだが、この章でようやくキャラクターとしてのイメージが出せた。
次の章では鑑真が出てくるのだが、あまり深入りしすぎるとストーリーが先に進まないので、出来る限り簡潔に書いていきたい。
大学に出講するルーティンにも少しずつ慣れてきたので、作業のピッチは上がるはずだ。10月末の完成を目標にしているので、もっとピッチを上げないと間に合わない。書き下ろしの作品は、自分で締切を決めてペースを作らないと、ずるずると遅れてしまう。10月末という目標は必ずクリアしたい。
次の14章でようやく道鏡と阿倍媛が出会う。そこから先は視点が交錯して、いわゆる「神の視点」になるのか、それとも阿倍媛と道鏡の視点を交互に並べていくのか、何も考えていない。実際にやってみないとどういうことになるかわからない。なるべく違和感のないように、阿倍媛の視点からの描写を重視して展開したい。道鏡に会って以後の阿倍媛は、すでに狂っているとも考えられるので、主観的な描写に徹しないと実在感がうすれてしまう可能性がある。
この作品は基本的にはスリリングな読み物を書くというコンセプトで出発しているのだが、『華厳経』の世界観が入ってきたので、哲学小説になってしまった。つまり純文学である。純文学だということを表面に出すと本が売れないので、オカルト的古代ロマンとか、ファンタジーの一種として、とりあえず面白さに徹して書いていきたい。
次の章を4〜5日で完了させたい。

9/30
14章完了。この章も阿倍媛と道鏡の出会いに至るストーリーのつなぎの部分だが、良弁と道鏡が新薬師寺で塑像の十二神将と対面するシーンが中心になる。
この作品は歴史的事実を踏まえたリアルな展開の中に、ところどころ幻想的シーンを挿入している。神さまも出てくるし、バサラ神将がセリフを言ったりもする。
従って歴史小説ではないのだが、まあ、ファンタジーふうの哲学小説と考えればいいだろう。
「女帝三部作」の次の展開も考えている。第二作はタッチを変えてスピード感のある時代小説とし、第三作はもう一度、哲学的な領域に踏み込むつもりだ。
さて、この章は3日で書けた。このペースで先に進みたい。

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