年表 明治35年〜明治40年

0197 1902 明治 35 01・01 元旦の飾りを松と梅とに改め、雑煮を神世餅と呼ぶことになる。
0198 1902 明治 35 03・07(01・28) 朝野(三代直日)出生。四方祐助、大阪から帰途中の出口王仁三郎を園部で迎えて同道帰綾。
0199 1902 明治 35 04・23(03・16) 出口王仁三郎、出口なおはじめ一行百名で元伊勢へ。
0200 1902 明治 35 06・― 三代朝野の植疱瘡につき問題起こる。
0201 1902 明治 35 08・― 出口王仁三郎、京都市蛸薬師通りに人造精乳会社を起こす。
0203 1902 明治 35 09・― 出口すみ、裃を解き機織りをする。
0204 1902 明治 35 09・― 出口王仁三郎、京都・園部方面にて宣教。
0202 1902 明治 35 09・02(08・01) 49人講を作る。
0205 1902 明治 35 10・上旬 出口王仁三郎、地獄谷の危難。出口なおの祈願あり遭難を免る。
0206 1903 明治 36 04・12(03・08) 「朝野」が「直日」となる仕組との筆先が出る。
0208 1903 明治 36 05・24(04・28) 『変性男子が現れて世界の守護いたすのは、明治36年4月28日に岩戸開きと相定まりて、変性男子と変性女子と和合が出来て、金勝要の大神は澄子に、竜宮の乙姫様は日の出神に、それぞれ守護なされて、四魂そろうて三千世界を立直し今度の仕組を成就いたさすのあるぞよ。
0209 1903 明治 36 05・24(04・28) 木花咲耶姫殿が世に出ておいでる神と世に落ちておりた神との和合をされる御役を神界から仰せつけがありたのじゃぞよ。人間界では出来んことぞよ』(『百千鳥』の278ページには旧4月8日とある)
0207 1903 明治 36 05・24(04・28) 弥仙山岩戸開き。(一年半の時日を要した)(出口なお・出口王仁三郎・二代・三代四魂揃うての二度目の岩戸開き)
0210 1903 明治 36 05・31(05・05) 出口なおの長男竹蔵、出居不明のところ17年りに帰綾。竹蔵に出口家を相続させ、出口なおは澄とともに分家することになる。(『百千鳥』278頁には12年ぶりとある)
0211 1903 明治 36 07・19(閏05・25) 出口王仁三郎、『筆の雫』執筆。(37・01・08脱稿)
0212 1903 明治 36 07・20(閏05・26) 出口なおほか役員信者、福知山の一宮神社に参拝。
0214 1903 明治 36 07・31(06・08) 『四魂揃うたお礼やら、三代の世継ぎを授けて貰うたお礼やら、結構に神界の経綸の成就いたした大望なことのお礼やら、弥仙山で神界の岩戸を開いたお礼やら、産土・氏神さまに国々所々の氏子をかもうてもらう願い……』
0213 1903 明治 36 07・31(06・08) 七社参拝。(綾部の氏神七社)
0215 1903 明治 36 07・31(06・08) 出口なお、燐寸使用と肉食について訓ず。
0216 1903 明治 36 10・16(08・26) 出口王仁三郎、出口なおの命により上谷へ盤古大神の霊を鎮める。
0217 1903 明治 36 11・26(10・08) 艮の金神・天の御三体の大神・竜宮の乙姫を奉斎する。
0218 1904 明治 37 01・― 出口王仁三郎、『本教創生記』執筆。(02・22脱稿)
0219 1904 明治 37 03・末 大槻伝吉、岐阜から帰綾。
0221 1904 明治 37 04・23(03・08) この頃から本格的に神道復斎が行われるようになった。
0220 1904 明治 37 04・23(03・08) 東四ツ辻の元大広前に大国主大神を祀り、各信徒の家の祖霊を改式復斎する。
0222 1904 明治 37 05・22(04・08) 出口王仁三郎、瑞の御霊の宮居に定まると神示でる。
0223 1904 明治 37 05・23(04・09) 出口王仁三郎、『道の栞』執筆。(10・30脱稿)
0224 1904 明治 37 05・24(04・10) 日露戦争に応召の何鹿郡(現綾部市近在)出身者集合のとき、筆先を読み聞かせ肌守りとおひねりを下げ渡す。
0225 1904 明治 37 05・30(04・16) 出口王仁三郎の二女梅野出生。
0226 1904 明治 37 07・16(06・05) 出口なおの兄桐村清兵が帰幽し、はじめて天王平に奥津城がつくられる。
0227 1904 明治 37 08・01(06・20) 出口なお、分家手続きをとり本宮32番地に移る。
0228 1904 明治 37 08・04(06・23) 出口りょう(出口なおの四女)、木下慶太郎と結婚し、分家して出口姓をつぐ。
0229 1904 明治 37 09・― 出口竹蔵(出口なおの長男)、四方与平の妹はなと結婚。
0230 1904 明治 37 09・20(08・11) 出口王仁三郎、上田王仁三郎と改名、町役場に届出る。
0231 1904 明治 37 12・― 生活逼迫し、出口なおは食用に樫の実を拾う。
0232 1905 明治 38 01・― 出口王仁三郎、『道の大本』執筆。(05・29脱稿)
0233 1905 明治 38 01・― 大本の財政ますます逼迫する。
0234 1905 明治 38 03・28(02・23) 出口王仁三郎、園部・京都宇治地方に宣教。
0235 1905 明治 38 04・03(02・29) 出口なお、神示により水行の終止。(『百千鳥』471頁参照)
0236 1905 明治 38 05・14(04・10) 出口なお、後野市太郎・大槻伝吉を伴ない、祈願のため沓島へ籠もる。(05・25帰綾)
0237 1905 明治 38 09・― 出口王仁三郎、京都宇治地方宣教。
0238 1906 明治 39 02・08(01・15) 月掛献金をはじめる。
0239 1906 明治 39 02・17(01・24) 出口王仁三郎、質美へ宣教、引続き半カ年滞在。
0240 1906 明治 39 03・02(02・08) 出口政五郎(出口なお(大本・開祖)の夫)の20年祭、桐村そよ(出口なお(大本・開祖)の母)の50年祭を行う。
0241 1906 明治 39 04・01(03・08) 駿河の稲荷講社総本部より講名斯道学会と称することを認可される。
0242 1906 明治 39 09・10(07・22) 出口王仁三郎、京都の皇典講究所教育部本科二年に入学。
0243 1906 明治 39 11・― 出口王仁三郎、皇典講究所「秋津会」の幹事に挙げられ月刊誌「このみち」の主筆になる。
0244 1906 明治 39 12・― 年間の月掛献金収入25円6銭、支出24円29銭。
0258 1907 明治 40 (10・―) 大槻よね、座敷牢にいれらる。
0245 1907 明治 40 02・05(39・12・23) 節分。神様沓島から弥仙山へお上りとして参拝。
0246 1907 明治 40 02・05(39・12・24) ○旧元旦の神饌物は盛合せ一台(おなまごぜん)。この年の祭は出口政五郎毘古の20年祭が行われ、月次祭・みたま祭り・大祭などが定期的に執行されている。祝詞は大秡詞を奏上している。弥仙山、冠島・沓島への参拝も出来るかぎりのお供えをして厳修された。
0247 1907 明治 40 02・05(39・12・25) 神饌物は現在の大本祭式のような定まった形式はなく、誠の篭もったものを供えるのが建前で、葱なども供えられた。
0248 1907 明治 40 03・31(02・18) 出口王仁三郎、皇典講究所教育部卒業。
0249 1907 明治 40 04・08(02・26) 出口王仁三郎、京都府庁の神職尋常試験を受ける。(三日間)
0250 1907 明治 40 04・15(03・03) 出口王仁三郎、神職試験に合格し第一号証書の下付を受ける。
0251 1907 明治 40 04・30(03・18) 出口王仁三郎、試験の成績により三等司業を授かる。
0253 1907 明治 40 05・― 出口王仁三郎、京都府下周山村の吉田竜次郎を訪ねる。
0252 1907 明治 40 05・03(03・21) 出口王仁三郎、京都市の別格官幣大社建勲神社の主典てなる。
0254 1907 明治 40 10・― 出口王仁三郎、京都府下宇津村の小西松元を訪ねる。
0255 1907 明治 40 10・14(09・08) 出口なお(大本・開祖)の長女大槻よね、再度の発動。
0256 1907 明治 40 11・03(09・28) 竜宮の乙姫の祭典を行い、別荘に28灯を点じた後、出口王仁三郎がその燈明を和知川に流す。
0257 1907 明治 40 11・03(09・29) これより綾部熊野新宮社の水無月祭(新暦7月28日)には和知川で万灯流しの風習が起こる。
0259 1907 明治 40 12・― 年間の収入19円20銭、支出21円24銭、不足金は役員六名が負担。
0260 1907 明治 40 12・18(11・14) 出口王仁三郎、建勲神社を辞し、伏見稲荷山御嶽教西部教庁の主事となる。
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更新日 00/08/08