modoru  home

「逆転」 

 「こんなとこ呼び出して、いったい何の用なの?」
 ボーイフレンドの武田始に呼ばれた美紀子は少し不服そうであった。
 ここは二人が通う工業大学の屋上である。今は春先の涼しい季節で、屋上は最近学生の立ち入りを開放されたばかりだが、今日のように曇りで日の射さない日には誰も上がってこなかった。
 ただ二人だけが上空に解放された空間にポツリと向かい合うだけであった。
 「わかってるだろう、あのことで話そうと思ってさ...あのことで、さ」
 「やっぱりそのことね...。でもそれならこの前はっきりと断ったはずでしょ、私にその意志はないって。あなたが何と言おうと、誰が何と言おうと私のおなかの子をおろす気はありませんからね。...私はあなたに別に責任をとってもらおうなんて考えてないんだから、もう私のことはほっておいてちょうだい」
 そう言って彼女はプイと視線を憂鬱な空へ移した。
 武田はその素っ気ない態度にこれといった反応も示さず落ち着き払っていた。武田には初めから彼女の答えは分かっていたのである。
 この問題は今までも再三、二人の間で激しく言い合ってきていた。ただその話し合いも、おろせおろさないの平行線で、一向にらちがあかない。今日武田が彼女を呼びだしたのは今更彼女を説き伏せようと言うのではなく、別の目的があったからであった。

 二人が知り合ったのはつい最近のことで、付き合ってからそれほど長くはない。友人の誘いの合同コンパで知り合って以来お互いに引かれあい、最初のうちはグループでキャンプに行ったりボーリングやテニスの会を開いては清い交際を続けていたが、若い二人の男女には甘い果実が待ちかまえている。武田は美紀子が成人式を迎えて体ばかり大人になったその体をその夜に自分のアパートで奪ってしまった(俺にも分けてくれ)
 妊娠したことを知った美紀子は武田に結婚を迫ったが学生のうちに結婚なんて出来ないと断られ、それでも美紀子は子供だけでも産もうということになり、おろしてくれという武田の要求にはいっこうに耳を貸さない。
 美紀子も子をおろすことは一度も考えなかったわけではない。学生のうちに子持ちになるなんて本当はイヤだし、回りからもなんてふしだらな女だろうと指をさされるだろう。しかし実際問題として病院の手術台には友人の話から恐怖心があったし、武田に妊娠を打ち明けたとき母体の心配も何も即座に子をおろすことを口に出す武田に反発した。
 「なんて自分勝手な人だろう」美紀子は思った。

 季節の変わり目の不安定な空模様を気にするように空を見上げたままの美紀子。
 武田は屋上周りにめぐっている欄干を背もたれにして腕を組んだまま、じっと動かない。二人の間に気まずい時間が流れ、まるでお互いの呼吸が耳元に聞こえるようだった。
 最初に沈黙に耐えきれなくなったのは美紀子であった。
 「私、物理の実験があるから、もう行くわ」
 そう言って美紀子は屋上への出口へ進んだ。武田がその歩みを止めるように口を開いた。
 「お金のことなら心配しなくてもいいんだぜ」

 なんて! なんて無神経な言葉だろう。
 私が子供を産むのはお金がないからじゃない。まして武田のことを嫌いになったからでもない。しかし今の言葉には愛の一かけらも含まれていない。テレビドラマの決まり文句を台本でも読むように言い出すことが出来る武田。本来、愛の結晶を簡単にゴミ箱に捨てることの出来る武田。こんな武田の子を私は産もうとしている。
 デリカシーの端くれも見られない武田の言葉に美紀子は武田がケダモノに思えてきた。醜いケダモノの子供...。そうよ苦しめケダモノめ! 私は生んでやる。たとえ望まれない子でも、それが私と武田に託された運命なんだ。そう思って思いっきり軽蔑の一瞥を武田に投げつけてやり、美紀子はすみやかにその場を去ろうと足を早めた。
 一瞬、美紀子は「風かしら」と思った。
 出口へ近づく美紀子の横を何かが走り抜け、さっきまで後ろにいたはずの武田が出口に立っていた。
 「なによ、そこどいてよ、物理実験があるのよ。欠席すると後が大変なんだから。あなたも良く知ってるでしょ」
 武田はただじっと美紀子を見つめ後ろ手で何かをしていた。武田の背後に「カチッ」という妙な金属音がしそれと同時に武田はニヤリという不気味な笑みを浮かべた。この薄曇りの天気に両目がギラギラ輝き、その奥には狂気がうかがえる。
 美紀子は少しうろたえたがこの状況が決して異常ではない事を祈り平静を装った。
 「鍵をかけたのね。いったい何をする気なの。ここで私を殺しちゃうワケ?」
 彼女は先制攻撃をかけたつもりだったが武田を増長させるだけだった。
 「殺す?...君を? 僕がそんなことする訳ないだろう。...そうさ、殺したりなんかするもんか...君はね」
 彼の右腕がピストルのトリガーのように後ろへ回る。
 一瞬にして彼女の目はつり上がり肺に充填され切っていない空気を有効に使おうと声帯が思いっきりその筋肉をきつめた...悲鳴のまえぶれである。しかし次の瞬間彼女の口から発せられたのは悲鳴ではなく、鈍いうめきであった。彼女はうめきと共にその場に三つ折りに崩れた。武田の正拳が彼女の下腹をとらえたのだ。
 「うっ...うっ...ううっ」
 美紀子は下腹を押さえうずくまり、痛さと悔しさで涙を流している。
 「卑怯者!」
 まるで老婆のしゃがれ声である。武田は一瞬たじろんだが、まだ完全に目的を果たしたかどうかわかっていない。ここは念のためもう一撃、とわあわあ泣き崩れる美紀子の肩をつかんだとき、武田は彼女のくるぶしあたりに血が付いているのを見つけた。そしてコンクリートの床には流れ落ちた血液が広がって輝いていた。そしてそれが鏡の役割をして、彼女のスカートの中が血でべったり染まっているのが映っていた。
 「ひ、ひどいわこんなことして...ううっ...あなたは私の体を何だと思ってるのォ」
 血を見て動転した武田はあとずさりしてこの場を去ろうと出口の扉のノブに手をかけた。と、いくらノブをまわしてもドアが開かない。すっかり自分で鍵をかけたことを忘れてしまっていた。
 「鬼ィ、悪魔ァ、人でなしィ、人殺しィーッ!」
 自分の内部から血の流れているのに気づいて、美紀子は、今一つの生命が消えたのを感じた。人殺しと言われた武田は振り返る。
 「人殺しだとォ。俺は人殺しなんかじゃないぞ。法律的に言ってもその子はまだ『人』じゃない。オレは君が一向にその子をおろそうとしないから病院の代わりにおろしってあげただけだ...君が悪いんだぜ、君があんなに言い張るから僕はこうするしかなかったんだ」
 「どうして私が悪いって言えるのよォ...私はただ神様から授かった命をこの世に産もうとしたんじゃない。それが悪いことなのォ? たとえ法律的に『人』じゃないって言っても本来はやっぱり人間でしょ? その子を身勝手に殺しちゃって...それが良いことなの? たとえ世の中がそう決めても私だけはそうは思わないわ。あなたが今、その手で殺したのは立派な人間よォ。そしてあなたも立派な人殺しよォ!」
 美紀子は下腹の鈍い痛みに必死に耐えながら武田を非難し続けた。武田は自分を人殺しだと言われたことに憤慨して美紀子の胸もとをつかみ、じりじりと迫っていった。彼女は下半身がフラフラになって後ずさりするしかなかった。武田の左足が血だまりを踏み、足跡を付けた。
 「いいかい、君は僕のことを非難するかもしれないが、君と僕にとってこれが一番いい結果なんだ。もしこのまま子供が産まれていったいどうなるんだい? 僕たちに面倒は見きれないだろうし、周りの人にも迷惑をかけることになるだろう。子供にとって決して幸せな環境じゃあないんだ。子供を不幸せにするよりはいいだろう」
 「そのセリフは聞き飽きたわ。あなたは何でも直線的すぎるのよ。あなたの言ってるのは早い話が邪魔者は消せの理論よ。そんな理由で殺される子供が浮かばれないわ。あなたは人間でいる資格なんてないわ。ケダモノよ、いやこんな卑怯なことをしてケダモノ以下よ、クズよ、ゴミよ、生ゴミよーっ!」
 生ゴミとまで言われ逆上した武田は彼女の左頬を鞭のようにしなった手で打った。美紀子は武田を離れて平手打ちを打たれた勢いで2メートルほど後ろへフラフラと後退し、欄干に背中を強くぶつけて止まった。
 「いいか、僕をバカにするな。君のためを思ってやったことだ」
 しかしまたも暴力で訴えてくる武田に美紀子はもう聞く耳を持たなかった。
 「なによォ、要するにみんなあなたのエゴよォ。私はこのことを一生忘れないわ。そうよみんなに訴えてやる。あなたの親にも言ってやる。警察にも行ってあなたを死刑にしてやる!」
 「...やめろっ!」
 武田がまた美紀子の胸元をつかみ、そのこぶしをグイと上へ押し上げた。
 「それはやめろ...でないと俺は君をここから突き落とすぞ」
 武田の押し上げた腕が彼女の体をえびぞらせ、上から覗き込むようにして武田は言った。
 「本気だぞ、まだ死にたくはないだろう」
 彼の右目の上あたりへつばきが飛んできた...それが彼女の答えだった。
 「このやろう! そんなに死にたいのかっ」

 ...もう私死んだのかしら。
 彼女は薄れた意識でそう思った。もうダメだと思ったのである。しかし武田が突き落とすのをためらったのか、まだ彼女は武田の下で細い息をしていた。
 「ふふっ、気を失いそうに怖いか? 心配するな、落下する人間は地面に激突する前にすでに死んでしまうんだよ。楽に死なせてあげるよ」
 彼は彼女を突き落とすのをためらったわけではなく、ただすぐに殺すのを惜しんだだけだった。それが分かると急に彼女に溢れる恐怖心と生への執着心が湧いてきた。あまりの怖さに彼女の全身はブルブルと震えだした。それに武田が気づいたのか、不気味に歪んだ口を動かした。
 「そんなに怖がることはないよ。ただ君は地上5階から自由落下するだけだ。死はただの結果だよ。そうだ、君は今日、物理学の実験があると言ったろ? 君は今まで自由落下の実験をしたことがあるかい? 相対運動なんかもするんだろう? なら分かるだろう、落下するのは物体を観測する側の概念さ。落下する物体にしてみれば無重力の状態で回りの景色がみんな上へ上がっていく風に感じるだけさ。そして君は幸運なことに、この貴重な体験をすることが出来るんだ。だから君は何も怖がらずにその不思議な情景を観察してれば良いんだ」
 美紀子は彼に押しつぶされそうな格好の中で必死にもがいた。欄干の外に垂れた左手が何かにコツンと当たった。
 「...何だろう?」
 それは割と頑丈な突起物で、美紀子は何とかそれで体を支えられるかも知れないと思った。
 「じたばたしても無駄だよ。所詮君は女さ。女の力じゃとうてい僕には勝てないよ」
 武田はそう言って断末魔を楽しむように残酷な笑みを浮かべた。...そして次の瞬間にその笑みは消え、武田の足と腕に力が入った。
 最後の時は来た!
 「ああっ」
 と美紀子は小さな悲鳴を上げ、さっき手に触れた突起物にほとんどの体重をのせることになった。武田は美紀子のウエストあたりを抱きかかえるような形になり、まるでダンスのパートナーを抱き上げるような恰好だが、今はそんなロマンチックな場面ではない。武田は美紀子を下へ突き落とそうとするが、どういう訳かなかなか落ちてくれない。美紀子は欄干を中心にえびぞる形になり、まるでやじろべえだが、武田にしてみれば下半身を抱きかかえているのだから妙な抵抗感がある。美紀子の右手は彼の背中にあり、必死にもがいてはいるが、左手は欄干につかまっているわけではない。はて、何か壁につかまるものでもあるのか? と武田は美紀子のバランスが元に戻らないように注意しながら下を覗き込んだ。
 「スピーカー!?」
 美紀子は左手で必死に屋外用スピーカーにつかまっていた。
 「くそっ!」
 と、怒った武田に隙が出来た。彼女のウエストを抱いていた腕が一瞬ほどけ、えびぞる形で不安定だった美紀子が反転し、腹で欄干を挟むように重心の低い安定した形になった。武田は彼女の左手をスピーカーから外そうと乗り出している。男の力は強かった。美紀子は必死にスピーカーのコードをつかんで抵抗したが彼が引っぱる力で引きちぎれてしまった。左手がここから外れたら彼女の助かる道がなくなる。美紀子は背後から迫り来る武田に必死に抵抗を試みた...と、彼女の右手が背中越しに武田の腰ベルトをつかんだ。
 武田は自分のベルトを捕まれて驚いた。彼女がベルトをつかんだことで立場は逆転したのだ。彼女は助かりたい一心でベルトをつかんだ右手と欄干を挟んだ腹筋に力を込めた。武田は半分身を乗り出していたし、彼の下には何の突起物もなかったから思ったより軽く放り出すことが出来た。力を入れた下腹が痛かったが忘れていた。彼の左足があがいたときに欄干にぶつかって靴が取れ空中に舞った。美紀子は武田を放り出した反作用で屋上の床に倒れ込み、武田は外へ放り出され運命が分かれた。

 武田は無重力の状態で回りの景色が全て上へ上昇していくのを観察することになり、そして地面に激突した。
 いや、地面が彼に衝突した。

kaisetu

modoru  home