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「先々への殺意」 
     推移

 「ねえ...ねえ、起きてちょうだい」
 その夜、床に入ってうつらうつらとしていたら、幽霊が俺の枕元に立っていた。その幽霊は髪の長い女だった。
 最初、俺は夢が始まったのかと思ったがそうではなかった。夢じゃない証拠が俺の右腕に未だに残っている。それは茶色く変色したまま残った「あざ」だ。布団をはねのけ、慌てて飛び起きた時にタンスの角に思いっきりぶつけたものなのだ。
 俺の目はその幽霊に釘付けとなっていたが、幽霊にこんな表現が適切かどうかは知らないが、この世の物とは思えないほどの美女だった。
 「驚かせてごめんなさい。実はお願いがあって来たの。こんな私の頼みを聞いてくれそうな人は、あなたしか心当たりがないの」
 その幽霊はいきなり俺にお願い事を始めてきた。
 俺に恨みがあって出てきたわけではないらしく少しホッとしたが、頼み事をされる覚えもない。相手にあっても俺には心当たりなどなかったし、こんな美人が知り合いにいたら十年経っても覚えていることだろう。
 そんな俺の腑に落ちない様子を察したのか、幽霊も弁明をしてきた。
 「そうね、こんな事いきなり言われたら困惑するわね。私が誰か、あなたは知らないものね...聞いて頂戴、私はあなたの恋人になるはずだったのよ」
 「はず...だった?」
 俺は素っ頓狂な声で初めて言葉をかけた。幽霊そのものが超常的なのに、それに輪をかけて話が妙な方向へ向いてきたと思った。
 「私は幽霊に成り立てで、まだあまり長いこと居られないの。今日はここまでよ。詳しくは明日の新聞を読んでちょうだい...」
 しかし幽霊はそう言葉を残し、フェードアウトして消えていった。
 一体全体、女は何者で、何をお願いしたかったのかさっぱり訳が分からないままだ。驚きと、恐怖と、煮え切らない気持ちが交互に繰り返したが、俺は気を取り直し、右腕をさすりながら再び床に入った。

 今の世の中は乱れている。そう思わせる残忍な事件や凶悪な犯罪が、毎日のように新聞を賑わせている。しかし今日は、いつもなら「またか」で済ますような記事が、何故か俺の目を引いて離さなかった。それはこんな記事だった。

 美人OL、路上で絞殺される
 昨夜21時頃、東京都北区の路上で、大手電機会社社員、花山花子さん(22)が倒れて死んでいるのを現場近くの住民が発見した。花山さんの首には手で締められた跡があり、警視庁は殺人事件と断定、通り魔と怨恨の二つの線で捜査を始め、警視庁内に捜査本部を設置した。

 俺が目を止めて離せなかった理由、それは見飽きるほどの殺人事件の記事ではなく、いっしょに載せられていた写真にあった。その殺された女の顔写真は俺が夕べ会った美女といっしょだったからだ。

 その日も、俺が寝る頃になって、その美女は現れた。
 今度は相手の名前も死んだいきさつも分かっている。それに二回目となれば初対面の時ほどのショックは受けなかった。今日は俺から話しかけてやった。
 「おまえ、花山というのか。殺されたんだってな、お気の毒に。なんまいだ、なんまいだ...」
 「新聞読んだのね。ひどい話でしょ、私の悔しさが分かってもらえた? これでやっと話が早くなるわ...私が幽霊なのは、この世に思い残す事があって浮かばれずにいるからなのよ。そこで、思い残した恨みを晴らしてもらうためにやって来たの。それで私のお願いというのは、...敵を討って欲しいの」
 「敵を討つ?」
 「そう。私を殺した憎い犯人を殺して欲しいの」
 「殺す? 殺すと言ったか? この俺が、か?」
 女の依頼は自分を殺した犯人を殺すことだった。その願いがあまりに簡潔すぎて俺は驚きのステップを踏む暇がなかった。ただ呆気にとられていた。犯人を殺してくれと頼み込むその依頼人は、俺にとって見ず知らずの、しかも幽霊の女なのだ。
 「そうよ、あなたにお願いするの。昨日も言ったでしょ、私達恋人になるはずだったって。あなたも一度死んでみると分かるわ。人は死ぬ間際にその人生を走馬燈のように見るの...それは、死ぬまでに経験したことと死ななかった場合の近い将来の人生とを。きっと精神が体から離れて身軽になった分、未来に起こるべき事が見られるようになるのね。私はその走馬燈の中であなたと恋人同士だった光景を見たのよ。その中で見たあなたの×××は以外と○○○だったけど、ちょっぴり***だったから驚いちゃった。ねえ、これで分かったでしょ、ウソじゃないって。分かったら私の願いを聞いて。あなた以外に願いを叶えてくれそうな人は他に誰もいないの」
 「未来の恋人...俺の×××の秘密まで知っている...」俺はうわごとのように口走った。
 「とにかく明日、何でもいいから会社休んで御殿場へ行ってみて。そこに彼が潜んでいるはずなのよ...彼の名前は太田太郎。ちょっと優しくしてあげたら恋人気取りで、しつこくて...『もう、つきまとわないで』と言ったらあいつ、私の首を、こう、ぎゅうっ...」
 そう言って、女は自分の首を絞めるジェスチャーを見せた。その時見せた苦しそうな表情が始めて見る幽霊らしい顔つきになり、俺は少しゾッとした。
 「...と、締め付けてきたの」
 「例えそれが全部本当でも嫌だよ、人殺しなんて。頼むからそんな無茶言わないで黙って成仏してくれよ」
 「あなた、自分の恋人が殺されて何とも思わないの。あなたの彼女がよその男に殺されちゃったのよ。もし私が死んでなければあなたの恋人だったのに、手も握らない内に殺されちゃったのよ。憎く思わなくって? それともこの私にずっと出てきて欲しいと言うの?」
 「おいおい、そんなこと言ったってなあ...」
 なんだか詐欺のような脅しのような話に俺は付いていけなくなってきた。

 その後、女は「じゃあね」と幽霊らしからぬ挨拶を残して、今日もフェードアウトしていった。姿を現せていられるタイムリミットが来たらしい。

 次の日の朝、今日の新聞には事件の続報が載っていた。その記事には指名手配された容疑者の顔写真が載せられていた。容疑者の名は太田太郎。以前からあの女に言い寄っていた経歴があるらしい。現在は行方不明でどこかに潜伏しているらしいという記事だった。
 それは、みんな女の言った通りだった。
 <御殿場へ行くか?>
 俺はどうしたものかと悩んだ末、御殿場には行かなかった。俺はいつも通りの仕事をやりに、いつも通りの会社へ、いつも通り出かけていた。何か後ろめたい気持ちはあったが、幽霊に頼まれて人を殺しに行く、なんて現実離れした行動は生理的に受け入れることが出来なかった。俺の腰の重いことが分かればあの女もそのうち諦めるだろう、そう判断して俺は今後一切、あの女の要望は聞かないことを決意した。

 しかし、その夜もその美女は現れた。
 「どうして行かなかったの...まあいいわ、きっと怖じけずいちゃったのね。今日はもっと詳しい居場所が分かったわ、あいつは今、御殿場の「御殿場御殿」という旅館に泊まっているの。そろそろ警察も嗅ぎ付け始めたから、警察に捕まる前の明日がラストチャンスよ」
 「俺はやらないよ」

 俺ははっきりと断った。俺はキャメルマイルドに火をつけたあと、パチンと閉じたジッポをわざと壁際へ放り投げた。
 「やらない...それどういう意味?」彼女はまるで宇宙人でも見るかのように俺の方を見た。
 「深い意味は無いさ、俺は人殺しなんかやらないって言ったんだ」
 「どうして?」
 「どうしてもこうしてもあるかい、おまえはもう死んじゃったからいいだろうが、俺はこの先まだしばらく生きて行かなきゃならないんだ。それが監獄の中でだなんてまっぴら御免だ。犯人の事なんて俺は知らない。おまえの無念は、俺がやらなくたって、国家警察がはらしてくれるさ!」
 俺の精一杯の演技が迫真だったのか、彼女にしばらく沈黙があった。その俺の意志が強固だと見て、女もこれ以上の説得は無理と思ったらしい。女は意外とすんなり諦めてくれた。
 「...そうね、ごめんなさい。やっぱり無理な相談だったわね。あなたはとても優しいし、なんだか他人のような気がしなくって、つい甘えてしまっていたわ。今までありがとう」
 「力になれなくて悪いな。だけど俺の意志は変わらない...おまえはこの後どうなるんだ?」
 「気にしなくていいわ、私は浮かばれずにこの辺りをずっと漂うことになると思うけど...でもあなたのところに化けて出てきたりしないから安心して。でも良かったら吉祥寺に立つはずのお墓を時々参ってね。浮かばれない霊もみんなに参ってもらえればそのうち成仏できるかも知れないし...あんなヤツよりあなたと最初に出会っていたら良かったわ。そうすればこんな形じゃなくあなたと楽しく過ごせたのにね...さようなら」

 俺の作戦は成功した。彼女は微笑みながら消え去っていった。しかし彼女の見せる微笑みには、歪んだ眉がその陰に無念さを隠しきれずにいた。

 その顔を見て、急に俺の中に言いようのない感情が湧いてきた。犯人に対する恨みと憎しみと、そして殺意とが...。

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