リンパ浮腫になる前の子宮がん
私は日記をつけないので、正確ではないかもしれません。
思い出しながら、書きます。
| 入院前 | 入院中(手術前) | 入院中(手術後) |
| 名前を呼ばれる・・・・ 遠い所から・・・ 寒い・・・、震えてる・・・、「終わりました?」「何時ですか?」看護婦さんに聞く。 たしか、4時半だったと思う・・・ 外に出た。 母の声が聞こえる。 特徴のある声だからすぐわかる。 9時から始まって、回復室から出たのが4時半。 こんなに長い時間待ってもらって申し訳ないと思った。 覚えてないが、最初に言った言葉は「旦那は?」だったそうだ。 次に「ママ・・・」。 逆でなくてよかった。 私を育ててくれた叔母もいた。 なんか、現実味のない痛さがあった。 担架からベッドに移される時痛かった。 次に目が覚めた時、弟がいた。 「ありがとう・・・」と言った記憶がある。 術後、切ったものを家族に見せたらしい。 父はきれいな子宮だったよ、と元獣医で肉屋だからなんでもない。 母も鶏をまるごとさばくし、叔母も肉屋、なんでもない。 夫はスプラッタ−ホラ−などとんでもない人、気分が悪くなり、しばらく肉は食べられなかったそうな・・・ 痛いと言ったら、座薬を入れてくれた。 夜中に点滴が漏れる。 しばらくしたら痛くなってきた。 朝、漏れた所が真っ青になってる、痛い。 なんか、動きにくい・・・、管がいっぱい体についてる。 看護婦さんに、「お尻になにか刺さってるような感じがする。」と言ったら、 「刺さってるんですよ〜」と言われた。 これが、リンパ液を排出するドレ−ンだったようだ。 左が多いと主治医。 案の定、最初に腫れたのは左足。 夜が恐い。 昼間寝てても夢を見ないのに、夜は恐い夢を見た。 早く明るくなって欲しいと、いつも思っていた。 エピソ−ド まだ学校出たばっかりの新人看護婦さん、術後3日目に院長回診があった。 これは月1回の大イベント。 まるで、”白い巨塔”だ、院長以下全医師のオンパレ−ド。 院長が私を見て言う、「この子いくつだ?」 主治医、「いや、結構いってるんです。」 院長、手を差し伸べて、握手しようとする・・・ 私より先に手を出したのがなんと、新人看護婦さん・・・ 驚く院長。 院長と看護婦さんが握手してる姿、笑ったらお腹が痛かった。 しかし、1日3回の注射は痛かった。 抗生剤らしいが、痛かった分、点滴は早く終わった。 流動食もすぐに始まり、術後3日目には歩かされた。 そして、術後翌日から定期的にすごい汗が出た。 ホットフラッシュ、更年期障害の症状がすでに出た。 これはすごかった。 30分に1回、10分位続く・・・ 頭のてっぺんから汗が噴出す。 手の指の間まで汗でびっしょり。 そして、すぐに寒気が来る。 集中力がゼロになる。 こんなに、お腹が重たいとは・・・ 自然に前かがみになる。 熱が出た。 リンパ節の炎症らしい・・・ 起き上がるときに引きつれたような痛みがくる。 寝ているとお腹がすくのに、起き上がると食欲がなくなる。 辛かったのは排便。 いくら力を入れても出ない、感じない・・・ 下剤を飲まされ浣腸までされたら、こんどは出過ぎ。 これが排便困難だった。 看護婦のHちゃんは浣腸を回しながら持ってくる・・・ それも、ブルンブルン、術前の500mlに比べたら小さいか・・・ 尿意も喪失する為、導尿カテ−テルは入れたまま。 抜くのは2週間後と言われた。 持って歩くのが恥ずかしかった。 1週間後抜糸。 お臍の周りの付き具合が気に入らなかったか、縫い直される。 看護婦のHちゃん、手を握っててくれる。 「痛い!」と言うと、主治医「あっ、ごめん。そこ固くて針入らなかったんだ・・」 麻酔なしで一針縫われる。 看護婦のHちゃんとは同じジャイ狂、同じ選手が好きで話が合う。 以後、長い付き合いに・・・ 術後1週間、夫が夕方主治医に話があると来た。 なんの話? と聞いても歯切れが悪い。 病室に帰ってきた夫、ほっとしたように私に話してくれた。 転移がなかったらしい、放射線治療はしなくていいって言ってたと・・・ なんの話かわからなかった。 放射線治療の話は聞いていない。 よく聞いたら、当初私の病状はかなり悪いと思われていたようだ。 術後検査をして転移があったら、抗がん剤治療、放射線治療を行うと家族には話があったらしい。 そして、その確率はかなり高いと・・・ 夫が手術前日泣いた意味がわかった。 でも、この話私も聞いておきたかった。 弟がよく見舞いに来た。 テレビを観る為と看護婦さんを見る為・・・ ここの看護婦さん達、美人揃いである。 この頃、一度日記をつけようかと思った。 しかし、毎日「痛い!」しか書けないと思って辞めた記憶がある。 本当に痛みとの闘いだった。 2週間後、尿を出す訓練が始まる。 カテ−テルをはずされ、はじめてトイレに・・・・ えっ? 出す感覚を思い出せない・・・ ・・・というより、出ないのである。 腹圧をかけるといっても出ない。 これが排尿障害だった。 辛かったのは定期的に起こされ、トイレに行かされた事。 昼間はいいが、夜中もである。 寝起きが悪いので、起こされても起きられない。 「3回目よ。」と看護婦さん、ぶんむくれ。 排尿訓練は退院まで続いた。 ベッドの上で体操。(腹筋を鍛える為) 効果大だったのは、アイスコ−ヒ−・・・ 勢い良く出たので、家族が見舞いに来て喫茶室に行くと必ずアイスコ−ヒ−を飲んだ。 私が入院していた時、同い年の方と知り合った。 この時期、30代は私とこの方の二人、40代は同室の一人、あとの方はそれ以上の年代だった。 この方とは退院後も何度か手紙のやり取りをした。 当時2歳位のお子さんがいらっしゃった。 一緒にお風呂に入って、背中を流し合った。 3年後、ご主人から訃報をいただいた。 この場を借りてご冥福をお祈りいたします。 主治医のO先生、本当にお世話になりました。 肩をいからせて颯爽と歩く姿が大好きでした。 ありがとうございました。 これからもよろしくお願い致します。 看護婦の皆さん、ありがとうございました。 「幸せになってね!」と退院の時に言って下さった。 心に残る言葉です。 私の両親は私が入院中、毎日必ず来てくれた。 洗濯一切をしてくれ、心の支えにもなってくれた。 感謝しても感謝しきれない、ありがとう。 実は入院するまで結婚してよかったと思った事がなかった。 一緒に泣いた、あの屋上での出来事。 本当に結婚して良かった。 あなた、ありがとう。 あまりよく覚えてないが、私は術後すぐ笑顔になったらしい。 辛い顔を見せてはいけない・・・、持ち前の外面の良さがでたのか・・・ ずっと後で聞いてわかったが、笑顔を絶やさないので、本当に痛かったと思われなかったらしい・・・ これを直さないと、またがんになるかな・・? 私の生涯ではじめての入院生活。 入院するのは出産の時だろうと思っていたのに、こんな事になるとは・・・ 子宮を失ったのに、子供を抱えおっぱいをあげてる夢を見る。 7年間子供が出来なかったのに、やっぱり子宮をなくすと違った思いがある。 もう一生、子供は産めない・・・・ せっかく、女に生まれてきたのに・・・・ でも、これが私に与えられた運命。 きっと、子供を産んでたら私の体が持たないと神様が考えてくれたのでしょう。 しかし、これはエピロ−グではありませんでした。 本当の闘いはこれからだったのです。 |
Copylight(c)2000 Suzy
作者に無断での転載・複製を禁止致します。
リンクのお申し込みはメ−ルをいただけるとうれしいです。