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     実行

 次の日、俺は会社を休んだ。そして東名高速を御殿場へ向けて自分のローレルを飛ばしていた。
 彼女に頼まれたからではない。これは俺の意志によって取った行動だ。
 今、俺の車のダッシュボードの中には今朝、金物屋で買った刺身包丁がタオルにくるまれて忍ばせてある。
 なぜそうなったのか俺にも良く分からない。俺は夕べ、きっぱりと彼女に断ったはずだ。そして彼女もそれを了解したはずだ。
 俺の行動を司ったもの、それはある種の使命感とでも言うのだろうか。愛するものを守れなかった男のけじめとでも言うのだろうか。


 <ヤツだ! ヤツが出てきた!>
 俺は今までに経験したことが無いほど体がガタガタと震え始めた。俺は腕組みをするフリをしながら両手でジャケットの懐に隠した刺身包丁をしっかりと握っていた。ヤツは人目から顔を隠すような大きなひさしの帽子を目深に被り、何喰わぬ顔で旅館から出てきやがった。おどおどする様子は見せず、自然に振る舞うことが人目に付かないポイントと悟っているようだ。それは俺にも同じで、ヤツに殺意を気づかれないようにしなければならない。俺も通りすがりのサラリーマンを装い、何喰わぬ顔でヤツの様子をうかがった。ヤツは何も知らずにこちらへ近づいて来る。
 旅館の前のコンビニで待ったのは正解だった。ヤツは何かを買い求めにこのコンビニを目指しているようだ。ヤツの方からわざわざ俺の方へやって来てくれる。
 そして、逃亡生活の苦しさを裏付ける様な無精ひげを蓄え、それがはっきり分かる位置にまでヤツは近づいてきた。

 「このヤロー!」
 ヤツの胸部に突き刺さる刃物は、予想外の金属的な音を立てた。恐らくあばらの隙間を抜けて心臓を貫いた様だからヤツは即死だろう。なんの抵抗も出来ないままヤツの体はずんという音を立てて地面へ貼り付いた。
 その白昼の凶行に気づいたコンビニの客や通行人達で往来は悲鳴とパニックの坩堝となった。

 しかしヤツに襲いかかったのはこの俺ではない。俺はその坩堝の中でヤツの最期の一部始終を目撃する側にいた。

 ヤツに飛びかかろうと一歩踏み出した時、俺はコンビニから飛び出てきた「あいつ」に肩を押され、その場に倒れ込んでしまった。誤って自分を刺さないように、包丁を握りしめた両手は動かせなかった。そのため俺は顔面をアスファルトに叩き付けることになった。何ともみっともない様だった。
 ヤツを襲った「あいつ」は凶行のあと逃げようともせず、薄気味悪い歪んだ笑い顔で何かぼそぼそとつぶやいていた。駆けつけた警察官に、待っていたかのように、すんなり取り押さえられた。
 「あいつ」に目標を出し抜かれた俺は、しばらく呆然と見守っていたが、ふと我に返り、手に握った包丁が人の目に触れないよう気を払いながらその場を足早に去った。「俺は殺しちゃいないが殺す気だった」と自ら名乗り出る必要もないだろう。

 俺の代行を買って出た「あいつ」のことも気になったし、俺の方が一足早かったならどうなっていたのか、などと考えていると興奮が冷めず、その夜はなかなか寝付けなかった。しかしようやく明け方近くになってから少しの間だけ眠ることが出来た。昨日の約束を守ったのか、ヤツが死んで成仏できたのか、女はもう現れて来なかった。

 次の日の新聞を読んだ俺は愕然となった。その新聞には昨日の「あいつ」の顔写真が載っていたが、驚いたのはその記事の方にあった。
 俺の代わりにヤツをしとめた「あいつ」は一体何者だったのだろうか。俺は今までこれほど真剣に新聞を読んだことなど無かった。

 逆恨み? 妄想? 未来への復讐?
 昨夕16時頃、御殿場市内で、指名手配中の太田太郎(27)が暴漢によって胸部を刺され即死するという事件が起こった。刺された太田容疑者は、三日前に起きた花山花子さん絞殺事件の有力な容疑者で、事件後、行方が分からなくなっていたため全国指名手配中であった。
 太田容疑者を刺したのは、東京に本社を置く、建設機器販売会社の社員、山田山男(26)で、山田は犯行後逃げようともせず、駆けつけた警察官に緊急逮捕され、現在その身柄は警視庁に移され、刑事の取り調べを受けている。
 山田は取り調べに対し「花山さんを殺した犯人が憎かった。花山さんはいずれ自分の恋人になるはずだった。花山さんが夢に現れ復讐の依頼をした」などと訳の分からないことを口走っており、取り調べと同時に精神鑑定も進められている。関係者の話から山田と花山さんには何の接点もない無い事が分かっている。指名手配中の太田容疑者の潜伏先を知った理由や詳しい動機などはまだ不明だが、警視庁は花山さん絞殺事件に何らかの影響を受けた同情殺人事件との見方をして捜査を進めている。

 警視庁にも理解不可能なあいつの言動、しかし俺にはその動機が分かった。
 「あいつ」も俺と同じ、あの美女の、未来の恋人だったのだ。

 「二股掛けてやがったな、あの尻軽女め!」
 もし生きていたならば殺してしまいたくなるような、そんな衝動に俺は駆られた。

                              「先々への殺意」完

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