とよたま愛読会113回特別篇 入蒙記 12章〜22
                 記:望月幹巳 メール:motomi@moon.nifty.jp


日 時  平成18年2月26(日) 午後1時から午後4時30分まで
場 所  愛善苑 豊玉分苑 (京王線下高井戸駅下車 徒歩8分 川崎方)
      連絡先 03-3321-3896、  03-3321-8644
物 語  
特別篇 入蒙記 第一篇  「日本より奉天まで」
           
      第12章 焦頭爛額 〜 第22章 木局収ヶ原

★ 報告
春寒しだいに緩むころ、皆様にはお変わりなくお過ごしのことと思います。

 

入蒙を果たした聖師様は、満州浪人岡崎鉄首の発案で、東蒙古の拠点都市まで、奉天から自動車で進むことにします。  列車による旅と違った冒険的な道中となりますが、満州・蒙古の人々の生活や政治情勢、軍事的な勢力図などをじかに感じられる旅行記となっています。この道中では、聖師様を担いで蒙古に日本の勢力を伸ばそうという岡崎らの動きを支持する動きと、逆に取り締まろうとする動きの二面が、日本当局にあるように読み取れます。

  東蒙古の都市・洮南府で列車組と合流した聖師様はここに中継拠点を構え、いよいよ蒙古入りとなります。公爺府で盧占魁と合流し、木局子に拠点を構えて、目的の地である大庫倫を窺います。当初は、木局子に仮司令部を置きつつ一年間駐屯し、その間に蒙古王や馬賊ら周辺勢力を取りまとめ、その後、興安嶺から大庫倫にかけて進出し、ロシア革命軍と対峙する計画であったことがわかります。  参加者の方より拝読のご感想をいただいておりますので、ご覧ください。

<拝読会のご感想>
 塩津さん 愛読会 投稿(06―03月分)
 春軍完備・神軍躍動 「満州」は現在の世界地図上に存在していません。今は「中国東北部」と呼ばれている遼寧省、吉林省、黒龍江省の三省と内モンゴル自治区の東部にあたる地域が「満州」です。また「奉天」は「瀋陽」、「大庫倫」は「ウランバートル」となっています。

 @さて当時の日本は、現人神(現御神)であった昭和天皇を大元帥とする大日本帝国陸海軍によって武装され、その天皇に忠誠を誓う国家官僚により運営されていた「神国」でした。『大日本帝国憲法第28条』で信教の自由は保障されていましたが、実体として、「天照大神」を奉る国弊神社を拠点とした「国家神道」に対する信仰が半ば強制されていました。主神はアマテラスだったのです。

 A聖師さまが「入蒙は大成功だった」述べられたその内容は、神界の経綸上、アマテラス教天皇制を「主神スサノヲを奉齋する社会に建直す」いう事に他なりません。

  そして「神国日本」を建直す神の経綸を実地に移すことが出来たこと、それが「大成功」の意味なのです。「大成功」であった主神の経綸は、当然のことながら、入蒙を手始めに「アマテラス」信仰の建直しが「大成功」裡に終わった事をも意味します。

 B従って、『入蒙そのものは日本の大陸進出政策と中国の軍閥間の抗争に利用される結果となった。』、『こうして挫折した入蒙には合計28万円の巨費が投じられたが、この意表外の行動には社会の反響も大きかった。
入蒙そのものは失敗に終わったが、この挙を通じて王仁三郎の眼は、アジア、さらには全世界の宗教連合に向けられていったのである。』(『民衆の宗教・大本』33頁、35頁)という評価は、聖師さまの心の奥とは全く逆の内容なのです。全世界の救済のため、主神の経綸地で神軍を組織し行動に移ることが決定的に大事な事だったのです。

 C入蒙後、帰国された聖師さまは、7月27日大阪未決に再収監されましたが、大本教団に対して、未決から「旧9月8日から五六七殿の七五三の太鼓を、五六七と打つように」との指示を出されました。そして、
 ○三千年(みちとせ)の岩戸の七五三(しめ)も解けにけり みろく三会の神音(かね)のひびきに」とのお歌が添えられていたのでした。

★ 拝読箇所で気のついたこと
 

山河草木 特別篇 入蒙記
第2篇 奉天より挑南へ
第12章 焦頭爛額

 * 昌図府で役人からいらぬ詮索を受けたため、日出雄と岡崎は、先に大四家子まで進んだ。

 * その間に奉天から、故障した自動車の修理部品が届いたので修理にかかっていたが、破損がはなはだしいために、時間がかかっていた。

 * ちょうど自動車の修理を終わったところへ、日本領事館員が官憲をつれて、宿に臨検に来たところであったので、残りの者は急いで荷物を積み込むと、逃げるように大四家子まで自動車を駆って来た。

 * 大四家子で王昌紳氏宅に一泊して饗応を受けた。次の日には一行はまた自動車で茫漠たる大平原を疾走した。

 * 途中、支那兵の一隊にであったり、またもや自動車が故障して修理にかかったりなどして道を進んでいった。道なき道を行く道中は苦労の連続で、車の動揺のたびに頭を打ち、尻を打ち、後の車が前の車に衝突したりした。守高は車体のガラスが破壊して破片を浴び、眼のあたりを負傷した。

 * ようやく旧四平街に到着したのは、午後3時半ごろであった。自動車は再び大破損し、もはや動くことができなくなったので、やむを得ず荷馬車2台を雇った。

 * 新四平街の貿易商・奥村幹造氏宅に到着したのは午後5時30分ごろであった。一行はここで久しぶりに日本食を供せられ、日本風呂を振舞われた。この後は四平街駅から列車で鄭家屯に向かうことに決まった。

 * 列車は途中で何度も故障し、修理に何時間も費やしながらゆっくりと進んでいった。その間に、奉天から列車で出発していた真澄別一行は、3月6日の午前零時20分ごろに洮南駅に到着していた。

 第13章 洮南旅館
 * 日出雄一行は3月8日の午後9時30分にようやく洮南駅に到着した。そして洮南旅館で真澄別一行と合流した。洮南府は日本官憲の勢力がない場所であった。現在は特殊の関係のある者のみが25名逗留しているだけの地である。

 * ここは鄭家屯の北から鉄道で百四十マイル、東蒙古における唯一の大市街である。支那人が蒙古に発展する拠点となった街である。四方を城壁で囲み、門は官兵や巡警が控えていて護証の検査をなし、また税金を取り立てている。

 * 蒙古の地にあって、その勢力も政治も支那の主権に属し、奉天省が管轄している。そして日本人排斥の思想が濃く、鄭家屯の日本領事館員でさえ、なかなか市内に入ることができない。

 * こういう場所に潜んで、一同は種々の計画を練っていたのである。その間に、満鉄の三井貫之助氏が訪ねてきたが、岡崎、大倉の両人が接見した。また、佐々木の手紙が届き、帰化城方面の支那人哥老会の揚成業氏が、一万の兵を率いて参加するという知らせがあった。

 * また、関東庁の陸軍三等主計正の日本人某が視察にやって来ていて、一泊した上で翌朝の汽車で帰って行った。また、有名な評論家・横山健道が日出雄と入れ違いにこのホテルを出て行ったという。横山が揮毫したという立派な書を、ホテルの支配人から見せてもらった。日出雄も請われて、日本人に書画を書き与えた。

 * またある日、鄭家屯の日本領事館書記生某氏が、視察のために?南に来て、満鉄の三井氏が調査した書類を書き写し、45日滞在して帰って行ったりした。日本官吏による調査は、すべてこのように行われていたのである。

 * この日、城内の猪野氏・平間氏宅に、日本人全員が移転することになった。名田彦があまり自分が選ばれた大本信者であると回りに吹聴し、計画を漏らすようなことを言うので、岡崎の機嫌は非常に悪くなった。日出雄がたしなめると、名田彦は黙り込んでしまった。

 第14章 洮南の雲
 * 当地の家屋は馬賊の襲来に備えて、塀高く壁厚い構造になっている。オンドルで昼夜暖かいが、屋外の寒気は厳しく、うっかりするとすぐに喉を痛めてしまう。城内の兵士や巡警にも馬賊上がりの者が多く、治安は良いとはいえない。

 * 東蒙古地方の宗教的権威であるラマ教の活仏の名望は地に落ちている。支那人に麻雀で負けて10万余の借金が出来て広大な土地を奪われ、自身梅毒に苦しむ身であるという。

 * 岡崎は日出雄から運動費を受け取ると、それを元手に当地の支那官吏に取り入って、彼らの歓心を買って便宜を図ろうとしていた。そのうち、 洮南府の将校である某連長を懇意になり、兄弟分となってしまった。

 * 気が緩んだ岡崎は大言壮語し、あたりかまわず洮南府を○○しようなどと主張し始めるものだから、ある日四平街の奥村氏がやってきて、ついに岡崎の言動が日本・支那の官憲の耳に入って疑いを受けつつあることを知らせて来た。しかし岡崎は、洮南府の将校連を買収しておいたから大丈夫だと、平気の様子である。

 * 一行はいよいよ奥蒙古に入るに当たって、便宜のために家屋を借り、軍器や食料の中継場とした。

 * 平馬氏宅に日本領事館員の月川左門氏がやってきて、猪野敏夫氏を長い間談義を交換していた。結局日本と支那との関係を円滑にするためには、日本の実力を示すより仕様がないと、満蒙経営談にふけっていた。

 * 満鉄の山崎某という社員が、日出雄一行が洮南府へ来ていることを、四平街の日本憲兵隊へ密告したので、支那側の官憲が活動を始め出したという噂が耳に入った。日本領事館の月川書記生や満鉄の佐藤某が、平馬氏宅を窺うようになった。

 * 日出雄は天下万民のために正々堂々と天地にはじない行動をとっているにもかかわらず、身を忍ばせて秘密の行動を採らなければならないというのは、要するに上に卑怯な為政者がいるからである。

 * 警戒線を破って神界の経綸を行うべくはるばるやってきたのを、上下狼狽して懸賞付で捜索を始めたという。実に気の毒なものだ。世界平和の共栄の大理想を実行実現するために、日出雄はやってきたのだ。不義と罪悪の淵源である官憲・為政者たちから目を覚ましてくれなければ、到底東洋に国を安全に建てていくことは不可能である。

 * 張作霖については、自分は金を出さずに人に苦労させて甘い汁を吸おうというとんでもない男だ。しかし、果たして盧占魁が張の思い通りに動くだろうか、という感想を持っている。

 第3篇 洮南より索倫へ
 第15章 公爺府入り

 * いよいよ公爺府に入ることが決まり、地図を手に入れたりと準備が始まった。3月22日には王天海、張貴林、公爺府の協理である老印君らが到着した。

 * 3月25日の早朝、一行は3台の轎車に分乗し、トール河を渡って北を目指して進んでいった。その日は洮南から百二十支里離れた牛馬宿に一泊した。

 * 翌朝出立し、正午に王爺廟の張文海の宅に着いた。王爺廟はラマ僧が300人ほど居る。日本のラマ僧が来たからといって、一人残らず日出雄に挨拶に来た。日出雄は人々に携帯してきた飴を一粒ずつ与えた。

 * 大ラマは部下に命じて鯉をとらせ、日出雄に献上した。午後2時、日出雄が王爺廟を出ようとすると、大ラマは牛乳のせんべいを日出雄に送った。

 * 日出雄は釈迦が出立のときに、若い女に牛乳をもらって飲んだ故事を思い出し、奇縁として喜んだ。このとき、日出雄の左の手のひらから釘の聖痕が現れ、盛んに出血して腕にしたたるほどであった。しかし日出雄はまったく痛さを感じなかった。

 * 日出雄一行は公爺府の老印君の館に午後6時ごろ、無事に到着した。

 第16章 蒙古の人情
 * 蒙古人は剽悍武勇であり、朴直慇懃で、親しみやすい。喜怒哀楽を直にあらわし、子供のように単純である。支那人やロシア人には近年圧迫されたため、彼らを敵視しているが、日本人には憧憬の念を抱いている。

 * 日出雄は公爺府王の親戚に当たる、白凌閣(パイリンク)という19歳になった青年を弟子となし、また彼から蒙古語を研究した。

 * 蒙古人は嘘をつかず、一度この人と信じたならばその人のために生命まで投げ出すという気性の人種である。日出雄は蒙古人の潔白な精神に非常な満足を覚えた。

 第17章 明暗交々
 * 老印君の隣家を解放して、日出雄一行の宿泊所とされた。遠近の蒙古人は、日の出の国の活き神が来たれりと言って集まり来たり、鎮魂を乞うた。

 * 日出雄は公爺府の王より招待を受け、入蒙のいきさつについてたずねられた。王元祺が内外蒙古救援軍の趣旨を説明すると王は非常に喜び、一同を饗応した。日出雄は蒙古まで来て初めて、為政者より丁重な扱いを受けたことに感慨を覚えた。

 * 岡崎は、日蒙両国民が相携えれば、支那人もロシア人もへこんでしまう、大庫倫の赤軍を追い払って新蒙古王国を作るのだ、などと大言壮語している。この話が公爺府の重役の知るところとなった。

 * 岡崎の大言壮語を知り、たちまち老印君は態度を一変した。そして、『護照がなければ滞在かなわぬ、奉天へ一度お帰り願いたい』、と言ってきた。

 * 盧の部下の温長興は、盧占魁から金をもらっておきながら、今さらこのようなことを言う老印君の態度に激怒したが、ともかく一度奉天に連絡をして窮状を伝え、荷物一切を送ってもらうこととした。

 * 老印君は温長興に攻め立てられて、ついに自分の新宅に日出雄一行を移転させることになった。4月4日にようやく移転がかない、温長興に手紙を持たせて、現状を盧占魁に伝えさせることになった。

 * 温長興が出発してから、その日の午後6時ごろ、やって真澄別一行が荷物や食料を満載して到着した。地獄で仏に会ったような心持に、日出雄も岡崎も非常に喜んだ。たくさんの荷物や食料が到着すると、老印君の日本人に対する態度はまたがらりとよくなった。

 * 真澄別にしたがってやってきたのは、名田彦、猪野敏夫の両人であった。

 第18章 蒙古気質
 * 蒙古の宗教はラマ教である。ラマ寺はチベット式に建てられており、一つのラマ廟には、少なくて300人、多くて7、8万人のラマ僧が大市街を構えている。

 * 大庫倫には、先年清朝にそむいて蒙古皇帝を名乗った活仏があったが、現在は活仏の権威は有名無実なものとなり、ロシアの赤軍が割拠しているのだという。大庫倫には170、80万人の人口があり、日本人も数名住んでいるとのことである。

 * 日出雄は蒙古の奥へ来てから、大神様のおかげにより、人民に尊敬され、心の限りの待遇を受けていた。一時的に老印君ほか2,3の役人にやや冷遇を受けはしたが、一般の蒙古人からは少しもそのような扱いを受けなかったのである。

 * 蒙古人の天真爛漫、子供のような性情に接して、まだ世の中に活きた生命のあることが楽しく思われた。

 * 4月14日に盧占魁は200人の手兵を引率して、公爺府に到着した。盧は大勢の部下の前で日出雄に抱きついてうれし泣きに泣いた。日出雄も感慨の念に打たれたのである。互いに旅情を慰めあった後は、真澄別が事務を盧と協議した。

 * 日出雄一行の日本人らは、蒙古人の歓待を受けた後、自分の子供をもらってくれとあちらこちらで請われて、迷惑をしていた。聞いてみると、日本人であれば、しかるべき世話をしてもらえるだろうから、という親心から来ているのだという。

 * ある日、ラマ僧が病人を祈祷をしているところへ出くわした。日出雄は家の主人に、病人を治してやろうと言い、病人の額に手を乗せて「悪魔よ、去れッ」と一喝した。たちまちに病人は全快し、ラマ僧たちは驚いて日出雄をますます尊敬するようになった。

 * 白凌閣は日出雄、真澄別以外の日本人の言うことを聞かないので、あるとき猪野は怒って白凌閣の横顔を木片で殴りつけた。白は顔面が腫れ上がり、地がにじみ出たが、このことを自分の父に告げようともしなかった。

 * 日出雄は見かねて白の手当てをし、鎮魂を施した。30分もすると、腫れは引いてしまった。日出雄は白に、日本人にひどい目に合わされても、自分の親に告げに行かなかったのは感心だ、と言った。すると白は、『大先生の家来になったのだから、もはや父母を頼ることはできない。また、先生の代理である真澄別さんの言うことは聞きますが、その他の日本人に服従する義務はありません。道ならぬことをすれば、蒙古男子の恥になります。』と言った。

 * 日出雄は感心して白を誉めたが、日本の慣習を言って聞かせて、今後は他の日本人の言うことも聞き、世話もしてもらいたい、と諭した。その後は白は他の日本人の言うことも聞くようになった。

 * またある日、白の父が訪ねてきて、一人息子だからあまり遠いところにはやりたくない、と日出雄に依頼して来た。日出雄は気の毒に思い、親孝行のために、父の言に従うよう白に諭した。

 * すると白は、蒙古男子がいったん誓った言葉は金鉄ですから、といって聞かない。これを見た父は観念したと見えて、『息子をよろしくお願いします』と言ったきり、公爺府出発の日にも訪ねては来なかった。

 * これらをみても、蒙古人の男性的気性が窺い知れるのである。後に白はパインタラでも難を逃れて、公爺府に無事に帰りつくことができた。これもこういう心がけであったから、神の保護を受けたものであろう。

 第19章 仮司令部
 * 公爺府に仮司令部をおいて進軍の準備をする間、日出雄は和蒙作歌字典を著作した。また、奉天からは坂本広一が、ついで井上兼吉がやってきて、救援軍の司令部に加わった。

 * 4月15日、いよいよモーゼル銃や機関銃が?南を出発したとの報告があった。日出雄が渡満してからわずか2ヶ月ばかりにして、軍の編成ができるようになるとは、人間業ではないと喜んだ。

 * 老印君はわざわざ日出雄を訪ねて先日の無礼を詫びに来た。神軍の初陣にあたって、まず公爺府の最高将官である老印君を従わせたのは、幸先がよいといって喜んだ。

 * 4月20日、神勅により、日出雄と真澄別には、次のような蒙古人名が与えられた。
 ( 出口王仁三郎源日出雄

   * 弥勒下生達頼喇嘛[みろくげしょうターライラマ]

   * 素尊汗(言霊別命)[すーつーはん]

   * 蒙古姓名:那爾薩林喀斉拉額都[ナルザリンカチラオト]

 ( 松村仙造源真澄

   * 班善喇嘛[ハンゼンラマ]

   * 真澄別(治国別命)

   * 伊忽薩林伯勒額羅斯[イボサリンポロオロス]

 第20章 春軍完備
 * 4月20四日午後、ようやく5台の台車に武器が満載されてやってきた。それにつれて仮司令部の中も活気付き、兵士たちの士気も上がってきた。日本人側もようやく安堵し愁眉を開いた。

 * 奥地は難所が多いために荷物を軽くしていくことになった。日出雄も霊界物語や支那服・日本服は洮南に送り返し、ラマの法衣のみを着ていくことになった。また日出雄と真澄別は宗教家として武器は携帯しなかった。

 * あけて4月26日、公爺府を出発した。日出雄は蒙古救援軍の総督太上将として索倫山に出発することとなったのである。

 * 公爺府を出て80支里、見渡す限り目も届かない大原野に、風景よき四方の岩山、柳や楡の古木が密生している。トール側の清流を隔てて岩山に金鉱を掘った後があり、その横にラマ教の金廟の壁が白く輝いている。珍しい鳥がさえずり、牛馬、山羊の群れが愉快そうに遊んでいる。

 * 日出雄はかつて霊界において見聞した第三天国の光景にそっくりだといって喜んだ。

 * 公爺府より西北の日出雄が通過した地点は、たくさんの木材が天然のままに遺棄されてあり、水田に適当な肥沃な野が、手持ち無沙汰に際限もなく横たわっている。

 * 日出雄と真澄別は、こんなところを開墾して穀類を植え付け、鉄路を敷いて樹木をきり出し鉱物を採掘したならば、実に大なる国家の富源を得られるであろうと話しつつ、進んでいった。

 * 4月28日早朝、ヘルンウルホの宿営を出発し、下木局子まで進むことになった。午前9時20分、無事に下木局子に安着した。盧占魁は司令部に一行を案内した。

 第21章 索倫本営
 * 索倫山木局子は、一時ロシアが占領して採木の税金を取るために木局署という役所を構えていたところであった。今は黒竜江省の管轄となっている。

 * 日出雄と盧占魁は、要害堅固で難攻不落のこの地点に仮本営を構えた。この地域は馬賊団がたくさん出没して支那人も入ることができない危険区域であるが、蒙古の馬賊の英雄である盧占魁と共に進んだことにより、容易に到達できたのである。

 * このたび盧占魁が、日の出の国の大救世主を奉戴して蒙古救援軍を起こす、というので、国民は上下を上げて歓喜し、すばらしい人気であった。蒙古の王、ラマおよび馬隊が次から次へと噂を聞いて集まってきた。

 第4篇 神軍躍動
 第22章 木局収ヶ原

 * 日出雄は軍の編成が終わった後、野山に兎狩りを催し、野生のにらやにんにくを採集しなど、愉快に索倫の日を送っていた。

 * すべての制度がせせこましかった国から、16倍の面積を有するという蒙古へ来て、たくさんの兵士や畜類を相手に自由自在に勝手なことをして飛び回るのは、生まれて54年来なかった愉快さ、のんきさだった。

 * 5月1日、盧占魁がやってきて、大庫倫に進むには、興安嶺付近に駐屯する赤軍と一戦交えなければならず、熱、察、綏三区域にある吾が参加軍が到達するには、遠すぎる。そこで、本年はこの区域で冬ごもりをし、完全な兵備を整えてから、来週を待って大庫倫入りをなすようにする考えである、と諮ってきた。

 * また、張作霖からは、兵備が整わないうちは軍資金、武器を送ることができないので、我慢してくれ、という意味の伝言が来た。

 * この地はいく抱えもあるような楊、柳、楡の大木が山野に繁茂し、トール河の清流はソーダを含んでゆるやかに流れ、天然の恩恵は無限に遺棄されている宝庫である。

 * 盧占魁によれば、ジンギスカンが蒙古の原野に兵を上げてから666年となり、頭字の三つそろったのを見れば、いよいよ本年は36の年だと言って、勇んでいた。

 * 一日、野にて萩原や坂本が原野に放った火が、大風に吹かれてあっという間に身辺に広がってきた。日出雄は日本武尊が焼津で、神剣で草を払って賊軍の火計を追い返したという故事を思い出し、身辺の草を薙ぐと向かい火をつけて、天の数歌を奏上した。不思議にもにわかに風向きが変わり、危うく難を逃れたのである。

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