とよたま愛読会114回特別篇 入蒙記 23章〜39
                 記:望月幹巳 メール:motomi@moon.nifty.jp


日 時  平成18年3月26(日) 午後1時から午後4時30分まで
場 所  愛善苑 豊玉分苑 (京王線下高井戸駅下車 徒歩8分 川崎方)
      連絡先 03-3321-3896、  03-3321-8644
物 語  
特別篇 入蒙記  第四編 「神軍躍動」
                 
第23章 木局子 〜 第39章 入蒙拾遺

★ 報告
  陽春の候、皆様にはお変わりなくお過ごしのことと思います。
 


いよいよ木局子の根拠地を出てから、パインタラの遭難に会うまで、蒙古入りの終盤を迎える物語です。
一時は日本人側の説得に折れて、興安嶺に進出して大庫倫を伺うそぶりを見せた盧占魁でしたが、やはり途中で進路を南に変え、元の思惑通り、熱河・綏遠・チャハル地方で冬籠りをするという選択を選びます。
地理に不案内な日本人側は、やむを得ず従うことになります。
途中、内蒙古の豊かな自然と資源に感嘆する一同でしたが、やがて張作霖が盧占魁討伐を準備しているという噂が耳に入り始めます。
また、神勅にパインタラ行きは自殺行為と出ますが、盧占魁は聞き入れません。聖師様は、それでも神命が下ったのだからと、盧占魁について行きます。
果たして、パインタラにて武装解除、盧占魁の処刑、そして聖師様一行もあわや銃殺という危地に陥りますが、九死に一生を得て帰り着くことを得ます。
日本に帰着後、真澄別をして再び北京に遣わし、わずかの間に新しい提携宗派を多く得て、世界宗教聯合会の設立を成し遂げます。その中には、蒙古に大きな影響力を持つ章嘉活仏との提携もありました。
真澄別は、北京に滞在中に尋ねて来たかつての盧占魁幕下の幹部連に、入蒙は深い神様の仕組みがあったのであり、単なる失敗ではなかったと諭して、入蒙記は幕を閉じています。

<拝読会のご感想>
塩津さん 愛読会 投稿(06−04月分)
 世界経綸の第一歩 聖師さまが「入蒙は大成功だった」とおっしゃるとき、その意味はただアジアの精神的道義的な統一を目指す世界宗教連合会を発足させた、という内容に止まりません。
 悪神は世界滅亡を企み、その最後の仕上げとして、日本国の滅亡を目指して圧迫を加えて来ました。救世主たる聖師さまは、悪の勢力をアジアの一角に集中させ、一気に建て直しを計られたのでした。そのために聖師さまの入蒙は大きな意義があったのです。
 大日本帝国と軍部は救世主によって存分に「活用」されました。皇道大本もまた、道院紅卍会と一緒に、救世主の手足となって働いたのでした。昭和3年6月3日、奉天近くの鉄道が関東軍将校の手によって爆破、当時蒋介石が行っていた北伐に押され満州に撤退しようとした張作霖が爆殺され、昭和6年9月18日に「満州事変」が起き、昭和7年3月1日、旧清朝の皇帝であった溥儀が「満州国」執政に就任します。このあとは一気に軍部主導による日中戦争、そして太平洋戦争へと突入していきました。
  張作霖爆殺や満州事変に、皇道大本の信者であった三谷清氏が深く関わっていたことが明らかになっています。また「満州国」の文武官僚に多くの道院紅卍会信徒が参加していたことも周知の事実です。もちろん、聖師さまが直接に「ああしろ、こうせい」と仰った事は無いのです。しかし、「神さまのために働きなさい。わしが守ったるで」というお墨付きが出れば、これら信仰者は自分の行動を疑わずに邁進したことは容易に想像出来ます。
  日本帝国軍人の中で最も聖師さまの事を理解させられた軍人に建川美次陸軍中将がいることがわかりました。彼は、度々聖師さまと「満州問題」で会っています。陸軍参謀本部の中枢に位置し、「田中メモランダム」の起草者ではないかと思われます。張作霖爆殺、満州事変、満州国建設に大きな役割を果たしました。その建川氏は昭和11年1月9日、無人と化した亀岡天恩郷を視察に訪れています。彼は何を想っていたのでしょうか?
「陸軍参謀総長の指示で、関東軍の独断先行的な事件の勃発を止めるという名目で、昭和6年9月18日に奉天に行き、打合わせどおり事変を起こした。もともと9月28日が決行日だったのを10日早めた。王仁三郎は確か9月8日という日は神さまの不思議な仕組がある日だと言っていた。自分は、10日早めれば事変は軍の思惑通り運ぶと思ってやったんだが、なぜ王仁三郎は大本を潰すようなまねをしたのか」とでも思ったんでしょうか。背筋に冷たいものが走ったかどうかはわかりませんが、彼もまた救世主の世界経綸の第一歩に手を貸したのは間違いのないことでした。

★ 拝読箇所で気のついたこと

山河草木 特別篇 入蒙記 第四編 神軍躍動
第23章 下木局子

 * 5月6日、萩原敏明、井上兼吉が軍用品を数台の台車に満載してやってきた。萩原はこの日が初めての蒙古入りであった。その中には、日出雄の西王母の服や数珠や払子、宣伝使服などが入っていた。

 * 5月11日は、日出雄が出国以来満三ヶ月になる。蒙古の現地の民が鶏を献上しに来たので、洗礼を施していると、公爺府の老印君らがやってきて、日出雄と盧占魁に挨拶に来た。そして、ともに進軍することを願ってやまなかった

 * 5月13日には仏爺ラマが、部下のラマ僧と兵士を従えて日出雄を来訪した。日出雄は真澄別に接見を任せて、ラマ教との提携を約束せしめた。

 * 旅長の張彦三は兵士を引き連れて、上木局子に進軍した。これは日出雄の宿営地を調査するためであった。

 * 同じ日に、南府の長栄号主任・三井寛之助および佐々木から、一千の官兵が馬賊討伐のために進軍中なので、日本人の索倫入りは困難である旨、連絡が来た。盧占魁の進言により、上木局子へと進出することとなった。

 第24章 木局の月
 * 五月十四日の午前十時半、盧占魁が兵営の出発を見送りにやってきた。日出雄の一隊は轎車二台、大車一台に荷物を積んで多くの兵士を前後に従え、何度も大原野を流れるトール河を渡り、午後三時半に無事上木局収の仮殿に安着した。

 * 上木局収の仮殿を護衛するため、十五支里ほどの間に三箇所の兵営が設けられた。上木局収の日本人は気楽に日を送っていた。

 第25章 風雨叱咤
 * 五月二十一日、盧占魁が幹部・参謀を引き連れて日出雄を訪問に来た。佐々木を介して盧が日出雄に懇願するには、だんだん蒙古兵も集まってきたので、救世主来迎のうわさを確実なものとするため、風雨を呼び起こして彼らの肝玉を奪ってもらいたい、とのことであった。

 * 日出雄は、用もないのに勝手に風雨を起こして神界の規則に触れることを心配したが、真澄別が大事のためなら、自分が身代わりとなって行ってみたい、と申し出たので、許可した。盧占魁は、実はすでに奇跡を起こすと部隊に布告してしまっていた、と明かし、日出雄が了承してくれたことを喜んだ。

 * 日出雄はトール河畔に自ら聖域を卜し、真澄別の修業を指導した。

 * 5月23日、朝日は麗しい光を地上に投げ、青空には一点の雲もなかった。午前八時ごろに魏副官が日出雄一行を迎えに馬車でやってきた。日出雄に従って同行するはずだった温長興はにわかに頭痛が激しくなったため、車に乗せて下木局子へと向かった。

 * 下木局子では、盧占魁の部隊が日出雄一行を待っていたが、このような蒙古晴れの空から雨を降らすなどは到底無理だろう、などと噂をしながら待機していた。

 * 日出雄一行が下木局子に来着すると、小憩の後、日出雄の目配せを合図に真澄別が何事か黙祷するやいなや、たちまち司令部の上天は薄暗くなり、またたくまに全天雨雲に覆われ、一陣の怪風吹くとともに、激しい暴風雨が来襲した。

 * 一同は驚きあわて、みなあっけに取られて言葉もなかった。しばらくして、今日は写真は駄目でしょう、という失望の声が聞こえてきた。真澄別は日出雄に、五分も経てば大丈夫、と言った。日出雄はやおら身を起こして雨中に降り立ち、点に向かって「ウー」と大喝した。

 * すると風勢は衰え、雨は次第に小降りとなり、真澄別の宣言のごとく、暴風雨は消え去って空は元のごとく晴朗に澄み切った。盧占魁は人々の間を立ち回り、自分の宣伝が誇大ではなかったことを誇って回った。

 * ここで幹部一同記念撮影をなし、卓を囲んで会食をしたときに、真澄別は温長興を指して、実は大先生(日出雄)が今日の役目を承った竜神を、温さんに懸けておいたので、温さんは朝から頭痛がしていたのだ、と説明すれば、一同はただ感嘆の言葉を漏らすほかはなかった。

 * 夕方日の没するころに、再び天候が変わって雨模様となってきた。盧占魁らは今日はここに泊まっては、と言ったが、日出雄は自分の旅立ちに雨は止むでしょう、と微笑しつつ帰って行った。果たして、帰途には雨は降らず、日出雄が帰着と同時に強雨が降り注ぎ、地上の塵を一時に流し去るほどであった。

 第二十六章 天の安河
* いつの間に盧占魁が宣伝したものか、蒙古人たちは、日出雄は蒙古興安嶺中の部落の出身で、日出雄の母は流転の後に日本人と結婚し、異父弟の真澄別が生まれた。のちに日出雄は日本で一派の宗教を樹立し、蒙古を救済するべく帰来した、と信じていた。

 * 蒙古の元老たちは、日出雄をジンギスカンの末裔と信じていた。日出雄は、万一自分が蒙古の外へ出ることがあっても、弟の真澄別を置いていくから心配するな、と彼らを慰めていた。

 * 索倫に引き移ってからは、真澄別が来客の応接に当たり、日出雄は生き神としてみだりにこれを煩わさないような体制になっていた。

 * 上木局子は現地の部落民も獰猛の気がみなぎっていたが、日出雄は親しく交わって病人を治したりと、徳化教育を怠らなかった。

 * そのうちにも、上木局子出発の日まで、トール河畔で霊的修行を行っていた。修業開始五日目に、日出雄は神がかりとなって身体より霊光を放射し、神言が口を破って出た。
 ○ 神素盞嗚尊、武速素盞嗚尊と現れて、滅びようとしている神の国の立て替え立て直しを行おうとしている。
 ○ 小人どもががやがやと立ち騒いでいるが、すべて神の仕組んだ神業であるので、いかなる事変が起ころうとも、神に任せて心を煩わせないように。
 ○ 武速素盞嗚尊を先頭に、落ち着く場所は大庫倫である。されど途中は紆余曲折が多い。
 ○ 真澄別には木花姫命ならびに二体の竜神を持って守護させている。守高は天の手力男ならびに二体の竜神を持って守護させている。坂本広一には持国天、名田彦には白狐を持って守護させているが、いまだに修行が足りないので、表には表れていない。

 * この修行中、真澄別の霊眼霊耳に前途に関するさまざまな問題が映じ、聞こえたという。
 ○ 日出雄は一度日本内地に帰還して、陣容を立て直さなければならない。
 ○ 六、七回、倉庫とも感じられる鉄窓の建物が映じ、最後には鉄窓内から女神ののぞく図が見えた。

 * パインタラの留置場、鄭家屯の留置場、日本領事館留置場、奉天日本領事館監獄、広島県大竹警察留置場、兵庫県上郡警察留置場、そして大阪刑務所生活を経て、身体の自由を得るにいたったことの予告であったのであろう。

 * 名田彦は修行の際、冷水に身を浸したことにより、持病を再発して途中帰国の途についていた。

 第二十七章 奉天の渦
 * 日本で軍資金の調達にあたっていた加藤明子は、日出雄から密書を受け取った。これと思う数名を同道して、滞在場所まで来るように、というものであった。

 * そこで一同は準備に入ったが、先に奉天に入っていた横尾敬義が戻ってきて、唐国別が言うには、「すでに日出雄先生は蒙古入りしたので、後から来る人々は、先生が大庫倫に到着してから来るように」とのことであったと伝えた。

 * 加藤、国分義一、藤田武寿の三人は予期に反したが、すでに準備が整っていたこともあり、二代教主と相談の上、ともかく日出雄一行の後を追うことにした。

 * しかし水也商会に着くと、唐国別はこれ以上奥地に日本人を送るなどとんでもない、いくら大先生、二代様の頼みでも、自分の考えに反したことは聞き入れるわけにはいかない、という態度であった。

 * 奥地より日出雄の消息を伝えに来た大倉は、三人に同情し、日出雄先生より来いとのことであれば、万難を排して協力しましょう、と言ってくれたが、唐国別は態度を硬化させ、絶対に反対する旨通告してきた。

 * 仕方なく三人は大連、旅順などを巡覧しながら連絡を待っていた。結局、日出雄よりは「女子の入蒙は困難なので、日本・奉天間を往復して連絡の用務を勤めるように」との連絡があった。また、大倉の協力の言は単なる気休めだと判明した。

 * 仕方なく三人は一度そろって日本に帰った。そして加藤はかつて満蒙に名をとどろかせた緑川貞司に師事して準備を練っていた最中、パインタラの変の報に接したのであった。

 第二十八章 行軍開始
 * 三井、佐々木からの情報によれば、?南付近で盧占魁の名をかたる馬賊が横行しているため、張作霖は、盧占魁が東三省から立ち退かないと、討伐軍を差し向けると言っている、とのことである。

 * ところが、この報を聞いても盧占魁は、これはかねてから張作霖と約束した計略であり、張作霖が討伐して追いやった馬賊を自分が糾合する、という作戦なのだ、と言っていた。

 * しかしその後、輸送の弾薬が来ないことや、奉天から連絡がないことから、盧占魁もやや不安を感じたと見えて、六月二日、今後の動静について参謀一同、密議を凝らすことになった。

 * 真澄別は張作霖を当てにせず、興安嶺に進出して独立を企てるべきだと主張した。これに対して盧占魁は、綏遠・チャハル地方に一度戻ってそちらの部隊に合流を促し、物資を補給してから外蒙に向かうようにしよう、と決めた。

 * ところがその間に、盧占魁軍に参加している蒙古馬賊の一隊と、東三省正規軍との間で戦闘が発生した。馬賊らは機動力を活かして見事に撤退して来たが、結局盧占魁は彼らの救出には動かなかった。

 * そして、官軍との衝突で東三省に構えているのはまずいと意を決したのか、西北に向かって進軍するように全軍に命令を出した。

 * 全部隊は木局子を引き払って行軍を始めた。行軍中、先日東三省の官軍と一戦交えた馬賊の頭目・大英子児(タアインヅル)が日出雄を訪問してきた。彼は日出雄への敬意を表し、するめを戴いて帰ったが、その夜、盧占魁が救出に動かなかったことを不服として、部下とともにいずこかへ逐電してしまった。

 * 果たして、今日では彼は熱河の奥地に本拠を構え、三千の軍を組織し、日出雄の弔い合戦をするのだ、と日出雄・真澄別の再渡来を待っているのだという。

 第二十九章 端午の日
 * ところが、六月五日になると進路はにわかに南方に転じた。日本人側からは方向が違う、と不審の声が上がったが、すでに先方は遠くへ進んでおり、地理に不案内のこともあってどうしようもない。

 * 一同はあたりの沃野の広さ、自然や資源の豊かさに感嘆しながらのんびりと行軍を続けていた。

 * ある晩、三方が山の谷間で宿営を張ることになったが、雨模様であった。そこで日出雄が神言を奏上し、晴天をもたらした。ところがその後、盧占魁から夜間行軍の命令が出て、部隊は再び出発したが、今度は豪雨に見舞われてしまった。

 * 部隊からは、先生がせっかく雨を止めてくださったのに、司令が宿営地を勝手に変更したために、神罰を受けたのだ、という者もあった。

 第三十章 岩窟の奇兆
 * 岩山を乗り切って高原地帯に出たが、牧草はあっても一滴の水溜りも見つからない。携帯の食料は次第に残り少なくなってきた。

 * そのうち日出雄は神がかりとなり、山の岩窟の中に瞑目静座してしまった。一向は盧占魁の動きが怪しいこともあり、しばらくこの地に宿営することに決めた。

 * 後から殿の張彦三の部隊がやってきて、盧占魁に代わって日出雄一行を保護しようと申し出、一緒に腰をすえてしまった。しばらくして盧占魁は約五十四里前方に屯営しており、部隊の整理が済み次第、戻って迎えに来ることなどが報じられた。

 第五編 雨後月明
 第三十一章 強行軍

 * 猪野軍医長は、盧占魁の軍隊が兵隊も減り始めたのを心配し、もう盧占魁と決別して別行動を取ろうかと提案した。真澄別は、神様の使命が一番に下ったのだから、行くところまで行かなければ仕方がない、と諭した。

 * 岡崎は応援軍を組織するために、一足先に奉天へ戻った後であった。

 * 盧占魁の実弟と、名田彦、山田、小林善吉その他支那人二名が、洮南に向かって強行軍に邪魔になる荷物を積み、一度奉天へ向かって戻っていった。彼ら一行は洮南で官憲に捉えられ、盧の弟は銃殺され、日本人は領事館渡しとなった。

 * 真澄別は日出雄の意を受けて、隊の中でも一番の大部隊を率いている劉陞山と筆談を交わしていた。そして、今後の行軍予定は綏遠で冬籠りをすることだと聞かされた。

 * 六月十一日に熱河区内のラマ廟に着いて、食料を満たすことができた。六月十三日にまたラマ廟に宿泊した。方向は依然として東南に戻り、奉天の張作霖の勢力範囲に近づいて行く様子なので、真澄別が問いただすと、盧占魁はただ、民家の多いところに行くとだけ答えた。

 * 十四日の夕暮れに達頼汗王府と称する管内に入ったが、王府は王は不在であると誠に無愛想な対応であった。

 第三十二章 弾丸雨飛
 * 谷間を通り抜けて広大な草野に面した山すそで、開魯の軍隊から威嚇射撃を受けた。その間、真澄別はゆうゆうとその様を見物しており、日出雄は車の中で悠然と寝転んでいた。

 * 盧占魁は応戦するなと言ってその場を駆け抜けた。十五日にはまた山間の通路で王府の兵が攻撃を仕掛けてきた。今度は盧占魁の部隊は応戦の構えを見せて追い払った。

 * 続く六月十六日には、民家の付近で休息を取っている間に後方を王府の兵に襲われ、盧占魁の右腕である曼陀汗が戦死したため、盧占魁はいたく力を落とした。 * 真澄別は再び盧占魁に行く先を糾したが、盧は「先生方は安全地帯に滞在していただき、その間に自分は奉天に帰って、張作霖の誤解を解いてくる」という返事であった。

 * 十八日に沼地にでくわし、盧占魁自らが御者となっていた日出雄の車はたちまち土中に半分ほどもめり込んでしまった。引き上げようもなく、仕方なく解体してようやく全部を復元すまでには、かなりの時間を費やしてしまった。

 * 日出雄は神勅に、パインタラに行くのは薪を抱いて火に飛びこむようなものだ、と出たので、盧占魁に伝えた。盧占魁はただ、大丈夫です、と言ったのみであった。真澄別は神勅に敬意のない盧占魁の態度に不安を覚えた。

 * その夜、露営所に日本人が集まって評議がこらされた。猪野軍医は従卒の蒙古人に村民の噂を調べさせたところ、パインタラには盧占魁討伐の軍が数千も出動準備をしているということだったという。猪野は銭家店まで案内するから、道筋を変えたらどうか、と提案した。

 * 一同は盧占魁を呼んできて、猪野軍医の報告と提案を告げた。しかし盧占魁は、自分を討伐するなんてありえない、自分が安全なところまで連れて行くので心配するな、と言うのみであった。

 * 六月十九日、ラマ廟を出発してパインタラに向かう日の午後、パインタラ方面から吹き来る風はますます強くなり、姿勢正しく馬上にいることに危険を感じるほどであった。日本人一同は、不吉な予感を感じていた。

 * 宵闇の中、日出雄の一隊は進めども進めども、同じ場所に戻ってしまい、先頭部隊との間が離れてしまった。真澄別は白孤が気をつけているといって心配したが、日出雄は進まなければ仕方がないと答えた。

 * 翌朝、盧占魁の伝令によって呼び起こされることになった。

 第三十三章 武装解除
 * 猪野軍医は前夜のうちに、従卒の蒙古人を連れて、脱走してしまっていた。パインタラから七八十支里の場所で、山路の向こうの谷あいに、六七十騎の兵隊が、平行して進んでいるのが見えた。

 * 盧占魁はそれを見るや、馬にまたがって先頭部隊を追いかけた。日出雄が追いついたころは、盧占魁が主な武将と密議を凝らしている最中であった。

 * やがて全部隊はそれぞれ村落の民家に宿営したが、盧占魁は日出雄と真澄別に人払いの上面会を乞いに来た。そして、一度奉天に行って張作霖と談判しなければ虫が治まらない、ついては神勅を伺ってください、と言った。

 * 日出雄は、神勅は先般のとおり、パインタラに行くのは薪を抱いて火に飛び込むのと同じ、と真澄別に伝えさせた。盧はそんなはずはないと言い、先ほど平行していた騎兵たちは自分たちの討伐隊ではない、と否定した。

 * 真澄別が盧の認識は間違っているのではないか、とたしなめようとした時に、盧の副官が厳封した密書を持ってきた。それには、武装解除しない限り、パインタラには入ることはできない、としたためてあった。

 * 盧はもしものことがあったら、パインタラに暴風雨か大洪水が起こるように祈願してください、と言い残して、あわただしく去っていった。 * 日出雄と真澄別は庭前に座して、神に祈願を凝らした。神勅は、当日午後六時以降より異変打ち続くべし、されど洪水などはみだりに起こすべきものにあらず、皆それぞれの人心、時期に応ず、というものであった。

 * 後に日出雄らがパインタラの獄舎を出てから後、パインタラは二度まで大洪水に見舞われ、惨憺たる光景を呈してしまったという。

 * そうするうちに、すでに日出雄の仮本営にも官兵の従卒たちが入り込んで、双方打ち解けて談笑するという有様になっていた。盧占魁は官兵に案内で、井上を伴って日出雄を同道してパインタラに入ることになったという。真澄別は次の日に、やはり官兵の護衛で後からパインタラ入りすることになった。

 * 日出雄が先にパインタラに出立した後、噂が噂を呼び、劉陞山の部隊は姿を消し、脱営を企てるものが後を絶たなかったという。

 * 翌日、真澄別らは一個師団はある官兵に包囲されて拘束された。盧占魁は官兵に送られて帰って来た。長時間の協議の結果、盧占魁の軍はすべて武器を台車数台に積み込まれた。

 * 市内につくと、日出雄と井上が馬車に乗っているのに合流した。一同は兵営内に連れて行かれ、盧占魁の従卒たちはご馳走による歓迎を受けた。日出雄は士官に案内されて、宿所である鴻賓旅館に向かった。

 第三十四章 竜口の難
 * 日出雄は武装解除となった上は、パインタラで武器の授受終了の後、ひとまず日本に帰って再来しようという覚悟で、パインタラに向かったのであった。

 * 途中、パインタラ官兵の将校が、あなたは日本人であるから逃げなさい、と諭したが、他の日本人を置いていくわけにはいかないと、パインタラにそのまま進んで行った。

 * 城門を入って旅団の兵営内に入って挨拶をなすと、盧占魁が来るまで休息するように、と言われた。日出雄も井上も夜中行軍のために疲れていたので、前後も知らずに寝についた。

 * 三四時間も眠ったころ、兵士たちに揺り起こされると、後ろ手に縛り上げられてしまった。やがて盧占魁が到着すると、日出雄らの縛めを解くことになり、また親切に饗応し始めた。

 * 盧占魁はついに武装解除に至ったことを告げ、ただ自分の部下もパインタラには多くいるために、身の安全は心配しないように、と言った。やがて、数千の兵士が盧占魁の残部隊を引き連れて市内に戻ってきた。

 * 真澄別らも一緒にやってきて、鴻賓旅館で合流することになった。その日は一同、官兵たちに饗応を受けたが、日出雄はその日に限って気分が進まず、食事には箸をつけなかった。

 * その夜、盧占魁が二人の副官とともにやってきて、なんだか雲行きが怪しいようなので、これから熱河、綏遠、チャハルの特別区域に逃れて再起を図るつもりだ、と告げた。そして日本への旅費として一百円を差し出したが、日出雄は固く辞して受け取らなかった。

 * 官兵たちは盧占魁の兵士たちを歓待しておいて安心させ、真夜中に寝ているところを一人ひとり営門外へ引き出し、機関銃で銃殺を始めたのである。

 * 日本人一同も、鴻賓旅館で寝ているところを夜半一時ごろに揺り動かされ、捕縛されてしまった。そして、旅館の庭前に立たされた。井上は支那語がわかるので、「先生、兵士どもが我々を銃殺する、と言っております」と通訳した。

 * 一同は覚悟を決めた。そして、パインタラを引き回されて、刑場に送られていった。白凌閣ら蒙古人、支那人は別に銃殺場へと連れて行かれた。

 * 日出雄、真澄別、萩原、井上、坂本、守高らは並べられて、機関銃の弾が飛んでくるという矢先、射手は銃の反動を受けて倒れたため、数分を要した。真澄別は救世主である日出雄がここで命を落とすことなど決してありえない、と強く主張した。

 * 日出雄は霊魂が中有に迷わないようにと真澄別を諭し、一同の霊魂を救うよう、それのみに心を集中していた。そして辞世の歌を詠んで弾丸が飛来するのを待っていた。

 * しかしそうするうちに銃殺は中止になり、またもや兵士が一行を引き立てて監獄へ連れて行った。堅固な手かせ足かせをはめ、麻縄にて縛り、厳重な死刑囚の取り扱いをなした。

 第三十五章 黄泉帰
 * 六月二十一日の夜、日出雄が鴻賓旅館で捕縛されたとき、そこに泊まり合わせていた日本人某がふと庭にお取次ぎを行う杓子を見つけた。そして日出雄の歌と拇印が記されているのを認め、日出雄一行の遭難を知ったのである。

 * パインタラから一番の汽車に乗ると、鄭家屯の日本領事館に届け出た。領事館はすぐに土屋書記生を急行せしめ、二十二日の夕ごろにパインタラに着き、知事に面会して日出雄一行の引渡しを要求した。土屋書記生は獄舎につながれている日出雄一行にも面会し、安心するようにと言いおいて帰って行った。

 * 書記生が来る前は、日出雄一行の処置に着いて、蒙古人として処刑することに決まり、準備をしていたそうである。ところが、日本領事館に知れたことがわかり、国際上の後難を恐れて、決行するに至らなかったという。

 * 翌日、居留日本人会長・太田勤氏、満鉄公所の志賀秀二氏が面会に来て、官憲と種々協議の結果、ようやく手かせのみ解かれることになった。国際法によれば、領事館引渡し要求から二十四時間以内に引渡しを行うべきところ、三十日までパインタラに拘束されていたのは、日本領事館と現地官憲との交渉が難しかったためであるとのことであった。

 * 四五日経ってから日本人一同は、パインタラ県知事の法廷に引き出され、馬賊でないかどうか取調べを受けた。一同は自分たちは馬賊ではないと言って反駁した。六月三十日には、鄭家屯において同様の取調べを受けた。

 * 七月五日の夕暮れ、鄭家屯の日本領事館に引き渡されることになった。領事館にて一応の取調べを受けた後、久しぶりに湯を使った。監房で一夜を明かし、翌六日、奉天の総領事館に送られた。

 * 奉天にはすでに名田彦、山田、小林らが収容されており、しばらくして大倉が入ってきた。取調べの結果、三年間支那からの退去処分ということに落ち着いた。日本から中野岩太、隆光彦が役員信者代表として奉天に出張し、奉天支部の西島と共に差し入れその他について奔走した。

 * 七月二十一日に大連に着き、船で門司に送られた。日出雄は船内で船長や乗客に請われて大本教義についての公演や揮毫を求められた。日本の玄関口に到着したのは、七月二十五日であった。その光景はあたかも凱旋将軍を迎えるがごとき有様であった。

 第三十六章 天の岩戸
 * 門司署の三階から街道を見れば、あまたの信徒が大道に列を作って自分らを見上げていた。自分は空前絶後の大業を企てたが、不幸にして中途で帰国するに至ったのも、神界の経綸として止む無きことではあるが、妻子兄弟、役員信者の胸のうちはいかばかりであろう、と思わず万感が胸に満ちた。

 * 続いて下関所に送られ、しばらく休憩の後に自動車で駅に送られた。警察の門口には直霊が待っていた。汽車で大阪に向かい、途中大竹、上郡警察署の拘留所にそれぞれ一泊した。

 * 相生橋署を経て大阪駅に下車すると、見物人が蟻の山のごとく、新聞社の取材班がレンズを向けて待ち構える中を、曽根崎署、続いて天満署の拘留所へ、そして同署の裏門から徒歩で若松支所に向かった。

 * 支所内で書籍の差し入れを受けて、大本役員が債権問題について青くなっていることや、債権者が厳しい催促を始めたことがわかって、歯がゆい思いをしていた。結局九十八日間、入獄することになったが、その間に精神の修養をなし、日出雄の蒙古入りについての記事を読んだりして、あっという間に日々をすごしてしまった。

 * 旧七月十五日の夜、女神が自分に朝日タバコを渡して、莞爾として姿を消したもうた。これは、朝日を渡されたので、やがて岩戸が開くだろうが、一服して時を待て、という意味であると知った。これにより、長期の入獄を覚悟した。

 * また、新暦十月の中ごろ、母と一緒に本宮山のような丘陵を歩いていると、大本信者が一人、一生懸命に雑木を伐り、土をひきならして道を開いていた。これは保釈を許される前兆であろうと知った。

 * その次は、自分が非常に高いとがった山の上に登ったが、下り道がどこにもない。すると白馬が二頭現れて、鎖をかけてくれたと見るや、ものすごい勢いで帰ってしまった。自分のために活路を開くべく奮闘している信者のあることを感じたのである。

 * ある日真澄別が面会に来て、霊眼で「十一」を見せてもらったという。果たして、日出雄の保釈が決定したのが旧暦十月一日であり、若松支所を出たのが新暦十一月一日の午前十一時十一分であった。

 * 聖地では秋季大祭があり、分所支部長会議では財政整理問題について激論が始まっていた。そこへ、保釈の報が届いたので、一同神言を奏上し、大阪へ迎えに来たのであった。

 第三十七章 大本天恩郷
 * 財政問題も日出雄が綾部に帰りつくや、一掃されてしまった。瑞祥会本部を亀岡から綾部に移して宇知麿に総覧を一任した。そして自らは真澄別を率いて万寿苑に居を定め、万寿苑を天恩郷と命名した。

 * 日出雄の居館である光照殿造営に際して、亀山城址の基礎石は掘り起こされた。欧文印刷所の新設や、海外宣伝部の移転などで、月照山の弥勒塔の光輝もますます増した。月宮殿造営の日を鶴首して待つのは、信徒のみではないほどである。

 第三十八章 世界宗教聯合会
 * 天恩郷に新設する光照殿の礎石は、同義的世界統一の基礎である世界宗教聯合の証であるので、一石を積み重ねるにも、心するべきとして、日出雄は親しく基礎工事監督の任に当たった。

 * 一方、岡崎鉄首が同道した李松年を先駆者とし、真澄別に全権をゆだねて、世界宗教聯合の設立を促すべく、北京に派遣した。

 * 真澄別は神命をかしこみ、隆光彦、岡崎鉄首と、頭山満・内田良平両氏の代理である岡貞吉氏を伴って、陰暦四月十二日、北京に向かった。北京では熱心な仏教家である洪徳滋や章嘉活仏らと会見した。

 * 章嘉活仏は内蒙全部、外蒙の十個の廟、五大山の五個廟、北京のラマ廟を統括している。寒気は北京に滞在している。

 * 真澄別一行は、各宗教の代表を訪れ、大正十四年五月二十日、北京悟善社において、世界宗教聯合会の発会式を挙げた。従来三五教と提携していた普天教、五大教のほか、道教、救世新教、仏陀教、支那仏教、支那回教、支那基督教、儒教などが提携した。

 * さらに真澄別は霊地五台山を訪問して神勅を受け、日出雄の下に復命したのは、日出雄が大阪刑務所に到着したときから十一ヶ月を経た六月二十七日であった。

 第三十九章 入蒙拾遺
 * 張作霖は、第二次奉直戦が意外に早く始まったので、いまさらのごとく盧占魁を処刑してしまったことを悔いたと伝えた。

 * パインタラの前夜に身をもって逃れた劉陞山は奉直戦のさなかに大連に逃れ、さらに日本に渡って綾部に身を寄せていた。その後奉天の日本租界に身を潜めて使命が下るのを待っている。隆光彦が支那にわたった際に訪問すると、たいへんな歓迎を受けたとのことだ。

 * 真澄別が北京に滞在中、王昌輝、揚巨芳、包春亭、金翔宇らがたずねてきた。いずれも、索倫の司令部に参じていた人々である。

 * 王昌輝は河南軍に身を投じていた。盧占魁の最期の様子を伝え、またパインタラの結果について悔しがり、必ずいつか目覚しい結果を照覧するからと、日出雄への取り成しを願ったという。

 * 揚巨芳は索倫で盧の配下・揚萃廷と衝突して引き上げてから、奉天軍の憲兵少佐に任じられていた。そして、張作霖は盧を処刑するつもりはなかったのだが、現場の長の越権行為であのような結果になり、揚萃廷や劉陞山が遭難の遠因を作ったと言って非難した。

 * 包春亭は包金山の代理として訪ね、今は奉天軍の顧問をしていると消息を明かした。彼らは岡崎と共に奉天に救援軍を組織しに出立した後、パインタラの遭難を知ったのであった。

 * 金翔宇は、日出雄の近くに仕えた白凌閣、温長興、秦宣、王瓚璋、王通訳らはみな、難を逃れて命を助かったと伝えた。

 * 真澄別はいずれの人たちにも、これは神様の深い思し召しのあることで、単純な失敗ではないこと、世界的神劇の序幕であることを説明した。その証として世界宗教聯合会の成立を伝えると、各人一様に感嘆の声を漏らし、前途の祝福を忘れなかった。特に蒙古人は、章嘉活仏との提携を非常に喜んだ。


以上   [前回レポート] [次回レポート]


  [拝読箇所一覧] [愛読会の紹介] オニ(王仁)の道ページ