シューマン 交響曲第3番「ライン」 〜第71回の演奏曲目に関して〜

2014年 1月12日 とりあえず初版作成

 次の定演(第71回)で、シューマンの「ライン」を演奏します。
 「ライン」とシューマンについて、関連のある話題を少しだけ。

 ロベルト・シューマン(1810〜1856)

 クララ・シューマン(1819〜1896)



1.ライン川

 「ライン」とは、最近のスマホの無料通話アプリのことではなく(それは「Line」=ライン↑という語尾上げ発音)、ドイツを流れるライン川(Rhein)のことです。

 シューマン作曲/交響曲第3番「ライン」のタイトルは、シューマン自身ではなく、出版社が付けたようです。タイトルの"Rheinische" は、ライン川そのものではなく、「ライン風」とか「ライン地方の」といった意味合いのようです。
 シューマン40歳の1850年、最後の住処となったデュッセルドルフに移り住みます。交響曲第3番「ライン」はそこで作曲されました。デュッセルドルフがライン河畔であったことから、この交響曲第3番にはライン川流域の自然や人々の営み、文化にまつわる様々なイメージが反映されているようです。

 ウィキペディアによると、各楽章には次のようなライン川流域の自然や文化との関連があるようです。
 私が川下りをしたのは、どうやら第1楽章のエリアのようです。

第1楽章:ローレライ
第2楽章:コブレンツからボン
第3楽章:ボンからケルン
第4楽章:ケルンの大聖堂
第5楽章:デュッセルドルフのカーニヴァル

 ライン川は、スイスアルプスのトーマ湖に源を発し、ドイツとフランスの国境地帯を北上して流れ、オランダを通過して北海に流れ出る大河です。
 実は、南ドイツのシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald:黒い森)に源を発するドナウ川とは、かなり近いところに源があります。中流域では、フランクフルトを流れるマインツ川からの運河を経て、ライン川とドナウ川はつながっているそうですので、川を使って北海と黒海はつながっているのです。

ライン川流域地図

 流域の上流地域(上ライン:Oberrhein)は、ドイツとフランスの国境地帯を流れ、ライン川が国境を形成します。そこはドイツとフランスが領有権を争ったアルザス地方です。現在はフランス領で、中心都市はストラスブール(ドイツ領時代にはシュトラスブルク)、近くにヒンデミット作曲「画家マティス」で有名なマティアス・グリューネヴァルト作「イーゼンハイムの祭壇画」のある町コルマールがあります。第一次大戦まではドイツ領で、文化圏としてはドイツに属します。ストラスブール近くでライン川を渡ったことがありますが、ここでもかなりの川幅で、結構大きな船も航行できます。(スイスのバーゼルまで3000t級の船の往来ができるそうです)
 私が2012年にコルマールを訪問した時の記事も参照ください。

「イーゼンハイムの祭壇画」の展示スペース。

→(ご参考)「ウンターリンデン美術館」のホームページ

 中流域(中ライン:Mittelrhein)はドイツ国内を流れ、両岸に中世の城と山の斜面にブドウ畑が点在します(ブドウは当然ワインを作るためのもの)。歌で有名な「ローレライ」の断崖と急流があります(「ローレライ」は、世界三大がっかりの一つといってもよいほど「何これ?」という感じですが)。
 私は、フランクフルトに近いリューデスハイムからローレライの少し下流のザンクト・ゴアまで約30kmの「ライン川下り」に乗りました。その時の写真を何枚か。

ライン川下りの船

ライン川は中流域でこの川幅

両岸には中世の城が点在



両岸に点在する町には必ず教会が

城はレストランやホテルに使われている

川の中州や山頂に城、城・・







大きな貨物船とすれ違う

ローレライの急流(?)

ローレライの断崖



 下流(下ライン:Niederrhein)には、ボンやケルンデュッセルドルフといった町があります。デュッセルドルフは、シューマンが最後に住んだ街です。交響曲第3番「ライン」もこの街で作曲されました。
 シューマンは、この街でライン川に身を投じ、未遂に終わるものの、その後の人生最後の2年間を精神病院で過ごします。

ケルン大聖堂

 
 

2.シューマンの簡単な生涯

1810年生まれ(ザクセン王国のツヴィッカウ)
1828年(18歳):ライプツィヒ大学に入学。
1830年(20歳):フリードリヒ・ヴィークにピアノの弟子入り。
1834年(24歳):「新音楽雑誌」の編集を担当、1836年から主筆。
1839年(29歳):ピアノの師匠フリードリヒ・ヴィークの娘クララと婚約、父親の反対により訴訟
1840年(30歳):訴訟に勝ちクララと結婚。歌曲の年。
1841年(31歳):交響曲の年。
1842年(32歳):室内楽の年。
1844年(34歳):ドレスデンに移住。精神病の兆候。
1850年(40歳):デュッセルドルフに移住。交響曲「ライン」作曲
1853年(43歳):シューマンのもとを20歳のブラームスが訪問。
1854年(44歳):精神の病によるライン川への投身自殺未遂と精神病院への入院。
1856年:46歳で死去。現在では精神疾患も含めて梅毒に起因するものといわれている。

1896年:クララ逝去(76歳)。
1897年:ブラームス逝去(63歳)。

 シューマンの公的な最終作は、1854年にライン川に身を投じる直前に書きあげたピアノ曲「主題と変奏Es-dur」、通称「天使の主題による変奏曲」(直訳すると「幽霊変奏曲Geistervariationen」)だそうです。シューマンが、夢の中で天使の合唱による音楽を聴き、その主題を楽譜に書きとめて作ったという・・・。
 この曲は、シューマンの没後、クララがブラームスと協力して編纂したシューマン全集には収録されず、出版されたのは1939年になってからだったとのことです。従って作品番号などは一切付けられていません。
 主題は極めて穏やかなものですが、最終変奏である第5変奏は、何かちょっと変です。クララは、この変奏をそのまま世には出せないと思ったのでしょうか。(後で調べたら、やはり、シューマンは第4変奏まで書き上げたところで自殺を図り、一命を取り留めて自宅に戻った翌日に、第5変奏を追加したそうです)

 その数日後、シューマンは自分から希望して精神病院に入ります。入院後、クララは医者の指示で面会が許されなかったそうです。
 1856年7月、シューマン危篤の報を受けて、クララは7月23日に病院を訪ねますが面会出来ず、27日に2年半ぶりに面会したそうです。シューマンは7月29日に生涯を閉じました。

 シューマンの「天使の主題による変奏曲」は世に出ませんでしたが、ブラームスはこの「天使の主題」に基づき、連弾による「シューマンの主題による変奏曲」作品23を作曲しています(1861年、ブラームス28歳)。クララと一緒に弾くために、連弾用に作曲したのでしょうか・・・。(このときクララは42歳)

 なお、シューマンが精神病院で書いた作品は、クララによってすべて破棄されているそうです。何とも痛ましいことです・・・。

 
 

3.シューマンのピアノ曲

 私のイメージでは、シューマンはピアノ曲の作曲家。オーケストラ曲よりも、圧倒的にピアノ曲の方がよい曲をたくさん書いています。

 もともと、ピアニストを目指していて、クララの父親であるフリードリヒ・ヴィークにピアノを習ったが、指の故障でピアニストの道を断念したという経歴であり、作品番号の1(1830年、20歳)から作品23(1839年、29歳)までは全てピアノ曲です。

 代表的なのは、次のものです。(いかにも「ロマン的」内容を持っていることが分かります)

  作品1:アベッグ変奏曲 (架空の伯爵令嬢パウリーネ・フォン・アベッグの名前のA-B-E-G-Gを音名にしたモティーフに基づく変奏曲)
  作品2:パピヨン(蝶々) (作家ジャン・パウルの小説「生意気盛り」の仮面舞踏会をモデルにした、双子兄弟と1人の令嬢の駆け引きの音楽による小品集)
  作品9:謝肉祭 (実らなかった恋人エルネスティーネ・フォン・フリッケンの出身地アッシュ(Asch)の音名(As-C-H、A-Es-C-H)をモティーフにした様々なタイトルを持つ小品集。「4つの音符による面白い情景」の副題があり、Aschを表す演奏されない「スフィンクス」という楽譜上の表記がある)
  作品13:交響的練習曲 (この終曲は、ブラームスの「ホルントリオ」の終楽章に似ている気がするのですが・・・)
  作品15:子供の情景 (有名な「トロイメライ」を含む)
  作品16:クライスレリアーナ (作家・作曲家 E.T.A.ホフマンの楽長クライスラーを主人公とした著作に基づく小品集。終曲の主題が、交響曲第1番「春」の第4楽章と同じです。)
  作品17:幻想曲

 それに続くのは一連の歌曲です。

  作品24:リーダークライス(ハイネの詩による)
  作品25:歌曲集「ミルテの花」

  作品39:リーダークライス(アイヒェンドルフの詩による)
  作品48:「詩人の恋」(ハイネの詩による)

 これに対して、最初の管弦楽曲は「交響曲第1番「春」作品38」(1841年、31歳)です。

 シューマンは、新しい音楽の創造や音楽批評を展開するにあたり、「通俗性」「保守性」「古い因習」を打ち破るため、これを「ペリシテ人と戦うダヴィデ」になぞらえて、「ダヴィッド同盟 Davidsbundler」という架空の団体を作ります。そのメンバーとして、自分の中の2つの性格を象徴化した、情熱的で激しい感情の起伏を見せる外向的な「フローレスタン Florestan」と、夢見るように瞑想的で温和で内省的な「オイゼビウス Eusebius」の2つの人物を登場させます。そういったシューマンの中の対立する二面性が、やがて精神を病む元凶になっていくのでしょう。

 「謝肉祭」作品9には、第5曲に「オイゼビウス」第6曲に「フローレスタン」が登場します。
 この「謝肉祭」作品9には、それ以外に、恋人クララ・ヴィーク(第11曲、クララのイタリア読みの「キアリーナ」)、シューマンと同い年で「諸君、脱帽したまえ!天才だ」と称賛したショパン(第12曲)や、その演奏を聴いて衝撃を受けたパガニーニ(第16曲の中間部)も立ち現れます。終曲には「ダヴィッド同盟行進曲」(何と3拍子の行進曲!)が置かれています。

 なお、「ダヴィッド同盟」については、この団体の舞踏会を模した「ダヴィッド同盟舞曲集」作品6も作っています。

 シューマンのピアノ曲をどれか1曲聴いてみるとすれば「謝肉祭」作品9でしょうか。この曲、お勧めです。

 私のお気に入りのシューマン/ピアノ曲集は、フランスのピアニスト、エリック・ル・サージュ(1964〜 )の弾いたものです。


 シューマンは、ほとんどのピアニストが弾くレパートリーなので、お気に入りのピアニストで聴いてみてはいかがでしょうか。
 アシュケナージミケランジェロ内田光子ケンプなど。

 作曲家シューマンの真骨頂は、このクララ・ヴィークを獲得して結婚する前の、若く破天荒な時代にあるように思います。この時期のシューマンは、まさしく才能はじけるアグレッシブな芸術家でした。
 それに比べ、特に交響曲などの管弦楽作品は、ちょっと分別臭く、才気に欠けて、無理に背伸びをして「大人のお仕事」をしているという印象を受けるのは、私だけでしょうか。
 ピアノ曲の中でも、「ピアノ・ソナタ」はあまり面白くありませんので、型にはまった、伝統を踏襲しようとした作品は、そういった印象を受けるのかもしれません。伝統や「型」を意識した作品よりも、「私的」「文学的」「自由な精神の飛翔」といった性格の作品が優れているようです。



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