ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」にまつわる話題

2004年7月19日


 次回、第52回で取り上げるショスタコーヴィチについては、インターネットで調べるとマニアのサイトがたくさんあって、あらゆる情報が提供されています。
 ここでは、ショスタコーヴィチに対する個人的な思いと、雑学としていろいろなサイトで話題になっているものの紹介してみたいと思います。



1.ショスタコーヴィチとの個人的な関わりと歴史的背景
 私が最初にショスタコーヴィチを演奏したのは、作曲者生存中の1969年に、吹奏楽で交響曲第5番の第4楽章でした。さらに作曲者生存中の1973年に、オーケストラでオラトリオ「森の歌」も演奏しています(こちらは、某インスタントコーヒーメーカーがスポンサーとなった「ゴールドブレンド・コンサート」というお座敷。ちなみに、司会はペギー葉山さんでした)。
 その当時は、官僚社会主義として評判の悪かったソビエト連邦の国家評議会メンバーも務める体制派作曲家として、ショスタコーヴィチは学生にはまるで人気がありませんでした。特に「森の歌」など、体制迎合の音楽として、芸術的価値などまるでないものと思っていました。  当時のソ連は、ノーベル賞受賞作家ソルジェニーツィンや物理学者サハロフへの迫害、それに反対するチェロ奏者ロストロポーヴィチの国外追放など、今の北朝鮮と同じような社会体制でした。ショスタコーヴィチは1975年に亡くなりますが、1980年代前半までは、ソ連の体制に順応した作曲家として、その音楽も政治的理由で嫌われていたところがありました。

 そのショスタコーヴィチの認識が変わり始めたのは、問題の書「ショスタコーヴィチの証言」(ヴォルコフ編、1979年)が出版されてからだと思います。1980年代になっても、ソ連の体制は相変わらずでしたが、ショスタコーヴィチの社会体制に対する姿勢は、本音と建前を使い分けていた、という認識が一般化しました。それに加えて、ショスタコーヴィチと親交があり交響曲全集も録音していた指揮者キリル・コンドラシンが西側に亡命したり(1978年)、息子で指揮者のマキシム・ショスタコーヴィチが亡命する事件(1981年)が相次ぎ、ショスタコーヴィチが体制べったりであったという認識が必ずしも正しくなかったことが分かってきました。
 そんな中、ショスタコーヴィチの再評価のきっかけとなったのが、ハイティンクによる交響曲全集の録音だったと思います(録音データを見ると、1977年の第10番から始まり、完結は第13番の1984年。全集録音を企画したハイティンクの慧眼には感心します)。これ以来、「5番」以外の演奏や録音が盛んになってきたと思います。ちょうど、1960年代にバーンスタインがマーラーを盛んに取り上げるようになって、一部のユダヤ系指揮者の専売特許であったマーラーが再評価されて一般化するようになった、いわゆるマーラー・ルネッサンスに似たところがあります。

 そういった経過を経て、1980年代後半以降になって、ようやくショスタコーヴィチも純粋にその音楽そのもので評価されるようになってきたのだと思います。さらに1985年からのペレストロイカ、1989年のベルリンの壁崩壊、1990年のソ連崩壊によって、芸術的イデオロギーの根源そのものの存在が消滅し、ショスタコーヴィチを何の偏見もなく評価できるようになりました。
 私も交響曲第5番以外を聴くようになったのは、1990年以降のことでした。そして、ショスタコーヴィチが、社会主義リアリズムという不本意な制約をはめられていたがゆえに、ゲロゲロガチャガチャの前衛音楽の道を歩まず、20世紀にも正統な交響曲の歴史を継続し得たことを再認識したのでした。

(参考図書)S.ヴォルコフ編/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」(中央公論社、日本語版1980、中公文庫版1986年、文庫新版2001年)

2.ショスタコーヴィチに係わるキーワード
 ショスタコーヴィチを聴いたり、語ったりする上で、必須のキーワードがいくつかあるようです。  ここでは、まずそれに触れておきましょう。

(1)ソ連の社会体制との係わり合い
 20世紀音楽の最大の特徴は、政治体制との軋轢が大きかったこと、それにより音楽そのもの、音楽家の人生が大きく影響されたことです。  その最たるものが、ヒトラー/ナチスによるユダヤ人迫害(ユダヤ人でなくとも頽廃芸術として抹殺された)、スターリン以降のソ連における芸術批判。

 前者については、ユダヤ人作曲家「3M」(メンデルスゾーン、マイヤベーア、マーラー)の抹殺、同時代のユダヤ人作曲家・演奏家の迫害・抹殺でしょう。ユダヤ人ではないが前衛的なゆえに頽廃芸術として活動を制限されヨーロッパを脱出せざるを得なかった作曲家(ヒンデミット、バルトークなど)もいます。アメリカに亡命して生き残ったシェーンベルク、クルト・ワイル、コルンゴルトなどたいした作品を残せなかったのはまだはよい方で、強制収容所に送られて存在そのものを抹殺された作曲家も多いようです。

 後者のソ連での「批判」は、今日のマスコミなどでの批判とは比較にならない、社会的抹殺、個人生命の危機に相当します。「証言」にも出てくる、ショスタコーヴィチと親交のあった旧ソ連赤軍トゥハチェフスキイ元帥は、国家反逆罪で1937年に銃殺されました(これがヒトラーに「ソ連軍弱し」と判断させることになる)。主導権を争った政治家だけでなく、ショスタコーヴィチも共同活動した演劇家メイエルホリドも1940年に銃殺されました。
 このような状況にあって、音楽活動を続けて社会的地位を守る以前に、まずは自分の生命を守る必要があり、そのためには反体制の意志がないことを公式に表明し、体制を全面的に支持する意思表示とそれを裏付ける活動をすることが必須でした。
 ショスタコーヴィチ自身は、1937年にいわゆる「プラウダ批判」(オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に対する「音楽ではなくメチャクチャだ」との批判記事)を受け、完成していた交響曲第4番の初演を撤回して、交響曲第5番で挽回を図ります。同様に、戦後の1948年に再び共産党から批判を受け(いわゆる「ジダーノフ批判」)、このときは「森の歌」を作曲して失地回復しています。
 このような経緯が、ショスタコーヴィチに「体制に順応した作曲家」の烙印を押すこととなったのですが、「証言」の出版がそれをくつがえしたわけです。

(2)曲の中へのショスタコーヴィチのサイン(署名)
 ショスタコーヴィチは、自身の曲の中に他の音楽の引用や、自分自身のサインをしています。これらのどのような意図で行われたか、ということについては、ほとんどは謎のままです。これから、いろいろと解き明かされていくのかもしれません。

 まず、有名なのはショスタコーヴィチのサイン(署名)。ドミトリー・ショスタコーヴィチのイニシャルは、ロシア語で「Д.Ш.」です。これはドイツ語では「D.Sch.」に相当します。この「S」を「Es」と読み替えて、D−Es−C−Hの音列としたのがショスタコーヴィチの「署名」です。
 一番有名なのが、交響曲第10番。第3楽章にしつこくこの「署名」が出てきますし、第4楽章のコーダでも高らかに鳴り響きます。この曲の作曲された1953年に、スターリンが死去したことと大いに関係ありそうです。
 この「署名」は、1948年のヴァイオリン協奏曲第1番にもそれらしいものが出てきます。1948年がジダーノフ批判の年であり、この協奏曲が1955年まで初演されなかったというのも、この辺に理由がありそうです。

(注)なお、人名やイニシャルを音列として曲に埋め込む手法については、このホームページ上のエルガー/エニグマ変奏曲の記事で触れていますので、ご参照下さい。

(3)他の曲の引用
 ショスタコーヴィチの謎めいた秘密の一つに、他の曲からの引用があります。

 有名なところでは、1971年の最後の交響曲である第15番の第1楽章のロッシーニ「ウィリアム・テル」序曲の引用、第4楽章冒頭のヴァーグナー「ニーベルンクの指輪」の「運命の動機」の引用。これ以外にも、自身の交響曲第4番の第2楽章最後に現われる不思議な「ぜんまい仕掛けの時計」みたいな部分も引用されています。
 また、交響曲第7番「レニングラード」第1楽章の有名な「戦争の主題」も、ヒトラーの愛したレハール「メリーウィドウ」からの引用といわれています。(架空の小国のパリ大使館員である主人公ダニロが「仕事を忘れにキャバレー・マキシムに行こう!」と歌う「マキシムの歌」。でも、これはあまり似ていない)

 後で出てきますが、交響曲第5番の第1楽章第2主題および第4楽章冒頭主題も、ビゼー「カルメン」の「ハバネラ」からの引用ではないか、という意見があり、そう言われればそうかな、という気もします。

3.ショスタコーヴィチに関するサイト
 ショスタコーヴィチに関するサイトはいろいろあり、かなりの情報をここで収集できます。

(1)総合的サイト
 まず、あくまで個人のサイトながら、充実しているのがショスタコーヴィチの総合的なサイト:

http://develp.envi.osakafu-u.ac.jp/staff/kudo/dsch/dsch.html

 ここに行けば、ショスタコーヴィチの年譜、作品リスト、初心者用入門解説、などがありますが、貴重なのは1936年のプラウダに掲載された批判記事(「音楽の代わりに荒唐無稽」)や1948年のいわゆる「ジダーノフ批判」の翻訳が読めること。単なる「お話」を聞くだけでなく、自分の目で確かめたい人には必見のサイトです。(ただし、著作権等の関係から、読者登録が必要。ただ登録するだけで、悪用される心配はなさそうなので、貴重な資料にアクセスしてみましょう)

(2)同様に、ショスタコーヴィチの個人サイト:

http://member.nifty.ne.jp/phase3/shostako.htm

 上記の総合サイトに比べるとやや小ぶりですが、主要作品リストや参考文献のリストなど、関連情報への窓口となります。

(3)ショスタコーヴィチ愛好家のサイトとして「ショスタコ壷」:

http://www1.odn.ne.jp/tapiola/shostakovich/main.htm

(4)その他

 その他、個別のショスタコーヴィチの5番に関する解釈、演奏論、楽譜に関する記事は、下記の話題ごとに関連するサイトを紹介します。

4.ショスタコーヴィチについてのトリビアあれこれ

 ショスタコーヴィチに係わる話題を、いろいろなサイトから拾ってみました。

(1)ビゼー「カルメン」からの引用

 上記の「他の曲からの引用」でも触れましたが、交響曲第5番の第1楽章の再現部で、フルートとホルンの掛け合いで再現する第2主題は、カルメンの「ハバネラ」のオブリガード旋律の引用ではないか、という説明があります。

「曲解」シリーズ第3回:http://www2u.biglobe.ne.jp/~smacky/classic3.htm

 確かに、第1楽章提示部の第2主題はmollなので「ハバネラ」など思いもよらないのですが、この第2主題をdurにした再現部は、「ハバネラ」のオブリガードそのものです。
 単なる他人の空似か、とも思えるのですが、第4楽章のコーダのD-durも「ハバネラ」のテュッティの部分そのものではないか、という指摘とあわせて考えると、確かに単なる空似ではなく、確信を持った引用では、という気がしてきます。この4楽章のコーダも、4楽章冒頭のmollのテーマをdurにしただけ、ということで、「ハバネラ」に思い当たりにくいのですが、mollで出典が分からないように登場させ、それをdurにしただけと思わせて、ちゃっかり引用の元ネタを示す、という確信犯的テクニックに、ますますそうかもしれないと思わせるものがあります。

 この辺のところを専門家が論じたものはないのでしょうか。

(2)第4楽章コーダのテンポ

 第4楽章コーダのいわゆる「勝利の歓喜」の部分のテンポは、スコアでは四分音符で188となっており、かなり速いテンポです。しかし、元ソ連の演奏家、初演したムラヴィンスキーやコンドラシンの演奏は、堂々とした遅いテンポのものが多く、西側のバーンスタインなどの演奏はスコアに近い快速テンポが多いようです。
 これに関しては、「レコード芸術」誌98年10月号の金子建志氏のレポートに答があるようで、どうやら出版譜の元になったムラヴィンスキー所有の手書きスコアには、四分音符で88と書かれているとか。つまり、これだと第4楽章の冒頭と同じテンポで、音符は2倍の長さになっているので、結果的に冒頭のmollのテーマが、durで2倍に引き伸ばされた形となる、ということ。もしこれが本当だとすると、ムラヴィンスキーの演奏もコーダはやや速目のテンポということになります。
 ちなみに、「レコード芸術」誌の翌98年11月号の特集記事には、ムラヴィンスキー夫人(レニングラード・フィルの元主席フルート奏者)へのインタビューと、この貴重なムラヴィンスキー使用スコアの写真が載っているとのことです。
(以上、出典:http://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/mindex.htm

 バースタインの演奏を聴いたショスタコーヴィチが、バーンスタインに駆け寄って大絶賛した、というエピソードから、バーンスタインの演奏が作曲者の意図に近いのか、という憶測が流れたり、あれは単なるソ連当局へのあてつけだ、という解釈があったりで、ショスタコーヴィチの本当の意図は明らかではありませんが、最近の「原典版」流行の流れから、ショスタコーヴィチについても作曲者の意図を明らかにした原典版の発行と校訂に期待したいものです。

(3)ムラヴィンスキーの演奏での音の違い

 上記のムラヴィンスキー所有の手書きスコアでは、出版されたスコアと一部音の違いがあるそうです。場所は第4楽章の284小節目(練習番号127の2小節前)。
 出版譜では、最後の2つの八分音符が「As-C」ですが、ムラヴィンスキーのスコアでは「F-As」となっているとのことで、ムラヴィンスキーの演奏では確かにそうなっています。
 ムラヴィンスキーのスコアの方が、ショスタコーヴィチのオリジナルなのでしょうか。

出典は上記(3)と同じ:http://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/mindex.htm

(4)音の違いその2

 あるホームページでは、スコアどおりでよいのか、という指摘もあるようです。 出典:新潟交響楽団ホームページ http://www.gatakyo.com/nso_news21.htm

 場所は、第4楽章の109小節目(練習番号111の3小節前)。低弦、ホルン、トロンボーン、ファゴットが、シンコペーション音形で下降してきますが、このハーモニーは長和音が平行に下降してきますが、この小節の2拍目だけが短和音になります。別に短和音でおかしいこともなく、ほとんどの演奏は楽譜どおり演奏されていますが、一部、これを長和音に変更して演奏しているものがあるとのことです。(つまり、Cb.、Tuba 、C.FgのBをHに変更)
 ここは、初演したムラヴィンスキーなどもスコアどおりなので、おそらく問題はないのだと思いますが、作曲者が画一的な硬直した響きを求めたのなら、長和音だけを機械的に平行移動という意図があったと考えるのも、可能性としてはあるのかもしれません。

(5)ショスタコーヴィチと映画のアカデミー賞(オスカー)との関係

 ハリウッド映画のイベントである「アカデミー賞」(通称「オスカー」)とショスタコーヴィチに何の関係があるの?とお思いでしょうが、実はショスタコーヴィチは映画音楽でアカデミー賞にノミネートされたことがあります。1961年の「ホヴァンシチーナ」という映画の音楽の「編曲賞」です。ちなみに、この年の編曲賞ではショスタコーヴィチは受賞を逃し、受賞したのは映画「ウェスト・サイド・ストーリー」の音楽担当の4人(作曲者バーンスタインは含まれず)でした。他に主題歌賞は「ムーン・リバー」(ティファニーで朝食を)、音楽賞はヘンリー・マンシーニ。こんな方々とショスタコーヴィチが同じ土俵に乗っていた、というのも、なかなか楽しい話題ですね。
 詳しくはこのホームページ上の「アカデミー賞(オスカー)とクラシック音楽の関係」を参照下さい。