作曲家としてのバーンスタイン

2023年 5月 23日 初版作成  2023年 5月 30日「キャンディード」を追加

 次の定演(第88回)で、20数年ぶりにバーンスタイン作曲の「キャンディード」序曲を演奏します。
 私たちが知っているレナード・バーンスタイン(1918〜1990)は、その90%以上が「指揮者としてのバーンスタイン」でしょう。
 今回「キャンディード序曲」を演奏するに際して、「作曲家としてのバーンスタイン」について少しまとめてみます。

 レナード・バーンスタイン(1918〜1990)



1.バーンスタインの略歴

 バーンスタインの略歴をまとめておきましょう。

1918年:ウクライナ系ユダヤ人の移民の2世として、アメリカのマサチューセッツ州に生まれる。父は理髪店を営む敬虔なユダヤ教徒だった。
1935年(17歳):ハーバード大学の音楽専門課程に入学。作曲をウォルター・ピストンに師事。
1937年(19歳):指揮者ディミトリー・ミトロプーロス、作曲家アーロン・コープランドに出会う。
1939年(21歳):ハーバード大学卒業後、フィラデルフィアのカーティス音楽院に進みピアノ、指揮、作曲を学ぶ。指揮をフリッツ・ライナーに師事。
1940年(22歳):タングルウッド音楽祭でセルゲイ・クーセヴィツキに師事。
1941年(23歳):カーティス音楽院を卒業。
1942年(24歳):交響曲第1番「エレミア」を作曲。
1943年(25歳):アルトゥール・ロジンスキーの指名によりニューヨーク・フィルの副指揮者になる。11月14日、病気のため出演できなくなったブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルのコンサートを指揮。ラジオ中継されていたこともあり一躍有名になる。
1944年(26歳):ピッツバーグ交響楽団で交響曲第1番「エレミア」を初演。バレエ「ファンシー・フリー」、ミュージカル「オン・ザ・タウン」。
1945年(27歳):ニューヨーク・シティ交響楽団の音楽監督に就任(〜1948)。
1946年(28歳):プラハの音楽祭でチェコ・フィルを指揮してヨーロッパ・デビュー。
1947年(29歳):パレスチナ・フィル(後にイスラエル・フィル)を初めて指揮。
1949年(31歳):交響曲第2番「不安の時代」を作曲、クーセヴィツキの指揮、バーンスタインのピアノで初演。
1950年(32歳):交響曲第2番「不安の時代」をニューヨーク・フィルと初録音。
1951年(33歳):チリ出身の女優フェリシア・モンテアレグレと結婚。
1952年(34歳):オペラ「タヒチ島の騒動」。長女ジェイミー誕生。
1953年(35歳):ミュージカル「ワンダフル・タウン」。アメリカ出身の指揮者として初めてミラノ・スカラ座で指揮(ケルビーニ作曲「メディア」、主演はマリア・カラス)
1954年(36歳):映画「波止場」(On the Waterfront)の音楽(主演はマーロン・ブランド)。「セレナード」(プラトンの「饗宴」による)。
1955年(37歳):長男アレクサンダー誕生。
1956年(38歳):ミュージカル「キャンディード」。
1957年(39歳):ミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」を作曲。ミトロプーロスとともに、ニューヨーク・フィルの共同首席指揮者となる。
1958年(40歳):ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。アメリカ生まれの指揮者として初。テレビ番組「ヤング・ピープルズ・コンサート」を開始。
1959年(41歳):ニューヨーク・フィルとヨーロッパおよびソ連へ演奏旅行。モスクワでショスタコーヴィチの交響曲第5番を演奏し、来場していた作曲者に絶賛される。
1960年(42歳):マーラー生誕100周年を記念してマーラー・フェスティバルを開催。(マーラー・ルネサンスの始まり)
1961年(43歳):ケネディ大統領就任式で「ファンファーレ」を初演。ケネディ大統領の熱烈な支持者となる。ニューヨーク・フィルとともに初来日。
1962年(44歳):次女ニーナ誕生。
1963年(45歳):交響曲第3番「カディッシュ」を作曲。テルアビブで初演。
1965年(47歳):「チチェスター詩篇」を作曲。
1966年(48歳):ウィーン国立歌劇場にヴェルディ「ファルスタッフ」でデビュー。
1968年(50歳):ウィーン国立歌劇場でR. シュトラウス「ばらの騎士」を指揮。
1969年(51歳):ニューヨーク・フィルを辞任。理由は「作曲の時間を確保するため」。しかし、欧米での客演指揮を続ける。
1970年(52歳):メトロポリタン歌劇場でマスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」を指揮。アン・デア・ウィーン劇場でベートーヴェン生誕200年記念の「フィデリオ」を指揮。ニューヨーク・フィルとともに2度目の来日、大阪万博でも公演。
1971年(53歳):ワシントンDCの「ケネディ・センター」のこけら落としのためジャクリーン・ケネディ未亡人からの委嘱で「歌手・演奏家・踊り手のための劇場作品〜ミサ」を作曲。
1974年(56歳):ニューヨーク・フィルとともに3度目の来日。
1977年(59歳):カーター大統領の就任式で「ソングフェスト」を指揮して初演。 政治的序曲「スラヴァ!」(「スラヴァ」とは、チェロ奏者ムスティスラフ・ロストロポーヴィチの愛称。ロストロポーヴィチは1974年にソ連から国外追放され、この年にワシントン・ナショナル交響楽団の音楽監督に就任した)
1978年(60歳):妻フェリシアが癌で亡くなる。
1979年(61歳):生涯唯一のベルリン・フィル客演。曲目はマーラーの交響曲第9番。ニューヨーク・フィルとともに4度目の来日。
1980年(62年):「ディヴェルティメント」を作曲。
1983年(65歳):オペラ「静かな場所」(「タヒチの騒動」の改訂)。
1984年(66歳):自作のミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」を始めて録音。
1985年(67歳):原爆投下40周年でECユース管弦楽団とともにヨーロッパ、広島へ「平和の旅」。
1988年(70歳):タングルウッド音楽祭で70歳祝賀コンサート。
1989年(71歳):ベルリンの壁崩壊を祝う国際合同オーケストラによる「第九」を指揮。
1990年(72歳):札幌にパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を創設して指揮。10月14日、肺がんのため死去。
 

2.代表作

 バーンスタインの特徴は、シリアスな音楽、アメリカ的な陽気でポップな要素、ジャズの要素、そしてユダヤ的な要素、宗教的・神秘的な要素などの「折衷的」な内容でしょう。
 バーンスタイン自身も、アメリカという国がいろいろなところからやって来た移民とその子孫で構成される以上、その音楽はいろいろなものの折衷的なものになるのだと語っています。
 躍動的なリズムと意表を突いた変拍子も随所登場しますが、和声や旋律は調性的な枠組みを大きく外れたり、不快なものになることはありません。  その点で批評家には「保守的、古めかしい」と評価されることも多かったようですが、バーンスタイン自身は「批評家のためではなく、大衆のために作曲する」「調性は人間がもって生まれた感性だ」「必要なところには十二音音楽も使うが、最後は調性のある音楽に向う」というようなことを言っていました。
 

2.1 交響曲

 3つの交響曲を作曲しています。

交響曲第1番「エレミア」(Jeremiah)

 バーンスタインが無名の1942年(24歳)に作曲した最初の交響曲。
 終楽章(第3楽章)の歌詞が、旧約聖書の「エレミアの哀歌」のヘブライ語によるためこの名で呼ばれる。
 バーンスタイン自身のルーツであるユダヤを強く意識した作品となっている。
 神の怒りによるエルサレム陥落と民族捕囚を嘆く旧約聖書の「エレミア書、哀歌」を題材にした交響曲で、預言者による訴え、それに耳を貸さずに神への冒涜を続ける民、そして陥落と捕囚を嘆き救いを求める、という3つの楽章で構成される。
 ニューイングランド音楽院の作曲コンクールに応募したが落選し、父親に献呈されている。

第1楽章「予言」:Largamente
 不協和音の強奏で開始。暗い予感。
第2楽章「冒涜」:Vivace con brio
 バースタイン特有の「スケルツォ的変拍子」が特徴的。
第3楽章「哀歌」:Lento
 メゾソプラノ独唱によるヘブライ語の旧約聖書「エレミアの悲歌」が歌われる、瞑想的な楽章。
 

交響曲第2番「不安な時代」(The Age of Anxiety)

 ニューヨーク・フィルの副指揮者、ニューヨーク・シティ交響楽団の音楽監督として音楽活動を始めた後の1949年(31歳)に作曲された、管弦楽とピアノのための交響曲。
 イギリス出身の同時代の詩人オーデン(Wystan Hugh Auden)(1939年にアメリカに移住し、1946年にアメリカ国籍を取得)の同名の長編詩にインスパイアされて作曲されている。

第1部
第1楽章「プロローグ」:Lento moderato - Poco piu andante
 クラリネット2本の不安げな「孤独」の主題で始まる。以下はその「変奏」という形態である。最後にハープとフルートが加わる。
第2楽章「7つの時代」:変奏1〜7
 「孤独の主題」をピアノが受け継ぐ。ハープとオーケストラが加わる。ピアノとオーケストラで様々に変奏される。
第3楽章「7つの段階」:変奏8〜14
 弦楽合奏で開始。こちらは「瞑想」よりも「アクション」。

第2部
第4楽章「挽歌」:Largo - Molto rubato
 ピアノが切々と孤独感と不安感を歌う。
第5楽章「仮面舞踏会」:Extremely fast
 突然陽気なジャズが始まる。ピアノとチェレスタと打楽器が大活躍。不安な若者が集まってパーティを開く。
第6楽章「エピローグ」:L'Istesso tempo
 パーティの余韻が響く中、孤独の主題が再現するが、その中に「自信」や「確信」、「希望」といったものを見出していく・・・。バーンスタインはシンプルなヒューマニストなので、これは「希望」と考えてよいのだろう。
 

交響曲第3番「カディッシュ」(Kaddish)

 ニューヨーク・フィルの音楽監督時代の1963年(45歳)に作曲され、暗殺されたケネディ大統領のレクイエムとして捧げられた。
 「カディッシュ」は、「聖なるもの」といった意味で、死者を追悼する意味を持つということですが、曲は信仰告白的な意味合いを持つようです。
 曲は、「語り」とソプラノ独唱、混声合唱と児童合唱を伴います。「語り」が神に対する言葉、祈り、懺悔、不満、疑問、謝罪を述べるなど、「神との対話」によって進みます。語りは英語です。
(私の持っているバーンスタイン指揮/ニューヨーク・フィルの1964年の録音は、奥様のフェリシア・モンテアレグレの語りで、かなりおどろおどろしい)

第1楽章
第1部「祈り」
 語りで始まる。重苦しい主題と厳しい言葉が飛び交う楽章。
第2部「カディッシュ1」
 拍手を伴い、合唱が参入する。
 「アーメン」は神を讃えるというよりも、たたきつけ、非難するように響く。

第2楽章
第1部「ディン・トーラ」
 「ディン・トーラ」とは「神の戒律による試練」ということらしい。
 語りで始まる。英語にヘブライ語が混じる。
 打楽器が炸裂する中、合唱が静かに歌い出す・・・。これもかなり厳しく激しい音楽。
第2部「カディッシュ2」
ソプラノ独唱による優しい子守歌が歌われる。歌詞はヘブライ語。最後は静かに「アーメン」で閉じられる。

第3楽章
第1部「スケルツォ」
 これも語りで始まる。
 オーケストラがピツィカートで続く。
第2部「カディッシュ3」
 少年合唱による。曲は肯定的な確信に満ちて盛り上がる。
フィナーレ:フーガ・テュッティ
 ゆったりしたテンポで始まる。
 穏やかな弦楽器の中、語り手は神と人間により深い新たな関係が確立し信仰が復活したことを告げ、歓喜に満ちたリズミカルな合唱のフーガによって曲を閉じる。
 

2.2 声楽曲

(1)チチェスター詩篇

 バーンスタインの代表作のひとつだと思うのだが、残念ながら日本語版 Wikipedia すら作られていない・・・(2023年現在)。
 ニューヨーク・フィルの音楽監督を務めながら、「作曲の時間がとれない」として指揮活動を縮小していた時代の1965年に作曲。
 イギリスの都市チチェスターの大聖堂からの依頼で作曲されたのでこの名前で呼ばれる。 依頼主からの費用と演奏スペースの制約から、木管楽器やホルンを欠くオーケストラと独唱陣、合唱の編成となっている。
 「詩篇」は、ダヴィデの作とされる旧約聖書中の神を讃美する部分で、そこから抜粋して、歌詞はヘブライ語。
直前に作曲された交響曲第3番「カディッシュ」と並んでユダヤ的な作品であるが、「カディッシュ」が絶望の淵から神に論争を挑んで信頼を回復するのに対し、「チチェスター詩篇」の方は常に信仰に対する確信と喜びに満ちている。

第1楽章
 詩篇108、詩篇100による神への賛美を歌う、力強さと躍動する変拍子リズムに満ちた楽章。まさにバーンスタインの面目躍如。

第2楽章
 最も有名な詩篇23「主は私の羊飼い」をボーイソプラノ独唱が歌う非常に清楚で印象的な音楽。 男声合唱が詩篇2による警告を歌うが、再びボーイソプラノが神への信頼を歌って静かに幕を閉じる。(でも、エンディングは何かをほのめかす)

第3楽章
 弦楽器による苦渋に満ちた導入のあと、平静に落ち着いて詩篇131と詩篇133で兄弟愛の喜びを穏やかに歌い上げ、最後はアカペラで静かに全曲の幕を閉じる。
 

「ミサ〜歌手・演奏家・踊り手のための劇場作品」

 ワシントンDCの複合芸術施設「ケネディ・センター」のこけら落としとして、ジャクリーン・ケネディ未亡人からの委嘱で1971年に作曲されました。
 当時泥沼化して行く先を見失っていたヴェトナム戦争や、ヒッピーなどに代表される若者の無気力化・現実逃避の傾向に危機感を感じたバーンスタインは、カトリック教会のラテン語のミサ典礼文と英語の寓話的な歌詞との組合せにより、既存の秩序・価値観の欺瞞性や破綻への警告、社会への問題提起、形骸化した信仰への疑問を投げかけますが、最後には「信仰の復活」と人間相互の「絆」へのかすかな希望を歌います。
 エレキギター伴奏による「シンプル・ソング」や、マーチング・バンドによる「ハレルヤ」、ジャズバンド、ロックバンドによる歌やダンスや、「瞑想」としてのオーケストラ演奏、「第九」の引用・パロディなど、バーンスタインらしい「何でもあり」の作品であり、ある意味で「最もバーンスタインらしい」作品でもあります。
 曲の中に、交響曲第2番「不安の時代」や第3番「カディッシュ」、「チチェスター詩篇」の引用っぽい部分や類似の響きに満ちた個所が多数見受けられます。
 カトリック教会などからの批判や拒否もあり、編成や演奏者が多岐・多彩に必要なことから、広く一般化することなく今日に至っていますが、もっと演奏されてよい曲だと思います。
 日本では、数年前に井上道義氏が取り上げていました。

 「ミサ」については、個別に記事を書いていますので、そちらも参照ください
 

2.3 舞台作品

ミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」

 これは言わずと知れた、バーンスタイン最大の代表作でしょう。
 でも、バーンスタイン自身は「ミュージカルの作曲家」というレッテルを貼られることが嫌だったようです。
 ミュージカルとしては1957年(39歳)に作曲されて舞台上演されていますが、1961年の映画によって世界的にヒットしました。

 ミュージカル界のしきたりはよく知りませんが、バーンスタインは「作曲」を担当したものの、舞台上演用のオーケストレーション(編曲)や映画での編曲はアーウィン・コスタルとシド・ラミンが担当しています。
 1961年の映画の制作にはバースタイン自身はタッチしておらず、1961年のアカデミー賞ミュージカル音楽部門ではアーウィン・コスタル、シド・ラミンら4人が受賞していますが、バーンスタインは受賞者には含まれていません(この映画用にオリジナルで作曲されたわけではないから)。

 また、通常演奏会で演奏される「シンフォニック・ダンス」は、映画用の編曲と並行してミュージカルの中のダンスナンバーから抜粋してアーウィン・コスタルとシド・ラミンの助力を得て編曲したものです(おそらく、全体の構成や接続部分にはバーンスタインが関与したが、個別の曲では映画用のオーケストレーションがそのまま使われている)。
 様々な指揮者、オーケストラが演奏していますが、一部に相違が見られることから、何回か改訂されているようです。(現在の Boosey & Hawkes のスコアも「revised edition」となっている)

 「シンフォニック・ダンス」はバーンスタイン自身も数多く演奏・録音していますが、ミュージカル全体の録音は1984年になって初めて行われました。バーンスタイン自身は、舞台上演用のスコアをこのとき初めて見たといっているのをどこかで読んだことがあります。弦楽器にはヴィオラが含まれず、少人数で楽器の持ち換えも多いというのは、劇場での舞台上演を考慮したもののようです。(バーンスタインが指揮した1984年の録音風景が「メーキング映像」として残されており、そのオーケストラは非常に小編成です)
 バーンスタイン自身が指揮したミュージカル全曲盤では、マリアをキリ・テ・カナワ、トニーをホセ・カレラス、「サムホェア」をマリリン・ホーンなど、オペラ歌手が歌っています。そのためか、ミュージカルとしての躍動感・エネルギッシュさはなく、オペラほどの格調高さもなく、いまひとつ中途半端です。
 

「キャンディード」

 これは「ミュージカル」なのか「オペレッタ」なのか、はたまた「オペラ」なのか、なんとも判別できない舞台作品です。
 バーンスタイン自身は「ヨーロッパとは異なる、アメリカのオペラ」を目指したようです。
 作曲されたのは1956年で、ブロードウェイで初演されたものの73回の公演で打ち切られ失敗に終わります。
 しかしバーンスタインは強い愛着と思い入れがあったようで、生涯にわたって何度も改訂しています。1989年の改訂の後1990年に亡くなりますので、これが最終版ということになります。

 内容としては、フランスの哲学者・作家であるヴォルテール(本名:フランソワ=マリー・アルエ、1694〜1778年)の小説「カンディード、あるいは楽天主義説」(1759年作)に基づいています。
 ヴォルテールの原作は、当時の「キリスト教」の価値観・倫理観が支配する社会に対する批判、「信じれば救われる」という「単純な楽観主義」に対する皮肉だったようですが、それを「キャンディード」では1950年代にアメリカに吹き荒れた「マッカーシズム」(反共産主義、いわゆる「赤狩り」)やマイノリティ(ユダヤ人・ユダヤ教徒、黒人、中南米からの移民など)への差別に対する批判として作られたようです。
 「キャンディード」は、女流劇作家リリアン・ヘルマンの脚本、作詞は主にリチャード・ウィルバーが担当しスティーヴン・ソンドハイム、バーンスタインらによって補筆がなされています。
 作品としては2幕構成となっています。

 あらすじはかなり「奇想天外なドタバタ劇」のようです。「社会常識・通念への批判、皮肉」をその内容としているからでしょうか。

 全曲を見たい場合、YouTube にバーンスタイン自身が指揮した1989年のコンサート形式のもの(オーケストラはロンドン交響楽団)の映像があります。

第1幕
 ドイツのウェストファリア城には、城主の子供たちと甥のキャンディードが住んでいる。家庭教師の哲学者は「現実世界は、あらゆる可能な世界の中で最善のもの」とする楽天主義者。
 家庭教師と若者たちは「The best of all possible worlds」(あらゆる可能な世界の中で最善のもの)を歌う。(「序曲」の冒頭が「Objection!」(反対!異議あり!)の部分であることが分かります)
  "The best of all possible worlds" 〜バーンスタイン自身が指揮した1989年のコンサート形式のもの
  "The best of all possible worlds" 〜2005年のコンサート形式、指揮はマリン・オールソップ女史。

 キャンディードは、城主の娘クネゴンデを愛しています。クネゴンデもまんざらではない。
 2人が「Oh, happy we!」(ああ、幸せな私たち!)で将来の夢を歌いますが、その描く夢は微妙にくい違っている・・・(違いが「転調」で分かります)。
  "Oh, happy we!" 〜バーンスタイン自身が指揮した1989年のコンサート形式のもの
  "Oh, happy we!" 〜2005年のコンサート形式、指揮はマリン・オールソップ女史。

 ところが、キャンディードは城主の妹が生んだ私生児であることから結婚は許されず、「娘にちょっかいを出した」として城を追い出される。
 野宿しているとブルガリア軍に強制入隊させられ、ブルガリア軍はウェストファリアと戦争を始め、城主一族は皆殺しにされる。
 逃げ出したキャンディードは、乞食となっていた哲学者に出会い、一緒にポルトガルのリスボンに行くが、そこで大地震に遭い、さらに哲学者は宗教裁判で死刑にされてしまう。
 そこから逃げ出しパリにたどり着くと、死んだはずのクネゴンデは金持ちのユダヤ人とキリスト教大司祭の愛人になっていた。ここでクネゴンデが歌うのが「Glitter and Be Gay」(きらびやかに華やかに)〜泣いて暮らすよりも、シャンパンやきらびやかな宝石を身に着け、私の気高さを思い知らせてやる、といった内容(序曲に出てくるメロディーが出て来る)。
  "Glitter and Be Gay" 〜バーンスタイン自身が指揮した1989年のコンサート形式のもの
  "Glitter and Be Gay" 〜2004年のボストン・ポップスのコンサート形式
  "Glitter and Be Gay" 〜2005年のコンサート形式、指揮はマリン・オールソップ。

 キャンディードとクネゴンデの再開の場にユダヤ人と大司祭がやって来て、キャンディードは2人を殺してしまう。2人はスペインに逃げるが、そこで逮捕され裁判にかけられるが、イエズス会のため働くことを条件に南アメリカに行くことになる。

第2幕
 その南アメリカのブエノスアイレスでは、死んだはずのウェストファリア城主の息子(クネゴンデの兄)が生きている(それも行きがかり上キャンディードが殺してしまう)。
 キャンディードはクネゴンデを残してジャングルに逃げ、黄金郷エル・ドラドにたどり着き黄金や宝石を手に入れるが、クネゴンデなしでは幸せになれないことに気づき、手下にクネゴンデを連れてくるよう頼んでヴェニスで落ち合うことにして船に乗る。その船は難破するが別な船に救われる。
 ヴェニスについてからもすったもんだがあるが(なぜかしらクネゴンデの兄がまだ生きていたり)、最終的にはキャンディードはクネゴンデに結婚を申し込み、「人生は良いものでも、悪いものでもなく、ただ人生は人生なのだ」と達観して大団円を迎える。
 そこで歌われるのが「Make Our Garden Grow(私たちの畑を耕そう)」〜私たちは純粋でも賢明で善良でもない。私たちは最善を尽くすだけだ。家をつくり、森を切り開き、そして私たちの畑を耕すのだ。
  "Make Our Garden Grow" 〜バーンスタイン自身が指揮した1989年のコンサート形式
  "Make Our Garden Grow" 〜2015年のBBCプロムスのコンサート形式
 



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