横フィルでは、ドヴォルザークの作品を、第82回(2019年11月)に交響曲第7番、第63回(2010年5月)に交響曲第6番、第60回(2008年11月)に交響曲第8番、第55回(2006年5月)に交響曲第9番「新世界より」とチェロ協奏曲を演奏しています。
ドヴォルザークについては、第82回のときに書いた記事もありますので参照ください。
一部重複しますが、このページで再度まとめ直します。
アントニーン・レオポルト・ドヴォルザーク(1841〜1904)
Antonin Leopold Dvorak
・新世界交響曲(交響曲第9番)
・交響曲第8番
・チェロ協奏曲
ええと
・スラブ舞曲(2セットあったよな)
・弦楽セレナーデ
・管楽セレナーデ
・交響曲第7番(ちょっとマニアックかな)
・弦楽四重奏曲「アメリカ」
えええっと・・・
・チェコ組曲(「のだめ」で使われていたなあ)
・ユーモレスク
何とか10曲。
そう、意外と知らないのですよね。
そんなドヴォルザークについて、ちょっとまとめてみました。
1.ドヴォルザークの生涯を簡単に
ドヴォルザークは、有名な割にその伝記や生涯について書かれたものがあまりありません。下記の音楽之友社の「人と作品」シリーズが数少ない一般向けの本かもしれません。
そのドヴォルザークの生涯ですが、これといった逸話があるわけでもなく、早くから「天才・神童」だったわけでも、何かのチャンスをつかんで大ブレーク・大当たりしたわけでもなく、地味に淡々と進んでいつの間にか大家になっています。もっとも、若い頃はオーケストラでヴィオラを弾く貧しい地味な生活をしていたので、一種の「苦学しながら地道に精進して大物になった」という立身出世の経歴を持つのですが、芸術の世界ではそういう「地味さ」「堅実さ」はあまり受けないのかもしれません。
当時の時代背景から「民族・伝統」に目覚め(スメタナの「国民音楽」の旗揚げに立ち会い、大きな影響を受けています)、ウィーンやベルリン、パリといった芸術・興行の中心地から距離を置いたボヘミア・プラハという一地方を中心に活動していたことも要因の一つでしょう。
また、ブラームスに見出されて支援してもらったことから、ワーグナー一派の時代潮流や人間万歳のロマン主義には乗らずに、ブラームスと同じ古典的器楽の「絶対音楽」を中心に活動したイメージがあります。ただし、後の年表を見れば分かるとおり、ブラームスが初めての交響曲を書く前に、ドヴォルザークはすでに交響曲を第5番まで書いていました。決して「ブラームスの後輩、弟子」ではありませんでした。
また、ドヴォルザーク自身も自分を「ブラームスの後継者」「チェコの民族主義者」と規定していたわけではないようで、生涯を通じて「オペラで成功したい」という願望や、「チェコ、スラブ」だけでない「国際的成功」を果たしたいという願望があったようです。ただ、先輩のスメタナの流れから「チェコ語」以外のオペラを書くことへの後ろめたさや、自分を支援してくれるブラームスやウィーンの音楽批評家ハンスリックなどへの遠慮もあってか、大きな冒険に出ることはなかったようです。
そうは言っても、ドヴォルザークも若い頃はワーグナー支持者(ワグネリアン)だったようですし、ブラームスの呪縛が解けた(? 1897年没)最晩年になって歌劇「悪魔とカーチャ」作品112(1899年)、「ルサルカ」作品114(1900年)、「アルミダ」作品115(1902年)を次々と作曲したり(「ルサルカ」でようやくオペラとしての成功を得た)、標題音楽的な交響詩を立て続けに作曲したり(「水の精」作品107(1896)、「真昼の魔女」作品108(1896)、「金の紡ぎ車」作品109(1896)、「小鳩」作品110(1896)、「英雄の歌」作品111(1897))、音楽としてもっと大きなものを目指していたのかもしれません。
「ボヘミアの田舎で、地味に純朴で民族的な音楽を書いていた」というものとは違う高く大きな志を持っていたのではないかと思います。
なお、ドヴォルザークは、プラハを中心に活動していたことから、楽譜をプラハで出版したり、その後ブラームスに紹介されたベルリンの「ジムロック」から出版したり、さらにはジムロックに不満があってロンドンの「ノヴェロ」から出版したり、「ジムロック」との契約に抵触しないように「若いときの作品」を装って意図的に「若い作品番号」を付けたりしたことから、「作品番号」にはいろいろと混乱があります。
そのため、「ショウレク作品目録番号」というものもあるようですが(これはおそらく作曲年代順)、あまり一般化していないようです。
(注)下記の略年譜では、年齢はその年の誕生日が来た後の年齢。9月生まれなので、その出来事のときの実年齢とはズレがあることもあります。
1841年9月8日、ボヘミアのプラハ近郊(北に約 30 km)のネラホゼヴェスに、宿屋・居酒屋兼肉屋を営む家の長男(9人の子供の最年長)として生まれる。
1853年(12歳):小学校を卒業し、隣町のズロニツェに修行に出され、母方の伯父のもとでドイツ系の実業学校に通う(当時はオーストリア帝国の一部であったため、ドイツの習得が必須だった)。実業学校の校長で、教会のオルガニストも務めるリーマンから音楽の手ほどきを受ける。
1855年(14歳):両親一家がズロニツェに転居してきて、そこで飲食業を営む。
1856年(15歳):北ボヘミアのチェスカー・カメニツェに修行に出される。
1857年(16歳):チェスカー・カメニツェでの修行を終え、両親は肉屋を継ぐことを希望したが、ズロニツェの師リーマンの勧めでプラハのオルガン学校に進む。そこで音楽愛好家「聖チェチーリア協会」のオーケストラでヴィオラを弾くようになる。
1859年(18歳):プラハ・オルガン学校を修了。カレル・コムザークが組織するオーケストラ(舞踊楽団)にヴィオラ奏者として就職。このオーケストラを中心として、スメタナが中心となって設立されるチェコ国民劇場の「仮劇場」オーケストラが編成される(1862年)
修業時代
1860年(19歳):収入が少ないので、音楽の個人レッスンも始める。
1861年(20歳):スメタナ(37歳)が「国民音楽」の志を持ってスウェーデンから帰国、チェコ国民劇場仮劇場オーケストラを組織、ドヴォルザークはそのヴィオラ奏者も兼務。
1865年(24歳):交響曲第1番「ズロニツェの鐘」、交響曲第2番を作曲。(ブラームスよりも早い。ブラームスの交響曲第1番は 1876年)。ただし生存中に演奏されることはなく、1923年まで埋もれたままになっていた。第2番は、後年改訂して1888年に初演。
1866年(25歳):スメタナがチェコ国民劇場仮劇場の首席指揮者に就任、オペラ「売られた花嫁」初演(ドヴォルザークはスメタナの指揮でヴィオラを弾いていた)。
1870年(29歳):最初の歌劇「アルフレート」作曲。ワーグナーの影響大。
1871年(30歳):喜歌劇「王様と炭焼き」作曲。この頃からオーケストラの団員を辞めて個人レッスンで生計を立てるようになる。
1873年(32歳):カンタータ「賛歌〜白山の後継者たち」作品30の初演が好評で、初めて作曲家として認められる。この曲はシベリウスの「フィンランディア」に相当する、チェコのフス教徒がオーストリア(カトリック)に敗北した民族の歴史的な事件(1680年)を扱い、チェコ語で書かれた愛国的な曲。響きや和声はワーグナーの影響が大きい。
交響曲第3番・作品10 を作曲。
金細工商人の娘であるアンナ・チェルマーコヴァと結婚(13歳年下、ピアノの弟子の一人であった)。
1874年(33歳):交響曲第3番 Op.10 をスメタナの指揮で初演。交響曲第4番・作品13 を作曲。喜歌劇「王様と炭焼き」に新しい音楽を付け(第2作)、プラハ仮劇場で初演。
ブラームスや反ワーグナー派の批評家ハンスリックが審査員を務める「オーストリア国家奨学金」(ハプスブルク家が1863年に設立した若い芸術家の卵の支援のための奨学金)に応募し当選。
1875年(34歳):「オーストリア国家奨学金」に2回目の応募、再び当選。
弦楽セレナーデ Op.22 、交響曲第5番・作品76 を作曲。
長女ヨゼファが病気で亡くなる。
スラブ時代
1876年(35歳):「オーストリア国家奨学金」に3回目の応募、またまた当選。「弦楽五重奏曲」作品77 がプラハ芸術家協会の「芸術家賞」を受賞。ピアノ協奏曲ト短調 Op.33 を作曲。
このころから「スラブ的」な様式や素材を活用することが多くなり、1884年ごろまでを「スラブ時代」と呼ぶこともある。
この年、ブラームス(この年43歳)の交響曲第1番が完成(ブラームスが交響曲を作曲するより前に、ドヴォルザークは交響曲第5番までを作曲していたことになる)。
1877年(36歳):「オーストリア国家奨学金」に4回目の応募、今回も当選。応募作品「モラヴィア二重唱曲集」作品20がブラームスの目に留まり、ブラームスがベルリンの出版社ジムロックに紹介文を書く。これがブラームスとドヴォルザークを結び付けるきっかけとなる。
作曲に専念するため教会のオルガニストを辞職。
次女ルジェナ、長男オタカルが相次いで亡くなる。子供たちを追悼する「スターバト・マーテル」(悲しみの聖母)作品58を作曲。
「交響的変奏曲」作品78を作曲、ハンス・リヒターによって初演され大成功をおさめる。
1878年(37歳):スメタナの弦楽四重奏曲「わが生涯から」の私的初演でヴィオラを弾く。
「オーストリア国家奨学金」に第5回目、第6回目の応募、またまた当選。
出版社ジムロックからブラームスの「ハンガリー舞曲集」に相当するピアノ連弾曲集の依頼があり「スラブ舞曲集・第1集」作品46を作曲、、直ちに管弦楽編曲「管楽セレナーデ」作品44。「スラブ狂詩曲集」作品45を作曲。
初めてウィーンのブラームスを訪問。その帰途ブルノでヤナーチェク(このとき24歳)と知り合う。
1879年(38歳):「チェコ組曲」作品39。
1880年(39歳):ヴァイオリン奏者ヨアヒムの依頼と助言でヴァイオリン協奏曲イ短調 Op.53 作曲(1882改訂)。「ジプシーの歌」作品55(第4曲が「母の教えたまいし歌」)、交響曲第6番・作品60を作曲、ハンス・リヒターに献呈。
1881年(40歳):チェコ国民劇場が完成(同年に火災で焼失)。
1882年(41歳):序曲「我が家」作品62a(民族劇「ヨゼフ・カイエターン・ティル」のための付随音楽より)。
母が他界。
1883年(42歳):ピアノ三重奏曲第3番ヘ短調・作品65。国民劇場が再建・再開。劇的序曲「フス教徒」作品67。
ブラームスを再度訪問(このときブラームスがピアノで演奏した交響曲第3番に刺激されて、新たな交響曲の作曲を決意したという)。
円熟期
1884年(43歳):初めてロンドンを訪問して自作を指揮、好評を博す。ロンドンのフィルハーモニー協会名誉会員に推挙される。
1885年(44歳):交響曲第7番・作品70を作曲し、2度目のイギリス訪問時に自身の指揮で初演
1886年(45歳):ピアノ連弾用の「スラブ舞曲集・第2集」作品72完成。翌1887年にかけて管弦楽編曲。
1887年(46歳):ピアノ五重奏曲イ長調・作品81。
1888年(47歳):歌劇「ジャコバン党員」。プラハを訪れたチャイコフスキーと親交を結ぶ。
1889年(48歳):ウィーンでフランツ・ヨーゼフ皇帝に謁見、「オーストリア三等鉄王冠賞」。ピアノ四重奏曲変ホ長調・作品87。
1890年(49歳):ロシア訪問(モスクワ、ペテルブルグ)。交響曲第8番・作品88を自身の指揮によりプラハで初演、ジムロック社と折合いがつかずロンドンのノヴェロ社から出版。「レクイエム」作品89 作曲。
1891年(50歳):ピアノ三重奏曲第4番「ドゥムキー」作品90、序曲三部作「自然と人生と愛」〜「自然の中で」作品91、「謝肉祭」作品92、「オセロ」作品93。
プラハ音楽院教授(ヨゼフ・スークらが門下生)。
プラハ・カレル大学から名誉哲学博士号、プラハ科学アカデミー会員、ケンブリッジ大学から名誉音楽博士号。
ニューヨークの富豪夫人であるジャネット・サーバーが設立したナショナル音楽院校長ポストのオファーを受諾。
1892年(51歳):ニューヨークのナショナル音楽院校長として渡米。
1893年(52歳):交響曲第9番「新世界より」作品95。
ドヴォルザークは夏休みにヨーロッパに帰らず、代わりに家族をニューヨークに呼び寄せ、ボヘミア人の入植地であるアイオワ州スピルヴィルで過ごす。この地で弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」作品96を作曲。
1894年(53歳):ニューヨークでの2年の契約を終えて夏の休暇をボヘミアで過ごす。「ユーモレスク」作品101。秋からさらに2年の契約でニューヨークに渡るが、ボヘミアへのホームシックが募る。
1895年(54歳):チェロ協奏曲・作品104完成。1年の契約を残し、ナショナル音楽院を辞して4月末にボヘミアに帰郷する。
1896年(55歳):ウィーンでハンス・リヒターの指揮で「新世界より」の演奏をブラームスとともに聞く。9回目のイギリス訪問。ブラームスからウィーン音楽院の教授職を勧められるが辞退する。
ボヘミアの詩人エルベンの奇怪な詩に基づく一連の交響詩として、交響詩「水の魔物」作品107、「真昼の魔女」作品108、「金の紡ぎ車」作品109、「野鳩」作品110 を作曲。
「交響詩」という分野は初めてであり、すでに引退しているブラームスを離れ、あこがれていたリスト、ワーグナーの世界に足を踏み入れた(?)。「交響詩」はリストが始めた音楽形式。
1897年(56歳):4月ブラームス没。最後の交響詩となる交響詩「英雄の歌」作品111 を作曲、マーラー指揮のウィーン・フィルにより初演。
1899年(58歳):唯一成功していなかった「オペラ」での成功に意欲を燃やし、おとぎ話に基づく喜歌劇「悪魔とカーチャ」作品112(フンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」(1893)に触発された)。
娘オティーリエが、作曲の弟子ヨゼフ・スーク(同名のヴァイオリン奏者の祖父)と結婚。
1900年(59歳):歌劇「ルサルカ」作品114作曲。
1901年(60歳):歌劇「ルサルカ」をプラハ国民劇場で初演、大成功を収める。
プラハ音楽院長に就任。
シベリウス(35歳)が訪問する。シベリウスは内心「フィンランドのドヴォルザークにはなるまい」と思っていたという。
1903年(62歳):歌劇「アルミダ」作品115。
1904年5月1日:歌劇「アルミダ」の初演に立ち会うことなく、プラハの自宅で息を引き取る。
2.ドヴォルザークの交響曲
ドヴォルザークは生涯に9曲の交響曲を作曲しています。
ドヴォルザークは、ブラームスに見出されて、ブラームスのいわば「後輩」として世に出て行った経緯もあり、いわゆる「絶対音楽」の作曲家、正統的な交響曲作曲家とみなされています。
しかし、実際には、上にも書いたように、ブラームスが交響曲第1番を完成させる前にドヴォルザークはすでに交響曲を第5番まで書いていましたので「ブラームスの後輩」と呼ぶのは正しくないのかもしれません。内容もかなり「ワーグナー風」でもありますし。
なお、9曲のうち第4番までは「習作」とみなされて作曲者の生前には出版されず、現在の第5〜9番が第1〜5番と呼ばれていたこともあったようです。
交響曲第1番 ハ短調「ズロニツェの鐘」(作品番号なし):1865年(24歳)に作曲、初演は没後の1936年。出版は1961年になってから。
交響曲第2番 変ロ長調 Op.4:1865年(24歳)に作曲、1887年に改訂して1888年初演。出版は1951年。
交響曲第3番 変ホ長調 Op.10:1873年(32歳)に作曲、1874年にスメタナの指揮で初演。出版は没後の1911年。
交響曲第4番 ニ短調 Op.13:1874年(33歳)に作曲、1892年に初演。出版は没後の1912年。
交響曲第5番 ヘ長調 Op.76:1875年(34歳)に作曲、1879年に初演。指揮者のハンス・フォン・ビューローに献呈。初版では「第3番、作品24」とされていた。
交響曲第6番 二長調 Op.60:1880年(39歳)に作曲、1881年に初演。初版では「第1番、作品58」とされていた。
第3楽章・スケルツォに「フリアント」と明記して民族様式を取り入れた。
交響曲第7番 二短調 Op.70:1884年(43歳)に作曲、1881年に初演。
ブラームスに面会し、そのときブラームスが弾いて聞かせた新作の交響曲第3番に触発されたといわれている。1885年にロンドンで初演。
初版では「第2番」とされていた。
交響曲第8番 ト長調 Op.88:1889年(48歳)に作曲、1890年にプラハで初演。
ジムロック社から離れてロンドンのノヴェロ社から出版したことから別名「イギリス」と呼ばれることもある。
初版では「第4番」とされていた。
交響曲第9番 ホ短調 Op.95:1893年(52歳)に作曲、1893年にニューヨークで初演。
初版では「第5番」とされていた。
3.ドヴォルザークの管弦楽曲
ドヴォルザークは、若いころにオーケストラでヴィオラを弾いていたこともあり、交響曲以外にもたくさんの管弦楽曲を作曲しています。
代表的なものは次の通りです。
弦楽セレナード ホ長調 Op.22:1875年(34歳)に作曲。愛らしい、爽やかなセレナード。
交響的変奏曲 Op.78:1877年(36歳)に作曲。スラブ的な主題に基づく28の変奏曲。
ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」などを意識しているかもしれない。
管楽セレナード ニ短調 Op.44:1878年(37歳)に作曲。オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン3、チェロ、コントラバスという編成の、ちょっと「田舎くさい」響きのセレナード。
モーツァルトの13管楽器によるセレナード(いわゆる「グラン・パルティータ」)に触発されて作曲したといわれる。
第2楽章は「メヌエット」と記載されているが、ボヘミア民族舞曲の「ソウセツカー」、トリオは「フリアント」による。
スラブ舞曲集(第1集)Op.46:1878年(37歳)にピアノ連弾用として作曲、その後作曲者自身が管弦楽編曲。全8曲より成る。
出版社ジムロックよりブラームスのヒット作「ハンガリー舞曲集」に相当するものを要求されて作曲。
スラブの舞踊音楽である「フリアント」(第1番、第8番)、「ドゥムカ(ウクライナ起源)」(第2番)、「ポルカ」(第3番)、「ソウセツカー」(第4番、第6番)、「スコチナー」(第5番、第7番)などによる。
チェコ組曲 Op.39:1879年(38歳)に作曲。5曲から成り、第2曲「ポルカ」はテレビドラマ化された「のだめカンタービレ」で使われた。
序曲「我が家」Op.42:1882年(41歳)に作曲。劇付随音楽として他の9曲とともに作曲されたが、序曲だけがジムロックから出版された。
スケルツォ・カプリチオーソ Op.66:1883年(42歳)に作曲。民族的で、野趣と色彩感に満ちたちょっと不思議な曲。
劇的序曲「フス教徒」Op.67:1883年(42歳)に作曲。スメタナの「我が祖国」にも使われたフス派の聖歌が使われている。
スラブ舞曲集(第2集)Op.72:1886年(45歳)にピアノ連弾用として作曲、その後作曲者自身が管弦楽編曲。全8曲より成る。
スラブ音楽の範囲が広げられ、チェコの「スコチナー」(第11番)、「シュパチールカ」(第13番)、「ソウセツカー」(第16番)に加えて、スロヴァキアの「オゼメク」(第9番)、ポーランドの「マズルカ、ポロネーズ」(第10番、第14番)、セルビアの「コロ」(第15番)、ウクライナの「ドゥムカ」(第12番)などによる。
連作序曲「自然の人生と愛」:1891年(50歳)に作曲。
序曲「自然の中で」Op.91
序曲「謝肉祭」Op.92
序曲「オセロ」Op.93
交響詩の連作:1896年(55歳)に作曲。
内容としてはチェコの民話を集大成して「チェコのグリム兄弟」と呼ばれるカレル・ヤロミール・エルベン(1811〜70)のスラブ民話に基づく詩集「花束」(1853)から題材がとられています。いずれもちょっと怖い、おどろおどろしい内容によっていることが敬遠される理由でしょうか。
なぜ、最晩年のドヴォルザークがこのような悲惨な内容を題材として曲を作ろと思ったのかは不明です。
交響詩「水の魔物 Vodnik」Op.107
「水の精」と呼ばれることもありますが、どうやら「妖精」のようなものではなく、「魔物」「怪物」という方が適切なようです。日本でいえば「河童」みたいなもの。
内容は、水の魔物(怪物)がいて、人間の娘を気に入って水の中に引きずりこみ、妻にして、娘が望まない子供も産ませた。水の底は悲しい、何も楽しみのない場所。娘は子守歌を歌って赤ん坊を寝かしつける。娘は何とかそこを逃れようと、「日暮れまでには必ず戻る」と約束して母の待つ実家に帰るが、夕べの鐘が鳴っても戻らない娘を取り返しに魔物がやってくる。扉をたたくが母は娘を帰さない。真夜中になっても帰さない。朝になって魔物が「赤ん坊が泣いている」と言っても母は娘を帰さない。「赤ん坊が泣くならここに連れてくればよい」と母が言うと、魔物は赤ん坊を連れてきて、腹いせにその首をもぎ取って、家の前に置いて行く。頭と胴体が離れた子供を見つけた娘の驚き、悲しみ・・・。
水の魔物 Vodnik
交響詩「真昼の魔女 Polednice」Op.108
タイトルからジブリ映画を想像すると、音楽も何となくそんな雰囲気です。「魔女」が箒に載って飛び回るイメージ(「箒にまたがった魔女の騎行」!)。でも、この曲では本物の恐ろしい魔女。
最初の場面は「言うことを聞かない子供」とそれに対する母親の「言うことを聞かないと、魔女がやって来るわよ!」というやり取り。すると、本当に魔女がやって来てしまう。必死に子供を守ろうとする母親と、子供に襲いかかる魔女。母親は気を失い、昼の12時の鐘(夜中ではなく)が鳴って父親が帰って来ると、子供は母親の腕の中で息絶えていた・・・。
交響詩「金の紡ぎ車 Zlaty kolovrat」Op.109
何となくゲーテの「ファウスト」の「糸を紡ぐグレートヒェン」などを想像しますが、「糸紡ぎ」はドイツ・中欧においては「未婚の娘」の象徴のようです。
騎士が狩の途中で道に迷い、森の小屋で水を一杯所望すると、出てきたのは美しい機織り娘。騎士は一目惚れして妻になってほしいというと「母の許しがないと。母は今日は町に行って不在です」。その母とは、機織り娘の継母。
翌日、騎士は再び馬に乗ってやってくる。継娘を欲しいという騎士に、継母は実の娘を勧めますが、騎士は継娘をお城に連れてくるよう命じます。騎士は王様でした。
王宮に向かう途中、継母と実娘は、茂みの中で継娘を殺します。実娘は、死体が生き返らないように、手足と目を切り取って持って行きます。そして実娘を機織り娘と偽って王宮に輿入れします。結婚式の祝宴は7日間続き、8日目に王様は戦に出かけます。
森の仙人が死体を見つけて洞穴に運びます。仙人は小僧に金の紡ぎ車を持たせて、それを城門で売っていると、王女となった娘が欲しがります。「お代は足2本でいいよ」といって金の紡ぎ車と「機織り娘の2本の足」とを交換して持ち帰ります。
次に、小僧は金のはずみ車を売りに行き、欲しがる王女に「機織り娘の2本の腕」と交換して持ち帰ります。
さらに、小僧は金の糸巻き棒を売りに行き、欲しがる王女に「機織り娘の2つの目」と交換して持ち帰ります。
洞窟の中で、手足と目が戻った機織り娘は生き返ります。
戦から戻った王様に、王女となった娘は手に入れた金の紡ぎ車で黄金の糸を紡ぐと、紡ぎ車が真実を歌い始めます。それを聞いてすべてを知った王様は洞窟に駆け付け、本当の機織り娘を見つけて王宮に連れ帰ります。
そして、本当の結婚式。(ドヴォルザークの音楽はここで終わります)
エルベンの詩では、偽りの娘と継母は、手足を切り取られ、目をえぐられて、深い森に捨てられます・・・。
交響詩「野鳩 Holoubek」Op.110
タイトルからすると、なんか「のほほん」「ほのぼの」とした平和な曲を思い浮かべますが、曲は冒頭から「葬送行進曲」で始まります。
それもそのはず、若くして夫を亡くした未亡人が夫を墓に送っていくのです。
その未亡人の前に、やがて若い男が現れ、2人は結婚します。結婚式で、花嫁は新しい夫と田舎の踊りを踊る。幸せの絶頂。
3年が過ぎ、女は前夫の墓参りに行く。そこで木にとまった野鳩が鳴く。女は叫ぶ「ばらさないで、言わないで!」
前夫は、その女が毒を盛ったのでした。女は罪の意識にさいなまれて川に身を投げます・・・。
ヨーロッパには、野鳩、山鳩というのは、人間世界の裏事情や隠された醜いものをちゃんと見ているものだ、という暗黙の象徴的な意味合いがあるのでしょうか。シェーンベルクの「グレの歌」でも、ヴァルデマール王の愛人トーヴェが王妃の嫉妬によって殺された、という事実を伝えるのが「山鳩の歌」ですね。
交響詩「英雄の歌 Pisen bohatyrska」Op.111
この交響詩は、エルベンの詩集とは関係のない内容です。作曲年1898年からすると、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」と関係がありそうな気もしますが、リヒャルト・シュトラウスの初演が1899年3月3日フランクフルトにて、このドヴォルザークの交響詩は1897年のブラームス没後に作曲され、初演は1898年12月4日にグスタフ・マーラーの指揮ウィーン・フィルにより行われているので、こちらの方が先行しているようです。
作曲時期から、「英雄」とはブラームスを指すとも、「自伝的な内容」ともいわれています。
曲は3つの部分からなり、第1部が若き日の英雄、第2部が挫折と失望、第3部が反撃と自信の回復と勝利を描いています。
4.ドヴォルザークの協奏曲
交響曲、管弦楽曲の割には、ドヴォルザークは協奏曲をあまり作曲していません。有名なのは「チェロ協奏曲」ぐらいでしょうか。
周囲にあまり巨匠的な独奏者がいなかったのかもしれません。
ピアノ協奏曲ト短調 Op.33:1876年(35歳)に、チェコのピアニスト、カレル・スラフコフスキーのために作曲。
なお、ピアノ独奏部分の評判は芳しくなく、作曲者の没後プラハ音楽院のピアノ科教授ヴィレーム・クルツがピアノ独奏部分を改訂した版もあるようである。
いずれにせよ演奏頻度は高くはない。
ヴァイオリン協奏曲イ短調 Op.53:ヴァイオリニストのヨアヒムの依頼で作曲を始め、一度完成したものの一部を破棄して大幅に作り直し、1880年(39歳)に完成。その後1882年に改訂している。
チェロ協奏曲ロ短調 Op.104:ニューヨーク滞在中の1894〜95年に作曲。古今のチェロ協奏曲の中でもっとも有名なものとなっている。
5.ドヴォルザークの室内楽
ドヴォルザークは、自身がヴィオラ奏者であったことから、数多くの室内楽曲を作っています。
詳細は、今後追加します。
6.おすすめのCD
今後、適宜追加します。
ドヴォルザーク・エディション〜スラヴの魂(27CD)\5,290
ドヴォルザーク/交響曲全集(スウィトナー/ベルリン国立管) 5CD ¥1,767
ドヴォルザーク/交響曲全集(ケルテス/ロンドン) 9CD ¥5,933
ドヴォルザーク/交響曲全集(クーベリック/ベルリン・フィル) 6CD ¥5,742
ドヴォルザーク/交響詩・協奏曲集(クチャル/ヤナーチェク・フィル) 5CD ¥1,950