年表 明治30〜明治34年

0118 1897 明治 30 02・02(01・01) 上田喜三郎(後の出口王仁三郎)、自宅屋敷(穴太)内鬼門の木を伐る。産土神社に参詣し神示を受ける。
0119 1897 明治 30 03・12(02・10) 四方与平入信。03・20(02・18)木下慶太郎入信。
0120 1897 明治 30 04・04(03・03) 出口なおは裏町の梅原伊助の倉へ移り、艮の金神を単独で鎮祭する。
0121 1897 明治 30 07・21(06・22) 上田喜三郎(後の出口王仁三郎)の父吉松帰幽(51歳)。
0122 1897 明治 30 08・下旬 上田喜三郎(後の出口王仁三郎)、穴太の産土神社(小幡神社)に三週間参詣、満願の日に三条教憲(三大学則)を神示さる。
0123 1897 明治 30 12・28 高見元男(後の出口日出麿)出生。岡山県倉敷市阿知町仁科清吉の次男。
0131 1898 明治 31 (03・―) 出口王仁三郎、大阪へ初宣教。
0144 1898 明治 31 (不詳) 出口すみ、花月の奉公を辞す。
0124 1898 明治 31 01・26(01・05) 上田喜三郎(後の出口王仁三郎)(28歳)、上田家の家督相続。京都府南桑田郡曽我部村穴太108番地。
0125 1898 明治 31 03・01(02・09) 上田喜三郎(後の出口王仁三郎)、高熊山にて一週間の修行(以後「上田喜三郎(後の出口王仁三郎)」を「出口王仁三郎」と表記)。自己の救世の大使命を自覚するに至る。帰宅後一切の俗事を捨て神の道に専念す。
0126 1898 明治 31 03・下旬 出口王仁三郎、宮川の妙霊教会で西田清紀に交渉して講演。
0129 1898 明治 31 04・― 稲荷講社の三矢喜右衛門、園部の下司熊吉、出口王仁三郎に反抗。
0127 1898 明治 31 04・03 出口王仁三郎、三矢喜右衛門(静岡県安部郡不二見村下清水の月見里神社付属稲荷講社の配札係)と会う。
0128 1898 明治 31 04・05 出口王仁三郎、長沢豊子(長沢雄楯の母)に神器を授けらる。
0130 1898 明治 31 04・15(03・25) この日付けをもって稲荷講社総本部より出口王仁三郎に中監督の辞令来る。
0132 1898 明治 31 04・28(閏03・―) 出口王仁三郎、三矢喜右衛門と駿河の稲荷講社本部を訪ねる。翌29日、長沢雄楯は出口王仁三郎を小松林命の神懸りであると審神する。
0133 1898 明治 31 05・20(04・01) 青木の指図にて福知山より塩見を金光教教会の留守居として寄こす。
0134 1898 明治 31 05・21(04・02) 出口王仁三郎、駿河の稲荷講社総理長沢雄楯を再度訪問し、霊学会本部設置の認可を得る。
0135 1898 明治 31 05・25(04・06) 出口王仁三郎、京都・大阪両府下稲荷講社事務担任を命ぜらる。京都府下において霊学会本部設置を認可され、皇道霊学会会長を命ぜられる。
0137 1898 明治 31 06・― 出口王仁三郎、園部方面宣教、南陽寺の楚玉禅師を訪ねられる。広田屋旅館に逗留して宣教、内藤半伍入信。
0136 1898 明治 31 06・― 出口王仁三郎、八木の茶店(虎天堰)にて福島久子から出口なおの話を聞く。
0138 1898 明治 31 10・08(08・23) 出口王仁三郎、はじめて綾部裏町に出口なおを訪ねる。
0139 1898 明治 31 10・10(08・25) 出口王仁三郎、園部黒田村の西田卯之助方で宣教、西田方に臨時会合所をつくる。
0141 1898 明治 31 10・12(08・27) 若森の中井忠次宅に会合所を移す。
0140 1898 明治 31 10・12(08・27) 出口王仁三郎、北桑田宣教。若森の竹村方に会合所をつくる。
0142 1898 明治 31 出口王仁三郎、大石凝真素美翁と天の真奈井(琵琶湖)の水茎文字を見にゆく。
0143 1898 明治 31 出口王仁三郎、京都・日出新聞の広告欄をみて壮士俳優に応募する。
0161 1899 明治 32 (08・―) 四方春三・黒田きよ・塩見せい、神懸りとなる。
0160 1899 明治 32 (08・―) 出口王仁三郎・足立正信・四方春三、吉崎仙人(九十九仙人)を上林の山中に訪ねる。
0145 1899 明治 32 01・25 出口王仁三郎、静岡出張の帰途01・25日の夕れ、若森の奥に着くとして〃駿河より守り帰へりし御神璽を村人つどひ会合所に祭る〃とある。
0146 1899 明治 32 02・10(01・01) 出口王仁三郎、園部村黒田から出口なおに宛て最初の信書を送る。
0148 1899 明治 32 05・21(04・12) 出口なおから出口王仁三郎へ筆先の神文を送る。
0149 1899 明治 32 07・01 四方平蔵、出口なおの命令を受け出口王仁三郎を迎えに園部へ。扇屋旅館で話す。
0150 1899 明治 32 07・03(05・26) 出口王仁三郎、出口なおの使者四方平蔵と共に園部から再度綾部へ。途中、檜山の樽屋旅館に一泊。
0151 1899 明治 32 07・03(05・26) 駿河の稲荷講社より出口なおに同講社中監督、四方平蔵に小監督の辞令来る。
0152 1899 明治 32 07・05 本町播磨屋中村竹蔵の家を借り、金明会の広前とする。
0153 1899 明治 32 07・10(06・03) 神紋を十曜と定める。霊学会を設立し金明会本部と称す。
0154 1899 明治 32 07・17(06・10) 二代の世継ぎは末子の〃おすみ〃との筆先が出る。
0155 1899 明治 32 07・30(06・23) 出口王仁三郎を世継ぎとする筆先でる。
0156 1899 明治 32 08・01(06・25) 金明霊学会を組織する。
0157 1899 明治 32 08・06(07・01) 出口王仁三郎、鷹栖の四方平蔵宅ならびに上谷の四方祐助宅にて神がかりの修行。
0158 1899 明治 32 08・19(07・14) 第二回目の上谷修行。四方祐助の息子に反対され、上谷の四方左衛門宅へ移す。
0159 1899 明治 32 09・03(07・29) 出口王仁三郎、祖母危篤の電報にて穴太へ帰る。(上田家の家庭事情によるニセ電報)
0162 1899 明治 32 09・19(08・15) 金光教の足立正信は、金光教を見限り四ツ辻の大広前を明渡すこととなりしため、中村竹蔵宅から移転し、艮の金神国武彦命を遷座し、幽斎修行場とする。
0163 1899 明治 32 10・10(09・06) 出口王仁三郎、四方平蔵と駿河の稲荷講社へ行く。
0164 1899 明治 32 10・15(09・11) 足立正信・四方春三・中村竹蔵、出口王仁三郎排斥運動を起こす。
0165 1899 明治 32 10・17(09・13) 出口王仁三郎、稲荷講社総本部幹事に任命される。
0166 1899 明治 32 11・13(10・11) 艮の金神国武彦命の神名、筆先に出る。
0167 1899 明治 32 12・01(10・29) 大島景僕の土地家屋(綾部町本宮小字宮下32番地)を、清吉の年金一時講金で買い受ける。
0147 1899 明治 32 出口王仁三郎、北桑田方面の宣教。
0169 1900 明治 33 (02・―) 足立正信、遠州浜松へ引き揚げる。
0178 1900 明治 33 (09・―) 出口王仁三郎、四方春三・四方甚之丞らと駿河の稲荷講社へ行く。
0177 1900 明治 33 (閏08・―) 鞍馬山出修の後、出口なおは別荘で百余日籠もる。
0168 1900 明治 33 01・31(01・01) 四ツ辻大広前にて、出口王仁三郎と澄子(二代教主)の神前結婚式。媒酌人四方平蔵。(「大本経歴」では明治32年12月結婚とある)
0170 1900 明治 33 03・03 金明会と霊学会と合同して金明霊学会と改称し、始めて会則なる。
0171 1900 明治 33 07・04(06・08) 冠島開きのため、出口なお・出口王仁三郎一行五人で綾部を出立つ。
0172 1900 明治 33 08・02(07・08) 沓島開き、一行九人。
0173 1900 明治 33 08・22(07・28) 出口王仁三郎一行21名、冠島へ出修、激浪に遭う。
0174 1900 明治 33 08・25(08・01) 西田元教(出口王仁三郎の妹ゆきの夫)、病気危篤の電報来る。
0176 1900 明治 33 10・01(閏08・08) 出口なお・出口王仁三郎・出口すみ・四方春三、京都の鞍馬山へ出修。
0179 1900 明治 33 11・01(09・10) 広前を大島景僕宅へ移し、はじめて神代造りの新宮をつくる。
0180 1900 明治 33 11・16(09・25) 大島景僕から買収の土地家屋の登記をする。
0175 1900 明治 33 出口王仁三郎、『玉の礎』の執筆をはじむ。
0181 1901 明治 34 (03・―) 出口王仁三郎、四方平蔵・竹原義房・内藤半吾等と駿河の稲荷講社へ。
0182 1901 明治 34 04・18(02・30) 出口王仁三郎、稲荷講社大監督に任命される。
0183 1901 明治 34 04・26(03・08) お水の御用。出口なお・出口王仁三郎ほか河守の元伊勢へ。
0184 1901 明治 34 05・04(03・16) 元伊勢のお水を丹後の沓島・冠島の竜宮海へ注ぐ。
0185 1901 明治 34 07・01(05・16) 火の御用〜出雲大社へ。出口王仁三郎・出口なお・澄ほか12名にて綾部を出立つ。
0186 1901 明治 34 07・06(05・21) 海路波高く賀露の雲井旅館に三泊、出口王仁三郎は澄の腹中に太陽が入る夢を見る。
0187 1901 明治 34 07・20(06・05) 綾部帰着。出雲出修の帰途から出口王仁三郎と出口なおの言霊戦(火・水の戦い)はじまる。
0188 1901 明治 34 07・20(06・05) 帰綾後、出雲からの神火に火の番をおく。
0189 1901 明治 34 07・23(06・08) 出雲の土を撒き、宮屋敷取りをする。
0190 1901 明治 34 07・25(06・10) 出口王仁三郎・出口なお・澄その他の信徒ら68人、沓島詣り。
0191 1901 明治 34 08・25(07・08) 宮屋敷取りの行事で、京都の鞍馬山へ。
0192 1901 明治 34 10・15(09・04) 出口王仁三郎、出口慶太郎と駿河の稲荷講社へ。大本を法人組織に改めるため、長沢雄楯を訪問。
0193 1901 明治 34 10・19(09・08) 出口なお、出口王仁三郎の大本を法人組織化を怒り弥仙山へ岩戸籠もりする。時に66歳。
0194 1901 明治 34 10・19(09・08) 出口王仁三郎、駿河からの帰途、京都伏見で危険に遭う。
0195 1901 明治 34 10・25(09・14) 出口なお、弥仙山から下山。(一週間)
0196 1901 明治 34 10・28(09・17) 出口なお、別荘へ百日籠もる。
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更新日 00/08/08