とよたま愛読会26回(真善美愛:55巻 16章〜最終章)         塩津晴彦


日 時:平成10年11月24日(日) 午後1時〜午後4時30分
場 所:愛善苑豊玉分苑(京王線下高井戸駅 歩5分)

★ 報告
  ○前回の報告   今年の気候を象徴するかのように晴れのち雨の中での半日、参加者七名は『霊界物語』第五十五巻一六章から最終までの通読をおえました。今回の拝読では、宣伝使治国別の先導で神殿の建設が行われ、その作業に各々が拍子を会わせて歌い、音頭を取ります。リズミカルな音頭に酔いながらの拝読でした。 一二月は第五六巻に入ります。

○先月の「とよたま愛読会」の報告が垣内さんの手で原稿となり愛善苑機関誌「神の国」一二月号に掲載されています。是非お読み下さい。
 

★ 拝読箇所で気のついたこと
第五五巻は終始「宗教」、」それも仏教に的を絞って聖師様の多くのお言葉が出されています。 私としても、大変に実りの多い拝読が出来ました。そこで、そのほか宗教の問題に就いて幾つか整理できた事を述べさせて頂こうと思います。

  ○ ブッダとは (出生)印度北部、現在のネパール山麓のカピラバストウに都のあった釈迦族の王子として生まれ、本名をゴータマ・シッダールタという。 (出家)戦国の世に弱小部族の王家に生まれた彼は釈迦牟尼(釈迦族の聖者の意味)とも呼ばれ二九歳で出家し、四苦(生・老・病・死)からの解決を求めた。

(悟り)三五歳の時、ブッダガヤの菩提樹の下で悟る。一二月八日の明け方だと言われている。この時彼は仏蛇となった。ブッダとはサンスクリト語で「悟れる者、目覚めた者」の意味。この時の悟りは「最高の真理つまり法」である。

(涅槃)釈尊は四五年に渡って布教伝道したが、茸の毒に当たりクシナガラの沙羅双樹の下で 息を引き取った。

(誤解)日本では仏(ほとけ)とは死者であるが、これは成仏の意味を取り違えている。佛教本来では成仏は法を悟った者のことである。 印度でも、釈尊は「自分の死に拘わるな」と諭したが死の床には各地から分骨を求める使者が集まっていた。これが仏舎利信仰を生んだ。

(無常観)此の世のすべての事物は、固有的実体はなく、他の事物と現象との関係で生起し、しかもとどまることなく、生滅変化していく。

(三法印)とは 諸行無常……此の世のすべての事物は生じては変化する。一定普遍のものは無い。 諸法無我……此の世の一切の事物は関係的存在であり、そのものだけで孤立して存在しているものは無い。 涅槃寂静……無常が此の世の成り立ちの本質であり、之を悟れば事物にとらわれず、迷いから解放されて平和で安定した理想的な境地に到達する。

(三学)とは 戒律……仏教徒として守らねばならない規範 禅定……瞑想などの精神統一法 智慧……真理を見極める宗教的英知、特に般若という。

(一切皆苦)とは 存在自体、生まれてきたこと自体が苦であるということ。

(佛教)とは 知恵と慈悲の教えである。仏法とは大慈悲なり、呻く者の呻きが判り、同情することの出来る愛情をサンスクリット語でマイトリー(慈、あるいは真実の愛)という。大慈悲とは究極の愛である。

三蔵(三蔵経) 釈尊は記録を残さず、体系化しなかった。臨機応変に教えを説いた(対機説法)。 弟子達が整理編集し、教えをまとめた「経」がつくられた。「経」の注釈書を「論」という。仏教徒の守るべき規律を「律」という。此の経・律・論の三つを三蔵または三蔵経という。

(根本分裂) 釈尊没後およそ百年が過ぎた頃、上座部(形式重視・保守的)と大衆部(実質重視・進歩的)に分裂。紀元前百年頃には二○もの部派が成立した。

(大乗の教え) 大衆部を中心とした部派佛教にたいする改革運動を含む教派 サンスクリット語のマハー・ヤーナ(大きな乗り物)から来る。多くは在家信者であり、現実的に民衆の苦悩に答えていこうとする運動。 代表的な経典が「般若教」であり、「空」の概念の積極的な表現に努めた。それが「色即是空」である。 小乗仏教は元の上座佛教であり、出家僧侶が自己自信の悟りを追求する傾向が強い。

(仏教の拡大) やがて釈尊のみでなく仏陀として、阿弥陀仏、阿しゅく仏、大日如来(毘廬遮那仏)など、各地に伝搬していく都度地域の神々であったもの守護神としていった。

(アジア世界へ)七世紀頃、インド教(バラモン教)の影響を受けて密教が盛んとなったが一三世紀にイスラム教徒に征服されてからは佛教はインドから姿を消した。

 日本へは九世紀の初頭に空海が唐の長安に留学し印度伝来の密教を持ち帰り公式に日本に定着させた。(密教はその後チベットで後期印度密教として再興されている)

○婆羅門教(印度教)について バラモン階級(クシャトリヤ・王侯武士、ヴァイシヤ・庶民、シュードラ・奴隷、の各階級の上に位置する)を中心として発達した民俗宗教  紀元前一三世紀頃にインドに進入したアーリア人が建てたリグ・ヴェーダの神話が元となった宗教。

 その後アーリア人が東方に移動しブラフマナ時代を迎え、紀元前六世紀の頃までに確立したアーリア人中心の階級制度と共にヴェーダ聖典が編纂される。

 紀元前六世紀の頃釈尊が出て仏法を説き、自由主義思想家の中から虚無的な傾向の強いマハーヴィラ(ジャイナ教の開祖)などが登場し、バラモン教はそれらと対抗しながら五世紀頃までにシバ神・ビシュヌ神を最高神とするヒンドゥー教へと展開した。

○『霊界物語』に登場する釈尊 「釈迦は印度國浄飯王の太子と生まれて、社会の荒き風波に遭うたことのない坊ンさんであったから、数年間の種々の苦難をあじわったのである」(第一巻二章)

「ここに月照彦神、足真彦、弘子彦、祝部、岩戸別の諸神人は、野立彦神、野立姫神の御跡を慕ひて、神界現界の地上の神業を終へ、大地の中心地点たる火球の世界、すなはち根の国底の国に出でまして、幽界の諸霊を安息せしめむため、天教山の噴火口に身を投じ給ひける。

神徳高く至仁至愛にして、至誠至直の神人は、神魂清涼の気に充たされ、さしもに激烈なる猛火の中に飛び入りて、少しの火傷も負はせたまはず、無事に幽界に到着し給ひぬ。

これらの諸神人は幽界を修理固成し、かつ各自身魂の帰着を定め、ふたたび地上に出生して、月照彦神は印度の国浄飯王の太子と生れ、釈迦となつて衆生を済度し、仏教を弘布せしめたまひけり。ゆゑに釈迦の誕生したる印度を月氏国といひ、釈迦を月氏と称するなり。……  時により処によりて、神人の身魂は各自変現されたるなり。いづれも豊国姫命の分霊にして国治立命の分身なりける」(第六巻二三章)

「三五の御諭しは 最後の光明艮なり ナザレの聖者キリストは 神を楯としパンを説き  マルクス麺麭以て神を説く 月照彦の霊の裔 印度の釈迦の方便は そのまま真如実相か 般若心経を宗とする 竜樹菩薩の空々は これまた真理か実相か……」(第一○巻総説)

「釈迦の十戒といひ、基督の十戒といひ、その他の学者神道者の唱導する戒律は、悉皆浅薄、偏狭、頑固固執にして社会の発達、人智の解明に大害をなすものなり」(第一○巻二九章)

○聖師様のお言葉
  聖師様は『出口王仁三郎全集』(二) 宗教・教育編第一編 既成宗教の第二章「宗教の害毒」一六、一七頁で、 「佛者に言はしむれば、佛教には大乗あり小乗あり、中古時代の佛教は多く独善的の小乗なりしが故に幣ありしかど、大乗的教義に至りては然らずと。然れども佛教の入門は、到底悲観的厭世主義なるを免かるヽ能はず。……さればこそ兼好法師も『此世をはかなみ、かならず生死を出でむとおもはむに、何の興ありてか、朝夕君につかへ、家をかへりみるいとなみのいさましからむ』……又法華経にも『三界に安きこと無し、猶火宅の如く衆苦充満せり、甚畏怖すべし』といひ、

仁王経にも『三界は皆苦あり、國土も何の頼かあらむ』といへり。之を栓ずるに、佛教は四諦、即ち、苦衆滅道を以て綱目とし、其の苦観を以て関門とするは争ふべからざる所なり。是れ実に中古以来、我が國民性を麻痺せしめたる毒薬にして、其の証今日の印度を見れば、自ら思ひ半に過ぎむ」(『神霊界』大正七年七月一五日号に発表)と述べておられます。

○釈尊・キリスト・モハメットは、何れも生前自己の「教え」を体系化したり文章では残していません。教団と教義が整うのは、彼らの死後に弟子達が、ある時にはこれら聖者の言行に背きながらも、完成させたものです。またこれらの教団の勢力が国教化を実現させたことがある点も共通しています。  こんな事を考えながら、聖師様の既成宗教に対する根本的な唯一絶対の教えの意義を考えていきたいと思いました。

○愛善苑では本年聖師様高熊山御入山百年(実質的な開教)等の記念としてこれまで絶版であった「出口王仁三郎全集」を研修資料として完全復刊を行いました。その第二巻は「宗教編」です。この機会に皆様も手にとって読まれてみては如何でしょうか?この全集各巻に、多くの『霊界物語』から多くの章が抜粋、掲載されています。『霊界物語』戦前の版からの復刻ですから、今の「校定版」とも読み比べてみることも出来ます。

【用語解説】 第五五巻は、「序文」用語の解説 続き

深法界=法界とは意識の対象となるすべての物事をいう。
      大乗仏教では万有の本体である真如 全宇宙のこと
妙智等倫=等倫は仲間、同輩のこと
五逆=ふつうは殺・盗・淫邪・妄語・飲酒をいう
慧日=日光のたとえ、仏の智慧があまねくの無知の闇を照らすこと
欣笑= 心の底からの笑い
踊躍=踊りたつ喜ぶさま
懈怠= なまける、おこたる
二乗= ここでは大乗・小乗に区別された仏法を指す
本空の真理=仏法の諸法は本来空なりとの意
苦衷=苦しい心のうち
上根=すぐれた宗教的意識、根気の良いこと
道化=涅槃にいたる正しい道をもって人を教化する
究暢=十分に極める、理解する
神通無礙=凡情を以て計り知れない不可思議と自在に一体化する

諸根=人が持つ種々の性質 五濁悪世(ごじょくあくせ)劫濁(こうじょく・時代的社会的な汚れ、飢餓疫病戦争などが起こる)・見濁(けんじょく・邪な思想や見解がはびこる)・煩悩濁(ぼんのうじょく)・衆生濁(しゅじょうじゅく・人間の果報が衰え資質が低下すること)・命濁(み ょうじょく・寿命が段々短くなり 一○歳にまでなること)の相が現れて悪事繁き世の中

金剛法身=最上最勝の不滅の法
演暢=十分に広めること
松柏=共に常緑樹、貞操を守り変えないこと
宇内=天下、世界
周遍=あたりをとりまく
羅列棋布=碁石を並べたように散らばっていること
済度=人に法を説き悟りを開かせること
慧光=真理を伝える光あるいは働き
塵労=煩悩のこと、正道に至る道を妨げるもの

五逆十悪=五逆は前出、十悪は、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚(しんに、自分の意のままにならぬ事を怒り恨むこと)・邪見

汚染=けがれよごすこと
三垢=心身を汚す貪欲・瞋恚・愚痴を指す

その他 苦集滅道 苦はこの世は苦であるという真理を言い、集とは苦の原因が世の無常と人間の執着にあるということ、滅は無情の世界を超越し執着を絶つことが苦滅のさとりの世界であること、道とは滅に至るための修行を指す。
この場合修行は八正道のことで、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定をさす。 苦集滅道は四諦または四聖諦ともいう。

第五五巻  巻 末 歌
序 文

○移り行く世のありさまを見るにつけ 腕は言問ひ胸は高鳴る
○人心神の心にかなひなば ひとり開けむ蜂の室屋も
○一人のみ只一人のみ岩の内に 世を嘆きつつ幾夜重ぬる

【序文各行頭語の抜出し文】
明治三十一年如月九日高熊山の修行より今年大正十二年正月十八日まて満二十五星霜を経たり霊界物語の口述開始より十五箇月着手日数は二百日にして五十五編を終る (大正十二年三月五日旧正月十八日)

目 次
○限りなき広野かけりし白竜も 狭き岩屋に潜む今日かな
○白竜の潜む間こそ雨もなく 風さへもなし惟神にて
○一日も早く白竜放つべし 世のため道のためと思はば

総 説 歌
○打つ石の火花の如くすみやかに 移らう御代ぞ最とも憂れたき

第 五 章
○梓弓はるみの空に玉照姫の 月のかんばせ仰ぐ山里

以上


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