とよたま愛読会108回天祥地瑞 申の巻 第81巻総説 〜 5章
                 記:望月幹巳 メール:motomi@moon.nifty.jp


日 時  平成17年9月25(日) 午後1時から午後4時30分まで
場 所  愛善苑 豊玉分苑 (京王線下高井戸駅下車 徒歩8分 川崎方)
      連絡先 03-3321-3896、  03-3321-8644
物 語  
天祥地瑞 申の巻
           第81巻 総説
第5章 心の禊(2032)

★ 報告

秋たけなわの候、皆様にはお変わりなくお過ごしのことと思います。前回第108回の報告をお送りいたします。
   


  総説には、天祥地瑞の宇宙創生と主神の存在、そして生命がどのように宇宙に包含されているかといった宇宙論が極めて簡潔に、しかし非常に含蓄深く説かれています。
これまでも天祥地瑞各巻の総説において、宇宙創生論が展開されて来ましたが、81巻の総説は、その簡潔なまとめという趣があります。
『されば最大一なる霊魂精神は、至大天球(たかあまはら)一名は至大霊魂球(おほみたま)にして、一個人の神経は、此の霊魂球(みたま)中の一条脉(じょうみゃく)なる即ち玉の緒と言う物也』。

至大天球はス(☉)の中に力が張り詰めて球体となってできあがった、と言います。しかし、この至大天球は宇宙全体という世界であると同時に、至大霊魂球=おほみたま=主神そのものであるといいます。
天祥地瑞の宇宙論には、これまでの漠然とした霊界観・宇宙観・霊魂観・神観を改めざるを得ない記述が多くあります。

私個人の理解を引き合いに出して恐縮ですが、今までの漠然とした理解では、この物質世界とは「現界」であり、物質とは別に霊というものがあり、物質に霊が宿ったものが生命である、というものでした。そして現界である物質世界を超えたところに、より優れた霊のみの世界、「霊界」がある、という風に思っていました。そして、霊界の移写が現界である、と。
しかし、この天祥地瑞の総説が真説であるとすると、そういった説明・理解は単なる比喩でしかなかったことになります。

全宇宙自体が主神そのものであり至大霊魂球=おおみたまである。その内部の極微点が珠となり連なって至大天球の中に世界ができた。そして極微点が連なる糸に霊気が生じ、生命はこの霊気の一条一条に他ならない。というのであれば、物質と霊の違い、霊界と現界の違いは本質的にはないことになります。どちらも一つの宇宙の中に、連続して存在しているということになるからです。

聖師様は、ここ81巻の総説の説明は比喩でも何でもなく、そのまま極限の基本の教えであり、何か他の意味を見出そうとしてはならない、と強い口調で語っておられます。
他にも天祥地瑞の総説では各所で、この現界は、紫微天界が何十万年もかけて修理固成された結果の世界である、と説かれていました。霊界と現界が本質的に違う次元の世界であるという考えは、誤り(あるいは単なる比喩)なのかもしれません。

もしそうであるとすると、まさにこの現界をよりよい世界にしていくことこそが、肉体を持って生まれてきた我々の使命であるということになります。なぜならここが紫微天界であるならば、ここに生を享けた我々は、修理固成の使命を持った神司に他ならないからです。
何かこの世の日常を超えた霊の世界に救いがあるのではなく、我々自身が神であり、この世こそが修理固成するべき紫微天界であると言うのです。
そしてまた生命とは、主神そのものである宇宙全体に張り巡らされた、極微点の連珠の糸の一脈であるとすれば、生命とは永遠であり、つながりあっており、そして極元では主神とつながっている、とも理解できるのではないでしょうか。

 これはひとつの解釈ですが、より研鑚を深めていくことにより、真の理解に近づいていくことができればと考えております。この愛読会がその一助ともなれば幸いです。

*塩津さんから、拝読個所の感想をいただいております。
[
107回 ご感想]
第80巻 18章〜終章まで
なんと言っても、楽しく拝読できるのは、朝香比女の神が国津神に授けた燧石(ひうちいし)で火が放たれ、その「野火」によって曲鬼・獣・大蛇が総て焼き尽くされる光景でしょう。

朝香比女のお歌
○朝霧比女の厚き心のもてなしに  ゐやひの言葉吾なかりける
○葭原の国土の宝とまゐらせむ  火種を保つ此燧石を
○此宝一つありせば葭原の   国土清まりて永久に開けむ(458頁)

いわゆる太平洋戦争の末期に焼夷弾によって焼き尽くされた日本の国土、果たしてこの国に住む日本人の心は清まった、のでしょうか?
そして、お歌として
○鬼大蛇火炎の火口を守りつゝ   国に火種を取らせざりけり
○火炎山陥没なして湖(うみ)となり   火種の失せし淋しき国なり
○朝香比女の神の賜ひし燧石は   此葭原の永久(とは)の宝ぞ

つまり、これまで一部強圧的な支配者が必死に守った火種は今や国民のものになった、と云うことなのでしょう。人の心の解放は同時に旧守的な人々の特権を解放することでもあったのです。

ちなみに、この光景が神の経綸であることを、聖師さまはこう示されています。
○曲津神(まがかみ)を焼き滅(ほろぼ)主の神の   御火の力にしくものあらじ

[108回 ご感想]
今回拝読した『霊界物語』第81巻は、云うまでもなく、物語の最終巻です。そしてその『総説』は「天地開闢の極元」と題されています。
聖師さまは最後の最後に宇宙初発の大原理を闡明にされています。つまり宇宙成り立ちの本義と意味を明らかにされたのです。それがこの『総説』の大事な所だと感じました。
翻ってみれば、『霊界物語』第4巻 第9篇 宇宙真相 第49章から第50章まで「神示の宇宙」として開示された宇宙の真相は、その後『霊界物語』天祥地瑞の各巻冒頭の総説・序文などで少しずつ解説的にその霊的意義が説き明かされてきまた。今回の総説はそれらの最終章となるべき位置にあります。
○大虚中ただ一点のゝ(ほち)現(あ)れて
      至大天界生まれ給へり (第73巻第1章 余白歌)

さて81巻総説を要約してみますと、
「天地開闢の極元」である
声の神霊(ことたま)は極大に拡がってゆくのですが、遂に霊・力・体のお働きの元になる神霊子である極微点(コゴロ)が連珠絲(サヌキ)の状態で宇宙に充満します。同時にコゴロのサヌキは宇宙の形(至大天球)を作っていきます。そして、わが宇宙たる至大天球(たかあまはら)は梅の花びらのように凹凸を作りながら呼吸し、そも都度コゴロが円球の外壁にそって走り、再び至大天球の内側に入り込むという運動を続けているのです。これが ?の言霊が生み出した宇宙の真相なのです。
 さてコゴロのサヌキとは何なのでしょうか?

全貌はまだまだ私にとっては、漠としたものです。しかし、最近二十年位の間に宇宙物理学の分野で研究が進み、極微点(コゴロ)が素粒子であるかもしれないと云える状態になっています。また素粒子の研究は、さらに微細な「弦」とか「ひも」を想定し、(点)を研究するだけでなく、物語81巻『総説』の3頁に書かれている二重丸のような円形の「閉じた弦(スーパーストリング)」が振動し素粒子を作っている、という説を生み出しています。しかもスーパーストリングの振動は、資料で見る限り、『神示の宇宙』で説かれている「地球の傾斜運動」によく似ています。一度この動画を御覧になることをお勧めします。
神様が書かれた『神示の宇宙』の総てを我々人間が完全に拝受することは不可能です。がしかし、我々は、時間と空間の制約の下であれ、主神の愛と光を全身全霊で受け止めることは出来るのです。
参考 WEB 「目で見る超弦理論」を検索下さい。

以上です。ご感想ありがとうございました。

 

★ 拝読箇所で気のついたこと

81巻 申の巻
 
総説 天地開闢の極元

  • 考えられないほど大きく、浩く、漂い、恒久に変化がなく、霧を撒いたようなス(☉)の時に、その機約の両極端に、対照となる力を起こった。

  • (その当時の宇宙は)恒に張り詰め深く静かに満ちていたので、考えられないほど大きさの両極端に対照となる力が保たれ、至大宇宙のあらゆる極は相対照となった。

  • その不思議な威を持つ対照力の中間を、極微点(コゴコ)を珠のように連ねた糸が掛けつなぎ、隣り合い並びあって、ヒシと充実極まる状態であった。

  • しかしながら、そうした働きは気体の形であり透明であったので、人の眼に見えるような現象ではなかった。

  • 見えないけれども、この連珠の糸が霊気を保ち、初めて至大天球(たかあまはら)を作ったのである。そのとき、対照力(タタノチカラ)が至大天球の外面を張り詰めたために、至大天球(たかあまはら)は球形になったのである。

  • たしかに、極元となったス(?)は、大きいことこの上なく、ひろびろとして漂い、恒久に変化がない状態で、花形をしており、凹凸を繰り返して呼吸を保っていたのであった。

  • そのようにして、極元のス(?)は、その平らな輪の部分のところで対照力を起こし、その外面を対照力によって張り詰め、張り詰めして至大天球(たかあまはら)となったのである。

  • それゆえ、、極元のス(?)の凸の所にあって、区切りの部分にあった珠の外に成ったために、鰭のような状態になった極微点は、張り詰めた珠を塗って移動した。そして至大天球の東岸部、西岸部に門を開けて、至大天球内に競って進入しようとする力を生み、押し入ってきた。

  • この押し入ってくる極微点の力は、始めの対照力に張り詰められて至大天球中に固まっていた極微点の連珠の糸の霊気を中央に押し込み、押された気が北極、南極に押し出される。

  • 押し出された気はまた至大天球の外面を塗って移動し、東岸部、西岸部に来ると、また至大天球中に入っていく。このようにして霊気は、永世無窮に果てしもなくならび連なって、至大天球の内外を循環運行しているのである。

  • 本当のところ、ここまでに説いてきたひとつひとつの真の説は、釈迦や孔子でさえ、探求したけれども知ることができなかった、極みの重要な教えである。比喩、たとえ話の説明、謎かけ話のような、不正曖昧ないいかげんな話ではないことを理解してもらわなければならない。

  • だから、一言一句がことごとく真正に、至大天球(たかあまはら)の組織、細かな特徴の理、大なる造化のはたらきを捉えて、明細に密に審査して、表に現れたきざしを証明した、極限の典説なのである。

  • 大いなる智恵に照らされて、全体を見通すことに熟練したあかつきには、これが一切世界に無比なる極みの教えであると称えるようになるであろう。そのことを感得すべきである。

  • だから、謹んで本書を拝読する者は、その鑑識眼を明らかにして、一切の迷いを一掃するべきである。愚蒙にして鑑識を誤る者は、比喩や喩え、謎かけ、想像を働かせて、この説をお経や哲学の類とみなしてしまい、他の説と比較したり、愚案・愚考と談じたりして、自分はいっぱしの哲学を語っているように信じている、という有様になってしまう。

  • 読者においては、鑑識眼を正しく明らかに極めることを切に希望する。

  • たしかに老子はこの至大天球を語っているが、明言することはできなかった。ただ、「玄のまた玄、衆妙の門」、とだけ言った。「門」とは、表半球の形を謎にかけたのである。もしはっきりと「天球」云々と言った場合、さまざまな質問・疑問が起こってくる。老子の教えでは、それらに答えることはできないので、よくよくその辺りを思案するように。

  • 釈迦は「無辺法界」「不思議界」と言う。まさに、思いはかることができないもの、という意味である。孔子は至大天球のことを「容(とるる)」と言い、また「一ツ」と言った。みな、謎かけ談のようなものばかりである。

  • まったく、このような謎かけ談しか語ることができなかったのは、行き届かないことこの上ないが、はっきりと言ってしまうと様々な質問・疑問が起こることを恐れて、比喩、たとえ話、謎かけでもって世間をごまかし、神器を持った弥勒が出現するのをただ待っていたのである。まったく憐れな話である。

  • このような有様であるので、『最大一なる霊魂精神は至大天球(たかあまはら)、またの名を至大霊魂球(おほみたま)であり、一個人の神経は、この霊魂球の中の一つの条脈、つまり玉の緒と言うべきものに他ならない』、と明言したとする。

  • そうすると、釈迦、老子、孔子の教えでは、その明細を説明することができないのである。ただ頑迷な謎かけ話を作ってそれを愚かにも崇拝しているだけなのである。

  • 僧侶は、霊魂心性のことを第一に説き明かす人々であるはずなのに、『その心性とは、至大天球(たかあまはら)中の真霊に他ならない』とはっきり言ったとき、その詳細や、造化がどのように始まり、どのように終わるか、ということをはじめ、億万劫々年間に生まれ死んでいった一切の事柄を、詳しく教示することができない。ただ迷妄な謎をかけて迷っている達磨は憐れ極まる者である。

  • だから僧侶たちに、現在行われている教えの道の本元は何だ、と問い詰めると、一言でも答えることができる者がいないのである。まして、その教えの本元が、究極的には何に基づいているか、などということには夢にも思い至らない、情けない僧侶ばかりなのである。

  • そんなことはない、という人がいたら、道統の本元が基にしている極元は是である、と一言でも説明してみるがよい。

  • 釈迦も達磨も、その教えの道が、究極的に何を基にしているかを知らないが故に、直接はっきりと道法を説明することができないのである。だから、比喩、たとえ、謎かけのみで、ただ弥勒如来の到来を待って教えを喜び奉っているだけなのである。

  • 速やかに弥勒の出現を乞い奉るべきである。いや、弥勒はすでにここにある。請ぜよ。

  • 第1篇 伊佐子の島
    第1章 イドム戦(2028)

  • 高照山の西南、万里(まで)の海上に、伊佐子の島という面積の大きな島国があった。島の中央に大栄(おおさか)山脈という大きな山脈が、東西に横切っていた。

  • 大栄山脈より南がイドムの国、北をサールの国といった。伊佐子島は、万里の海の島々の中でも最も古く生成された島であり、国津神たちが大勢住んでいた。

  • イドム、サールの両国はお互いに領土を占領しようと数十年にわたって戦争を続けており、国津神たちは苦しみ、救世神の降臨を今か今かと待ち望んでいる様子であった。

  • 大栄山の中腹に、真珠湖という大きな湖があった。南北十里、東西二十里もあり、その湖水は不思議にも塩分を帯びていた。また、遠浅で、膝ほどの深さしかなく、水上を徒歩でわたることができたのであった。

  • この真珠湖には人魚が多数住んでおり、国津神のように茅で屋根をふいた住居に住み、生活ぶりも国津神のようであった。

  • 真珠湖は大栄山の南側でイドム国領内にあった。イドムの国の人々は、人魚を捕らえて来てはいろいろと苦しめ、涙を流させた。すると、涙は真珠の珠となって落ちるのであった。

  • イドムの国津神たちはこれを装飾品にしていた。また、これを内服すると身体が光を放ち、子孫は美しい子のみが生まれるのであった。そういうわけで、時が経つにしたがって、イドムの国津神たちは美男美女のみとなってしまっていた。

  • これに反して、北側のサールの国津神たちは色黒で背が低く髪はちぢれ、醜い者ばかりであった。サール国王エールスは、真珠湖を占領してサールの国の種族を改良しようと目論んでいた。

  • ついにエールスは大軍を率いて大栄山を越え、真珠湖に向かって進軍を始めた。

  • サール国侵入の報を聞いたイドム国王アヅミは、さっそく軍議を召集した。軍議には王妃ムラジ、左守ナーマン、右守ターマン、軍師シウラン、王女チンリウ、侍女アララギが参加した。

  • 軍議は、軍師シウラン、右守ターマンの主戦派の意見が取り入れられ、一気に決戦を挑むことになった。王女のチンリウ姫も出陣し、ともに戦うこととなった。

  • イドム国が将軍を場内に呼び集め、出陣の用意をしている折しも、サール国の軍隊はすでにイドム城下にまで迫っていた。

  • イドム国軍は決戦を挑み一日一夜激しく戦ったが、サール国は精鋭決死の兵士ばかりで、イドム国軍はもろくも敗戦し、国王以下、南方の月光山(つきみつやま)を指して逃走した。

  • アヅミ王は月光山に立て篭もって城壁を構え、イドム国再興を図ることとなった。

  • エールス王はイドム城を手に入れてイドム国を統治下に置いた。エールス王、サール国左守チクター、右守ナーリス、軍師エーマンはイドム城に入場し、勝利を祝うと、しばらくイドム城に駐屯することとなった。

  • 第2章 月光山(2029)

  • イドム王は王妃、左守、右守、軍師らとともに月光山に逃れ、再挙を図ることとなった。また、王女チンリウ、侍女アララギをはじめ多くの勇士が捕虜となり、サール国城中の牢獄につながれてしまった。

  • イドム王と王妃は、娘の消息がわからなくなってしまったことを歎いていた。一同は再起の時を誓いつつ、チンリウ王女の消息を探るために、三人の武士をひそかに敵国に遣わすことにした。

  • 左守、右守、軍師は敗戦の責任に遺憾の意を歌に歌ったが、アヅミ王はこれまで、主の神から恵みを受けながら務めを怠っていたことに気づいた。そして、月光山のいただきに大神の宮居を造営し、朝夕の祈りを捧げるよう大臣たちに命じた。

  • 大宮居造営に際して左守、右守は国津神たちを召集した。そして無事に地鎮祭を終えると、国津神たちは祝宴を開いた。アヅミ王はこの様を見て、国の礎が固まったことを感じ、喜びの歌を歌った。

  • そして、一同は改めて再起の意を固めることとなった。

  • 第3章 月見の池(2030

  • 百日間の工程を経て、麗しい神殿は完成を見た。アヅミ王を始め重臣たちは斎殿に集まり、七日七夜の修祓(しゅうばつ)を終えると、遷座式を行う段取りとなった。

  • 月光山の中腹には月見の池という清らかな泉が湧いていた。

  • アヅミ王いかの修祓行者たちはこの池に集まり、おのおの泉の水を頭上からかぶりながら禊を行い、イドム国の再興やチンリウ王女の無事を神に祈る歌を歌った。

  • アヅミ王はいままでの心のあり方におごりがあったことに気づき、今後は心を立て直して、神の御前に畏み仕える気持ちで国を治めなければならないことを悟った。

  • 第4章 遷座式(2031)

    ◇主の大御神、高鉾の神、神鉾の神の前に畏まり奏上するに、敵に攻められイドム城を失ったのは、先祖の志を軽んじ、大神の御恵みを忘れてほしいままな政を行ってきた罪であると悟りました。

    ◇ここに心を改めて、月光山のいただきに大宮柱太敷き立てて主の大神の大御霊をお迎えすることにいたしました、ついては、月光山を益々栄えしめたまいて、イドムの城を奪還せしめ給うよう願い、そのあかつきには、上下ともに心の驕りを戒めて、大神の大御心にかなうよう誓い奉ります。

    ◇この神殿に天降りまして、イドムの国とともに、サールの国までもことごとく、大御神の御恵みに潤いますよう、直く正しき心を持ちますよう、お願い申し上げます。

    第5章 心の禊(2032)

  • アヅミ王以下重臣たちは、高鉾の神・神鉾の神の御宣旨に感激し、百日の修祓に取り掛かろうと、今度は山麓を流れる駒井川に集った。

  • 駒井川の水はとうとうとして壮観な勢いを見せていた。一同は川中の巌に陣取り、日夜心力を尽くして禊の神事に仕えていた。

  • 国津神たちは禊の祈念に余念なく取り組んでいる折しも、突如、上流から半死半生となって助けを求めながら流れ落ちてくる、一人の男があった。

  • 国津神たちがよく見ると、それはかねてから敵と狙う、サール国王エールスに他ならなかった。アヅミ王はとっさにわが身の危険も忘れて激流に飛び込むと、エールス王を川州に助け上げ、介抱を始めた。

  • 王以外の神々はこのときばかり恨みを晴らそうと、おのおの石を掴んでエールスを打ち殺そうと集まってきた。アヅミ王は右手を差し上げ、罪はわれわれの心にあったのであり、エールスといえども神の子、乱暴してはならないと一同を制した。

  • エールス王はアヅミ王の介抱により正気を取り戻すと、回りを見回して、助けてくれたお礼を言うどころか、自分の禊を邪魔したと言って、アヅミ王一同を非難した。

  • 王妃、大臣以下の神々は怒ってエールス王に襲いかかろうとした。アヅミ王は一人必死に一同をなだめて回ったが制しきれず、王以外の神々はいっせいにエールス王に石を投げつけた。

  • すると不思議なことに、エールス王の姿は煙となって水中に消えてしまった。一同が茫然としていると、水中から大きな蛟竜が現ると、神鉾の神の化身であると自らの正体を明かした。

  • そして、アヅミ王の心は禊を終わり、大神の大御心にかなったことを告げた。また王妃以下大臣たちはまだ心の修行が足りず、改めて百日の修祓に仕えるべきことを宣言した。そして、山の神殿には神鉾の神が御霊を止めることを託宣した。

  • ここにアヅミ王は三日の禊によって許され、月光山の神殿に奉仕し、国政を司ることを得た。王妃以下大臣たちは改めて百日の荒行を命じられ、その後月光山の神殿に仕えることを許された。


  • 以上   [前回レポート] [次回レポート]


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