とよたま愛読会112回特別篇 入蒙記 第1章〜11
                 記:望月幹巳 メール:motomi@moon.nifty.jp


日 時  平成18年1月22(日) 午後1時から午後4時30分まで
場 所  愛善苑 豊玉分苑 (京王線下高井戸駅下車 徒歩8分 川崎方)
      連絡先 03-3321-3896、  03-3321-8644
物 語  
特別篇 入蒙記 第一篇  「日本より奉天まで」
           
      第1章 水火訓 〜 第11章 安宅の関

★報告
  向春の候、皆様にはお変わりなくお過ごしのことと思います。今回より、特別篇の入蒙記に入りました。
 

入蒙記の冒頭の各章では、入蒙以前の大本の開教、第一次事件に至る歴史と過程が記されています。
聖師様が著作された入蒙記は、上野公園著として世間一般に出版された単巻のものと、霊界物語の特別篇として口述された本巻の二種類があります。
この特別篇では、より内面的な事情について詳しく記している、とあります。
このあたりの事情を汲み、入蒙にどのような霊的な意味があったのかを読み解いていくことが肝要であると思います。
参加者の方より拝読のご感想をいただいておりますので、ご覧ください。

<拝読会のご感想>
 塩津さん:  しっかり読もう『入蒙記』
   いよいよ『入蒙記』の拝読ですね。聖師さまの入蒙についてはまったく正反対の評価があります。曰く、「愚挙そのものであり、大失敗だった」と「大本」関係者ですら言っています。
たしかに当時で27万円(現在の価値にして約20億円、ほとんどが信者の寄付)もの費用を使い、馬賊とはいえ、200名に近い戰死者を出し、聖師さま自身も囚われてあわや銃殺か、というところまでいったのですから。
裏方で苦労した「大本」関係者が、そう思うのもあながち理由無しとは言えないでしょう。
さらに「あれは日本軍国主義の大陸侵略のお先棒を担ぐ反動的な行為だった。」という手厳しい批判もあります。
しかし聖師さまは終始一貫して「大成功だった」と述べられています。
なぜでしょうか? 少しずつですがその内容に迫っていきましょう。


 今回拝読した分(第11章まで)には、
 @ 聖師さまの霊的な履歴(ご神格)がのべられています。(77から79頁)
 A 主神の経綸上絶対に必要な東亜の根源地蒙古に、
   ○ 満蒙と支那の将来熟慮して、み国のために蒙古に入りたり と述べられています。
 Bこのお歌の背景は、『神典に云う葦原の国とは、スエズ運河以東のアジア大陸を云うので、神典の意味から云い、また太古の歴史から云えば日本国である。(中略)此の葦原即ち亜細亜は、伊邪那美尊さまが領有されていたが、後に素盞嗚尊がそれを継承されたのである。故に亜細亜大陸政策こそは素盞嗚尊の御神業の主たるものである』ということなのです。

 従って、入蒙は主神の御神業の現れに外ならないのです。

 

★ 拝読箇所で気のついたこと
山河草木 特別篇 入蒙記
 第1篇 日本より奉天まで
 第1章 水火訓

* 国照姫は国祖大神の勅により、水を持って天下の生きとし生けるものに洗礼を施そうと、明治25年から、霊地綾部の里で神の教えを伝えていた。

 * 水とは、自然界の生物を育てる資料なのであって、水洗礼とはつまり、天界の基礎である自然界・現実界をまず正して行く、ということである。

 * 国祖・国常立尊の大神霊は、稚姫君命の精霊に御霊を充たして、預言者国照姫の肉体に降りて来た。こうして国祖は間接内流の方式により、過去・現在・未来の有様を概括的に伝授したのである。これが一万巻の筆先(神諭)となった。

 * この神諭は、現世界の肉体人を教え導き、安らかな生活、飢病戦のない黄金世界を建造するための神業である。これを称して、水洗礼というのである。

 * 国照姫の役割は、後からやってくる救世主出現の基礎を作るため、先駆者として神命によって地上に出現したのである。

 * 国照姫のみならず、今日まで世の中に現れていた預言者や救世主はいずれも、自然界を主となし霊界を従として、地上の人間に天界の教えの一部を伝達していたのである。

 * しかしながら今日は人間の精神界は混乱し、無神論さえ唱える輩も現れた。水洗礼のみでは安心を得ることができなくなってきた。

 * そこで火の洗礼である霊界の消息を如実に現して、世界人類を覚醒させる必要に迫られたがために、言霊別の精霊を、地上の予言者の体に下されたのである。

 * 火の洗礼とは、霊主体従的な神業のことである。霊界を主となし、現界を従とした教理のことである。

 * ここにいよいよ火の洗礼を施すべく、源日出雄の肉体は言霊別の精霊を宿し、真澄別は治国別の精霊を宿し、神業完成のために、未開の地から神の教えの種を植え付けようと、神命によって活動を始めたのである。

 第2章 神示の経綸
 * 大本教の聖地・綾部の八尋殿において、恒例の節分祭が執行された。祭りの執行後、源日出雄は壇上から演説を試みた。

 ( 天地万有を創造したまいし主の神を斎き祭る節分祭は、一年のうち最も聖なる祭典日です。

 ( 大正13年2月4日はとくに、天運循環して、甲子の聖日であり、十万年に一度しか際会することのできない日です。

 ( 教祖国照姫命にかからせたもうた神様は天地の祖神・大国常立尊であり、明治25年の正月元旦に、心身ともに浄化した教祖は、稚姫君命の精霊を宿し、聖なる教えを衆生に向かって伝達されたのです。

 ( 開祖の御役割りとは、根本の大神の聖慮を奉戴し、神界より地上に降したまえる十二の神柱を集め、霊主体従的に国土を建設することにより、世界を最初の黄金世界に復帰せしめる御神業を、国祖により任せられたのです。

 ( 今や天運循環し、世界各地に精神的な救世主が現れている。日出雄も主の神の神示に基づき、小さな教団の神柱となっていることができないようになってきた。

 ( 現在の混迷の極度に達した人心に活気を与えて神の聖霊の宿った機関として活動せしめるためには、まず第一に勇壮活発な模範を示すことにより、人間の心の岩戸を開いてやる必要がある。

 ( 開祖は冠島、沓島開きや鞍馬山など各地霊山への出修によって、それを行った。日出雄もまた神示をかしこみ、蒙古の大原野を開拓すべく、大正6年の春から密かに準備に着手していた。

 ( そこへ、大正10年の事件によって天下の大誤解を受けたため、意を決して活動しようと思っている。

 第3章 金剛心
 * 熱烈なる信仰と燃えるがごとき希望と抱負は、日出雄の肉体を駆ってついに大本という殻を破って脱出せざるを得ないほどになってきた。日出雄の心中の一端は、ここに蒙古入りとなって現れた。

 * 当時日出雄は、司法の誤認によって最高5年の懲役を言い渡され、そのため大阪控訴院に控訴し、裁判中の身であった。その間、厳正なる当局の監視を受けていたのである。

 * この間、日出雄が大本の指揮をとるようになってから、エスペラント語を採用し、ブラバーサに普及を命じ、日支親善のために五大教道院を神戸に開き、隆光彦を主任者に任じ、蒙古の開発には真澄別を参謀長として時代進展の事業を進めていた。

 * 蒙古入りについては、王仁蒙古入記として霊界物語67巻に編入した。しかしながら様々な障害のために事実を明らかにする便を得ないため、上野公園著として、別に天下に発表した。

 * 本巻は67巻の代著として口述し、もっぱら内面的方面の事情を詳細に記した。そのため、文中には変名を用いたものである。読者の諒を得られんことを。

 第4章 微燈の影
 * 大正13年新暦2月10日は、大本の年中行事の節分祭に相当した。中国暦でいうと、正月元日に当たる。そして本年は甲子に当たり、中国暦によると、十二万年に一度循環するという稀有の日柄であった。甲子は音が「更始」に通じている。

 * 2月5日の早朝より元朝祭を行い、各国各地より集まってきた役員信徒は、日出雄を囲んで夜のふけるまで神界の経綸談を聞いていた。やがて皆おいおい帰国の途につき、広い教主殿も洪水の引いた後のように閑寂の気が漂っていた。

 * 午後8時ごろ、教主殿の奥の間、ランプの光がかすかな一室に、日出雄は真澄別、隆光彦、唐国別の3人と共に海外宣伝の評議を行っていた。

 * まず、真澄別が朝鮮普天教との提携や、北京行きの結果を総括した。朝鮮には唯夫別と共に普天教教主を訪ね、日出雄教主の来鮮と教主会談を要請された。唯夫別は普天教の役員各として残留することとなった。

 * また隆光彦はシナの道院との連携と、中国各地での道院訪問の様子を述べた。

 * 日出雄は、現在は監察の身ながら一度シナ、朝鮮を旅行してその道の人々と語り合い、世界宗教統一の第一歩を踏み出してみたいと、意を現した。その際、真澄別、隆光彦両人の同道を乞うた。

 * 日出雄は唐国別からは、奉天の水也商会という武器屋を通じたシナ事情を聞いた。すると、河南督軍の軍事顧問を務めている岡崎鉄首という者が、張作霖とのつながりを利用して、蒙古の大荒野を開拓して日本の大植民地を作りたい、そのためには宗教で人心を収攬する策が一番だが、大本の日出雄聖師にその役をお願いできないか、と打診してきた話を語りだした。

 * そして、盧占魁という馬賊の大巨頭が内外蒙古に勢力を保っているので、聖師と引き合わせたい、という計画を打ち明けた。

 第5章 心の奥
 * この話を聞いて、無抵抗主義、万有愛を標榜する教団の教主が馬賊と提携することに躊躇していた日出雄であった。

 * しかし、政治の行き届かない蒙古の荒野では馬賊も立派な政治的機関であり、徳をもってなづければ虎でも狼でも信服するものだ、と考えを改めた。

 * そして、神前に拍手して祝詞を上げるのみが宗教家の芸でもあるまい、心境を一変し、宗教的に世界の統一を図り地上に天国を建設する準備として、新王国を作ってみようと思い立った。

 * 蒙古は言語学上からも、古事記の本文からも、東亜の根源地・経綸地である。宗教的、平和的に蒙古を統一し、東亜連盟実現の基礎を立ててみたい、と思い立った。

 * 現在は事件中の身だが、裁判の終わるのを待っていたら二年、三年はかかってしまうという。ひとつこれは乗るか反るかで、元より身命を神に捧げた自分である、と大覚悟を決めたのであった。

 第6章 出征の辞
 * 大正12年2月12日に、晴天白日の空に、上限の月と太白星が白昼燦然と大阪の空に異様の光輝を放った。この日はまさに、大本事件の勃発した日であった。

 * 下って大正13年2月12日、同日の天空に楕円形の月と太白星が、やはり白昼燦然と輝きだしたのであった。

 * これよににわかに蒙古入りの決心を定めると、その夜のうちに出発することを、数名の近侍の役員に伝えた。祥雲閣の主人・中野岩太氏に別れを告げるため、2、3の従者とともに訪ねて行くと、東京より来合わせていた佐藤六合雄、米倉嘉兵衛、米倉範冶をはじめ、十数人の熱心な信者が期せずして集まっていた。

 * 日出雄はこれらの人々に蒙古入りの決心を打ち明け、演説を試みた。
 ( 大本は既成宗教のように、現界を穢土として未来の天国や極楽浄土を希求するものではない。
 ( 国祖の神のご神勅により、大神様のご神示を拝し、上は御一人に対し奉り、下は同胞の平和と幸福のため、東亜諸国ならびに世界の平和と幸福をきたすべき神業に奉仕する責任を、大本信者は持っているのです。
 ( 大正10年の節分の後、変性女子の御魂を人が行かないところに連れて行く、という神諭は、まず第一次事件による勾留で実現し、また今回蒙古入りにあたって、示されたように考えれらてならないのです。
 ( 日出雄は日本建国の大精神を天下に明らかにする所存です。万世一系の皇室の尊厳無比なることをあまねく天下に示し、日本の建国精神は征伐ではなく、侵略でもない、善言美詞の言霊をもって万国の民を神の大道に言向けやわすことにあると、固く信じます。
 ( 大正51年には日本の人口が一億人を超えると言われており、食糧問題への対処から、政府は植民政策でメキシコ、南米、南洋諸島、米国ら遠方の国へ農耕移民を進めています。
 ( 国家の長計から言うと、これではまだ足りないのであって、満蒙の地への開発・殖民こそ、地政学上からも埋蔵資源からも最も重要な課題と考えられます。
 ( そこでいよいよ神勅を奉じて、二三の同志と共に徒手空拳、長途の旅に上ろうとしています。

 * 日出雄は祥雲閣のふすまに書をしたため、発車の間際まで嬉々として東亜の経綸を談じつつ、しきりに筆紙を動かしていた。

 第7章 奉天の夕
 * 日出雄は真澄別とただ2人、2月13日午前3時28分の綾部発列車の車上の人となった。見送りは湯浅研三、奥村某のただ2人のみであった。

 * 亀岡で名田彦、守高の両人が合流し、四人連れとなって京都に着いた。ここで唐国別と合流し、西行き列車に乗り込んだ。

 * 13日午後8時、関釜連絡線に登場した。14日の午前8時、釜山に上陸し、10時発の朝鮮鉄道にて奉天に向かった。

 * 2月15日午後6時30分、奉天平安通りの水也商会に入った。そこでは先発していた隆光彦をはじめ、萩原敏明、岡崎鉄首、佐々木弥市、大倉伍一ら水也商会の店員が迎え出た。

 * 岡崎鉄首はとうとうと、中国を押さえるためには蒙古に進出する以外にない、と自説を開陳した。そして、何とか日出雄を盧占魁に同道させて蒙古に展開させようとした。

 * 日出雄は蒙古入りの意思を一同に明らかにし、盧占魁との面会に同意した。その夜の8時半に2台の自動車を連ねて奉天郊外の盧占魁公館へ乗りつけた。

第2篇 奉天より?南へ
 第8章 聖雄と英雄

 * 水也商会の佐々木が通訳となって、盧占魁と日出雄の会見が始まった。盧占魁は目もとの凛とした英雄的人物で、日出雄、真澄別は相提携するに可と判断した。

 * 盧占魁はかつてから日出雄の名を聞いていたと言い、ぜひ日出雄の下で使ってください、と挨拶した。日出雄は共に東亜存立のために尽くしましょう、と返した。ただこれだけで、両者の会談は済んだのであった。

 * 2月16日、盧占魁の公館で内外蒙古救援軍組織について、会合があった。会議の大略は、張作霖の了解を得ること、武器を購入すること、大本ラマ教を創立し、日出雄がダライラマ、真澄別がパンチェンラマとなり、盧占魁を従えて蒙古に進入すること、とであった。

 * 元来、蒙古で日本人が蒙古人に布教することは禁じられているが、日出雄は五大教の宣伝使でもあるので、容易に宣教を行うことができるのであった。

 * 一同が準備を行ううちに、2月18日、張作霖から盧占魁に対して、内外蒙古出征の命が下ってきた。十個旅団が組織され、日地月星を染め抜いた大本更始会の徽章が旗印となった。

 * また、日出雄は大本ラマ教の経文を、盧占魁公館内にて神示によりしたためた。

 第9章 司令公館
* 日出雄は盧占魁の公館に滞在し、訪ねてくる中国の軍人に対し、通訳を介して神の道を説いていた。また、同道する日本人にシナ服をあつらえ、姓名も中国風に変えてしまった。

 * 盧占魁は日出雄が服をあつらえるときに、密かに有名な観相学者を呼んできて、日出雄の相を仔細に調べさせていたのであった。その結果、三十三相を兼ね備えた天来の救世主であると結論づけられ、それがために盧占魁は日出雄を深く信頼することとなった。これは後になってわかったことである。

 * 一方、張作霖の思惑は、盧占魁を利用して内外蒙古に自分の勢力を伸張することであった。

 第10章 奉天出発
 * 3月1日に日本人一同が盧占魁の公館にそろって、計画談義に花を咲かせていた。

 * 大倉伍一によると、張作霖から盧占魁に対し、西北自治軍総司令の内命が下り、索倫山において募兵して活動するようにとの命令があったとのことであった。

 * 張作霖が盧占魁の内外蒙古出征を許可するに当たっては、日本軍からの張軍閥内へのはたらきかけがあった。

 * 日出雄は、さっそく一行より先に蒙古入りをしようと提案した。佐々木は準備が整ってから奉天から列車で行くようにと反対するが、岡崎は日出雄に賛成し、次分は東三省の高等官だから護照もいらない、自動車を雇って疾走すればよい、と言って聞かない。

 * 他の満州浪人たちは安全を慮って反対するが、結局日出雄が岡崎の案を是としたので、奉天から鄭家屯まで自動車で行くことになった。

 * 3月3日の午後4時から、2台の自動車に日出雄、岡崎、守高、通訳の王元祺の四名が分乗して出発した。道路は極めて険悪で、ときどき機関が損傷し、1時間ばかり走るとまた1時間ばかり停車して修理する、という有様だった。

 * 馬賊が横行する区域とて、停車中はヘッドライトを消して懐中電灯で修理を行い、水が切れると氷を取って来て機関につめるなどの苦労をしながら北へ北へと進んでいった。

 * また、氷結した遼河を渡ろうとした際、氷が溶けた部分に危うく落ちそうになって危機一髪自動車が停止したこともあった。

 * 翌4日午前7時、開原の城内で朝食を取り、また自動車を修理した後に出発した。午後1時ごろに昌図府の手前まで到着したが、1台の自動車が大破してしまったため、昌図府の安宿に宿泊し、奉天へ人をやって機械を取り寄せることになった。

 * 二百四十支里の前人未踏の高原を自動車で冒険的に旅行してのけたのは、開闢以来の壮挙、離れ業だと、岡崎は怪気炎を上げていた。

 第11章 安宅の関
 * 昌図府の宿に泊まっていると、午後6時過ぎごろにシナの巡警が宿泊人調査にやってきた。一行は岡崎1人が日本人、その他は中国人であるということにしていた。

 * 巡警が岡崎に護照の確認を乞うと、岡崎は、自分は東三省の官吏であり、張作霖の命を受けて視察にきているのだ、と逆に居丈高になって名刺を振り回した。そして、日出雄と守高は南清の豪商であると紹介した。

 * 巡警はいずれも立派な服装であるのを見て取ると、丁寧に挨拶をして帰って行った。岡崎は地元の巡警に不審の念を抱かせずに追い払ったことを自慢気に吹聴した。

 * すると今度は午後9時ごろになって、官兵がやってきた。日本人が泊まっているというので、調査に来たのである。岡崎はまたもや名刺を出して官兵を煙に巻いて、追い返した。

 * すると午後12時も前になって、またもや軍靴とサーベルの音がして、今度は昌図府の日本領事館員が巡査を引き連れて、身元調べにやってきた。またもや岡崎は自分の名刺を出して応対したが、日出雄と守高は水也商会の日本人だ、と紹介した。

 * 領事館員が帰って行った後、日出雄は岡崎に、中国の官憲には南清の豪商だと言い、日本領事館には日本人だと言ったが、後で不審に思われないか、と懸念を表した。

 * 岡崎はあまりしゃべりすぎて余計なことを言ってしまった、と非を認めたが、再度領事館から調べに来たら、自分の舌先三寸で追い払うから、と嘯いた。

 * いずれにしろ、念のために日出雄と守高は明日早くに、動くほうの自動車で先発することにした。そして一同は横になると、旅の疲れからすっかり熟睡してしまった。

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