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  「別離編」

 「私、間違えたみたい」マーヤがぽつりと言った。
 「え? なんだって?」
 「私...間違えたみたい...」彼女の声がもっと小さくなった。
 「間違えた? なにを?」
 「...お部屋を...間違えたちゃった」
 「部屋を?...間違えた?」
 「死ぬのはあなたじゃなかったみたい...」
 「俺じゃなかったみたい?...ええっ!?」

 その後マーヤはしばらくの間「ごめんなさい」ばかり繰り返していたが、良く要領を得ないイチローが「いいから事情を話してみなよ」という言葉に促されておそるおそる事情供述を始めた。

 「...私、川瀬アパートの『鈴木一郎』とだけ聞いてたの。階段を上がって最初に見つけたあなたの部屋に、まさかあなた以外の鈴木一郎が居るなんて知らなかったから、入り込んじゃった。ごめんなさい!」
 マーヤの「ごめんなさい」が再び始まった。マーヤは何度も何度も頭も下げてイチローの許しを請おうとした。
 「う、うっそー」
 「ごめんなさぁい!」それでもマーヤは謝るしかなかった。
 「ナニか、じゃあマーヤは本当は俺の所じゃなく、あの浪人生の所へ行くはずだったというのか? 人違いかあ?」イチローもやっと事の真実が見えてきた。
 「うん...」
 イチローに事情をやっと理解してはもらえたが、その次には激高が来ることを予測して肩をすくめ、目をぎゅうと瞑って準備をした。
 「じゃあ、俺は死ななくていいのか?」
 「え?...うん」
 その反応はマーヤの予測に反していた。片目を開けてイチローのご機嫌をこっそり伺うマーヤだった。
 「やったー! 助かったー、おとーさんのかーさん!」
 イチローは自分の生命に、まだ先があることを知り、思い詰めていた気持ちから開放された。そして喜びのあまり河原を飛び回った。何よりも命拾いをした事の喜びが先に立ったのだ。
 「怒らないの?」マーヤが上目遣いに聞いた。
 「はっははは、いいよ、いいよ、間違えは誰にでもあるさ。なんだかんだ言っても俺はちゃんとこうして生きているんだし、これからも生きていけることが分かったんだしな。だいたい俺の名前が悪い、『鈴木』に『一郎』じゃあ日本に何万と居るだろう。マーヤが間違えるのも無理無いさ」

 そう言ってイチローはこの激動の一週間を思い起こした。何という波乱の多い一週間だったであろう。こんなことは一生涯(あとどのくらいあるかは知らないが)に、もう経験することは無いだろうと思った。
 マーヤの空中浮揚を見たときのこと、範子を墜落から助け出したこと、マーヤを追っかけてビルから落下したことなど。
 しかし、そこではたと気が付いた。この一週間のどたばた騒ぎも、あれは全部マーヤの間違いから起こったものなのだ。
 「...でもマーヤ、一つだけ聞いていい?」
 「うん」とマーヤが頷いた。
 「もしかして、あの不死身の話も間違いか?...」
 マーヤはハッとした。そして、またも申し訳ない顔をして「うん」と頷いた。
 「あははは...」
 イチローはあの、ビルの屋上から落ちる光景を思い出し、力無く笑うしかなかった。
 「俺、2回は死んでたな。いや、あの特大のカマで切られそうになったから3回だ」
 「あははは」
 一方のマーヤは誤魔化して笑うしかなかった。
 「なに笑ってんだい、この貧乏神め! このっ、このっ」
 イチローが怒ってマーヤの首にヘッドロックをかけた。
 「キャー、イチロー優しくないっ!」
 「マーヤ、一体どうしてくれるんだ! おれは3回も死ぬ目に会ったんだぞ、そして範子との仲はめちゃくちゃだ。仕事は溜まり放題、おまけに帰る部屋は大爆発で木っ端微塵ときた、これだけあれば死ぬのに何の思い残すことがないというのに今度は死ななくていいときた、おまえも一回死んでみろ! 全くもって、本当に、一体全体、どうしてくれる!」
 「許してええええっ」
 遠目で見る分には仲の良いカップルがじゃれ合っているように見えた。

 「よし、これで許してやる」
 そう言ってイチローはマーヤをプロレス技から解き放った。
 <でも、こうして河原で難を逃れたのはマーヤのおかげだ。あの部屋にいたら、死なないまでも大怪我間違いなしだからな>
 大分気持ちが落ち着いてきたイチローであった。
 イチローの考えた通り、もしマーヤの人違いがなければ(間違いなく)この惨禍に巻き込まれていたのは明らかだった。イチローだけにとどまらず遊びに来た範子を巻き添えにした可能性もあった。それが逆に無傷で済んだのはマーヤの人違いのおかげと解釈することもできる。
 イチローは解き放ったマーヤの背中をポンポンと叩き、土埃を落としてあげた。

 「イチロー、ケホッ、優しいのね、ありがとう。そして本当に、ゲホゲホ、ごめんなさい」
 ヘッドロックを外されたマーヤが咳き込みながら言った。
 「もういいよ」
 いい加減言いたい放題怒鳴り散らしたのでイチローもすっかり気が済んだ。

 「ああっ! ごめんなさいっ!」
 するとマーヤはまだ謝り足りないように「ごめんなさい」を追加した。
 「もういいったら、あれっ、まだなにかあったっけ?」
 「そうじゃないの、もう一人が来たの!」
 マーヤにはもう一人謝らなければならない人物が居た。今までほったらかしにされていたもう一人の「鈴木一郎」である。

 「たのむよう死神さん。ずいぶん探しちゃったじゃないかぁ、こんなところで油売ってるんだもんなあ」
 霊魂となった鈴木一郎がマーヤに言ったのだがイチローには聞こえなかった。
 「ごめんなさい、はじめまして、死神のマーヤと言います」
 「あれっ、君、隣にいた子じゃあないか」
 「はい、実は手違いがありまして、あの...」
 「部屋、間違えたんだろう」
 「うっ」一度で見抜かれて言葉に詰まるマーヤだった。
 「...でもどうして死神のことをご存じなの」
 イチローは、マーヤが得体の知れない何者かと話し合っているのを見て「この世に霊魂が存在するものなのか」とゾッとした。なおかつ込み入った話のようなので黙って様子を見ることにした。
 「僕、死んでからこの辺を彷徨っていたら死神と名乗る奴が現れたんだよ、それでこっちへ行けって、あんたみたいな子がいるからその子に会いに行けって」
 「それ、きっと私の教官だわ。ああっ、教官、ありがとうございます、きっと駆け出しの私を陰で見守ってくださったんですね!」
 「ほっとけなかったんだろう」と霊魂がイヤミを言った。
 「教官って? マーヤ、あの話はウソだったんだろう」イチローが割り込んだ。イチローには霊魂の声が聞こえないが、マーヤの声で話の筋はだいたい分かった。
 「ううん...」マーヤは首を振った。
 「それじゃあ、マーヤ、おまえ...あの話は本当だったのか」
 マーヤは恥ずかしそうにしていたがイチローの目をじっと見つめた。イチローもマーヤの目をじっと見ていた。
 <なんて澄んだ目なんだ、まるで向こう側が透けるようだ>
 そう思いながらイチローは、何と本当に向こう側が透けて見えていることに気が付いた。マーヤの目の向こう側で川魚が「ピョン」と跳ねるのが見えたのだ。
 「マーヤ! おまえ薄くなってるぞ」
 「ああ、本当、もう時間だわ。私行かなくっちゃ...この度は、ご迷惑をおかけしました。これから人間界を離れ、再び我が死神界へと帰ります。さまよえる霊魂と...」マーヤは慌ただしくお別れの口上を言い始めた。
 「今度は置いてかないでよ」霊魂が言った。
 「少しだまっててよ!」マーヤが言った。
 「どっちのイチローに話してるんだ?」イチローの方が言った。
 「じゃあ、私の好きなイチローさんの方に」
 「ええっ!?」
 「楽しい思い出をありがとう!」
 「俺はのけ者かよ」と霊魂の方が言ったがイチローには聞こえなかった。
 「さようならイチロー、範子さんを大事にしてあげてね...」
 「うん、分かった、マーヤも元気でな」
 「さようなら、そして...さようなら」
 イチローはどんどん消えていくマーヤが、何か汚いものを摘むようにして上空へ上がっていくように見えた。霊魂となった鈴木一郎の手を引いて、マーヤは天空へ向けて飛び立った。

 <感動的な台詞なんか思いつく暇がなかったし、抱き合って別れを惜しむなんて事もなかったな。死神と範子との三角関係も、何ともあっけない幕切れだ>
 イチローは、消えていくマーヤを見上げながら「実際の別れのシーンは、テレビドラマや映画のようにはいかないな」と思った。
 そこにはただ事務的に過ぎていく時間だけがあった。

 消えてゆくマーヤの姿が最後に何かを叫んでいた。そのかすかな声がイチローに聞こえた。おそらく最後の力を振り絞って叫んだのであろう。
 この一言は聞き逃してはならないとイチローは思った。この声がマーヤの最後の思い出となってしまうのだ。
 イチローは全身を集中してその声を聞いた。

 「きっとまた来るからねーっ」

 <馬鹿野郎、何言ってるんだあいつ。厄介者が「また来る」って言ってやがる、おまえがまた来るとしたら、今度は本当に俺が死ぬ時じゃあないか。全く最後まで迷惑な話だ、またいつ死神が来るのか楽しみに待ってろと言うのか>
 そう思いながらイチローも渾身の力を込めて叫んだ。

 「きっとだぞー!」

                               「死神を呼ぶ男」 完

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