第1章 ダイビング事故の真実

著者 中田 誠
編集 村上 清
発行人 落合美紗
発行所 株式会社太田出版
代表 Tel.03-3359-6262 
http://www.ohtabooks.com/

ISBN978-4-7783-1115-5
(c)Nakada Makoto,2008
本書の無断転載・複製を禁じます。

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死なないでください
 これからダイビング事故に関する5つの事例を紹介します。
 最初の3つの事例の公開にあたっては、これらの犠牲が無駄にならないようにとの、事故者当人やご遺族のご遺志のもとにご協力をいただきました。

「忘れないで」(以下はご遺族による手記です。上記タイトルは著者(中田)によります)
 私は、平成15年9月14日、静岡県沼津市大瀬崎でのダイビング講習中に死亡した息子(17歳、高校3年生)の母親です。
 息子は、最初はショップでCカードを取得しました(平成15年8月)。
 その海洋講習では、1人のインストラクターに受講生2人でした。
 その後ワンランク上の資格を取得するため、9月13、14日に講習を受けました。
 事故前日の13日は午後より静岡市清水区三保でナイトダイビングを含む2本をして、夜は7時30分すぎに帰宅し、14日は午前6時に集合して大瀬崎に出発しました。
 前日はかなり疲れて帰宅し、夕食もとれない状態でした。そして次の日は早く出かけ、息子以外の2人は起きられなくて遅刻するほど、疲れは十分に取れていなかったようです。
 受講生3人(高校3年生)と−人のインストラクター(私学の高校教師で、副業でインストラクターをしていました)で、息子以外の2人はインストラクタ↓学校の生徒で、Cカードもそのインストラクターのもとで取得しました。
 一人は2年前から、もう一人は一年前から、一度も潜っていなかったそうです。
 息子は13日に初めて会ったそのインストラクターもとで講習を受けました。
 事故当易透明度は著しく悪く、水深5mまではほぼ0m、水深10mでも5〜7m程度の視界でした。
AM10:00 エントリー開始。
AM10:23 水深30m到着。その後、浮上。
AM10:31 20m通過。
AM10:35 5〜8m付近で確認が取れなくなる。
 インストラクターは当然、浮上していると思い込み、捜さず。
 直後、他のインストラクターの方が、偶然、漂っていた息子を発見し、引き上げてくれました。
 浮上した2人の受講生のエアーが、5、10しかなく、インストラクターは自分のエアーを与えておりました。ひとつまちがえば3人とも命を落としていたかも知れません。
 水深30mの所でのエアーの確認は受講生本人のみ行い、インストラクターは勉強の一つだとして未確認でした。
 ダイビングショップでは、「海はきれいで楽しいダイビング」と言う謳い文句でお客に気軽にダイビングを始めさせています。
 海には酸素はありません。大変危険なレジャースポーツです。(客は)インストラクターを信じ、頼りにしています。そのインストラクターの監督指導がなっておりません。一度資格を与えればそのままです。人の命を預かる仕事なのに、です。
 事故の事実を広く公表し、インストラクター・受講生も十分に理解し、そのうえでダイビングを楽しんでいただきたいです。
 指導団体は、人の命をただ商売道具に使い、保険金を支払いさえすればいいとしている。自分の身内が事故に遭い、死亡したらどうでしょうか?
 どうかもう一度、利益だけを考えず、命の尊さを考えてください。
 毎年毎年事故で死亡して悲しんでいる家族がおります。
 病気になってしまう家族もおります。
 ダイビングを全面否定はしません。ただ利益追求だけでなく、インストラクターの教育を十分にやっていただきたいだけです。
 副業なんて、とんでもないです。人の命を預かるのです。
 海の事故は交通事故のように、刑事事件にするのが難しいです。
 遺族は警察、検察庁から調書をとられ、精神的、肉体的にも疲れて大変です。でも事実を知りたいと思い、悲しみを乗り越えて、亡くした息子のためにやってきました。
 何度も何度も同じことを聞かれ、その都度、悲しみは湧いてきます。時間もかかります。
 息子の事故は、検察庁から刑事事件となって、終わったのは、事故より2年半経ってからです。判決はただの業務上過失致死罪、罰金50万、略式裁判でした。
 残された家族としては、とてもつらい結果でした。
 警察も検察もダイビング事故には詳しい方が少なく、外部に依頼していろいろ調査を出します。そのためなかなか事件を取り扱うのが難しいようです。
 息子が、「ダイビングは楽しい。海はすばらしい」としきりに言っていたことを思い出します。安全性についても身振り手振りで「バディがいるから大丈夫だ」と説明していたりしました。
 一つまちがえば事故に遭います。
 どうか息子の命を無駄にせず、そして風化させないでください。
 ダイビングに関わる人たちは、もう一度、「命」を考えてください。そして利益だけ追求するダイビングはやめてください。
 強く望みます。
櫻井裕子

事故の背景
 この事故が発生したときの状況は次のようなものでした。
(A)副業で講習などを行っていたインストラクターAが、未成年の3人を対象にアドバンスの講習を実施した。
(B)Aは、講習中に櫻井さんのご子息を見失った。そして櫻井さんのご子息は他のショップのインストラクターによって偶然に水中で発見された。
(C)事故の起きたポイントは日本有数のダイビングポイントであり、シーズンになると多数のダイバーがここにやって来ていた。この年、この事故以前までこのポイントでは救急車が出動する事故が5件発生し、内1件が死亡事故であった。さらにこの年櫻井さんのご子息の死亡事故の後に、もう1件の死亡事故が発生した。
(D)Aはダイバーとして30年の経験があったが、遊びで潜っていた本数がほとんどで、しかもわずか1000本程度の経験しかなかった。それでも彼は最終認定権限者である民間の任意資格販売会社の「指導団体」からインストラクターと認定されていた。
 Aは、事故の前にも何度か講習を行っていたようです。しかしこの事故の状況を見るとこれまでAによって正しい講習が行われていた可能性は薄いように考えられます。そうすると、このような講習の品質の確認も行われないまま「認定」されてCカードが送られてきた講習生たちは、ダイビングのリスクを高レベルで負わされたダイバーとなっている可能性が考えられます。これが負の連鎖です。

大瀬崎の現状

 大瀬崎にあるダイビングサービスは、事故対策として緊急用の酸素ボンベを常備しています。また現在は大瀬崎全体で使えるようにAED(自動体外式除細動器)も設置しています。
 

 

 

 

 

スクリュー接触事故
 次の事故は、海外の日本人経営のショップで行われた人数比1対2のファンダイビング中に起きたものです。2人を引率していたガイドが、海上に浮上を知らせるフロートを揚げもせず、また海上の安全をよく確認もせずに、ダイバーたちに浮上の指示を出しました。2人がその指示に従ったところにボートが突入してきたのです。そのため1人は左腕2箇所骨折とスクリューによる裂傷を負い、もう1人は10針も縫うケガを負いました。(※写真は本を参照)
 この事故は東南アジアの某国で、世界的に有名なブランドの看板を掲げ、日本人が経営して主に日本人を対象にしていたショップが募集した商品ダイビング(講習やガイドなどのダイビングサービスという、ダイビングの役務商品のこと)中に発生したものです。このショップは対人賠償保険にすら入っていませんでした。そしてこのショップのオーナーは事故被害者の損害だけでなく、医療費の支払い義務すら無視し続けています。
 もうーつ驚くことがあります。実はこのガイド付きのファンダイビングとして販売された商品ダイビングでは、実際はそのガイドが某「指導団体」の上級資格を得るための練習生だった(実習中)のです。ショップはそのことをダイビング前にも事故後にも事故者たちに知らせませんでした。つまり正規のガイドダイビングだとして販売され、そう思って正規の料金を払った客が、監督する者すらいない、そこの1人の練習生の練習台にされていたのです。本来なら事実を開示したうえでツアーの募集を行い、きちん対人賠償保険をかけて、上級プロの監督下で、無料か、あるいはショップが2人のダイバーに練習台となる対価を提供したうえで行われるべきことだったのです。例えば美容院がカットモデルにそうしているように。
 この事故は、練習生に実習と称してタダで仕事をさせてオーナーが利益を上げるという「エグい」ビジネスの中で起きたものです。しかもこれがビジネスとして行われた以上、この練習生が不法就労者であった可能性すらあります。さらにこの練習生は事故後、事故者を放置してさっさと日本に帰国してしまいました。今頃は日本のどこかでインストラクターと認定されてプロになり、ダイビング業界の発展に尽くしているのでしょうか。
 こういった、客を騙してその命を危険にさらしてまで儲けようとするビジネススタイルは、特に日本人向けのショップでは、国内外を問わず時折行われているようです。これは消費者である客に対する契約違反であるともに、人権侵害、また詐欺ビジネスであるとも言えるのではないでしょうか。
 このように、実習生からは講習費を取ってタダで働かせ、さらに客を騙して正規のガイドダイビング料金を取るやり方は、二重販売(契約)と言うべきでしょう。
 彼らがこうしたビジネスをやめないのは、そこに儲けがあるからであり、しかも国内でこれが行われていてすらも一般マスコミがこの実態を報道することに興味を示そうともしないからだと思います。
 そして一般マスコミがこの実態を取り上げない理由は、一般マスコミのある部分が、この業界と切っても切れない密接な関係にあるからだとも言われています。

重度の滅圧症と勇者の物語
重度の減圧症の後遺症によって、車椅子の生活や、脳に障害が残る人生、あるいは植物状態となるケースがあります。
 これから紹介する事例は、重度の減圧症の後遺障害と闘っているシニアダイバーご夫妻の事例です。この事例と同じような事故を予防するために、また同じように減圧症と闘っている方々に回復への希望と勇気を持ってもらいたいために、今回特別にご協力いただいて紹介させていただくことになりました。
 ここで紹介させていただく木村真彦さんは事故当時、奥様と共にダイビングを楽しんでおられた50歳代前半のダイバーでした。
 お2人はそれぞれ数百本の潜水経験がありました。このご夫妻の体験を、ダイバーの皆さんはよく心に刻んで、契約違反をしない、良いダイビングショップを選ぶことの重要さを学んでください。そして業者(ショップや旅行会社)の方々も、それぞれに大切な生活があると思いますが、目先のお金のために、客となったダイバーの人生を破壊して過酷な困難を背負わせるようなことのなきよう、ぜひとも契約遵守と、安全重視の商品ダイビングの提供をお願いいたします。
 そして現在減圧症やその後遺障害に苦しんでいる方々は、木村さんの体験を知って勇気をもらってください。一般のダイバーの方々は安全のための心構えをしてください。そして無事にダイビングを終えることができたなら、その都度このお2人に対して心の中で感謝してください。

事故の発生
 木村さんご夫妻は、浅い水域でのダイビングをしたいという希望を示して、某大手旅行会社から希望に合うとされたダイビングツアーに申し込みました。しかし現地に着いてみると、契約条件と違った、水深35mにもなるダイビングツアーに変更されていました。 この件について、木村さんはこう語っています。
 「Pツアーにツアーの問い合わせの電話をした時に、担当のMさんにMY島のY瀬サンゴ礁ポイントに行きたいとリクエストし、Mさんはそれを承知して契約したにもかかわらず、当日まったく違う深い洞窟ポイントに、事前の説明もなくいきなり連れていかれました。サンゴ礁ポイントは通常浅い深度の明るいポイントですが、今回の洞窟ダイビングは深い深度の暗いポイントで、私たちが希望していたものではありませんでした」
 ショップ側からみれば、木村さんと交わした契約内容を、より儲かる客を優先した方に勝手に変更して潜水計画を作ったのだと思います。このように大手旅行代理店の紹介するショップには、時折(「時折以上」という人もいます)このようなショップがあります。
 いまさら引き返せないような状況のダイバーたちの弱みにつけこむ契約内容の一方的変更は、ダイビングビジネスの一部では珍しくない商習慣となっているようです。
 さらに残念なことを付け加えますが、このようなことをよく行っている業者の中には、契約違反を自分たちの当然の権利だと主張するケースが見られます。その時彼らが挙げる理由は、「自分たちにも生活がある」というものです。確かに業者の方々の生活はきわめて重要ですが、これは「客の生活(客は事故に遭ったら生活が破壊されます)」が達成されたうえで行うべき主張です。
 契約の遵守は議論の余地なく当然のことで、今回のように、浅い水域から水深30mを越える洞窟ダイビングへの変更は、明らかに大きなリスクを相手に強要することになる悪質な違約行為です。

減圧症の発症
 やむを得ず深い水深でのダイビングを行わざるをえなかった木村さんは、水中で減圧症を発症しました。この時の様子をご本人はこう語っています。
「足に力が入らなくなってフィンキックができなくなった時に体が浮き(2mぐらいだったと思う)、それをバディ(奥さん)が気づいて、真下に近い位置にいたインストラクターに知らせ、インストラクターが私のフィンをつかみ下げたのです。するとその後すぐにインストラクターは行ってしまいました。そして私が水底に四つん這い状態でいたら、数秒ぐらいで物の遠近感がなくなって、重なって見えたり、朦朧としてきました」
 このときのガイドの行動は適切だったのでしょうか、客のダイバーの状況を常時監視してトラブルの予防に努めるという法的義務を果たしていたのでしょうか。
 適切な人数比で常時監視義務が正しく履行されている状況でファンダイビングが運営されていたならば、ガイドは浮き上がった木村さんに何かトラブルがあったのではないかという可能性を無視せず、状況の推移を把握するために慎重に木村さんの観察を行い、決して事態を安易に考えてその場を去るようなことをしなかったでしょう。
 木村さんの事例を見ると、不適切な人数比でダイビングを行うという、潜水計画そのものに欠陥と義務違反があったことがわかります。
 木村さんは、こう続けています。
「(私は)意識の無いまま四つん這いのままでした。そして私の異常事態に気づいたバディが私を背負い、泳いでアンカーローブの下にいたインストラクターに知らせ、そのインストラクターが私を浮上させてポートに引き上げました」
 そしてこの後、木村さんは意識を失ったそうです。
 木村さんの状態は深刻でした。そのうえ悪いことに、彼を港まで搬送する間、ボート上では彼に対して酸素の投与がなされなかったのです。ボートはこういった事故の際に不可欠な緊急用酸素を準備していなかったのです。
 さらに不幸なことに、病院に着くと技師が不在という理由で、せっかくそこに1人用チャンバー(高気圧酸素治療用の装置)があったにもかかわらず、実に5時間もその外で待たされたのです。
 減圧症のときは一刻も早くチェンバーに入って治療を受ける必要があります。それは治療が遅れるほど命に関わる問題となるからです。
 ダイビング雑誌の広告やダイビングポイントの体験・講習ツアーを販売する旅行会社は、現地にはチェンバーがあるから大丈夫などという謳い文句で勧誘していることがありますが、そこで常時減圧症治療が可能となっているかどうかの情報はまず知らされません。それより以前に、ダイビングに使われるボートに、緊急用の酸素があるかどうかの情報さえ開示されません。このような状況は、ダイビングを知らない者によって作られた旅行商品が安易に売られた結果か、あるいは意図的にリスクを隠して販売された結果と言えるのかもしれません。
 この事例では、木村さんに搬送時のボートで適切に緊急用の酸素が投与され、病院(診療所でも同じ)ですぐにチェンバーに入って適切な治療を受けることができれば、もしかしたら減圧症も完治に向かい、悪くしても現在より良い状況での回復となっていた可能性が高いと考えられます。実際に当時の、この事故を報じた報道関係者向けの公的資料にもこれを十分に推定させる内容が書かれていました。
 実は、現地では医師から奥さんに対し、事故直後に「後遺症は残らない」と説明されていたのです。しかし不幸にも奥さんは、後に木村さんの下半身が麻痒することになるという通告を受けることになったのです。
 奥さんは、当時は減圧症やチャンバーの知識が乏しかったと後悔していました。これも十分なリスク情報の開示が、業界のシステムとして存在してさえいれば、このような状況にはなっていなかったかもしれません。そのため木村さんは、ダイビングビジネスで行われている“イメージコントロール”の犠牲となったとも考えられるのです。
 現在行われているイメージコントロールは、ダイバーに対してリスクに対する注意力や知識欲を失くさせてしまう方向に働いています。危険が自分に対しては降りかかってこないだろうと思ってしまう「正常化の偏見」は、こうして浸透していくのです。
 「正常化の偏見」は、消費者が安全対策の薄い(=利益が大きい)商品ダイビングでも容易に購入してしまう原因となります。こういった、リスクを自分のものとして考えない「正常化の偏見」を客が持ってくれることは、安全対策の手抜きによって利益を確保しようと考えている側にはとてもうまみのある状況です。これをビジネスに組み入れることを「正常化の偏見」の商業利用と言います。このようなビジネス文化(モラル)こそが、木村さんに苦難をもたらした原因だと言えるのではないでしょうか。
 ダイビングの世界では事故は日常的に発生しており、それが回復可能な、あるいは受け入れ可能なレベルの軽症で済むか、受け入れ難い深刻なものとなるかには、「正常化の偏見」にとらわれるか否かが大きく影響しています。

 リハビリ
 木村さんは最初の病院から設備の整った別の病院に移され、そこであらためてチェンバーによる治療が行われました。
 その病院の医師から奥さんは、「40歳代以降は、ダイビング危険年齢」と教えられました。そのときになって初めて彼女は、ダイビングとは「生半可な気持ちでできるものではない」と知るに至ったということです。これは辛いことでした。ダイビングの雑誌や広告などを見ても、「ダイビングは安全」「ダイビングは誰でもできる」「体力もいらない」「シニアダイバー歓迎」などという、一般の人たちの警戒感をいかに緩めるかを競うかのような宣伝文句が溢れており、正しいリスク情報に触れる機会がなかったからです。これではダイビングを安易に考えるように思考を誘導されてしまうでしょう。手遅れになってから事実を知らされても、悔やみきれるものではありません。
 そして奥さんは、治療を担当した医師から、「(ご主人は)車椅子になります」と宣告されました。奥さんはこの事実をすぐにご主人に伝えることはできませんでした。

 やがて事故から11日が経ち、木村さんのリハビリが開始されました。
 最初は、点滴や尿袋をつけたままストレッチャーで運ばれて体の点検を行うというものが主でした。
 このリハビリも9日目になって、理学療法士から「立ってみましょう」と言われました。理学療法士は、立たせた木村さんをリハビリ用の平行棒のところで支えました。このとき木村さんは腕でぶら下がるのが精一杯で、足はだらりとしたままでした。
 奥さんが聞いたところでは、多くの場合、この状態が劇的に改善することはめったにないということでした。
 それでも木村さんは回復への強い意志を持ってリハビリを続けました。そしてそれを奥さんも献身的にサポートし続けたのです。
 このような懸命な努力に、やがて理学療法士は、「杖で歩けるまでリハビリをします」とまで言うようになっていきました。奇跡の始まりでした。
 木村さんは、「理学療法士がそう言ってるんだから、できるんだ。歩けるんだ」と自分に言い聞かせながら、毎日毎日、理学療法士や作業療法士によるリハビリを受け、それに加えて自分の時間をも自主トレの時間とし、合わせて4時間もリハビリ室でがんばり続けました。さらに病室に戻ってもリハビリにはげみました。奥さんもご主人の足のマッサージを続け、2人は力を合わせ、歯を食いしばって回復に向けて努力を続けました。
 こうした日々を過ごしながら、木村さんは誕生日を迎えることになりました。この時になってやっと奥さんは以前医師から言われたことを木村さんに打ち明けることができたのです。
「車椅子になるって先生から言われてたんだよ」と。

病院の正面玄関前で、理学療法士から松葉杖での院内歩行の許可が出て外に出てみた木村さん。

 

 木村さんご本人の強靭な意志、それを支え続けた奥さんの深い愛情、そして医師、看護師、理学療法士、作業療法士たちの努力と励ましの日々が続き、奇跡が起きたのです。
 その日は事故から2か月と15日後でした。木村さんが松葉杖を使って歩いたのです。
 奥さんは車椅子の宣告について話したことをご主人に謝りました。
「ショックだよね。ごめんね。こんなこと言って」
 これに木村さんはこう応えたそうです。
「歩けるんだから大丈夫だよ」
 木村さんはこうして自らの足で歩いて退院するという勝利を勝ち取ったのです。
 木村さんを担当した理学療法士たちは、これまでも担当した患者に対して、「がんばれば回復していくよ」と言いながらリハビリを行っていました。しかし彼らは実際にはなかなかその言葉どおりの結果を実現できないという現実にも直面していました。その彼らも、木村さんが実際に奇跡をなし遂げた事実に関わったことで、本当に「がんばれば回復していく」という言葉を自らのものとすることができるようになったということです。
 この彼らの体験は、いつかきっと別の誰かのがんばりを支えることになり、そして奇跡を再現してくれることになるでしょう。

 木村さんはその後、リハビリを続けながら社会復帰を目指しています。まだ足のつっぱり、しびれ、感覚障害、歩行障害、直腸・膀胱障害は続いています。奥さんは、これが少しずつでも良くなってほしいと願いながら、献身的に尽くしています。
 今日も、このような美しい夫婦愛が、社会の一隅で光を放ち続けています。お2人を応援しましょう。

奥さんから皆さんへの伝言
「どうぞ、私たちのような思いをする人がありませんように……」


マンガ版『私が事故に遭った時の物語』
 これから、私自身が事故にあった時のことをマンガにしてお届けします。この中でコメディタッチで書いている部分がありますが、これは決して事故そのものを軽視している類のものではありません。私自身の物語だからこそ、わかりやすくお届けしようとしているものです。
 また、紹介する事故は、私がオープンウォーター(OW)の講習を受けたショツプに、私のその時の技量にあったツアーの紹介を依頼し、またツアーを主催するショップに自分の技量レベルを文書で送付した上で予約OKの通知をもらって行ったツアーの事故です。
 金銭のやり取りがあって成立した契約行為の中で、初心者の参加者が、ブリーフィング時のインストラクターによる指示時項を厳守しても、実際のダイビング中にインストラクター自身がその指示を守らなかったという「不作為行為」があった場合に、最悪何が起こるのかということを考える材料にしてみて下さい。
 また、この事故の後に私が行なったダイビングが、事故のときと同じような条件下であったにもかかわらず、空気の消費量が全く違っていたことを、最後に記したログブックの記録から見て下さい。

※マンガには描いた方の権利がありますので、本を参照してください。

 以上が私の事故の顛末です。
 ダイビングでは事故に遭うと統計上約40%が死亡しています。私には“次”はないのかも知れません。
 みなさんもくれぐれも用心して下さい。そして事故はいろいろなことを原因として起こるという情報をしっかり手に入れて下さい。「安全」があってはじめて「楽しいダイビング」なのですから。
 OWに認定されたからといってOWのテキストに書いてある量要な潜水技術が本当にできるようになったのかどうかは、自分にはわからないというのが昔通だと思います。OWの認定とはそんなものだとわかったのは、自分が事故に遭って、事故について研究してからです。

溺水時故
 この事故は、有名な「指導団体」からの高い格付けを誇示していた、日本人経営で日本人スタッフが多いハワイのショップのファンダイビングで、オープンウォーター講習を終えたばかりの経験の浅いダイバーであった私自身が溺死しかけた事例です。
入院初期は、酸素マスク装着・点滴の継続・心電図のためのクリップ装着などで、食事はもとより水も一切取れない状況でした。そして一日中3時間おきぐらいの間隔で起こされて肺機能検査が行われました。
 このショップのガイドは、マンガにもあるように、自らの注意義務違反があったことを認めたのですが、そのことをショップのオーナーが知った後、忽然と姿を消してしまいました。またショップが選定し、水中でバデイシステムを放棄して単独行動をとっていた日本人の若い男性のバディ(MSD)も、事故直後から一言もなくすぐに姿を消しています。そのバディがどのような講習を受けてきて上級ダイバーと認定されたのかを考えると、それまでの講習の質や、資格の認定の背景にある問題を考えざるをえません。
その後ショップ側は、「保険会社が払わないと言っている」と言い出し、医療費などの支払いを行うことをすべて拒否し、さらに所属する「指導団体」へも事故報告書を上げませんでした。そしてこの「指導団体」は、「事故報告書」が上がってこない事故は存在しない、と主張して現在に至っています。
 一般社会の常識ではこのようなビジネスモラルは賞賛しにくいものだと思いますが、このビジネス手法がこの業界に利益と繁栄をもたらす有力な手段のーつのようです。
 なお近年日本国内で、同じ「指導団体」のブランドとプログラムでの講習中に死亡事故が発生した事件がありました。しかしそれは海上保安庁に報告されなかったため、地元の警察が捜査を行ったにもかかわらず、海上保安庁の事故統計では存在しないことになりました。そしてダイビング業界はこの事実が抜けていることを知りながら、より少なくなった統計数字を業界内外で使用し続けています。

バディを放置するスタッフ
ある有名なスポーツクラブが募集した商品ダイビングのツアーで、初心者ダイバーのバディとしてついていたショップスタッフのダイバーが、水流が強くなってきたことから、バディとしてカバーすべき初心者ダイバーを水中で放置して離れてしまいました。流されたのではなく、他の人の所に行ってしまったのです。やがて見捨てられたダイバーは行方不明となり、捜索の結果、溺死体で発見されました。
 後日、たまたまこの事実を知った同じスポーツクラブの会員のダイバーが、クラブのスタッフにこの事故について質問した時、スタッフは全員「知らない」と応えるだけで、この会員に対して一切の情報を提供せずにその後もツアーを募集し続けました。またクラブで発行しているダイビングに関する会報で、もしこのツアーが取り上げられていたなら掲載されていたはずの号は、なぜか表紙と裏表紙が外され、中身だけのページで配布されていました。
 なお、後日このスポーツクラブは遺族から訴えられました。裁判所はスポーツクラブの反論を受け入れず、損害賠償を命じました。ただこの事実も後になかったことにされていったようです。

事故の現状
 ここで紹介するデータは、海上保安庁に届けられた事故、全国の警察が認知した事故、消防がダイビングの事故として出動した事故をそれぞれ調査して集計したものです。
 一般に事故統計としてダイビングマスコミなどで示されるデータは、海上保安庁に届けられたデータを単独で引用しており、私が東京大学と共同して調査したときに確認された、人数ペースでの海上保安庁への未届け率が約40%もあるという実態は無視されています。
 そのため事故が増えていても事故が減ったなどという宣伝がなされることがあります。先にご紹介した、平成15年に亡くなった櫻井さんのご子息は、こういった宣伝によって促進された「正常化の偏見」の流布の犠牲者であったとも考えられます。
 私は自分のホームページでも、また潜水に関係のある学会などでも、各種の出版や論文を通じて、事故の実態やその背景について多数の情報の開示を行ってきました。しかしこれらも強者による無視という腕力によって「なかったこと」にされてきたとも感じています。
この本を手に取った皆さんは、これから紹介するデータを見て、事故を甘く見ることなく、これを予防するための自らの警鐘としてください。

 なお、さらに詳しいデータは私の別の馴門書に相当詳しく掲載されていますので、事故の実態をより知りたい方はぜひそれをご覧ください。きっと驚きます。

Cカードって何?
 ダイビングビジネスでは、Cカードをある種のステータスの到達点であるかのように宣伝しています。この宣伝は掛け値なしに本当でしょうか?
 実はCカードとは講習の修了認定証のことで、決して公的な免許や免許的な意味を持つライセンスではありません。またこの「修了」は「終了」とは異なります。きちんと正しい講習を受けて習得して初めて「修了」なのですが、現実はただ講習メニューを、時に手抜きのままに「終了」しただけで正しい講習だったかのように販売されているのが実態です。「宣伝」は正しい情報の伝達とは限らない場合もあることをよく頭に入れておきましょう。

ダイビングビジネスの不都合な真実
 ダイビングの安全性について、ダイビング業界ではどのように考えているのでしょうか。
 ここに、一般ダイバーには開示されていない業界の本心を紹介します。
 ダイビング業界では、自分たちの商品としてのダイビングの特性を、
「危険の程度にも致死的であるということは他とは質的に異なる」
とし、そして、
「ダイビングの本質に危険性は深く関与している。一呼吸を間違えばパニックになって、その対処を誤れば生命の危機に直面する」(「21世紀・日本のダイビング業界はどうあるべきか」スクーバダイビング事業協同組合1999年25〜26頁から)と認識しています。
 しかしこのことは、客である一般ダイバーには明らかにされていません。
 ほとんどの講習のプログラムでは、オープンウォーター(エントリーレベル)という初級者講習修了者が潜水できる限度を、安全のために水深18m程度としています。しかし講習のプログラムを作って販売している「指導団体」からインストラクターの認定を受けた者がガイドを行うファンダイビングの潜水計画には、この水深管理のずさんさが目立ちます。
 例えば、オープンウォーターのダイバーとそれ以上の講習を受けたダイバー(水深30m程度まで潜水できるとされる訓練を受けた者)を一緒のパーティで引率する場合には、全体がオープンウォーターの限度水深以深にならない潜水計画が義務となります。しかし現実には平気でパーティ全体を水深30m程度まで引率するガイドがいます。これは重大な注意義務(安全配慮義務)違反です。忘れてはいけないのは、このインストラクターが講習を行うときには、安全のためにオープンウォーターレベルは18m程度まで、と教えている本人だということです。つまりこれは、オープンウォーターダイバーが、安全を逸脱した事態に誘引されることを知っていながら、これを遵守すべき注意義務を意図的に無視した潜水計画を作って実施しているということです。ひどい話です。このような状況で、この不適切な潜水計画に関連して事故が起きても、潜水計画の立案と実行者たちは、それは事故に遭ったダイバーの自己責任だと主張するのですから、一般ダイバーにはたまりません。
 またガイドは客のダイバーを水中や水面などに放置して離れるようなことがあってはなりません。これまでそれで死亡事故が起きていることからもその危険性がわかります。そしてこのような放置が致死的な要因となることをプロが知らないはずはなく、もし知らなかったとしたら、それはプロとして許されるはずはありません。消費者の命に関わることですから、知らなかったではすまないのです。
 またさらに重要なことは、なぜ基礎的なレベルで注意義務違反を犯すような能力で、インストラクターと名乗ってプロ活動ができているのかという問題です。ここには、彼らにプロ活動をさせながら経済的利益を得る、ビジネスをコントロールしている側の思惑が見え隠れしています。ここから本当の責任と根本的な問題とは、実はそこにこそあると考えることが自然なのだと思います。
 業界が本当に消費者であるダイバーたちの安全を考えていたら、また現在の社会が企業に対して要求している社会的使命を考えたら、こういった、消費者の致死性に関する情報は、直ちにかつ全面的に、そしてわかりやすく徹底的に、一般ダイバーだけでなく広く社会に対して開示し、その情報とリスクについての認識を共有すべきではないでしょうか。 海上保安庁警備救難部救難課は、平成15年9月30日付けで、ダイビング業界各団体に対して「スキューバダイビング中の事故防止にかかる安全対策について」という文書を送って、多発する事故の防止を求めました。この文書の存在は、平成16年2月17日付け読売新聞大阪本社版夕刊も報じています。しかしこの文書は、海上保安庁ではない組織から、その中の最も重要な部分が削除されて改変されたものがインターネットで公開されました。
 その消された部分はごく当たり前の常識を語っているだけなのですが、これを消さねばならなかったことにこそ現在に至る問題があると思われるので紹介します。
「スキューバダイビングを提供する側のインストラクターまたはガイドの方々にあっては、安全なダイビングの提供が究極のサービスであることに鑑み、貴会員であるインストラクター等スキューバダイビング提供者に対して、直接又は会誌、メール等を通じて、事故防止に係わる安全対策の再徹底等について、周知・指導していただくなどご協力を賜りますようお願い致します」
 この、当たり前のことを消さねばならなかった背景にはどんな理由があるのでしょうか。
 平成17年に東京大学が発表した報告書、「東京大学潜水作業事故全学調査委員会報告書」の次の部分がこれを説明しているように感じます。いかがでしょうか。
「ここ20年以上にわたって、ダイビングの事故は継続的に発生し、近年は、平成17年を除いて事故の7割前後が、ダイビング業者によるダイビング講習や潜水ガイド中に発生している。これはダイビング業界の安全確保策が不十分であることを示しており、大学の努力だけで大学関係者が潜水事故発生にまきこまれることを防止するのは困難である。《中略》
これは「指導団体」によるインストラクターやガイドなどのダイビング技量養成事業(人命の安全を確保できる潜水計画立案能力、指導・監督能力、注意義務覆行能力などを確実に習得させ、それを認定することでその能力の品質保証を行う事業)として提供されるダイビング講習等の役務商品の品質=1能力に、安全確保に関する部分が不十分であること、従ってこのようなインストラクター養成事業システムに安全面に関して問題点が内在していることを物語っている」
 このことを社会に知られたくなかったのでしょうか。
 ダイビングの安全率向上は、業者にとっては消費者の人身事故を防ぐことで事業リスクを減らすことにつながります。したがってこれこそが最高のビジネスリスクのマネジメントと言えるものです。そして消費者であるダイバーには、自分が事故に遭わないことで、ダイビングを楽しんだ後、心地よい疲労感と素晴らしい思い出をもって日常生活にスムーズに復帰できるという、平穏な幸福をもたらしてくれます。このパターンが主流として存在できないのが、現在のダイビング業界の問題と本質だと言えるのではないでしょうか。 安全に体験ダイビングや講習、そしてファンダイビングを終えることは、業者とダイバーである消費者の双方にとって利益なのです。したがってダイビング産業の確かな発展と、ダイビングを愛するダイバーたちの未来のために、事実を隠蔽して利益を得ようとはせずに、この、双方の利益のために情報を開示することこそが善なのだという価値観を共有しなければならないのです。

年齢別ダイビング事故遭遇者
 次ぺージのグラフに見られるように、20歳から39歳までの層で多数の事故者が出ています。これはこの年齢層が“元気”な世代ですし、ダイビングに活動的なので事故数が多いのではと考えられます。しかし元来が、多少の事故でも助かるだけの体力をもっている年代なので生存者の比率が大きいと考えられます。

※本で用いているグラフや表などは、私の作成した者をベースに見やすく作成しなおしているため、掲載分については本に掲載してあるものを参考にしてください。

 40歳以上のシニア層では事故者数は減りますが、事故時の致死率が劇的に上がっているのがわかります。もはや、事故に対する“元気力”が弱ってきていると考えてよいでしょう。特に45歳から54歳までの層は、全体で最も多い死者が出ています。さらに事故のときの致死率が、50・歳から55歳の層で50%を越えているという事実は、・少なくとも私が調べられる程度の記録に残るような事故に遭遇すると、実に2人に−人が死亡していることを示しています。
 さらに64歳までのダイバー死者の数も若い人とあまり変わりないことに注目してください。今後は団塊の世代と言われている方々の中にも、その余暇を楽しむためにダイビングを行う方々が今より一層増えてくると思いますが、この数字を見て、ダイビングにはリスクを踏まえた慎重な判断と行動が不可欠であることを誰もが深く心に刻むべきです。
 そしてこの統計数字を見るうえで決して忘れてはならないことは、統計上は助かったとされている方でも、その後植物状態となったり、高レベルの障害者となったり、体力は回復しても脳に障害が残って脳の記憶システムがうまく働かなくなったりするなどという困難に直面している方々が少なからずいるという事実です。だから若い方々の致死率が30%程度だというこのグラフの示す数値も、リスクとそれがもたらす真の損害の実態に対して、見方によっては甘く見させてしまうという可能性を考えなくてはならないのです。

潜水事故の主な原因とその背景
 次に、私が平成18年に東京大学のシンポジウムで講演した内容を引用し、潜水事故とその発生要因を紹介いたします。

事故要因
@事故に至る最大の人的要因
主として“イメージコントロール”によって生じた「正常化の偏見」と、それを商業利用するビジネス文化と考えられる。
A「正常化の偏見」がもたらす事故要因
●バディシステムの崩壊↓単独ダイビング時の危険の軽視。
●事故情報への無関心から来るずさんな潜水計画↓予見できる危険への事前対策と非常時の予備計画の欠如。
●低レベルの潜水技術↓現在の手抜き講習とその最終認定システムがもたらす利益優先思想。
●インストラクターやガイドの能力の欠陥↓最終認定システムを含む指導者養成システム自体の欠陥とその問題。
●負の連鎖↓欠陥指導者から欠陥ダイバーが養成され、そのダイバーがやがて欠陥指導者になっていく負の連鎖。

イメージコントロール手法
@価値観のコントロール
●「ダイビングはゲートボールより安全」というような価値観。
●「ダイビングは泳げなくてもできる」という価値観。
●「ガンガン潜る」ことへの過度の礼賛や、それを行った者に不自然な優越感をもたらすような価値観を正しいものとする風潮の演出。
●「大深度潜水」への不適切な礼賛やそれを行った者に不自然な優越感をもたらす価値観。
●「自己責任」は消費者だけに存在して、それは事業者責任より強いと思わせる主張。
A情報がコントロールされていった事例(意図的ではないかもしれないが、結果的にそうなったと考えられる例)
●「事故者、死亡.行方不明者とも平成16年に比べ減少」(DAN JAPANのホームページよりより。これは平成18年まで掲載されていました)
 確かに私が把握した事故数は全発生件数レベルで2件減ってはいましたが、その中の重大事故、つまり死亡・行方不明事故は17件(平成16年)から20件(平成17年)へと増加していました。つまりこの宣伝は致命的な部分で事実に反していたのです。
●「潜水事故なんか怖くない!」(ある宣伝文句より)
例えば交通事故はここ数年減り続けていますが、それでも「交通事故なんか怖くないー」とは言えないでしょう。また散策登山者に対して、「登山事故なんか怖くない!」とも言えないのではと思います。本書は、「潜水事故は怖い」という認識が必要という立場です。

潜水事故の現実
 事故件数と事故遭遇者数

※各種資料は本を参照してください。

死亡・行方不明者数の現実
 ダイビングの事故は海外でも起こっています。ここで示す
海外の事故数は、世界中の在外公館(大使館や領事館)に届けられた事故情報の提供を外務省から受け、それに在外公館が認知できなかった数例を加えたものです。外務省は、この情報の開示が邦人の安全に寄与できると判断してくれました。
 なお、心肺停止状態で意識不明となり、そのまま日本に搬送された1件は、その方の帰国後の状態の確認が取れなかったのですが、それまでの状況から推定して死亡とカウントしました。このデータは、ダイビングは国内であろうが国外であろうが、常に一定の致死的危険を内包していることを示しています。

※各種資料は本を参照してください。

平成13年間題と16年間題
 皆さんは、平成13年から15年前半頃にかけて行われた、「ダイビングは安全になった」というキャンペーン(?)を覚えていますでしょうか。この間、平成12年〜14年に事故が大幅に減ったのでダイビングが安全になったという宣伝がされていたのです。
 このイメージコントロールの弊害が最も顕著に出たと見られているのが平成15年でした。「事故が減った」「安全になった」と宣伝された2年半は多くの油断を積み重ねていったようです。私は「正常化の偏見」への誘導がなされたと見られるこの問題を、「平成13年問題」と呼んでいます。さらに注意すべきことは、平成17年から18年にかけて、また同じような宣伝が行われたことです。最初に本書の原稿をまとめていた時には集計が間に合いませんでしたが、平成19年に前年より事故が増えていたら、「平成16年問題」の影響があったと見るべきでしょう。

事故者の分類と統計数字の裏(※「死亡事故」には行方不明事故を含む)
 現在、一般に示されている事故統計の背景には、このような実態があります。この実態を無視して楽観的な数値を主に宣伝することはダイバーの人権を無視しているとも言えませんでしょうか。
 これらのデータを見てわかることは、シーズンの前半は事故が起きても助かる事故が多いものの、シーズン後半に入ると一気に事故時の致死率が高くなるという傾向の存在です。
 致死率の上昇の要因は、あくまで推定ですが、海に慣れてくる、慣れによって油断してくる、シーズンの後半は海の透明度が増してくることから無理なダイビングが増えてくる、夏休みが終わる頃には、もうあと少しの期間しかダイビングができないという理由で無理や無謀なダイビングが増える、などが考えられます。
 この傾向を頭に入れて透明度が増してくる秋冬のダイビングをしましょう。

漂流事故の実態
 漂流事故は、毎年何件かは報道されることがあるので、その存在を知っている方もいると思います。
 漂流事故には2つの側面があります。1つは、事故が発生(漂流開始)しても、一般に生存を維持できる一定の時間があるため、発見さえされれば助かる可能性が高いこと。もうーつはその反面、発見されるまでの時間がかかりすぎると、それは漂流者にとって相当な肉体的・精神的苦痛になるばかりか、苦痛と絶望のまま死に至る場合すらもあるということです。

ある漂流事故
 平成6年にパラオで日本人ダイバー5人と現地インストラクター1人が漂流しました。3人の日本人ダイバーの遺体が発見されましたが、他の方々は行方不明となりました。
 漂流4日後に遺体で発見された日本人ダイバー3人の中の1人のAさんは、漂流中にメモをとっていました。そこからAさんは、少なくとも略時間は生存し、たった1人で漂流していたことがわかりました。当時の新聞各紙の報道から見出しを紹介します。

●女性ダイバー最後のメモ(平成6年2月10日朝日新聞)
「午前11時15分船も飛行機も見えた」
 Aさん、48時間は生存捜索遅れ、無念の声
●波に漂い「島が近い」(平成6年2月10日毎日新聞)
 Aさん遭難後3日のメモを残す
●「セスナとーるが気がつかない」(平成6年2月10日毎日新聞〈夕刊〉)
 Aさんのメモ判明
●ダイバー遭難(平成6年2月11日毎日新聞)
 「ストロボたくが気づかない」
 Aさんメモ航空機や船、6回目撃

 このメモの内容から、Aさんは漂流しながら、次のような状況を見、また自分の存在を知らせようと努力していたことがわかりました。
●暗くなってから大きな船を見ている。
●島に向かってカメラのストロボをたいて光で合図をしている。
●近くを通るセスナ、客船、そして飛行機を2度見ている。
 このメモは、漂流者から見える状況と、捜索側が見る状況の違いを示しています。

 ところで皆さん考えてみてください。もしこのときAさんが船のレーダーで感知できるような装備を持っていたら発見された可能性があったことを。
 今後、漂流の時に昼夜を問わず、また昼間に逆光で視認できないような時でも、レーダーで感知可能な器材を所持しているかどうかは、ダイバーの生死に関わる問題となっていくでしょう。
 この可能性を、「海は大きいから」「どうせ波が大きく上下するからダメだ」などとして頭から否定する人もいますが、それは漂流者の命や苦痛を、しょせんは他人事だとする考え方から来ているように思えてなりません。

ダイビングのリスクに関するまとめ
本人の死とその影響
@死の形態
●溺死:水を飲み込んで溺死するケースと、水が肺に一杯にならずに溺死するケースがあります。
●漂流:漂流開始後20分程度で浮かびながら複数人が溺死したケースもありますが、長時間の漂流(場合によっては何日も)によって死亡したり、疲労や持病の発作や悪化による死亡も考えられます。
●スクリュー巻き込み”ボートのスクリューに巻きこまれて四肢が切断されて死亡するケースがあります。
●ボートとの接触 ボートとぶつかって(海上の交通事故)死亡することがあります。ポートが海面や水面下にいるダイバーに気づかずにぶつかって過ぎ去ってしまうケースもあり、加害者が不明となる場合もあります。
●潮流:強い流れに流されて水中深く引きこまれて溺死したり、急浮上しようとして肺が破裂したり減圧症などで死亡するケースがあります。
●減圧症:体質によっては、一般に安全とされている潜水時間や水深で簡単に減圧症になる方がいます。また数百本の経験でも問題がなかった人が突然減圧症になる場合もあります。この理由としては、花粉症のように、個々の体質によって、減圧症となる要因が少しずつ体内に蓄積されていき、リミットを越えた時点で発症してしまうという見方が有力です。この他に、ダイビング後すぐに温泉に入ったり熱いシャワーを浴びる、十分な時間をおかずに海抜600m程度以上の高所を移動したり航空機に乗ったりする、いうことで発症することがあります。
●水棲生物の攻撃や防御‥日本近海にも普通にいるエイのとげの毒で死亡したり、タコの毒、その他の生物の防御のための毒など、またまれに人間を食料とすることもある生物に襲われることもあります。養殖用の網の中は別ですが、一般に水中は弱肉強食の野生の世界です。
●細菌感染など‥水中では致死的な細菌に感染することもありますし、あるいは水中で傷を負って、そこに細菌が入りこんで大変なことになることもあります。特に汚染された水域でのケガや、腐った木や貝がらなどで傷を負ったときには注意です。
●循環器系の損傷一水圧や水の中で装備をつけての動作、また水中という不安を抱えている場合、陸上より相当にこのリスクが高いことを承知してください。普通の陸上の環境であったならまだまだ発症とまでいかない場合もある、心不全、心タンポナーデ、脳梗塞、その他の循環器系の損傷で死に至るケースが見られます。また陸上でなら、すぐに救急車を呼べば助かる事態でも、水中や水面は困難ですし、助かっても症状がより重くなったり手遅れとなる可能性もあります。
●意識喪失:突然に何の前触れもなく意識を失うことがあるようです。そのときに水を吸いこむと溺死することがあります。
●窒素酔い:一般に相当に深く潜るとこれになります。酔っ払いが無謀な行動をしてケガをしたりすることは陸上ではよくありますが、水中では(窒素によってことで)それが死に結びつくことは高い確率であります。
A自分だけでない、仲間と家族の難儀
●PTSD(心的外傷後ストレス障害):悲惨な事態(仲間の死や自分の重度の被害)に直面して精神が病むことがあります。苦しみます。
●自殺‥ダイバーが死亡した、あるいはそれに準じた状況の後、残された家族などが精神
的にまいったり、将来を悲観して自殺するケースもあります。
●経済的困窮:事故後長い治療が必要となる場合があります。一生ベッドの上ということもありえます。これは経済的困窮を招く原因ともなります。そうでなくても長期の入院によって仕事を失うことがあります。

安全こそがステータス
 現在のダイビングビジネスの仕組みの中では、一般消費者であるダイバーの安全にとって不可欠な情報であるはずの、ショップやインストラクターの事故歴や、どの「指導団体」やインストラクターが認定したダイバーがより多く事故に遭ったり起こしたりしていて、それがどのような理由によるのかなどの、正確な情報や統計は明らかにされていません。
 一般のダイバーが、優秀な、あるいは安全を第一に追求している良心的インストラクターやショップとそうでない者を区別して選ぶために必要な情報は、本当に入手が困難なのです。消費者自身の判断で、良心的かつ高品質のサービスを提供してくれる安全ショップを選ぶか、多少事故歴があっても、あるいはその潜水パターンにリスクがあっても(ある程度のリスクがあった方がわくわくできるから良い、とするような選択肢)、それを承知で選ぶという選択の自由もないようです。
 さらに現実的問題として、ダイビングビジネスに致死的要素が強く内包されている以上、そこで消費者の安全に関わる情報の隠蔽を行いながら営利に走りすぎることで、インストラクターやダイバーの粗製乱造を招いている現状があります。
 忘れてはいけないことは、現在の社会における一般消費者向けのビジネスでは、安全こそがステータスであるべきだということです。

ダイビングを愛する方々のおかげで利益を上げている方々へ
 手抜きと事実の隠蔽は、ダイビング文化の知性の荒廃を招きます。
(追記:以前、神奈川県藤沢市の江の島で「不審者が海から上陸した」との通報があり、海上保安庁がその日の夜から翌日夕方まで巡視船や巡視艇計17隻を出動させ、航空機やへリコプターを計10回飛ばし、職員約380人を動員して捜索した事件がありました。これがウソの通報であったことから、後に海上保安庁が通報をした者に損害賠償請求を検討し、この時の燃料費や職員の残業代などの経費が千数百万円に上るとしました。そして某テレビ局のあるニュース番組では、これを民間が行った場合の経費を1億3千万円と算出していたと記憶しています。海上保安庁や自衛隊、警察などの捜索費用は一般の国民の税金から支払われ、事故に遭った、あるいは起こした者〈個人や業者〉にこの経費は請求されません。しかしもはや、ダイビングの事故で営利目的の業者に安全対策などの手抜きや過失があった場合には、その業者と、その活動を保証してそこから収益を上げている業界の上層部〈支配層〉に対して、これらの経費を支払わせることができるような法整備を検討しなければならない時期に来ているのではないでしょうか。国民の税金で、十分な安全対策が不可欠なことを承知で営利事業を行っている者の安全対策の手抜きの尻拭いをするのはいかがなものかと思います)


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