プロコフィエフのあれこれ

2019年2月15日


 次回第81回の定期演奏会で、プロコフィエフ作曲・交響曲第5番を演奏します。
 ということで、それに関する無駄知識をいろいろと。

 横フィルでは、プロコフィエフの作品を、第56回(2006年11月)に交響曲第1番(古典交響曲)、第62回(2009年11月)にバレエ音楽「ロメオとジュリエット」(抜粋版)を演奏しています。
 また、神奈川県アマチュアオーケストラ連盟主催の「神奈川県アマチュアフェスティバルオーケストラ演奏会」(1994年8月)で、故・四代目江戸家猫八師匠(当時は初代・江戸家小猫)の語りで「ピーターと狼」を演奏しています(オケは合同メンバー)。

セルゲイ・セルゲエヴィチ・プロコフィエフ セルゲイ・セルゲエヴィチ・プロコフィエフ(1891〜1953)



1.プロコフィエフの生涯

 セルゲイ・セルゲエヴィチ・プロコフィエフ(1891〜1953)の生涯を簡単にまとめてみましょう。(この名前からすると、プロコフィエフのお父さんも「セルゲイ」だったことが分かります)

1891年4月23日:ロシア、ウクライナのドネツィク州ソンツォフカ(当時はロシア帝国領)に、貴族の農場の管理人の家に生まれる。裕福な家庭で、音楽や勉強を家庭教師にもとで学んだ。
1900年(9歳):両親に連れられて、モスクワでオペラを観る。
1901年(10歳):母に連れられてモスクワ音楽院長のタネーエフを訪問し、紹介された若きグリエール(1875〜1956)を家庭教師に招く。
1902年(11歳):母に連れられてペテルブルク音楽院長のグラズノフを訪問し、ペテルブルク音楽院に入学。リャードフ、リムスキー・コルサコフらに学ぶ。
1909年(18歳):ペテルブルク音楽院を修了。ピアノ・ソナタ第1番・Op.1 を作曲。
1910年(19歳):父親が他界。
1915年(24歳):ディアギレフの家でストラヴィンスキーに会う。
1917年(26歳):ロシア革命が勃発。

1918年(27歳):革命の混乱の中、交響曲第1番「古典交響曲」初演直後にロシアを出国することを決意し、日本経由でアメリカに渡る
1918〜1922年(27〜31歳):主にアメリカで作曲家・ピアニストとして活動する。
1923年(32歳):活動の拠点をパリに移す。アメリカで知り合ったカロリナ・コディナ(通称リーナ)と結婚する。
1927年(36歳):ディアギレフの委嘱によるバレエ「鋼鉄の歩み」がバレエ・リュス(ロシアバレエ団)で初演される。短期間だけロシア(ソビエト連邦)に帰国。
1928年(37歳):オペラ「炎の天使」を一部初演、これの素材を用いた交響曲第3番を作曲。
1929年(38歳):バレエ「放蕩息子」をバレエ・リュスで初演。これを用いた交響曲第4番を作曲。
1933年(42歳):2度にわたってソビエトを訪問し、モスクワに住居を構えるが拠点はパリの生活を続ける。映画音楽「キージェ中尉」を作曲。
1934年(43歳):レニングラード劇場からの依頼でバレエ「ロメオとジュリエット」作曲に着手。

1936年(45歳):家族とともにモスクワに定住バレエ「ロメオとジュリエット」完成。「ピーターと狼」作曲。
1938年(47歳):映画音楽「アレクサンドル・ネフスキー」作曲。映画音楽からカンタータにも編曲。
1941年(50歳):家族と別れ、ミーラ・メンデリソンと同居。ドイツがロシアに侵攻、ロシアでいう「大祖国戦争」開始。
1942年(51歳):映画音楽「イワン雷帝」、ピアノ・ソナタ第7番(戦争ソナタ)。
1945年(54歳):交響曲第5番初演を指揮。階段から転落して後頭部を強打。
1946年(55歳):交響曲第5番などに対してスターリン賞。
1947年(56歳):交響曲第6番がムラヴィンスキー指揮で初演。
1948年(57歳):いわゆる「ジダーノフ批判」でショスタコーヴィチらとともに批判の対象となる。
1952年(61歳):交響曲第7番作曲。
1953年(62歳):スターリンと同じ日に他界。

2.プロコフィエフと日本・横浜の関係

 上述のように、プロコフィエフはロシア革命の混乱を避けて、シベリア鉄道から日本を経由してアメリカに渡っています。このときには、古典交響曲を初演した1918年4月21日直後の5月7日にモスクワを発ち、シベリア鉄道でウラジオストックまで行き、そこで日本のビザを所得して、5月29日の船便で日本に渡ります。そして、下記の日程で日本で時間を過ごしているのです。
 5月31日:敦賀に上陸
 6月1日:東京に到着
 希望した南米(北半球の夏のシーズンオフに音楽シーズンを迎える)行きの便がなく、8月まで日本に滞在して北米に渡ることにした。
 6月12〜18日:京都に滞在
 6月19〜28日:奈良に滞在
 7月6、7日:東京でピアノ演奏会
 7月9日:横浜でピアノ演奏会(会場は横浜グランドホテル*1)
 7月19〜21日:軽井沢を訪問
 7月28日:箱根を訪問
 8月2日:横浜港から離日。

 この日本滞在中のプロコフィエフに日記が、下記に「ブログ」の形態で紹介されています。
↓ シベリア鉄道で移動中の1918年5月15日から開始。
https://blog.goo.ne.jp/sprkfv/d/19180515 (7月9日の横浜での演奏会の日はこちら) https://blog.goo.ne.jp/sprkfv/d/19180709

(注:*1) 1918年7月9日に、プロコフィエフがピアノ演奏会を開いた「横浜グランドホテル」は、現在の「横浜人形の家」付近にあったホテルだそうです。関東大震災で倒壊したそうで、現在の「ホテル・ニューグランド」は、ホテルとしては別なものですが、「グランド」という名称を引き継いだのだそうです。

3.プロコフィエフの墓参り

 プロコフィエフの墓は、モスクワ市内のノヴォデヴィチィ墓地にあります。隣接するノヴォデヴィチィ修道院は世界遺産であり、ムソルグスキー作曲のオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」の幕開け「プロローグ」の舞台でもあります。
 私は、2013年の出張の折に、この墓地を訪れ、プロコフィエフだけでなく、同じ墓地に眠るショスタコーヴィチ、ロストロポーヴィチ、オイストラフといった方々の墓参りをしてきました。そのときのようすはこちらの記事「モスクワ出張2013 〜音楽家の墓参り〜」をご覧ください。

ノヴォデヴィチイ墓地の中ノヴォデヴィチイ墓地の中ノヴォデヴィチイ墓地の中。緑の多い落ち着いた公園墓地です。

プロコフィエフのお墓 プロコフィエフのお墓

4.プロコフィエフの代表曲

 プロコフィエフはいろいろな曲を書いていますし、自身が腕の立つピアニストだったのでピアノ作品も多いです。
(参考:Wikipedia「プロコフィエフの楽曲一覧」

 代表曲をいくつか挙げてみましょう。

(1)交響曲
 番号付きの交響曲は7曲作曲しています。このうち「第4番」には改訂版があり、新旧両版の演奏が存在します。

@交響曲第1番 二長調Op.25「古典交響曲」(1916〜17)
 プロコフィエフの交響曲の中でも最も多く演奏されるでしょう。ペテルブルク音楽院でチェレプニンの指導下でハイドンの交響曲を研究した成果として、「ハイドンが現代に生きていたら書いたであろう作品」として作曲したとのことです。

A交響曲第2番 ニ短調 Op.40(1924〜25)
 パリに滞在するようになってからの作品。クーセヴィツキの指揮で初演されたが、評判は芳しくなかった。

B交響曲第3番 ハ短調 Op.44(1928)
 歌劇「炎の天使」を作曲して一部が演奏されたものの、全曲の上演の目処が立たないことから、その中の素材を使って交響曲にしたのがこの作品。プロコフィエフとしては強い愛着を持っていたという。ピエール・モントゥーの指揮によりパリで初演。

C交響曲第4番 ハ長調 Op.47(1930)(改訂版:Op.112、1947年)
 ボストン交響楽団創立50周年の委嘱作品として作曲され、クーセヴィツキ指揮によりボストンで初演された。
 この作品では、バレエ「放蕩息子」の素材が利用されている。
 また、ソ連に帰国した後の1947年に大幅に手を入れた「改訂版」を作成して新たに「作品112」としている。一般には「改訂版」が演奏されるが、ロストロポーヴィチの交響曲全集などでは「新旧両版」が録音されている。

D交響曲第5番 変ロ長調 Op.100(1944)
 ソ連に帰国後、交響曲から遠ざかっていたが、1941年からの「大祖国戦争」に向き合って歌劇「戦争と平和」などの対策に取り組み、ソ連が勝利に向かいつつある時期に「作品100」という記念すべき作品として力を注いで作曲したという。
 1945年に、プロコフィエフ自身の指揮で初演された。

E交響曲第6番 変ホ短調 Op.111(1945〜47)
 1945年の転落事故で健康を害し、病気と闘いながら作曲された。初演の指揮はムラヴィンスキー。
 好評であったが、難解なことから1948年のジダーノフ批判で「形式主義的」との烙印を押された。

F交響曲第7番 嬰ハ短調 Op.131(1951〜52)
 病気と闘いながら、ソビエトの青年たちに捧げるという趣旨で作曲されたことから「青春」という呼称で呼ばれることもある。
 4楽章のコーダで消えるように終わるオリジナルと、初演指揮者サモスードの要望により強奏で終わる終結部を追加した改訂版とがあり、どちらかを選択できるようになっている。

(2)管弦楽曲

 ソビエトが、モスクワのボリショイ劇場やレニングラードのキーロフ劇場(現在のマリインスキー劇場)のバレエに力を入れていたことから、プロコフィエフもバレエ音楽を数多く手がけています。
 代表作は次の通り。

バレエ「鋼鉄の歩み」Op.41(1925〜26)パリ時代にディアギレフの委嘱で作曲
バレエ「放蕩息子」Op.46(1928)パリ時代にディアギレフの委嘱で作曲
バレエ「ロメオとジュリエット」Op.64(1935〜36) ソ連帰国直後に作曲し、当初レニングラードで初演する予定だったが酷評され、まず「組曲」として演奏会で発表するとともに、バレエとしてはチェコで1938年に初演されて成功したことから、ソ連国内では1940年にようやく初演されたようです。
バレエ「シンデレラ」Op.87(1940〜44)
バレエ「石の花」Op.118(1948〜53)

 プロコフィエフの代表作としてよく聞かれるのは
「ピーターと狼」Op.67(1936)  語りと管弦楽曲からなる「交響的物語」
組曲「キージェ中尉」Op.64(1934)  映画音楽からの編曲
でしょうか。

(3)ピアノ協奏曲

 プロコフィエフ自身が優れたピアニストであったことから、若いころからピアノ協奏曲を5曲作曲している。

@ピアノ協奏曲第1番 Op.10(1911〜12)
 ペテルブルグ音楽院在学中に完成し、卒業試験で演奏して第1位を獲得している。
Aピアノ協奏曲第2番 Op.14(1912)
Bピアノ協奏曲第3番 Op.26(1917〜21)終楽章の主題が越後獅子似の「都節」風。日本経由で亡命したときのスケッチを使っていると思われる。
Cピアノ協奏曲第4番 Op.53(左手のための)(1931)パウル・ヴィトゲンシュダインの委嘱。ヴィトゲンシュタインは、第1次大戦で右腕を失っており、ラヴェルも依頼を受けて「左手のためのピアノ協奏曲」を作曲している。
Dピアノ協奏曲第5番 Op.55(1932)

(4)ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲

 ヴァイオリン協奏曲は2曲あります。

@ヴァイオリン協奏曲第1番 Op.19(1916〜17)若書きです。
Aヴァイオリン協奏曲第2番 Op.63(1935)
 ソ連に戻ってからの円熟期の作品。
 1930年代には、バルトークやシェーンベルク、ベルク、ハチャトゥリアンなどが傑作ヴァイオリン協奏曲を作っています。

 チェロ協奏曲としては
@チェロ協奏曲(第1番)Op.58(1933〜38)
がありますが、非常に難曲ということで、ほとんど演奏されません。
その後、ロストロポーヴィチなどの助言で改訂し
Aチェロと管弦楽のための協奏的交響曲 Op.125(1951)
としています。初演は当然ロストロポーヴィチですが、指揮はピアニストのリヒテルが行ったそうです。(リヒテルが公の場で指揮したのはこれだけ)
また、
Bチェロと管弦楽のためのコンチェルティーノ Op.132 という未完の草稿が残されており、ロストロポーヴィチの補筆とカバレフスキーのオーケストレーションによって演奏可能な形となっている。

(5)その他

 プロコフィエフは自身がピアニストだったので、ピアノ曲をたくさん書いています。
 「作品1」が「ピアノ・ソナタ第1番」だし、初期の頃から「束の間の幻影」Op.22(1915〜17)などの先進的なピアノ曲を作曲しています。
 第2次大戦中には、ピアノ・ソナタ第6番〜8番を作曲し、「戦争ソナタ」と呼ばれています。第6番Op.82(1940)はプロコフィエフ自身が初演しましたが、ピアニストのリヒテルがこの曲を弾くのを聞いて信頼し、第7番Op.83(1942)の初演はリヒテルに委ねました。(第7番の最終第3楽章は、猪突猛進する 8/7 拍子の超難曲です)リヒテルはこれらのピアノ・ソナタをよく演奏していました。

 また、自身のバレエ曲をピアノ曲に転用することも多く行っていて、
・バレエ「ロメオとジュリエット」からの10の小品 Op.75(1937)
・バレエ「シンデレラ」からの3つの小品 Op.95(1942)
・バレエ「シンデレラ」からの10の小品 Op.97(1943)
・バレエ「シンデレラ」による6つの小品 Op.102(1944)
なども作っています。
 バレエ音楽のピアノ版で聴くと、プロコフィエフのほとんど拍ごとに繰り出されるきらきらした「転調の妙」がよく分かります。

 ヴァイオリン・ソナタは2曲あります。
@ヴァイオリン・ソナタ第1番 Op.80(1938〜46)はオイストラフが初演しています。とても憂鬱で、第1楽章と最終第4楽章の最後に延々と高速スケールが続きます。プロコフィエフ自身は「墓場を吹き抜ける風」と呼んだそうです。背筋が凍ります。
Aヴァイオリン・ソナタ第2番 Op.94a(1944)は、1942〜43年に作曲した「フルート・ソナタ Op.94」を転用したものです。(ヴァイオリンへの改作を依頼したのはオイストラフ)。

 また、ロストロポーヴィチのために「チェロ・ソナタ Op.119(1949)」も作曲しています。

 その他、映画監督の巨匠エイゼンシテインと組んだ映画「アレクサンドル・ネフスキー」(1938年)の音楽を改作した演奏会用カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」Op.78(1939年)があります。
 また、同じくエイゼンシテイン監督の映画「イワン雷帝」の音楽を担当しますが、当初「三部作」の予定の映画が第2部でスターリンからの批判で頓挫し、音楽も中途半端のままであったものを、作曲者の没後何人かが再編成しましたが、その中で
・アブラム・スターセヴィチ編曲によるオラトリオ「イワン雷帝」(語り、独唱、合唱、管弦楽)(1961)
がよく演奏されます。

   



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