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 「死亡編」

 土日は休むことにしていた。
 他の社員はこの忙しい年度末に出社しているのだろう。イチローもたくさんの仕事を抱えていたが「来週になったら必ずやる」と言って休ませてもらう作戦を取った。来週はもうイチローはこの世にいないはずなのだ。
 
 「ねえねえイチロー、聞いて」
 マーヤが買い物から帰ってきた。表情が少しゆがんでいたのは二日酔いのせいではないようだ。
 「隣の受験生がイチローの郵便受けをのぞいてたよ」
 「なんだい、中に雀が巣を作ってたかい」
 「違うよ...それで私が見つけるとびっくりした顔をしながら郵便受けからはがきを持って行っちゃったのよ」
 「俺のをか? んーー..ここの郵便は間違いが多いんだよ。きっと間違って配達された自分のを見つけたんだろう」
 「でも、感じわるーい」
 「おまえだって覗いただろ」
 はがき一枚で今更自分の人生が変わる事もないだろうと思った。しかしこの不自然な話には何か引っかかるものが残るイチローだった。

 土曜日は期せずしてマーヤとデートになった。
 地方出身のイチローが以前から死ぬ前に一度は行こうと思っていた浦安のディズニーランドへ(明日死ぬのだから)マーヤ同伴で出かけたのだ。
 本当はいつか範子といっしょに行こうと計画を立てていたのだが、もう背に腹は代えられない。死ぬ前にこの世の天国も見ておかないといけないと選んだ所なのだ。
 候補には「東京タワー」「新宿都庁」「横浜ランドマークタワー」などあったが、どれも「高いビル」ばかりで、またなんかの拍子に墜落してしまうことを嫌ってそう決めた。
 付き合ってくれる相手は死に水を取りに来た死神ではあるが、どうやら敵ではないようだし、美人(もし人間だったら)なので、連れて歩くには申し分なかった。何よりイチロー一人だけでは行けるような所ではない。
 この誘いに最初からマーヤは乗り気であった。
 ディズニーランドへ着いた途端「次はあれに乗ろう、今度はここへ入ろう」と大はしゃぎでイチローを引っ張り回した。一体誰のためにここへ来たのかわからなくなるぐらいだったがイチローも自分の運命をしばらく忘れる事が出来てマーヤには大いに感謝する次第となった。

 そして運命の日曜日はやってきた。

 「出かけるぞ」
 そう言ってイチローは朝から近くの河原へ出かけた。
 河原で何かをするのが目的ではなく、ただ川の流れを眺めるように座った。マーヤも当然それに付き添っていた。
 「どうせ死ぬならのびのびと死にたい。また、もしも何かの事故が起こるのなら他の人を巻き添えにする事のない所へ行こう」というイチローの配慮であった。
 その日は冬であるがよく晴れて風もなく、その場所は暖かだった。

 「もうそろそろよ」
 マーヤが言った。マーヤがイチローの前に出現したのは丁度一週間前の今頃である。
 「うん...」
 「覚悟はいい?」
 「...まあな」
 上空を羽田へ向かうジェット旅客機が飛んでいた。飛行機と空を飛ぶカラスの大きさがいっしょだった。
 「飛行機が落ちてくるのかなあ」
 目の前の川面が日差しにキラキラと輝いた。その水面下に川魚が時々急に向きを変えながら泳いでいる。
 「溺れて死ぬのかなあ」
 今の彼にはどんな長閑な風景も自分の死へと結びつく光景に見えてしまう。
 「もう、往生際が悪いのね」マーヤがしゃくに障ることを言った。
 「うるさいなあ、どっかいってろよ」
 「おあいにくさま、私はお仕事中です...あれ?」
 マーヤは最初、小さな地震だと思った。しかしそのあと間髪を入れずに風圧のような「バーン」という大音響がおそってきた。

 その音は何かが近くで大爆発を起こした音であった。
 「なに?!」とマーヤ。
 「ついに来たか」とイチロー。
 一見落ち着いて見えるイチローだが彼の心臓は今聞いた爆発音に勝るほどに高鳴っていた。
 <これで俺も一巻の終わりか、お父さん、お母さん、先立つ不幸をどうぞお許し下さい。神様、どうぞ御慈悲があるのなら、なるべく痛くなく死なせて下さい>
 そう祈りを捧げたイチローの耳元を「ヒュン」と言う音を立てて何かが飛び抜けていった。その物体は川の中へ飛んで行き、水しぶきをあげて止まった。イチローの目がその物体に釘付けとなった。
 「鉄パイプだ!」

 怪力の怪物に引きちぎられたような電線管が、その鋭利にとがった先端を輝かせて川の中に突き刺さり、煙を上げていた。一瞬凍りつくイチローだったが、こんなモノを見てしまって居ても立ってもいられなくなった。
 「うぎゃー、うわっ、うわっ、どわーっ」
 さっきの爆発が原因で何かの破片やらがバラバラと飛んできた。その一つ一つに一々騒ぎながらイチローはその辺をじたばたと逃げ回った。
 マーヤは死神になってから「死」に立ち会うのはこれが初めてだ。今目にしている生々しい死に様に耐えられず両手で顔を隠してしまった。
 助けたくても死神のマーヤには手を出すことが許されていないのだ。
 「マーヤー!」イチローが叫んでいる。
 「こらえて」たまらず答えるマーヤ。
 「助けてくれぇ!」なおも叫ぶイチロー。
 「もう少しの辛抱よ」
 「助けてくれーーっ!」
 指の隙間から見えるイチローの姿はあまりにも無様であった。死を迎える断末魔といった表情であった。
 「こっちへ来てっ、イチロー!」
 マーヤは耐えきれずについに言ってしまった。
 「マーヤぁ!」

 イチローはマーヤに飛びつき、マーヤはイチローをかばうようにしっかり抱きしめた。
 いくつかの破片が彼女の背中に当たりイチローに当たるのを防いだ。イチローはマーヤの中で、まるで母親に抱かれる赤ん坊のように小さく丸くなっていた。


 しばらくして静寂が戻ってきた。マーヤはイチローの和太鼓の連打のような鼓動を聞いていた。
 また、イチローも自分の鼓動を確認した。
 「生きてる」
 イチローはまだ生命があることを実感した、それに心地よい。
 <この柔らかさは何だ>
 イチローは閉じていた瞼を開けるとそれはマーヤの胸だった。ハッと我に返り、お互いに離れた。
 「イチロー、大丈夫?...」
 「大丈夫だよ、ありがとう、俺をかばってくれたんだね。やっぱりおまえも人の子だったんだ」
 「死神よ、でもごめんなさいイチロー」
 「なにがだよ、助けてくれたんじゃあないか。ありがとうマーヤ」
 「いいえ、違うの、私はやってはいけないことをしてしまったわ、死神の私が、死ぬべき人を助けてしまったわ。これは決して許されない事よ」
 「...と言うと、つまり...」
 「そう、非常事態になっちゃった、私があなたを...殺さなくてはならないの!」

 確かにその話は以前に聞いていて知っていた。
 しかし、さっきは雨あられのように弾丸と化したと思ったものはよく見るとただの木片だったり、ビニールの屑だったりでどうも致命傷になるような破片は見あたらなかった。こんなゴミ屑でどうやって死ぬのだったのだろうと疑問がイチローにあった。

 とにかくマーヤが言うには彼女が干渉したことでイチローの運命が変わったらしい。時間的に言ってももうイチローは死んでいなければならないはずだというのだ。
 「よし分かった、俺も男だ、悲惨な事故で死ぬよりはましさ、君に殺されるんだったら本望だよ。さあ、ひと思いにやってくれ!」
 マーヤは一大決心をして「うん」と大きくうなずいた。

 「死神の主よ、お許しあれ」と言ったマーヤの手にどこから現れたのだろうか、柄の長い大きな三日月型のカマが握られていた。あの映画などでおなじみの奴だ。
 「それでやるのか?」イチローはギョッとした。
 「これはあなたの肉体と魂を切り離す道具なの」
 「痛くはないかぁ?」
 「痛いか痛くないかはイチローの生前の行いによって変わってくるわ。でも...」
 「でも?」
 「なるべく痛くしないからね」とマーヤはそのカマを大きく振り上げた。研ぎ澄まされたカマの刃がマーヤの振り上げた頂点に達したとき「キラリ」と光った。
 「あっ」
 その時イチローは、その振り上げたカマの向こう側に何かを発見した。
 「なによ?」
 「こっ、殺すのちょっと待ってくれっ」
 「だめよ! これ以上引き延ばしたら決断が鈍っちゃう」
 「いや、あれを見てくれ」
 イチローはマーヤの後方を指さした。
 「そんな子供だましに引っかかるもんですか!」
 「違うよ! あれだよあれっ、俺のアパートが燃えている!」

 マーヤとイチローは、魂切断の儀式を一時中断し、炎と煙を上げている「川瀬アパート」へ舞い戻った。先ほどの大爆発はこのアパートで起こったガス爆発だったようだ。
 現場は駆けつけた消防車や救急車、警察官、野次馬達でごった返していた。消防車が放水を開始して消火活動に当たっている。
 「けが人は居ませんかー」
 救急隊員が大声を上げている。
 「イチロー、見て、隣の部屋だよ」
 消防車の放水の先は、イチローの住んでいた部屋の隣、あの受験生の部屋のあたりへ向けられている。放水された水が水飛沫となって、それが霧状になってイチローにも降りかかった。
 隣人の部屋はぽっかりと屋根に大穴を開け、そこから煙を上げている。
 イチローの部屋は全体的にゆがみながら膨らんでいた。壁から柱が突き出していてそれが爆発のエネルギーのものすごさを語っていた。
 部屋の内部は見えないが、おそらく想像以上であろう。
 「こりゃあ、河原へ出てなきゃあ死んでたな」
 「もう、戻るところもなくなったわね」
 「後腐れなしだな」
 二人はただの野次馬となり、しばらくこの災害の現場を見物していた。

 その野次馬対策のバリケードを警察官が施している。あわててやってきたこのアパートの大家らしき者に刑事が色々と聞いている。
 日曜に遊びにも行かず居残っていた者は誰もいなかったようだ。不幸中の幸いで、けが人などは出なかったようだ。
 ただ一人、隣の受験生を除いては。

 イチローの脇に覆面パトカーが止まって窓が開いていた。覆面パトカーなどあまり見たことがなかったのでイチローが「この世の見納めに」と覗いていると中の無線が「被害概況を報告せよ」のようなことを言ってきた。先ほどの刑事がそれを聞きつけて走って戻り、無線のマイクを取った。
 「被害者は、大家の話から、受験に失敗した浪人生、男性21歳。事故原因は被害者のガス自殺で漏れたガスが爆発したものと推測される。救急車で川西病院へ移送中。他にけが人はなし。被害者の名前は『鈴木一郎』繰り返す『鈴木一郎』」

 「刑事さん!」イチローは刑事の報告に割って入った。刑事は「何?」という顔をした。
 「『鈴木一郎』は僕です、隣の住人です。人違いですよ」とイチローは言った。
 刑事はその話に少しギョとしながら「現場ままだ混乱中のため詳細は追って報告する」と言って無線を切った。
 「君、ちょっと来て」
 そう言って刑事は大家の所までイチローを連れていった。

 イチローは大家とは初対面だ。入居時に聞いた話ではこの辺にいくつもアパートを持つ大地主で、80歳ぐらいのおばあちゃんだった。
 「大家さん、被害者は『鈴木一郎』じゃあないそうですよ。彼が『鈴木一郎』さんだそうですが?」刑事が大家に聞いた。
 「被害者ってあの浪人生のことかい? 全く、被害者はこっちじゃよ、誰がこのアパート直してくれるんだい。」
 そう言って大家は消火活動が続けられている川瀬アパートを見上げた。
 「まあそう死人にムチ打つようなこと言わないで、その浪人生の名前は何というのですか?」
 「だから言ったじゃろ『鈴木善幸』のスズキに『小沢一郎』のイチロウ...ワシの台帳にそう書いておる」
 「待って下さい大家さん。それは201号室の見間違えじゃあないですか」イチローが割って入った。
 「何じゃいあんたは? んん、まあいい、201号室か? 201号室は『山崎祐介』となっておるぞ」
 「あっ、それ古いですよ、僕が入る前の入居者だ。この間、郵便が誤送されたから知ってるんだ、今の201号室は先週入ったばかりの僕、鈴木一郎ですよ」
 大家がきょとんとした顔でイチローの顔を見返した。
 「おう、おう、そうじゃった。この前、契約書にはんこを押しばかりじゃの、これは失礼なことを言った。あんた、わしンとこへ住んどったんかい。まあ、よくぞ無事で」
 「それでは爆発した202号室には何と書いてあります?」
 刑事が聞き直した。
 「くどいのう、『善幸』のスズキに『小沢』のイチロウじゃ、ほら見てみい。おや、なんと、同じ名前じゃのう...これはまた...かっはっはっはっ、こりゃ愉快」

 呑気な大家としかめっ面の刑事に謝って、イチローとマーヤはその場を足早に去った、というよりは逃げた。
 刑事がついでに当時の状況などを聞きたがっていたのだが、二人には今すぐ整理しなければならない問題に直面していた。その問題解決のために二人はまたさっきの河原へ戻って来ていた。

 「まず初めに。俺の所へマーヤがやってきた」
 「うん」
 「そして今日、俺『鈴木一郎』は死ぬはずだった」
 「...」
 「しかし俺はまだ生きている」
 「...」
 「そして、俺の隣に住む、俺と同じ名前の『鈴木一郎』が死んだ」
 「...」マーヤはさっきから何かを言いたそうにしていたが、なかなか言いだせずに黙っていた。
 「彼は、果たして、俺の身代わりになったのかな? それとも...?」
 イチローの推理にはどうしても抜けられない壁があった。その壁とは...

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