とよたま愛読会100回天祥地瑞 午の巻 第79巻 総説 〜 第4章「救ひの船」
                 記:望月幹巳 メール:motomi@moon.nifty.jp


日 時:平成17年1月22日(土)、1月23日(日)
場 所:伊豆湯ヶ島温泉 湯本館
物 語:天祥地瑞 巳の巻 第七十九巻 「総説」より
第100回記念拝読会への参加につきましては、事前に参加希望をいただいた方のみに限らせていただきます。ご了承ください。
物 語  
天祥地瑞 午の巻 第79巻 総説 〜
第4章「救ひの船」(1985)

★ 報告
梅花の候、皆様にはお変わりなくお過ごしのことと思います。

 

 

 

今回は第100回記念拝読会としまして、霊界物語ご口述場所のひとつでもある、伊豆湯ヶ島温泉は湯本館にて、11名の参加者を得て無事に行われました。拝読は、一日目の夕食前と夕食後の2回にわたって行いました。79巻の序文から始まり、第4章まで読み進めることができました。

2日目は朝食後に天祥地瑞についての座談会を行い、皆さんからの感想や意見を共有しました。湯本館を出てから、沼津は口野の天王神社に詣でました。小さな神社ですが、聖師様も参拝したというゆかりの場所です。一同天津祝詞をとなえ、祈願を終えて帰路に着きました。
拝読自体はのどかな雰囲気の中、楽しく読み進めることができたと思います。ご参加の皆様には、進行等ご協力いただきまして、ありがとうございました。

さて、物語は七十九巻に入りました。この巻は竜の島根の物語であり、朝香比女の神一行の西方の国への旅は、ひとまずお休みとなります。そして、総説では言霊論が展開されています。

総説は、音声というものの本質が、究極は主神に発しており、万物を形作るものであると説いています。そして、霊機と音声の関係を論じた後、言霊学が日本古来の音声に通じる大いなる道であると展開していきます。そして、七十五声の言霊学こそが霊的にも歴史的にも正統なのであり、現今の五十音の日本語音韻論は、仏教によってもたらされたサンスクリットの音韻図を借りたに過ぎない、と説かれたところで、論は終わっています。

物語は万里の海に浮かぶ葭(よし)の島から始まります。葭の島には伊吹の山という高山があり、その麓は広大な湖に囲まれていました。そして、その周辺には竜神族が住んでいました。竜神族は、人面竜身の種族で、いつかは国津神のように人間の姿を手に入れたいと考えていました。
一方、国津神たちは水上山という大丘陵の周辺に住んでいました。国津神の長には、仲のよい兄妹、あでやか(艶男)とうららか(麗子)がいました。 ある夜、麗子は湖のほとりで竜神族の王にされわれます。竜神の王は、麗子と婚姻することで子孫を人間の形に産みなおしてもらおうと考えたのです。麗子は運命を受け入れて、竜宮の弟姫として竜神の都に君臨する決心をします。 一方、妹を探していた艶男は、麗子の霊による通信によって、麗子が竜神にさらわれた事を知ります。絶望した艶男は湖に身を投げますが、水火土(しほつち)の神の翁に救われます。水火土の神は、艶男を竜神の都に連れて行くことを約束し、湖に漕ぎ出します。
竜神の都に着くと、艶男の来着をあらかじめ知っていた竜神王は、歓迎の意を表すために、部下を派遣して艶男を迎えさせました。

★ 拝読箇所で気のついたこと

第七十九巻 午の巻
序文 >
昭和八年の冬、天祥地瑞「巳の巻」(七十八巻)を口述し終わったが、非常時日本の現状を座視するにしのびず、関東別院に居を移して国体擁護のため、昭和神聖会の創立準備に携わっていた。
そのため、口述は中止のやむなきをえていたが、ようやく少し時間ができたところで、昭和九年七月十六日、午の巻を口述し始めて、七月二十日には完成させることができた。
この巻は終始、竜の島根の物語を記したもので、朝香比女の神一行の活動状態については、次巻をもってご神業の一部を発表することとする。

< 総説 >
この至大天球(たかあまはら)に偏在充満する、一切すべてあらゆるものは、気体や液体でさえも、声音を発する性質を持っている。
どんなものでも、かすかに変動すればかすかな声音を伴い、大いに変動すれば大きな声音を伴うということは、私が日常に経験しているところである。
さて、声音とは何なのか。理学者が唱えるところによると、音響は振動であり、その振動が媒介物(主として空気)を伝い、人間の鼓膜におよび、聴覚神経を経て脳に達することで、声音が認識される、というのである。
しかしこれは、単に唯物論的な、物質世界の現象に就いての解釈に過ぎないのである。
私は、このような物事の半分しか見ていない解釈には満足することはできない。さらに進んで、なぜ物の振動はさまざまな音響となるのか、そして音響はどのような機能、効果をもっているのか、が知りたいのである。
言い換えれば、声が出るときに空気が通過するのは何の為であるか。どうして思考が発声器官を通って声となり、また聞こえてくる声と音が、聴覚器官を通じてどのように精神に影響を与えるのか、と知ろうとしているのである。
さらに、これを突き詰めていくと、精神とは何ぞや、という問題に帰着するのである。
このような問題に対しては、科学の説明以上の不可思議な力、無碍自在の妙機を認めざるを得ない。哲学的な領域の問題なのである。
古来の哲学宗教は、あるいは声音という現象をさかのぼって行き、帰納的に絶対不可思議な本源を認めている。あるいは無碍自在の妙機である根底から、演繹的に思想を展開して、声音という現象を説いている。
この無碍自在の妙機、絶対の不可思議力こそが、宇宙の本体である、独一真神、久遠の妙霊にして、一切の声音は、この存在の発現なのである。
『大毘盧遮那経』や空海の『声字即実相義』によれば、声は絶対実在の発現にして、万有一切もまた、絶対実在の発現なのである。したがって、声と物とはひとつであり、絶対声物一如というに他ならないのである。
また『新約聖書』のヨハネ伝によると、声(ことば)は即ち道であり、道は神であり、神は万有と説いているに他ならない(この意味では、キリスト教も多神教の一つであると言える)。
これらは要するに、釈迦やキリストらが認めた「声音即絶対説」であり、われわれの言霊学の声音根本説と類似している。しかしながら、それらは未だおぼろげに声音の妙機を想像したのみであり、言霊学のように、絶対の真を伝え、各声の霊機を明確に整然と説いたものではないのである。
そもそもわが国では、大宇宙を至大天球(たかあまはら)と言い、大宇宙の主宰を天之峰火夫の神、または天之御中主という。そして、万有一切を「神」と言い、この活動力を「結び」と言っている。
これを言霊学から言うと、至大天球は「あ」と言い、天之御中主は「す」と言い、「す」が分かれ発して七十五声となり、この七十五声は結びの力によってさらに発動すれば万声となり、帰り納まれば一声の「す」におさまるのである。
これが一切法界の四大観である。この四大は即ち、あらゆる声音である。天之御中主の発動が神であり、神霊元子と言う。神霊元子とは、「こころ」である。こころとは、絶対の霊機が、ここかしこと発作する状態を言っているのである。このこころの発作がさらに現れたものが、即ち「こえ」である。こえとは、「心の柄」である。
この声を広義一面に「をと」と言う。「をと」とは、外より「を」に結びあたるものあるに対して、「と」を結び、応えるということである。「緒止」である。
これを厳格に区別すると、「こえ」は有霊機物、すなわち広義の動物の心的作用による、自発的な声音である。「をと」とは、無霊機物、すなわち植物・鉱物等が他から衝撃を受けて声音を発するもので、心的作用がない、他発的声音である。
しかし、動物の下等なものは植物と区別できず、植物の下等なものも鉱物と区別することができない。しかも、声音の質はすべて持っている。だから、本にさかのぼれば、声と音とは区別がなく、人間の声も、心の働きを別にして考えれば、音であると言える。
声と音とは、天之御中主の心が発動した声音の程度の差によって名づけられたものであり、等しく広義には声なのである。この声音は、法界一切の万有となって形相を現し、また幽冥に隠れて不可思議な性質を現す。
この、巻いては延び、隠れては発するという活機が、すなわちいわゆる「結び」である。この結びの力によって、一切法界が生住異滅する状態を、至大天球(たかあまはら)というのである。
したがって、至大天球の組成元素は、声音である。声音は、至大天球と共に存在して、如来、真神そのものである。これを真言と言い、道(ことば)と言う。真言はすなわち神であり仏である。言霊は天之御中主の心である。この心をさまざまに動き結んで、万有が生じる。
声も区別があって、人の声は明朗であるが、動物の声は数少なく混濁している。すなわち霊機が減少するにしたがって、声も減少するのである。
日本と外国にも音声言語に違いがあり、外国の声は濁音、半濁音、拗音、促音、鼻音を用いるものが多く、日本人の声は直音のみであり、清明円朗にして、各声に画然たる区別がある。外国人の声はその元声が少なく、日本人は多い。
サンスクリットの母音や、韻鏡(中国語の音韻論)の字母唇音にしても、直音を出そうとするときは、必ず数音をつづり合わせて不足を補っている。日本語ではこのような困難はない。このことは、本居宣長の『漢字三音考』でも論じられている。
外国にはつまる音、鼻音が多いが、これらは正しい韻ではない。また、ンではねる音が多いが、ンは鼻から出る音で、口の音ではない。一方、他の音は口を閉じては出ないが、このンだけは口を固く閉じても出るものである。したがって、わが国の五十連音は誤りである。この五十連音はサンスクリットから借りてきたもので、濁音、半濁音を除いている。わが国の声音は、濁音、半濁音を合わせて七十五音なのである。
要するに、声音は至大天球の主宰、天之御中主の心の現れたものであり、一切万有が享有する霊機の程度によって声と音とに分かれ、声はさらに霊機を享有する程度によって、人の声と動物の声に分かれる。よって、声音の正不正と多少は、霊機の正不正と多少を示しているのである。
それのみでなく、わが国では、声におのおの活機があって、外国語のように無意味な符号ではない。たとえば、漢字音の風をフウという音は、どういう意義を有するか。金をキンという音は、何の意義をもっているか。
これこそが世界の語学者がもっとも苦心している問題であり、日本の文部省が国語仮名遣いのために焦慮しても、何の効果もないのは、この根底がないからである。もしこの根底があれば、国音、国語はもちろん、中国、インド、英仏独、ないし禽獣魚類の声をも理解することができるのであり、音を聞けば草木、金石、線、竹の種類をも分けることができる。
釈迦はこの功徳を説いて、一切衆生語言を「陀羅尼」と言ったのであり、わが国ではこれを「言霊」と言っている。
言霊は言葉の霊(たましい)である。霊とは心の枢府である。すなわち、自分の心の枢府(小我)はやがて天之御中主(大我)の心の枢府となる。この心の枢府を言葉の上から見たものが、すなわち言霊なのである。だから、言霊を知るときはあらゆる一切の言語声音を知ることができ、一切の言語声音を知るときは、天之御中主全体、すなわち至大天球(たかあまはら)を知るのである。
だから、もし真にこれを知って言霊を用いれば、一声のもとに全地球を焼くこともできるし、一呼のもとに全宇宙を漂わすこともできる。まして、雷霆を駆り、風神を叱咤し、一国土を左右し小人を生殺することはなんでもない。
このような言霊、大道、妙術は実に、わが国固有のものである。ゆえにわが国を言霊の幸はふ国と言い、言霊の助くる国と言い、言霊の明らけき国と言い、言霊の治むる国と言うのである。
わが国がこのように霊機の集まるところであり、このような大道を具有している理由は、至大天球成立の自然によるのである。それは、至大天球における脳髄のようなものだからである。
古事記による天体学から証拠を求めると、地球は至大天球の中心に位置し、やや西南に傾度をもっている。そしてわが国は、その地球の表半球の東北方面の上部に位置しているので、あたかもわが国は、地球面の中央の上に位置しているのであり、温帯中にあって寒暑が適度にあり、土壌が豊かで水気は清澄なのである。これゆえ、わが国をまた、豊葦原瑞穂の国と言うのである。
豊葦原とは、至大天球(たかあまはら)のことである。瑞穂は「満つ粋」であり、「ほ」は稲葉などの穂または槍の穂先などのことであり、精鋭純粋のものを言うのである。満つ粋(みつほ)の国とは、地球上における粋気が充満する国、という意味である。
だから、その国土に生じる一切は、皆精鋭の気を集めて生まれている。霊機もまた精鋭なのである。この霊機を真に用いれば、天を震わせ地を揺り動かす業も難しくないのである。そして、このように精鋭なものを用いようとすれば、その用法もまた、精鋭である必要がある。
そして、その用法とは、実は我が朝廷における天津日嗣の大道妙術なのであり、いわゆる言い継ぎ語り継ぎつつ伝えられる、わが国固有のものなのである。
しかしながら、崇神天皇の大御心によってひとたび包み隠されて以来、しばらくその伝を失ってしまった。天下は乱れて儒仏教の伝来となり、これと同時に外国の語声をも輸入することとなった。
以降、わが国の道はますます失われ、言霊の伝はいよいよ滅び、万葉集時代にはすでに仮名遣いの誤れるものも多くなってしまった。こういう有様のうちに、今日使用されている五十音ができあがるに至ったのである。
五十音はインドのサンスクリットの転化したものであり、自然の理法にたがえることはなはだしいものである。今、崇神天皇以来二千年を経て天地が一回りし、かの秘蔵された大道が世に出ようとするに至っている。しかしながら、習慣に慣れて久しい人々は皆、謝った五十音をもって大道の本然であると信じ、言霊をかえって奇異を好むでたらめの説であるとしている。
だから、今ここにこれを明らかにしようとするに際して、まず現行五十音の基本であるサンスクリット音韻が宇宙真理の正伝ではないことを知らしめようとするのである。しかしまた、現行五十音がサンスクリットの音韻に基づくということを知らない人もあるので、さらに一歩を引いて、五十音の出所を論定し、そうしてから本論に入る。
五十音図は、吉備真備の作、または真言の僧徒が作ったなどの説があるが、いずれにしても、サンスクリットから出たものは明らかである。真言僧が作ったといえばそのものであるし、吉備真備が作ったにしても、漢語の音韻を参考にしたであろう。しかし漢語の音韻はサンスクリットを元にしているからである。サンスクリットには母音十二字、父音三十五字がある。その音字の配列順序を勘案するに、これがサンスクリットの音韻図を元にしていることは明白なのである。

< 竜の島根 >
第一章 湖中の怪(一九八二)

  • 天之峯火夫の神が大宇宙の高天原に生じまして以来、幾千年の星霜を経たけれども、天は未だ備わらず、地はまだ若くして、くらげなす漂える島々の中にも、特別に美しく地固まった天恵の島があった。
     

  • この島を葭(よし)の島、また葭原(よしはら)の国土とも言った。この島国は葦原の国土に比べて約十倍の広さを有し、万里の海の中に漂う生島である。
     

  • この島の中央に立つ高山を伊吹の山と言い、その麓を巡る幾百里の湖水を玉耶湖といった。伊吹の山には花樹が繁茂し、芳香は風に薫じて地上の天国のようであった。
     

  • この山を中心として湖面に、竜神(たつがみ)と称する種族が出没し、平和な生活を楽しんでいた。しかしながら、竜神族はいずれも人面竜身であり、人間としての形体が備わっていなかった。竜神族の王は、なんとかして国津神のように人体を備えたいものだと、日夜悩み焦っていた。
     

  • この湖水の上流に水上山という大丘陵があり、国津神はこの丘陵を中心に平和な生活を送っていた。この里の酋長を国津神の祖と称し、名を山神彦と言い、その妻を川神姫と言った。
     

  • 山神彦、川神姫の夫婦の間に、容姿美しく、雄雄しくやさしい男女二柱の御子があった。兄をあでやか(艶男)と言い、妹をうららか(麗子)と言った。二人の兄妹は互いに睦び親しんで、どこに行くにも常に一緒であった。
     

  • ある夜、麗子は大自然の風光にあこがれ、ただ一人水上川の岸辺に下りていき、月下の川辺に立ち、美しい光景や兄への憧れを歌っていた。
     

  • すると、川底を真昼のように輝かせながら、ぬっと首から上を水面に出して、歌を歌う男がいた。よくよく見れば、麗子の慕う兄の艶男であった。
     

  • 麗子は思わぬところで兄とであったうれしさに川に入ろうとしたが、身を切るばかりの冷たさに驚き、岸に馳せ上がった。
     

  • 実はこれは艶男ではなく、この湖底に潜む竜神族の王であった。竜神の王は国津神をとらえて婚姻し、それによって人面竜体を脱して国津神と同様の子孫を産もうとしていたのである。しかしながら、水中にある竜体は、川底の藻草で包まれていたので、麗子には青い衣を着ているように見えていた。
     

  • 麗子は竜神の王を実の兄だと疑わず、冷たい川水から早くあがってこちらに来てください、と歌いかけた。竜神の王は逆に、川水の中に入り来たって一緒に竜の都へ行こう、と麗子に誘いかけた。
     

  • 麗子は腑に落ちなくなってきて、もしかするとこれは、兄ではなく竜神が兄の姿を借りているのではないか、と疑い始めた。竜神の王は、艶男そっくりの声で、夫婦の契りを結んで一緒に暮らそう、と歌いかける。
     

  • 麗子は川岸へ上がれと歌い返し、双方が水陸両面から歌を掛け合わしていた。すると、一天にわかにかき曇り、あたりは闇に包まれ、波が狂いたった。たちまち暗中から一塊の火光現ると見ると、艶男と見えた男は人面竜身と変じ、麗子の体をひっ抱え、湖中に浮かぶ伊吹山方面さして逃げ去ってしまった。

  • 第二章 愛の追跡(一九八三)

  • 幼いころより離れたことのなかった麗子の姿が、卒然として見えなくなり、兄の艶男は心をいらだたせ、物寂しさを感じつつ妹の在り処を探すべく、月下の野辺を逍遥しながら声を張り上げて歌を歌っていた。
     

  • すると、萱草の生い茂る中から、麗子の声で歌が聞こえてきた。艶男は、麗子をたずねてここまで探し歩いてきたことを歌い訴えるが、麗子の声は、自分はすでにこの世に亡き身であり、竜神の都に囚われてしまったことを告げた。今は魂が凝って草葉のかげから歌っているのであり、もはや生きて見えることはできない境遇である、と伝えたのであった。
     

  • 艶男は麗子が竜の都に誘惑され、現世ではもはや再び会うことができないことを知った。そして、この上は死して君の所へ行こうと歌うが、麗子は父母を思ってこの世にとどまるよう諭した。そして麗子の魂は、一個の火団となって舞い上がり、玉耶湖の空さして中天に姿を隠した。
     

  • 艶男は麗子恋しさに思いつめた思いを歌い、玉耶湖をさして急ぎ湖畔にたどり着くと、月に向かって合掌し、竜の都の妹の下へ行こうと歌うと、サブンと湖中に身を投じてしまった。

  • 第三章 離れ島(一九八四)

  • 麗子は人面竜身の怪物にさらわれ、黒雲の中をものすごい速度で運ばれてきた。そして、とある紫の壁、蒼い瓦の門前に下ろされた。ふとあたりを見れば、そこは湖水すれすれに浮かんだ、竜神の都の表門であった。
     

  • 数多の人面竜身の竜神族は、「ウォーウォー」と叫びながら、藻の衣をまとい、顔面のみを出して、幾百千ともなく門の両側に端座して迎えていた。
     

  • 竜神の王は、国津神の娘、麗子姫を竜神族の王として迎え祭り、竜神族の子孫を人の姿に生みなおしてもらおうと、声もさわやかに歌った。竜神たちは、さまざまな音楽をかなでて歓迎の意を表し、陸に湖に出没して踊り狂う声は、天地も崩れるばかりであった。
     

  • 麗子はあまりの光景に不審の念が晴れず、父母や兄の事を思いながら黙然とうつむいていた。竜神の王は、ここは竜神の都であり、麗子によって竜神族の竜身のすがたを救ってもらおうとしているのだ、と歌い説明した。
     

  • 麗子はもはや仕方がないと決心を固め、この憐れな種族にとついで人間の子孫を生もうと、艶男への恋心を断ち切ろうとしたが、心の底に一片の名残が残っていた。
     

  • 麗子は、今は竜神の王となって竜神族を助けようと決心を固めたことを歌った。竜神の王は感謝の意を表し、今日からは竜宮の弟姫として、竜神族の守りとなってくれるよう頼んだ。
     

  • 竜神たちは、金、銀、瑪瑙など宝玉で飾った神輿を担ぎ来て、弟姫となった麗子の前に降ろし、平伏した。竜神の王は、この輿は麗子のために作ったものであり、竜神族の真心を表したもので、どうか乗ってくれるように頼んだ。
     

  • 麗子は今はこの輿に乗って進もうと応じ、神輿の鉄戸を開いて立ち入った。神輿は直立しても頭が天井につかえることはなく、長柄の棒を担ぐ竜神族は幾百人という大きなものであった。
     

  • 竜神の王を先頭に進んでいくと、七宝で飾られた大楼門が現れた。白衣をつけた竜神たちが左右に鉄戸を開き、神輿は粛々と中に入っていった。そこは妙なる鳥の声が木々のこずえに響き渡り、その荘厳さは言葉に尽くせないほどだった。
     

  • この大竜殿の玄関に、神輿はうやうやしく下ろされた。竜神の王は、ここが我が住む館であると歌った。麗子は神輿の戸を開いて庭に降り立つと、竜神王の後について奥殿へ進み入った。
     

  • これより麗子は、竜宮の弟姫とたたえられ、竜神の王に大竜身彦の命と名を与えると、この島の司として輝きわたることとなった。

  • 第四章 救ひの船(一九八五)

  • 艶男は麗子がもはや霊身となって、現世の人でないことを知ると、嘆きのあまり玉耶湖に身を投げてしまった。
     

  • そこへ、白髪異様の老人が一艘の船をこぎながら釣り竿をたれていたが、艶男の飛び込んだ音に後を振り返り、誰か知らぬが、飛び込んだ者があるようだ、助けねば、としばし考え込んでいる。
     

  • すると、はるか先方に黒い影がぽかりと浮いた。老人は小舟をこぎ寄せ、黒い影に手を差し伸べて船中に救い上げた。よく見れば、国津神の子、艶男であった。老人は水を吐かせ、人工呼吸を施して蘇生させた。
     

  • 老人は、国の御祖の子が、なぜかろがろしく命を捨てようとしたか、諭し呼びかけた。艶男は正気に復し、恋しき人に別れて、世をはかなんで生きる希望を失ったのに、なぜ私を救うのか、と恨みを歌った。
     

  • すると老人は厳然として、自分は湖の翁、水火土(しほつち)の神であると明かし、命を捨てて何になろう、生きて国を守るように、と艶男に諭した。
     

  • 艶男は老人が水火土の神と知って恥ずかしく思ったが、今ここに命を救われたことは幸いであると悟った。水火土の神はにっこりとして命を捨てることの愚かさと罪深さを説き、悔い改めよと諭した。艶男は翻然として命の尊さに思い至った。
     

  • そして艶男は、麗子が竜神にさらわれて命を失ってしまったことを、水火土の神に訴えた。すると水火土の神はにこにこしながら、麗子は命を救われて竜の都にいることを知らせ、今から艶男を導いて竜の都に送ろうと歌った。
     

  • 艶男は、これから進んでいく竜の都に思いをはせ、また死んだと思っていた麗子が生きていると知って喜び、自分の命を救ってくれた水火土の神に感謝の歌を歌った。
     

  • 水火土の神は歌いながら船を漕ぎ出し、ようやくにして竜宮の第一門にたどり着いた。大身竜彦の命は艶男が尋ね来たことを前知し、数多の従臣を第一門に遣わし、艶男の上陸を歓迎の意を表しつつ待っていた。


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