年表 明治20〜明治29年

0059 1887 明治 20 03・01(02・07) 出口政五郎帰幽、60才。その生計はさらに苦しくなり、出口なおは糸引きにあるく。
0062 1888 明治 21 ―・― 上田喜三郎(後の出口王仁三郎)、亀岡王子の梨木坂で本田翁と出会う。(18才の時)
0061 1888 明治 21 ―・― 出口すみ(二代教主)は福知山へ子守奉公。
0060 1888 明治 21 03・07(01・25) 上田久太郎=上田喜三郎(後の出口王仁三郎)の五弟=出生。(生後十数日で帰幽)
0063 1889 明治 22 07・上旬 出口ひさ、福島寅之助と結婚し08・24(07・28)福島家へ入籍。
0064 1890 明治 23 09・― 福島ひさ、発狂する。(翌24年、何鹿郡だけで28人もの発狂者が出た)
0065 1891 明治 24 ―・― 上田喜三郎(後の出口王仁三郎)、徴兵検査は身長五尺二寸にて乙種となる。この頃、労働の余暇に文芸方面に趣味をもち天才的閃きを示す。
0083 1892 明治 25 ―・― 出口なお、熊野新宮神社境内に白藤・松・梅を植える。
0085 1892 明治 25 ―・― 出口なおは栗柄へ糸引きに行く。また京都島原ならびに大阪の金光教会を訪ね。
0084 1892 明治 25 ―・― 大槻伝吉、達磨の像を画く。
0082 1892 明治 25 (不詳) 綾部吉美村の小呂にいた鑑定師(算盤占い)は出口なおの神を封じる。が、その後一週間を経て帰幽。
0066 1892 明治 25 01・27(24・12・28) 西町大槻鹿造の正月の餅搗きの際、大槻よね発狂する。
0067 1892 明治 25 01・30(01・01) なお、霊夢を見る。(以後「なお」を「出口なお」と表記)
0068 1892 明治 25 02・03(01・05) 出口なお、帰神状態となる。02・08(01・10)から13日間の断食。
0069 1892 明治 25 02・13(01・15) 出口なお、見舞いに来た福島夫婦に一塊の土を渡し土の恩恵を説く。
0070 1892 明治 25 02・18(01・20) 出口なお、法華僧の祈祷を受ける。
0071 1892 明治 25 03・05(02・07) 出口りょうは四方源之助方へ奉公。
0072 1892 明治 25 03・10(02・12) 出口なお、山家の本経寺にて祈祷を受けるが、発動の原因分らず苦心する。
0073 1892 明治 25 04・04(03・08) 出口なお、福知山の金光教会の青木に神懸りを調べてもらう。
0075 1892 明治 25 05・31(05・06) 山家の本経寺へ出口なおの神懸りを調べ、よねの発狂について祈祷を依頼す。
0076 1892 明治 25 06・04(05・10) 大槻家の家計困難となる。清吉、小浜の紙漉屋に奉公。
0077 1892 明治 25 06・19(05・25) 出口なお、亀岡へ糸引きに行く。途中、八木の金光教会中西老女に身上判断を依頼するも不明で、亀岡滞在中、金光教会を訪ねるも不明。7月、一たん帰綾。
0078 1892 明治 25 09・22(08・02) 上田きみ=上田喜三郎(後の出口王仁三郎)の末妹=出生。
0079 1892 明治 25 10・27(09・07) 大槻よね、座敷牢より出る。
0080 1892 明治 25 10・28(09・08) 神示により石のお宮の型をつくる。万年青・松・葉蘭を元屋敷に植える。
0081 1892 明治 25 12・01(10・13) 出口清吉、東京近衛兵に入隊。
0074 1892 明治 25 出口すみは八木の福島家で子守。六月には亀岡王子の栗山家で子守。
0086 1893 明治 26 (02・上旬) 出口なお、75日寝ずのご用をされる。このころ能を舞う。
0087 1893 明治 26 03・― 出口すみ、八木で子守。
0088 1893 明治 26 03・下旬 出口なお、神命で乞食の扮装をして八木へ行く。
0089 1893 明治 26 04・14(02・28) 出口なお、八木の福島方にて発動。翌15日、王子にて発動し栗山庄三郎を訓ず。
0090 1893 明治 26 04・21(03・06) 出口なお、放火の嫌疑にて綾部署に留置。翌22日、放火の嫌疑は晴れたが、発狂者として座敷牢へ。
0092 1893 明治 26 05・30(04・15) 出口なお、40日間座敷牢より出る。
0093 1893 明治 26 06・― 綾部新宮坪の内の出口家所有の土地が人手に渡る。
0094 1893 明治 26 07・― 上田喜三郎(後の出口王仁三郎)、園部の獣医井上直吉方にて獣医学の研究をなし、夜は南陽寺に滞在中の岡田惟平翁に付き国学を学ぶ。
0095 1893 明治 26 09・13(08・04) 出口なお、出口すみを伴い八木より帰綾。出口すみは間もなく私市へ奉公。
0091 1893 明治 26 4〜5 出口なお、入牢中に釘で柱に文字を書く。(筆先のはじめ)
0100 1894 明治 27 ―・― 出口なお、山家の西村文右衛門・西村庄太郎等と亀岡の金光教会を訪ねる。その後綾部へ帰り、襤(ぼろ)買いをしながら道を開く。
0096 1894 明治 27 06・11(05・08) 出口なおは神命により唐行きの出発、八木へ行く。
0097 1894 明治 27 07・10(06・08) 出口なお、八木より亀岡の金光教会に立ち寄り、王子に行く。07・11に王子で十倉ときと落ち合い、07・12に京都市河原町の天理教会を訪ね発動あるも神の見分けつかず。
0098 1894 明治 27 07・13(06・12) 出口なおは唐行きを中止し王子へ引き返す。それより保津方面で糸引きをする。
0099 1894 明治 27 09・―(08・―) 上田喜三郎(後の出口王仁三郎)の国学研究は岡田惟平翁帰国のため一屯座する。
0101 1894 明治 27 10・―(09・―) 綾部に金光教会の広前を開くことになり、綾部町本宮の大島景僕(何鹿郡長)の家の離れ座敷六畳を月一円で借りる。
0102 1894 明治 27 10・12(09・14) 出口なおの命により四方平蔵ら、金光教師奥村と会して教会を開くこととなり、11人の役員を決め、毎月旧暦の3日・15日・23日を祭日とする。また11人の役員で一カ月10円余の経常費を負担する。
0103 1894 明治 27 10・13(09・15) 出口なお、はじめて艮の金神と金光大神を大島景僕の離れ座敷(別荘という)に奉斎する。
0108 1895 明治 28 ―・― 出口なおの次男清吉出征中、台湾病院で死歿。
0111 1895 明治 28 (不詳) 清吉の遺骨を引き取る。出口なお、立腹して艮の金神に不満を述べる。
0104 1895 明治 28 01・― 四方平蔵、はじめてお筆先を読む。
0105 1895 明治 28 01・18(27・12・23) 広前を四方源之助の養蚕室へ遷座する。
0106 1895 明治 28 02・―(01・―) 上田喜三郎(後の出口王仁三郎)、園部より帰郷して家業手伝いのかたわら搾乳業を計画し資金調達をする。
0107 1895 明治 28 04・27(04・03) 広前を本宮の西岡弥吉宅へ遷座する。(この頃、世話人21人・信者360人)
0109 1895 明治 28 06・12(05・20) 出口なお、八木へ行き馬路の真助方で糸引きされる。
0110 1895 明治 28 09・21(08・03) 元黒住教説教所(東四辻22番地)を買いうけ、広前を移す。
0112 1895 明治 28 09・28(08・10) 出口なお、福知山の金光教会青木松之助方へ行き、翌年三月まで滞在。
0113 1896 明治 29 01・01(28・11・17) 上田喜三郎(後の出口王仁三郎)、穴太で精乳館を経営し、乳牛20頭を飼育す。この頃、安閑坊喜楽の雅号にて盛んに冠句をものし、文芸に趣味を持つ。また浄瑠璃の稽古を始め、かたわら神道の研究に志す。
0114 1896 明治 29 03・―(02・中旬) 出口なお、神命により福知山を引き揚げ帰綾、裏町定七の木屋に住む。
0115 1896 明治 29 05・25(04・13) 出口なおは金光教四辻教会を離れ糸ひきに出る。
0116 1896 明治 29 06・中旬 京都金光教会から足立正信を奥村の後任として派遣し来る。
0117 1896 明治 29 07・20(06・10) 出口なおは鷹栖の四方平蔵方まで帰り、奥村の夜逃げを知る
明治19年以前へ 明治30年以降へ

更新日 00/08/08