5/23
1章から7章まで完成。ここまでで200枚ほどになる。
プリントして担当者の谷口くんに渡す。
冒頭の阿倍媛が父の聖武天皇のいる内裏に忍び込むシーンから、五節会の皇太子の舞いのシーンまで。
ここまでに登場する主な人物は吉備真備と藤原仲麻呂。双方とも魅力的な人物として描かれている。
結果として仲麻呂は悪役になる。真備は一種の傍観者的立場になるが、野心をもった冷静な人物として描かれる。
書き手にとって真備は、好きなタイプなので、力がこもる。
弱者の聖武天皇と強者の光明皇后もそれなりにうまく書けていると思う。
道鏡はまだ登場しないが、影だけはちらちらしている。
ここまで相当うまく書けている気がしていたが、7月発売予定の「遮那王伝説」(実業之日本社)のゲラを読むと、こちらの方が面白い。
ということは「女帝」の方は何かが不足していることになる。
この点についてはじっくり考えたい。
6/26
大学の仕事と、プレジデント社で出す「大学は誰のものか」(仮題)の執筆に取りかかっているため、「女帝」が先に進めない。
この本は東海大学で実施されている授業評価の取材を中心に大学のありかたについて考察するもので、東海大学の先生方や取材の担当者との共著というかたちになる。
実際に自分で東海大学で一回だけ講義をやってみて、学生諸君に評価をしてもらった。
その体験の感想と、実際の講義の内容、それにぼくなりの大学論を書く。
これを7月半ばに完成させて、夏休みは「般若心経」についての本を書く。
これらと併行して「女帝」を進める。
草稿の200枚は読み返して、かなり書き加えた。このまま先に進んでいけるという状態になった。
後半、道鏡が主人公になってからのプランも徐々に進めている。
まあ、あせらずにじっくりと書き進むことにする。
7/29
『大学は誰のためのものか』の原稿がようやく完了した。この間、『女帝』にはまったく取り組めなかった。これからもしばらくは『般若心経の謎を解く』を書くことになるので、作業は進行しないが、仏教について考えることになるので、この作品の後半、道鏡に悟りについて併行して考えていくことになる。
この作品はプランをもった段階では孝謙と道鏡を交互に登場させてストーリーを進行させていくつもりだったが、書き始めてみると、前半は孝謙、後半は道鏡の視点で書いた方がいいと思い、その方向でここまで書いてきた。
なぜそう思ったのかいまとなっては不明だが、道鏡のキャラクターについて、まだイメージが煮詰まっていなかったせいもある。
しかしここへ来て、道鏡がまったく登場しないのもどうかという気がしてきた。当初のプランどおり、早い段階で道鏡を出すべきではないか、というふうにも考えるようになった。
ただしそうすると、ここまでチラチラと道鏡の影を伏線として出してきたのが無駄になる。
まあ、実際に道鏡を書く段になって、どういう構成にするか、もう一度じっくり考える必要があるだろう。
もう一つ考えなければならないのは、ここまでは専用ワープロで書いていたのだが、『般若心経』をノートパソコンで書くことにしたので、そのプロセスで辞書が整備され、仏教用語が出るようになれば、『女帝』にも使えるかなと考えている。
現在使っているノートパソコンは大学から貸与されているもので、ウィンドウズ3.1などというとぼけたものが入っていて使いづらい。でもかなれ慣れてきたのでこれでもいいし、おりを見て新しいのを買ってもいい。
パソコンは壊れやすいけれども、まあ、ある程度は信用できるようになっているので、パソコンにしてもいいかなと考えている。
「チャレンジ公募」の短篇賞の応募原稿を読んでいる。レベルが低い。これなら早稲田の学生の宿題の方がましだ。
8/24
『般若心経の謎を解く』完了。思ったより早く完成した。
実は8/10に実家に思いがけない不幸があり、困難な事態に遭遇したのだけれども、簡単に解決できる問題ではないので、とりあえずは仕事をするしかない。
そういう状態だったのでかえって集中力が持続したのかもしれない。この集中力を『女帝』の完成まで持続させたい。
とりあえず『般若心経』の原稿をプリントアウトしてチェックしながらフリガナをつける作業が残っているが、2日あれぱ充分だろう。
『女帝』再スタートの手順としては、これまで書いた1〜7章を読み返し、直しを入力してプリントする。そこからただちに8章を書き始める。
うまく気持ちを切り替えられるかわからないが、とりあえず試みてみる。
8/29
1〜7章のプリント読み返す。うまくいっている。直すべきところはない。このままの勢いで先に進みたい。
これまで小説はノートワープロ(専用機の東芝ルポ)で書いていたのだが、しばらく『女帝』から遠ざかっていた。
その間、『大学は誰のためのものか』と『般若心経の謎を解く』と、本2冊ぶん書いたわけだが、すべてノート型パソコンで書いた。
このパソコンは大学が教員に貸与しているもので、どういうわけかウィンドウズ3.1という古いOSが入っている。まあ、昔は自分も3.1を使っていたから、使い方はわかるし、通信などには使わないからこれで充分だ。
東芝製でワープロはかなり旧いワードが入っていて、しかもワードなのに漢字変換システムは一太郎のATOKだ。このATOKもかなり旧いヴァージョンで、いま自分が使っているものとは使い勝手が違う。
ということで、小説は慣れた東芝ルポで書き、短いエッセーだけノートパソコンのワードで書いてテキスト文書でフロッピーに入れて、デスクトップのパソコンの一太郎でプリントしたり、FAXで送る、というめんどうなことをしていた。
最近は短い原稿はメールで送るので、テキスト文書を貼り付けるだけでいいので不便は感じていなかった。
で、何が問題かというと、本2冊ぶんの原稿を書いているうちに、ワードの画面と旧いATOKの使い方に慣れてしまって、東芝ルポの使い方を忘れてしまったということだ。
しかも『般若心経の謎を解く』を書いているプロセスで、仏教用語を辞書に登録したので、かなり使いやすくなっている。『女帝』は道鏡が主人公なので、当然、仏教用語が頻繁に出てくる。ここまでは孝謙天皇阿倍媛を中心に書いてきたので、仏教用語はあまり出てこなかったのだが。
というわけで、思いきってワードとATOKで『女帝』の続きを書くことにした。
そこでこれまでの1〜7章(現在は一太郎8文書になっている)をテキスト文書でフロッピーに入れて、ノートパソコンのワードで呼び出した。それから固有名詞が重要語をチェックして辞書に登録するという作業をやった。
これでオーケー。準備が整ったところで、いよいよ8章のスタート。
9/5
9章完了。やや、すごいペースではないか。鏡丸が葛城山で修行しているところに、まずプロッケン現象(いわゆる後光が射すという現象で実在する物理現象)の中に役行者(えんのぎょうじゃ)が姿を見せ、お告げをしてから幻影をみせる。
実はこの前の8章に仕掛けがしてあって、大仏開眼の儀式のさなかに孝謙天皇が幻影の中で20歳の鏡丸の姿を見ている。そのシーンを今度は鏡丸の側から見ることになる。
時空を超越してシーンがつながっているわけだが、SFファンタジーを読み慣れた現代の読者にとっては、違和感はないだろう。
このあと、行基が現れ、道鏡の物語が始まっていく。主要登場人物は行基の従者の弓削浄人、行基の弟分の修行者良弁、いまのところはその程度だ。
まず行基が、ヒステリーの治療法を道鏡に伝授する。この行基のキャラクターは自由奔放なもので、かつて書いた『地に火を放つ者』のイエスを明るい老人にしたようなもの。
一種の超人として描いている。道鏡の方は超人ではないので、イエスの十二弟子の一人みたいな感じ。つまり『地に火を放つ者』のイエスとトマスの関係だが、今回の作品はユーモアをまじえて書いていく。
弓削浄人はそれほど重要な人物ではないが、道鏡の弟として出世していく人物なので、出さないわけにはいかない。
3日で1章書けた。すごいすごい。9章からは主人公が道鏡に変わったので、まったく新しい作品を書くような感じだが、それにしては最初から集中して書ける。
道鏡については、これまでもおりに触れて考えていたので、キャラクターが確立されていたのだろう。
直前に『般若心経』を書いていたので、仏教についてもそのまま持続して考えていける。
『般若心経』の訳者、玄奘三蔵の直弟子が道昭で、その弟子が行基、そのまた弟子が道鏡で、道鏡の「道」は道昭の「道」からとった(とわたしが勝手に決めた)。
というわけだから、『般若心経』と『女帝』はつながっているのだ。道鏡は般若思想を体現した菩薩として描かれることになる。どうだ、すごい作品だろう。
9/8
10章完了。3日の1章のペースを持続している。この章では良弁とともに修行している道鏡の前に金剛力士像が現れて預言をする、という展開になっている。
良弁と金剛力士像の関係は『日本霊異記』からとった。ちゃんと勉強しているのである。
ここでは般若思想と華厳思想について、やや理屈っぽい説明がある。これがなければもっと面白い作品になるのだが、ただのエンターテインメントではなく、文学作品としてレベルの高いものを書きたいので、少し寄り道をする。
ここまで阿倍媛を中心にストーリーで引っぱってきたので、読者もついてきてくれるだろう。退屈だったら読み飛ばしてもらえばいい。
道鏡が孝謙天皇(その時点では上皇だが)を治療するくだりは、世間の俗説では、道鏡の巨根によって女帝の欲求不満が解消され、ストレスによるヒステリーが治療された、というふうに解釈されるわけだが、この作品はその種の俗説を全面否定するかというと、そうではない。
面白い俗説はそのまま採用して、哲学的な解釈を付加することによって作品としての深さを求める。そのためにも『華厳経』の思想を展開しておかなければならない。
『般若心経の謎を解く』という本を書いたばかりだが、この『女帝』という作品は、『華厳経の謎を解く』というタイトルにしてもいいくらい、哲学的なレベルの高い本にしたい。
それでいて圧倒的なストーリー展開をもっている、という作品にして、小説の面白さと深さを読者に満喫してもらう。
というわけで、もしかしたらこの章はほんの少し、理屈が多すぎるかもしれません。次の章ではいよいよ吉備真備が登場して、この作品の二大ヒーローが出会うことになる。
このあたりから、この作品は本当に面白くなっていく。
9/13
11章完了。8〜11までの3つの章で、道鏡の登場から宮子の治療までを描いた。8章までは阿倍媛の視点で大仏開眼までが描かれている。ということは、次の12章で、阿倍媛の側から書いた部分に追いついてしまう。
少し急ぎすぎて物足りないかもしれない。道鏡のキャラクターが充分に描けていないのではないかという気もする。
菩提僊那とのやりとりなどで思想的な面を強化したい。
この作品は実は思想小説なのだが、女の子をヒロインにしたオカルト小説とも読めるようになっている。
道鏡が主人公になってからの3章でも、どの章も章のしめくくりに悪霊に憑かれた病人を呪法によって治療する場面が出てくる。
ヨーロッパの悪魔祓いの儀式のようなものだ。3回も出てくるのでワンパターンになりがちだが、それなりに工夫している。
そして、次の章のラストにも悪魔祓いが出てくる。いよいよ道鏡による阿倍媛の治療というこの作品の最も重要な場面になる。
ところで9/11に担当編集者の谷口くんと三宿で軽く飲んだ。谷口くんには7章まで渡してある。
7章まで読んで、面白かったけれども、系図が必要だという意見。確かに、天皇家と藤原氏の系図は必要だろう。ついでに年表もつけておいた方がいいかもしれない。
飲みながら「女帝三部作」の構想を話した。いずれ書きたい、というくらいのプランだったのだが、話しているうちに、来年は第二作を出すべきではないか、ということになった。
「女帝三部作」というのは、推古天皇、持統天皇、孝謙天皇の三人を描くもので、これを時代とは反対に、孝謙と道鏡、持統と額田王、推古と聖徳太子、というセットで描いていく。
実は本当に書きたいのは聖徳太子なのだが、キャラクターが『地に火を放つ者』で描いたイエスと同じなので、少し間を置いて書こうと思っていた。
道鏡はストレートなキャラクターなのでこちらの方が書きやすいと思ったのだが、書き始めてみると吉備真備など面白い脇役が出てきて、けっこうすごい作品になりそうだ。
持統天皇と額田王では、もちろん天智、天武の兄弟天皇の対決が話の中心になるのだが、これを女性の視点で描く。
脇役として中臣鎌足と藤原不比等の親子が出てくるので、それなりに深い作品になる。
聖徳太子は日本史の中で最大のキャラクターなので、ライフワークになる。
というような将来のことはともかく、この作品を早く仕上げなければならない。
どうやら「女帝三部作」というのを本当に書くことになりそうなので、いま書いている作品は「女帝・阿倍媛と道鏡」と呼ぶことにする。
9/21
ようやく12章完了。1章を書くのに1週間もかかってしまった。反省。
『般若心経』のゲラで一日。『週刊小説』の17枚の原稿で1日。大学に3日出講したのだから忙しかったことは事実だが、やや行き詰まっていたことも確かだ。
この作品は8章までは阿倍媛の視点で、9章以後は道鏡の視点で書いている。道鏡が出てきたところで時間を出発点に戻しているので、同じ事実を別の視点から眺めることになる。
そのため起こった出来事はすでに読者は知っているわけで、細かい説明は不要だ。そのためテンポが速くなるのはいいのだが、急ぎすぎてアラスジだけみたいになってしまうと、文章が軽くなる。
そうなると道鏡という人物に存在感がなくなる。道鏡が悟りの境地に到達していることを読者に伝えたい。
いろいろ考えたが、結局、『華厳経』を道鏡が読むシーンを章の冒頭に置くことにした。引用で逃げているようだが、読者に仏典のイメージを伝えた方が、悟りというものを正確に読者に伝えることができるだろう。
『八千頌般若経』とも思ったのだが、こちらは菩提僊那が語ることにした。
この章の中心となるのは、皇太子阿倍媛の五節舞を道鏡が眺めるシーン。
阿倍媛は神がかりになっている。その神を道鏡が念力で祓う。一種のスペクタクルシーンだが、もたれすぎると、のちに出てくる悪霊祓いのシーンが二番煎じになってしまうので、コンパクトに描いて次の章に突入する。
さて、9/16から大学が始まった。雑用はほとんど片づけたので、執筆のペースを落とさないように、大学の出講日にも集中してノルマを果たすように心がけたい。
年に一度の人間ドックの日が近づいているので酒を控えている。わるい結果が出て酒をストップされては困るので、検診の前には控えることにしている。
そのため、原稿執筆の乗りがよくない。精神力でカバーしよう。このところ気分が落ち込みがちで、胃がわるくなっているのではと心配。
9/27
13章完了。また1週間かかった。大学が始まったので時間がとられるが、今週は人間ドックがあり、落ち着かなかった。検診の結果はまだわからないが、気管支に陰があるなどと言われ再検査。春先に風邪が長引いた時の後遺症だろうが、現在は咳が出るわけでもなく、まあ、大丈夫だろう。肝臓がきれいだと言われたので自信をもつ。これで安心して酒が飲める。
この13章は、つなぎの部分だが、菩提僊那と道鏡の哲学的議論があり、思いのほか、深い展開になった。こういう理屈っぽい議論はエンターテインメントとしてはストーリー展開のスピード感をそぐことになる。しかしシドニー・シェルダンではないのだから、スピードだけでは作品の奥行きがでない。ただのエンターテインメントではなく、背後に深いものがある(事実あるわけだが)と感じさせるテクニックが必要だ。
夏に『般若心経の謎を解く』を書いていたことが、思いがけないほど影響力をもっている。道鏡の時代は般若思想が最も哲学的に把握されていた時代で、のちの空海になると陀羅尼中心の把握になってしまう。その意味では道鏡は哲学者であったはずだ。
ここまで菩提僊那の出番が少なかったのだが、この章でようやくキャラクターとしてのイメージが出せた。
次の章では鑑真が出てくるのだが、あまり深入りしすぎるとストーリーが先に進まないので、出来る限り簡潔に書いていきたい。
大学に出講するルーティンにも少しずつ慣れてきたので、作業のピッチは上がるはずだ。10月末の完成を目標にしているので、もっとピッチを上げないと間に合わない。書き下ろしの作品は、自分で締切を決めてペースを作らないと、ずるずると遅れてしまう。10月末という目標は必ずクリアしたい。
次の14章でようやく道鏡と阿倍媛が出会う。そこから先は視点が交錯して、いわゆる「神の視点」になるのか、それとも阿倍媛と道鏡の視点を交互に並べていくのか、何も考えていない。実際にやってみないとどういうことになるかわからない。なるべく違和感のないように、阿倍媛の視点からの描写を重視して展開したい。道鏡に会って以後の阿倍媛は、すでに狂っているとも考えられるので、主観的な描写に徹しないと実在感がうすれてしまう可能性がある。
この作品は基本的にはスリリングな読み物を書くというコンセプトで出発しているのだが、『華厳経』の世界観が入ってきたので、哲学小説になってしまった。つまり純文学である。純文学だということを表面に出すと本が売れないので、オカルト的古代ロマンとか、ファンタジーの一種として、とりあえず面白さに徹して書いていきたい。
次の章を4〜5日で完了させたい。
9/30
14章完了。この章も阿倍媛と道鏡の出会いに至るストーリーのつなぎの部分だが、良弁と道鏡が新薬師寺で塑像の十二神将と対面するシーンが中心になる。
この作品は歴史的事実を踏まえたリアルな展開の中に、ところどころ幻想的シーンを挿入している。神さまも出てくるし、バサラ神将がセリフを言ったりもする。
従って歴史小説ではないのだが、まあ、ファンタジーふうの哲学小説と考えればいいだろう。
「女帝三部作」の次の展開も考えている。第二作はタッチを変えてスピード感のある時代小説とし、第三作はもう一度、哲学的な領域に踏み込むつもりだ。
さて、この章は3日で書けた。このペースで先に進みたい。