ボロディンのちょっと寄り道 〜ロシア五人組の面々〜

2017年 8月 25日 初版作成


 今回の定期演奏会(第78回)で、ボロディン作曲・交響詩「中央アジアの草原にて」を演奏します。
 ボロディンは第17回定期で歌劇「イーゴリ公」より「だったん人の踊り」を演奏したことがあります。それ以来でしょうか。

 ということで、ボロディン、およびボロディンを含む音楽グループ「ロシア五人組」について書いてみます。

アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン(1833〜1887)




1.「ロシア五人組」とは

 最初に質問です。「ロシア五人組」のメンバーの名前を挙げてください。できれば、その代表作も。

 これ、知っているようで、かなり難しい質問です。3人までは簡単に挙げられると思いますが、残り2人はほとんど知らない人なので難しいと思います。
 答は、ふつうに挙げられるのは「ボロディン」「ムソルグスキー」そして「リムスキー・コルサコフ」でしょう。
 残りの「バラキレフ」「キュイ」はなかなか出て来ませんよね。ましてや、その代表作とは? そもそも、その作品をこれまでに聴いたことがありますか?

 知っているようで、「ロシア五人組」って意外に知りません。

 ついでに、これをもじって命名された、20世紀前半にフランスで活躍した「フランス六人組」はご存知ですか?
 こちらも「プーランク」「ミヨー」「オネゲル」は挙がりますが、「オーリック」「タイユフェール」(紅一点です)、「ルイ・デュレ」はなかなか出ませんね。後者3人の音楽を聴いたことがあるかなあ?
 

2.化学者ボロディン

 ボロディンは、本職は「かなり有名な化学者」です。私は化学には疎いのでよく分かりませんがハンスディーカー反応という有機化学の反応は、別名「ボロディン反応」とも呼ばれているそうです。
 また、アルドール反応という化学反応は、ボロディンが発見しているそうです。
 そちらの分野でも、十分に後世に名を残す方だったのですね。

 なお、元素の「周期率表」で有名なロシアの化学者メンデレーエフとはお友達だったようです。(メンデレーエフの方が1歳年下ですね)

周期律表のメンデレーエフ 元素の周期律表を作ったドミトリー・メンデレーエフ(1834〜1907)
(レーピンによる肖像画)


 ボロディンは終生、本職は化学者・医者であり、作曲は「休日に行う」生活でした。
 二足の草鞋も、このレベルに達すればたいしたものです。
 

3.作曲家ボロディン

 このような「日曜作曲家」でしたから、作曲の筆も遅く、残した作品の数も少ないです。しかも「未完成」のまま残したものもの多く、代表作とされる歌劇「イーゴリ公」も、遺稿をリムスキー・コルサコフとグラズノフが整理、補筆・オーケストレーションして完成されています。

 生前に完成されたものはあまり多くなく、代表的なものに下記があります。作品番号は付いていません。

・交響曲第1番 Es-dur(1862〜67)
・交響曲第2番 h-moll(1869〜76)
・交響詩「中央アジアの草原にて」(1880)
・ピアノ五重奏曲 c-moll(1862)
・弦楽四重奏曲第1番 A-dur(1874〜79)
・弦楽四重奏曲第2番 D-dur(1881)
・その他、ピアノ曲、歌曲

 我が家には「エッセンシャル・ボロディン」という2枚組のCD(DECCA盤)があり、ここに収められているのは下記です。これでほぼボロディンの有名どころが網羅されています。ちなみに、「中央アジア」はエルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団の演奏。

・交響曲第1番 Es-dur
・交響曲第2番 h-moll
・交響曲第3番 a-moll (遺稿をもとにグラズノフが補筆完成したもの)
・交響詩「中央アジアの草原にて」
・歌劇「イーゴリ公」より「序曲」「ゴリツキーのアリア」「コンチャクのアリア」「だったん人の娘たちの踊り」「だったん人の踊り」
・弦楽四重奏曲第2番 D-dur
・歌曲「遥か祖国の岸辺を求めて」

エッセンシャル・ボロディンのCD エッセンシャル・ボロディンのCD

 最近は、交響曲第2番が少し演奏されるようになってきたでしょうか。
 室内楽では、弦楽四重奏曲第2番 D-dur が素晴らしい名曲ですね。

 本当の代表作は歌劇「イーゴリ公」だと思いますが、これもロシア語の特殊性で、ロシア以外で演奏されることはめったにありません。我が家にある映像は1998年に録画されたワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場のものです。残念ながら、現在は日本語字幕付きのDVDは出ていないようです。
歌劇「イーゴリ公」(ゲルギエフ/マリインスキー劇場、輸入盤)

 

4.「中央アジアの草原にて」

 「中央アジアの草原にて」にしても、「イーゴリ公」にしても、「中央アジア」の要素が多く登場します。
 単に、「ロシア」の中に「カフカス」(コーカサス地方)やアジア地域(現在のカザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスタンなど)を含んでいたというだけでなく、実はロシアの歴史では、1240〜1480年にわたって「モンゴル帝国」の支配下にあったのです。これをロシアでは「タタールのくびき」と呼んで屈辱的な歴史と考えています。
 「タタールのくびき」とは、1240年に「キエフ公国」が「モンゴル帝国」(キプチャク・ハン国)に滅ぼされて以降、1480年にイヴァン3世(*1)によって「モスクワ公国」が独立するまでの間の時代を指します。ただし「ゆる〜い」支配だったようで、文化や宗教の自由は保証されていたようです。この「タタール」は「だったん人」「モンゴル人」の意味で使われ、現在のタタール人とは違うようです。

 なお、歌劇「イーゴリ公」は、この「タタールのくびき」直前の1185年のキエフ公国の将軍イーゴリ・スヴャトスラヴィチのモンゴル軍との戦いを描いています。ポロヴェツ人(だったん人)の首長であるコンチャク・ハーン(ハーンは、チンギス・ハーンやフビライ・ハーンの「ハーン」と同じ)とその娘コンチャコヴナが登場します。

 イーゴリ公と直接関係はしませんが、同じくこのころモンゴル帝国と戦った英雄に「アレクサンドル・ネフスキー」(ネヴァ川のアレクサンドル)がいます。オペラや映画、映画音楽に基づくプロコフィエフのカンタータにもなっていますので、何かと聞くことが多い名前です。ここでのネヴァ川は、もちろんサンクト・ペテルブルグを流れる川です。

(*1)このタタールのくびきから脱したモスクワ公国のイヴァン3世の孫がイヴァン4世、通称「イヴァン雷帝」です。このイヴァン雷帝の子であるフョードルに統治能力がなかったことから摂政(王妃の兄)ボリス・ゴドゥノフが実権を握り、フョードルの死後推挙されて皇帝になる、というところから始まるのがムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」です。(ちなみにフョードルの異母弟の皇太子がボリスによって殺されたというのがオペラの背景で、おそらく歴史的事実)
 ロシア音楽を聴く上では、こういったロシアの歴史を知っていることが必要不可欠かもしれません。

 交響詩「中央アジアの草原にて」の舞台は、カフカス地方(コーカサス地方)と言われています。カフカス地方は、上記のカザフスタンなどが「黒海の東側」であるのに対して、黒海の西側のカスピ海との間の地域です。ここは「アルメニア」「グルジア(ジョージア)」「アゼルバイジャン」などによってイランやイラクと接しています。
 いわゆるトルコ系、モンゴル系、イラン系などとヨーロッパ系(スラブ系)の「接点」ということなのでしょう。民族と宗教のモザイク地帯で、イスラム教が主体ながら「グルジア(ジョージア)」は「世界最古のキリスト教国」を謳っています。

 交響詩「中央アジアの草原にて」は、そういった地域を通り過ぎていくラクダの隊商(キャラバン)と、そこに流れるロシアの歌、そしてアラブ風の歌、やがてそれらが融合しあう。朝〜昼〜夕暮れなのか、隊商のラクダたちが遠くから近づいて目の前を通り過ぎ、やがて遠くに消えて行く様なのか、そういった遠近感・時空感の中で通り過ぎて行きます。どちらが隊商の歌で、どちらが村の歌か、あるいは両方とも隊商の中から聞こえてくるのか、いろいろな光景が浮かんできそうです。
 イメージとして平山郁夫さんのシルクロードの絵を思い浮かべるのは、私だけでしょうか。
 

5.ロシア五人組」

 前にも挙げたロシア五人組。ボロディン以外について、ちょっとずつ調べてみましょう。

5.1 バラキレフ(1837〜1910)

 ロシア音楽の祖であるグリンカ(1804〜1857)の弟子で、五人組の中心的存在と言われています。アントン・ルービンシテインの後を継いでペテルブルグの帝国音楽協会の会長を務めるなど、チャイコフスキーを含むロシア音楽界の指導的な立場にあり、自身でも2曲の交響曲をはじめいろいろと作曲していますが、現在演奏されるのはピアノ曲「イスラメイ(東洋風幻想曲)」ぐらいではないでしょうか。この曲は、細かい指の交代で最高レベルの「難曲」とされています。

ミリイ・アレクセエヴィチ・バラキレフ(1837〜1910)


5.2 キュイ(1835〜1918)

 本職は軍人です。作曲もしましたが、むしろ批評家として活躍したようで、ラフマニノフの交響曲第1番を酷評して、ラフマニノフがノイローゼに陥った話は有名です。
 作品は、歌劇、ピアノ曲、歌曲が多いようですが、私はこの方の作品を聴いたことがありません。

ツェーザリ・アントノーヴィチ・キュイ(1835〜1918)


5.3 ムソルグスキー(1839〜1881))

 この方は本職は役人です。飲んだくれの。ですから短命でした。
 やはり「日曜作曲家」だったので、作品は多くありません。

交響詩「はげ山の一夜」(1867)
 現在一般に演奏されるものは、ムソルグスキー没後の1886年にリムスキー・コルサコフが編集・編曲したものです。オリジナルはあまりに粗野な内容だったのでバラキレフに演奏を拒否されてお蔵入りとなり、1968年になって初演されました。リムスキー・コルサコフ版と区別するために「原典版」とか「聖ヨハネ祭の夜の禿山」と呼ばれることもあります。クラウディオ・アバドが好んで演奏していました。

組曲「展覧会の絵」(1874)
 原曲はピアノ曲です。原曲のピアノ曲は、ムソルグスキー存命中には演奏も出版もされることがなく、出版されたのは遺稿を整理したリムスキー・コルサコフの手によるものです。このときにリムスキー・コルサコフは、オリジナルを校訂して手を加えています。この「改変」を手稿に戻した「原典版」は、1931年に「パヴェル・ラム版」として出版されています。
 ラヴェルの管弦楽編曲で有名ですが、ラヴェルが編曲する時点では「リムスキー・コルサコフ版」しか入手できず、ラヴェル編曲版はこの版によっています(たとえば、「ヴィドロ」が弱音から始まって大きくなり、再び弱音で終わるなど)。
 ラヴェル以外の編曲もいろいろ出回っています。(指揮者のストコフスキー編曲版、ゴルチャコフ編曲版、アシュケナージ編曲版など)ラヴェルが編曲に用いたリムスキー・コルサコフ校訂のピアノ譜に間違いや修正があることから、ラヴェル編曲を「原典版ピアノ譜」に合わせて修正した「ラヴェル編曲改訂版」もあるようです。

歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」(1873)
 史実に基づくプーシキンの戯曲を題材に作られたオペラで、時代背景は「4」に書きました。
 跡継ぎのいないモスクワ公国皇帝フョードルの没後、推挙されて摂政から皇帝に即位したものの、暗殺したフョードルの息子の亡霊に悩まされ狂い死にするボリスと、暗殺のうわさを逆手にとってポーランドで挙兵した偽皇太子のモスクワ進軍という、歴史絵巻です。(オペラを見ると、ロシア正教対カトリック〜ポーランドはカトリック国です〜という構図も見えます)
 作曲者生存中の1872年に完成され、1874年にペテルブルグのマリインスキー劇場で初演されています。
 これには2つの版があり、最初に歌劇場に提示した1869年の原典版と、歌劇場からの拒絶により修正した「改訂版」で、幕の構成や登場人物が変わっています。(原典版には女性が少なかったので、改訂版ではポーランド王女を追加)1874年に初演されたのは「改訂版」の方です。
 没後、「オーケストレーションがひどい」と考えたリムスキー・コルサコフが編集・編曲して出版したことから、さらに版が増えます(まず1896年に、最終改訂版を1908年に)。このときに、リムスキー・コルサコフは自分の考えで、最終幕の場面の順序を入れ替えています。
 極めつけは、リムスキー・コルサコフ版に、イッポリトフ・イワーノフが原典版にあって改訂版で削除された場面を編曲・追加した「合本版」(これを「ボリショイ劇場版」と呼ぶ)も存在することです。
 現在では、リムスキー・コルサコフ版をベースに、オリジナルの「改訂版」の幕構成に再配置した上演が多いようです。また、ムソルグスキーの原典版(「原ボリス」と呼ばれるが、どの版かなど正確な定義はない模様)による演奏も増えているようです。
(リムスキー・コルサコフの改変に関しては、ショスタコーヴィチを含め批判も多いようです。ただし、このオペラが特にバス歌手シャリアピンなどによって名声を博し、ロシアのオペラとしては比較的演奏頻度が高くなった背景には、リムスキー・コルサコフ編曲の功績も大きいとされています)

 映像としては下記のものがありますが、現在「日本語字幕付き」で入手できるのは「ラザレフ盤」だけのようです。私はゲルギエフのものも持っていますが、ゲルギエフの毛がふさふさしていて若い!、緞帳にはソ連の「釜とハンマーの刺繍が! という記念碑的な映像です。

歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」ラザレフ指揮ボリショイ劇場(1987):ボリショイ劇場版(リムスキー・コルサコフ編曲版)
歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場(1990):1872年改訂版(ムソルグスキーによる原典版)
歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」ジャナンドレア・ノセダ指揮トリノ王立歌劇場(2010):1869年原典版(?)

モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー(1839〜1881)
(これもレーピンの描いた肖像画)



5.4 リムスキー・コルサコフ(1844〜1908)

 「素人」から始まったロシア五人組の中で、ペテルブルグ音楽院の教授というアカデミズムの最高峰に上り詰めた大家です。もともとは海軍の軍人ですが。
 ペテルブルグ音楽院の教授になってから、管弦楽法などを独学で極めたようです。音楽に関して後進国であったがゆえに、歴史的伝統の積み重ねを経てきたオーケストラの楽器を客観的に「整理・体系化」できたのでしょう。木管楽器を低音から高音までの「ファミリー」として確立したり、トランペットやホルンを「移調楽器」ではなく決まった調で記譜するように標準化したり、「音色のパレット」を標準的・機能的に利用できるようにしました。

 リムスキー・コルサコフは管弦楽法の大家と言われながら、自身の作品で聴かれているのは「シェエラザード」と「スペイン奇想曲」ぐらいです。あとは、ずっと低頻度で「ロシアの復活祭」序曲ぐらい。
 交響曲は3曲ありますが、演奏されることも聴かれることも極めて稀です。数年前、テレビで「ロマノフ王朝の秘宝」というドキュメント番組で、テーマ音楽に交響曲第3番「アンタール」の第3楽章「権力の喜び」が使われていて、なるほどと思いましたが、この曲がリムスキー・コルサコフの交響曲だと気づいた人は少なかったのではないでしょうか。

 ボロディンやムソルグスキーのところにも書きましたが、リムスキー・コルサコフの最大の功績は、ボロディンやムソルグスキーの未完成あるいは作りっぱなしになっていた作品を編集・編曲して出版したことにあるようです。その中にある程度の「改変」もあり、現在の「オリジナル」重視の風潮からは批判もありますが、まずは「演奏され続ける」ようにすることが最優先と考えたのでしょう。ブルックナーの交響曲に対する弟子たちの「改訂」と同じ、時代の要請だったのだと思います。。
 

ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフ(1844〜1908)
(トレチャコフ美術館にあるセーロフ作の肖像画)
こちらを参照ください。


 



HOMEにもどる