リヒャルト・シュトラウス 交響詩「ドン・ファン」〜第79回定期の演奏曲目〜

2018年 1月 12日
2018年 1月23日 「ドン・ファンの実況中継」を追加


 次回の定期演奏会(第79回)で、リヒャルト・シュトラウス(以下 R.シュトラウス、1864〜1949)の交響詩「ドン・ファン」作品20を演奏します。
 この曲は、2001年の第45回定期でも取り上げていて今回で2回目です。また、R.シュトラウスの作品では、2003年5月の第49回定期で「四つの最後の歌」(ソプラノ:山田英津子さん)も取り上げています。
そのときの記事はこちら

 ということで、R.シュトラウスに関して、ちょっと寄り道してみましょう。

リヒャルト・シュトラウス(1864〜1949)



1.リヒャルト・シュトラウスの生涯

 R.シュトラウス(1864〜1949)は、大変長生きしました。その生涯は、19世紀中ごろの統一された「ドイツ帝国」誕生前から、1871年のドイツ帝国健国以降の帝国主義の時代、「古き良き時代」の終焉である第1次世界大戦、民主国家としてのヴァイマール共和国、そしてナチズムの全体主義の時代と第二次世界大戦を経て戦後まで続きました。日本でいえば、幕末から太平洋戦争後までの期間に相当します。
 同世代には、やはり変転の時期に新時代を確立すべく活躍したマーラー(1860〜1911)、ドビュッシー(1862〜1917)がいますが、ここまで長生きしたのはR.シュトラウスだけです。

 R.シュトラウスの生涯や作品解説については、下記の本が詳しく入手しやすいので、興味のある方はご参照ください。
岡田暁生著「リヒャルト・シュトラウス 〜作曲家・人と作品シリーズ」(音楽之友社)2014年

リヒャルト・シュトラウス (作曲家 人と作品)

 この本には、19世紀の「市民社会(ブルジョア社会)の音楽」としてのロマン派クラシック音楽を、20世紀の「大衆社会の音楽」の時代になってから、意識的・自覚的に「幕を引いた」作曲家と位置付けられています。

 では、R.シュトラウスの生涯を簡単に編年風にまとめてみましょう。R.シュトラウスが、帝国主義の時代に「徒弟制度でたたきあげた音楽家」であることが分かります。

(1)幼少、少年時代(1864〜1884:誕生〜20歳)
 1864年6月11日、バイエルン王国の首都ミュンヘンに、ミュンヘン宮廷歌劇場オーケストラのホルン奏者のもとに生まれます。父のフランツ・シュトラウスは、ホルンの名手として名高く、大の「アンチ・ワーグナー」でした。(とはいっても、ワーグナー作品では、1865年の「トリスタンとイゾルデ」、1868年の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演に参加しています)
 母は、裕福なミュンヘンのビール醸造業者の娘で、シュトラウス一家は母の実家に居候して経済的な苦労をせずに暮らしていたようです。
 なお、この年(1864年)にはバイエルン国王としてルートヴィヒ2世(1845〜1886)が即位しています。ルートヴィヒ2世はワーグナーを招聘して特別待遇で厚遇するとともに、ノイシュヴァンシュタイン城(モデルは「白鳥の騎士」ローエングリン!)の建設にうつつを抜かして国を傾けました。最期は「入水自殺」とされていますが、側近による「暗殺」だと言われています。そのせいで、当時のミュンヘンでは「ワーグナー嫌い」が一般の雰囲気だったようです。

バイエルン国王 ルートヴィヒ2世(1845〜1886)
ワーグナーのパトロンとして知られている。

ルートヴィヒ2世が作った時代錯誤の城ノイシュヴァンシュタイン(1869年に着工)
(訪れた2009年夏には外壁修復工事中だった。絵葉書ではない証拠)

 1868年(4歳)からピアノを習い始めます。先生はミュンヘン宮廷オケのハープ奏者。
 1872年(8歳)からはヴァイオリンも習い始めます。先生はミュンヘン宮廷オケのコンマス。
 1874年(10歳)ミュンヘンのギムナジウムに入学。
 1875年(11歳)からは作曲も習い始めたようです。先生はミュンヘン宮廷の楽長(カペル・マイスター)。このころから、家で室内楽を楽しみ、父フランツの指導するアマチュアオケでもヴァイオリンを弾いたようです。
 1881年(17歳)で、初めて自作「弦楽四重奏曲」作品2が演奏され、「祝典行進曲」作品1などが出版されます。
 1882年(18歳)のときに、第2回バイロイト音楽祭(第1回の1876年から財政的な理由で開催できず、このときが第2回)での「パルジファル」初演に出演する父に連れられてバイロイトに行きます。リヒャルトは、このころまでは父フランツの庇護下で「もっぱら古典派」の音楽の中で育っていましたが、急激にワーグナーの音楽に熱中していきます。 この年、管楽器による「セレナーデ」作品7がドレスデンで初演され、作曲家として認められるようになっていきます。
 この年にはミュンヘン大学哲学科に入学しますが、通ったのは1883年の夏ゼメスターまでだったようです。
   1884年(20歳)のときにベルリンに行き、ハンス・フォン・ビューロー(1830 〜1894)の知遇を得ます。これにより、ビューローが当時楽長をしていたマイニンゲン管弦楽団のミュンヘン公演のための曲を依頼されて「13管楽器のための組曲」作品4を作曲するとともに、結果的にビューローの指示で指揮もすることになります。これによって認められ、ビューローの推薦で1885年からマイニンゲン管弦楽団の指揮者に就任することになります。R.シュトラウスの正式な音楽キャリアのスタートです。
(この年1884年には、交響曲ヘ短調・作品12がニューヨークで初演されています)

ハンス・フォン・ビューロー(1830 〜1894)

(2)修業時代(1885〜1893:21歳〜29歳)
 1885年にマイニンゲンの指揮者になったR.シュトラウスは、交響曲第4番の初演のため訪れたブラームスと知り合います。初演の指揮はブラームス自身が行い、同時に演奏した「大学祝典序曲」で、R.シュトラウスは大太鼓で、ビューローはシンバルで参加したのだそうです。この演奏会、映像や録音が残っていたらお宝ものでしょうね。
 マイニンゲン時代には「ピアノと管弦楽のためのブルレスケ ニ短調」が作曲されています。
 1886年には、ビューローが辞任し、予算も削減されたマイニンゲンを去ることにして、イタリア、ギリシャに旅行します。この当時、ヨーロッパの富裕層の子息は社会に出る前の社会見聞として、イタリア・ギリシャを遍歴する「グランドツアー」の習慣がまだ残っていたようです(こういう「古いヨーロッパ社会の名残」が、R.シュトラウスの音楽のキーワードでもあります)。このイタリア旅行の収穫として、交響的幻想曲「イタリアから」作品16が作曲されます。(第4楽章には「フニクリ・フニクラ」が引用されていますが、R.シュトラウスは「民謡だと思っていた」そうです)
 イタリア旅行から戻ったR.シュトラウスは、父の口利きもあったのでしょう、ミュンヘン宮廷劇場の第3楽長になります。あまり忙しい職ではなかったようで、3年後にヴァイマールに移るまでの3年間に、作曲中だった「イタリアから」作品16を完成させるとともに、初期の交響詩3部作「ドン・ファン」(作品20)「マクベス」(作品23)「死と浄化」(作品24)を作曲します。この時期の作品は、ショーペンハウエル哲学の影響で「厭世的」傾向があると言われており、曲の中に「笑い」は存在しません。
 この頃、マーラーや、後に妻となるソプラノ歌手パウリーネとも知り合います。
 故郷ミュンヘンの音楽界では、父親も含めて古くからの知り合いが多く、「若造」という扱いだったようで、居心地や待遇はあまりよくなかったようです。

若き日のリヒャルト・シュトラウス

 そんなこともあり、1889年(25歳)のときに、ビューローの口利きでヴァイマール宮廷劇場の楽長になります(〜1894年まで)。ここはなかなかの激務だったようで、大曲の作曲は1895年の「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28まで間が空きます。
 この間に、1891年(27歳)にバイロイトで助手を務め、パウリーネは「タンホイザー」に出演します。
 1892年(28歳)のときに、激務で体を壊し、1年休暇をとってイタリア、ギリシャ、エジプトに転地療養しています。翌1893年7月に復帰しますが、この間にショーペンハウエル哲学から脱却し、ニーチェの超人思想に宗旨替えしたと言われます。
 それから、1893年(29歳)にヴァイマール歌劇場でフンパーディンク作曲「ヘンゼルとグレーテル」を初演指揮、1894年5月に自作の初の歌劇「グントラム」作品25を初演、夏にはバイロイトで「タンホイザー」を指揮、そして秋からミュンヘンの宮廷楽長の就任し、パウリーネと結婚します。R.シュトラウスの「登り龍」の時期でしょうか。
 なお、1894年2月には恩師ビューローが亡くなり、ビューローが指揮する予定であったベルリン・フィルの残りシーズンを、マーラーと分担して指揮することになります。(マーラーが交響曲第2番「復活」の啓示を受けるのが、このビューローの葬儀のときでした)

(3)ミュンヘンでの飛躍期(1894〜1898:30歳〜34歳)
 1885年(21歳)のマイニンゲンから10年間の修業を積んで、いよいよ1894年10月(30歳)から故郷ミュンヘン宮廷劇場の楽長としての登り龍の時代をスタートします。(前回は「第3楽長」だったが、今回は「第1楽長」。この職にはベルリンに移る1898年まで)
 当時の世紀末のミュンヘンは、ウィーンやパリと同様に、独特の文化的熱気を帯びていたようです。急速に発展する街とともに、キャバレー詩人のフランク・ヴェデキント(「パンドラの箱」や、ベルクのオペラ「ルル」の原作者)、象徴派の詩人シュテファン・ゲオルゲ(その詩にシェーンベルクが啓示を受け曲を付けた)、文学者トーマス・マン、抽象画の創始者カンディンスキーパウル・クレーが集まる町でした。ただ、所詮は田舎であり、その保守性とキラキラ感あふれる高揚とが入り混じっていたのでしょうね。R.シュトラウスのその時期の交響詩には、その雰囲気が色濃く反映されています。
 この時期には、交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28(1895)、「ツァラトゥストゥラはこう語った」作品30(1896)、「ドン・キホーテ」作品35(1897)、そして交響詩の総決算である「英雄の生涯」作品40(1898)が作曲されています。この時期の交響曲を特徴づけるのが「笑い」と「力の誇示」です。これはニーチェ哲学の影響と言われています。
 この間、1897年(33歳)のときに長男フランツ(なんと、父親と同じ名前!)が生まれています。また、ワーグナーと決別したニーチェに心酔したこともあり、コジマ・ワーグナーが牛耳るバイロイトとは疎遠になります。

(4)ベルリンでの黄金期(1898〜1918:34歳〜54歳)
 このようにして、当時のドイツ音楽界の帝王となったR.シュトラウスは、いよいよ破竹の勢いで、ドイツ帝国の首都であり、かつ当時の世界最先端の街であったベルリンに進出します。1898年のことで、破格のギャラと条件でベルリン宮廷歌劇場、ベルリン・フィルの指揮などを行うようになります。時間の余裕もでき、作曲のための時間もとれるようになったようです。
 50歳まで猛烈に仕事をして蓄えを作り、それ以降はのんびり暮らそうと思っていたらしく、1908年(44歳)のときにガルミッシュ・パルテンキルヒェンに別荘を建てています。

ガルミッシュ・パルテンキルヒェンにあるリヒャルト・シュトラウスの別荘(現在でも子孫が住んでいるらしい)

R.シュトラウス一家。妻パウリーネと長男フランツ。

 そんな立場もあり、作曲家の地位向上と「著作権」の確立のために活動したのもこの時期です。
 この時期から、R.シュトラウスの作曲意欲はもっぱらオペラに向くようになります。

 1901年(37歳)、歌劇「火の飢饉」作品50初演。
 1902年(38歳)ベルリンのキャバレーで働いていたシェーンベルク(1874〜1951、当時28歳)と知り合い、その才能を認めてベルリンの音楽学校の教師の職を紹介しています。また、曲の題材として「ペリアスとメリザンド」を紹介したのものR.シュトラウスのようです。
 1904年(40歳)にアメリカの演奏旅行。このときの手土産に「家庭交響曲」作品53を作曲し、ニューヨークのデパート「ワナメーカー百貨店」のフロアで初演しました。(こういうことが「金の亡者」と呼ばれる理由にもなっているようです)
 1905年(41歳)、いよいよオペラ作曲家の地位を確実にする歌劇「サロメ」作品54をドレスデンで初演。オスカー・ワイルドの原作をそのまま(台本化せずに)オペラにしました。人気を呼んで各地で上演され、マーラーはウィーンで上演しようとしましたがウィーンでは内容の「エロさ」が検閲に引っかかって上演できなかったようです。

オスカー・ワイルド「サロメ」の挿画

原作はこちら。
    オスカー・ワイルド(福田恒存・訳)「サロメ」(岩波文庫)

 この年、父フランツが他界します。
 1908年(44歳)、前述のようにガルミッシュに別荘を立てます(第二次大戦末期はここに引きこもる)。
 1909年(45歳)、次の歌劇「エレクトラ」作品58初演(ドレスデン)。これはほとんど「無調」に近い極めて難渋な曲。R.シュトラウスのモダニズムの頂点です。このオペラから台本のフーゴー・フォン・ホフマンスタール(1874〜1929)とのペアを組みます。
 1911年(47歳)、モダニズムから突然モーツァルト帰りをしたと言われる歌劇「ばらの騎士」作品59をドレスデンで初演。
 その日に盟友マーラーが他界。

 1912年(48歳)、歌劇「ナクソス島のアリアドネ」第1版・作品60(1)を初演(シュトゥットガルト)。
 この頃、自動車を購入しています。

羽振りの良くなったR.シュトラウスは自動車を購入して自分で運転しました。

 1914年、50歳を記念して、パリのロシアバレエ団(バレエ・リュス)からの委嘱でバレエ「ヨゼフ伝説」作品63を作曲、初演。
 この年に第一次世界大戦が勃発し、イギリスの銀行に預けていた全預金をイギリス政府に接収されます。(50歳からの楽隠居の夢が消えた!)
 1915年(51歳)「アルプス交響曲」作品64をベルリンで、作曲者指揮のドレスデン宮廷管弦楽団の演奏により初演。久々の管弦楽曲ですが、手っ取り早く高額のギャラを手に入れるために作ったようです。
 1916年に歌劇「ナクソス島のアリアドネ」作品60の大幅な改訂版をウィーンで初演します。
 第一次大戦の敗戦(1918年、54歳)で、R.シュトラウス自身が意識したかどうかは別にして、R.シュトラウスが拠って立っていた「19世紀市民社会、帝国主義社会、古き良き時代」は終わりを告げました。

(5)ウィーン時代(1918〜1933:54歳〜69歳)
 第一次大戦の終結とともに、ドイツ帝国、オーストリアのハプスブルク帝国、そしてロシア帝国が消滅しました。ドイツは「ヴァイマール憲法」のもとで歴史上初の共和制となります。
 同じく共和制となったオーストリアでは、宮廷を失って財政的基盤のなくなった「ウィーン宮廷歌劇場(Hofoper)」は、何とか「国立歌劇場(Staatsoper)」として継続のめどが立ち、その目玉としてR.シュトラウスに声がかかり、それまで宮廷歌劇場で活躍してきたフランツ・シャルクとともに音楽監督を務めることになります。
 このためにウィーンに豪邸を建てて住むようになります。ただし、作曲という点では「マンネリ」「時代遅れ」の時期を迎えます。
 ここウィーンで、1919年(55歳)に歌劇「影のない女」作品65を初演。
 1924年(60歳)に歌劇「インテルメッツォ」作品72初演(ドレスデン)、60歳記念としてバレエ「泡立ちクリーム」作品70初演(ウィーンの有名なカフェ「デーメル」を舞台にしている)。この年、長男フランツがユダヤ系のアリーチェと結婚。
 この年のウィーン国立歌劇場との契約更改で、歌劇場側の不誠実に腹を立てて契約せず、再び作曲に本腰を入れるようになります。
 1925年(61歳)「家庭交響曲へのパレルゴン」作品73初演(片腕のピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱によるピアノ協奏曲。大病から回復した息子フランツを祝って、「家庭交響曲」の息子の主題を使用)
 1928年(64歳)歌劇「エジプトのヘレナ」作品75初演(ドレスデン)。
 そして、1929年に、オペラでペアを組んでいたホフマンスタールが急逝。残された台本に曲を付け、この時代の傑作と言われる歌劇「アラベラ」作品79を1933年にドレスデンで初演します。

(6)ナチスの時代(1933〜1945:69歳〜81歳)
 時代は、いつの間にかナチス政権となり、民主的なヴァイマール憲法を「民主的に」停止して「全権委任法」が成立し、ナチス独裁(第三帝国)へと進みます。
 その中で、政治オンチのR.シュトラウスは1933年(69歳)に帝国音楽院総裁に就任し、ヒトラーやゲッベルス臨席のもと、「帝国音楽院設立記念式典」で自作の「祝典前奏曲」作品61を指揮します。
 かつ、ユダヤ人を理由に地位を追われたブルーノ・ワルターの代役でべルリン・フィルを指揮したり、ナチスに抗議してキャンセルしたトスカニーに代わってバイロイトに出演したり、その政治的無頓着さはある意味での「悲劇」でもありました。

リヒャルト・シュトラウスとヒトラー(左は息子のフランツ)

(注)ただし、下記の本によれば、「国際的著名人」R.シュトラウスの扱いに困ったのはむしろナチス側で、R.シュトラウスは名声と「ワーグナーの正当な継承者」の立場を利用して、ユダヤ系であるシュテファン・ツヴァイクの台本による歌劇「無口な女」の上演や、同じツヴァイクの原案による(表向きはヨーゼフ・グレゴール台本)歌劇「平和の日」にヒトラーを臨席させたり、同じくツヴァイク原案の歌劇「カプリッチョ」を上演したり、といった「実利」を勝ち取っていたのだとしています。確かに、住んでいたウィーンで、孫たちは「半ユダヤ人」なので法律により「ダヴィデの星」を身に着けないといけないところをナチスのウィーン地区責任者から「適用除外」の特典をもらったり、大戦末期にゲシュタポに連行された息子夫妻を釈放してもらったり、といった「特権」を使っていたようです。
 著者の山田氏は、そういったR.シュトラウスの行動を、ボーマルシェの「貴族批判」の原作をまんまと「フィガロの結婚」として皇帝からの上演許可をとったモーツァルトに対比させています。

山田由美子・著「第三帝国のR.シュトラウス―音楽家の“喜劇的”闘争」

 1934年には70歳となり、日本では10月31日に日比谷公会堂で「リヒアルト・シュトラウス誕生七十年記念演奏会」が開かれています。このときに交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」作品30、「アルプス交響曲」作品64が日本初演されています。演奏は、クラウス・プリングスハイム指揮・東京音楽学校管弦楽部でした。下記がそのときのプログラムだそうです。指揮者のプリングスハイム氏は、1931年に来日し、戦時中は一時「敵性外国人」として軟禁状態にあったようですが、生涯を通じて日本の音楽教育に尽力された方です。

「リヒアルト・シュトラウス誕生七十年記念演奏会」(1934年10月31日・日比谷音楽堂)プログラム

 そんな中、1935年に歌劇「無口な女」作品80をドレスデンで初演しますが、台本作者シュテファン・ツヴァイクがユダヤ系であることから公演ポスターから名前を外され、それを知ったR.シュトラウスが名前を掲載させるとともに、それに関するナチス批判の手紙がゲシュタポに押収された「ツヴァイク事件」により、R.シュトラウスは帝国音楽院総裁の地位を追われます。その結果、当局からの圧力で歌劇「無口な女」は3回上演されただけで演目から外されます。(しかしながら、R.シュトラウス本人は上に書いたように逮捕・迫害や上演禁止などの制裁を受けた事実はない。ユダヤ人でもないヒンデミットが亡命を余儀なくされたのとは大違い・・・)
 ちなみに、この歌劇「無口な女」の初演指揮者はカール・ベームでした。

 この後のR.シュトラウスはウィーンで蟄居生活をしながら作曲を続けます。政権への恭順の意思表示でしょうか、1936年にはベルリン・オリンピックのための「オリンピック賛歌」(混声合唱と管弦楽)、1940年には日本からの依頼で「皇紀二千六百年奉祝音楽」作品84を作曲しています。

皇紀二千六百年奉祝演奏会のプログラムと、楽譜に書かれたR.シュトラウス自筆の献辞

 オペラとしては、1938年に「平和の日」作品81「ダフネ」作品82を初演しますがぱっとしませんでした。また、1940年に完成した歌劇「ダナエの愛」作品83は作曲者の生存中には初演されませんでした(ただし、1944年8月のザルツブルク音楽祭で上演されることになっていて、作曲者立ち合いのゲネプロまで行われた。戦局の悪化で、直前にゲッベルスからの中止命令があったとのこと)
 そして、1942年に最後の歌劇「カプリッチョ」作品85を完成させてミュンヘンで初演します。「カップリッチョ」の中では、最終場への転換で演奏される通称「月光の音楽」(Mondscheinmusik)がホルン独奏とオーケストラで美しいです。

 R.シュトラウスは「この作品でライフワークは終わったので、あとは作品番号を付けない」と宣言しています。残りの人生は、R.シュトラウスにとっては「個人的な回顧と楽しみのために作曲する」期間だったようです。
 1942年(78歳)には、18歳のときに父フランツのために書いた「ホルン協奏曲」作品11に対応するものとして「ホルン協奏曲第2番」を作曲します。
 1943年(79歳)には、青春時代の「13管楽器のための組曲」作品4、あるいは「13管楽器のためのセレナード」作品7に対応するものとして、「16管楽器のためのソナチネ・第1番『傷病兵の仕事場から』」を、1945年(81歳)には「16管楽器のためのソナチネ・第2番『管楽器のための交響曲・楽しい仕事場』」を作曲しています。
 この時期の傑作は1945年の「23の独奏弦楽器のためのメタモルフォーゼン」でしょう。ベートーヴェンのエロイカ交響曲の葬送行進曲のモチーフに乗せて、滅びゆく祖国ドイツとドイツ音楽を悼みます(戦後「これはヒトラーへのレクイエムだ」という噂も流れたようです)。

(7)戦後(1945〜1949:81歳〜85歳)
 そして1945年5月に終戦。空襲のウィーンから逃れていたR.シュトラウスは、ガルミッシュの別荘で終戦を迎えます。
 ガルミッシュの別荘に進駐してきたアメリカ軍兵士の中に、当時ピッツバーグ交響楽団のオーボエ奏者だった24歳のジョン・デ・ランシーがいました(のちにフィラデルフィア交響楽団の首席奏者)。ランシーはオーボエ協奏曲の作曲を打診しますが断られます。しかし、R.シュトラウスはその年のうちに「オーボエ協奏曲」を完成させ、1946年2月にスイスのチューリヒで初演されます(R.シュトラウスはデ・ランシーの名前も所属オケも覚えておらず、デ・ランシーはすでにアメリカに帰国しており、初演は当然デ・ランシーではありませんでした。なおかつ、アメリカ初演も他の奏者であり、デ・ランシー自身はフィラデルフィア交響楽団の首席奏者になる1954年までこの曲の演奏の機会はなかったそうです)。ちなみに、デ・ランシーはフランセ作曲「花時計」(1959年)の委嘱者でもあります。

 R.シュトラウスは、1945年秋にスイスに移り、1949年5月にガルミッシュに戻るまでルツェルンで過ごします。その間、イギリスの出版社ブージー&ホークスが財政援助をしたようです。1947年(83歳)でクラリネット、ファゴットと弦楽のための「二重小協奏曲」、そして最後に4曲の管弦楽伴奏歌曲を残して1949年9月に85歳で永眠します。残された4曲は、「4つの最後の歌」として翌1950年にフルトヴェングラーの指揮、キルステン・フラグスタートのソプラノで初演されます。「4つの最後の歌」の4曲目、アイヒェンドルフの詩による「夕映えの中で」の最後で、寄り添って「これが死というものだろうか」(そこでバックに流れるのが25歳のときに作った「死と浄化」のモチーフというのがいかにもR.シュトラウスらしい)と語り合う伴侶であったパウリーネは、この初演の9日前に夫の後を追うように永眠します。

 つれづれなるままに書いていたら、けっこう長くなってしまいました。

2.交響詩「ドン・ファン」について

 ドン・ファンは、ヨーロッパに伝わる伝承物語で、いろいろな形で成立しているようです。
 いちばん有名なのが「石の騎士長との晩餐」の物語でしょうか。騎士のお嬢さんの部屋に侵入して目的を達した折、駆け付けて来た父親の騎士と一騎打ちとなって刺し殺し(フェンシングですから)、後日その石像を晩餐に招待したところ実際にやってきて、改心を迫るがそれを断ったため地獄に落ちる、という物語です。モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」もこれによっています。「ドン・ファン」の何たるかを知りたければ、音楽愛好家ならモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を見よ、ということですね。
 序曲の最初に現れるデモーニッシュな音楽は、最終盤で石像の騎士長が晩餐に現れ、ドン・ジョヴァンニに改心を迫る場面です。ちなみに、モーツァルトのオリジナルでは、ドン・ジョヴァンニが地獄に落ちた後、残された人たちの「めでたし、めでたし」の大団円があるのですが、これをカットして「地獄落ち」で終わる「ウィーン版」の上演もあります。(DVDで出ている2008年のザルツブルク音楽祭での上演はこの「ウィーン版」で、全編森の中という舞台、レシタティーヴォの部分がチェンバロではなくピアノ、というものです)

 ドン・ファンの行状は、歌劇「ドン・ジョヴァンニ」で、従者のレポレッロが歌う「カタログの歌」の中身を見れば一目瞭然でしょうか。レポレッロが、主人の行状を記録した手帳を読み上げて歌うアリアです。

  イタリアでは 640人
  ドイツでは 231人
  フランスで 100人 トルコじゃ91人
  スペインでは なんと 1003人、1003人ですぞ

 R.シュトラウスの「ドン・ファン」は、そのストーリーを追うものではなく、ドン・ファン伝説にもとづくニコラウス・レーナウ(1802〜1850)の詩に基づいており、その詩の一節がスコアにも印刷されています。かなり厭世感に満ちた内容となっており、当時の「ロマン主義」やショーペンハウエルの厭世哲学などの影響が濃いのでしょう。

 この交響詩は、作曲されたのは2作目ですが、初演・出版の関係で作品番号は一番若くなっています。上の「生涯」にも書いたように、最初の交響曲3作は「厭世的」雰囲気を濃厚にもったものですが、この「ドン・ファン」には、後のR.シュトラウスに共通する「英雄的」なものも色濃く反映されています。
 曲はミュンヘン第1期の1887〜88年に作曲され、ヴァイマールに転職した後にその地で作曲家自身の指揮で初演されています。
 曲は、ミュンヘンで同僚だったルートヴィヒ・トゥイレ(1861〜1907)に献呈されています。このトゥイレは、最近ではピアノと木管五重奏との「六重奏曲」でやや名前が知られるようになりました。同じ編成のプーランク「六重奏曲」の後のアンコールに、トゥイレ「六重奏曲」の第3楽章「ガヴォット」が演奏される演奏会に何回か遭遇したことがあります。(この編成の曲は非常い少ないので)

 曲の中身について、不謹慎ながら「ドン・ファンの実況中継」を作ってみました。こういう曲ですから、こんな戯言もご容赦ください。
 私の勝手な「創作」ですから、中身の信ぴょう性や学術的な正当性は一切保証しませんのであしからず。

特別展示「ドン・ファンの実況中継」 参考時間はカラヤン/ベルリン・フィル盤によります

全体構成上の位置づけ実況中継(その時点での出来事)小節番号時間(参考)
序奏悦楽の嵐1 00'00"
女性のきらびやかな魅力5 00'08"
提示部第1主題
(ドン・ファンさっそうと登場)
ドン・ファンのテーマ(1)900'14"
高揚感3100'46"
悦楽の嵐3700'54"
女性の流し目(ちらり)4401'05"
第1の女性 の登場(さわりだけ)4601'09"
再び「悦楽の嵐」50 (C)01'18
第2主題
(第1の女性との愛の場面)
愛の交歓(その1)71 (D)01'51"
第1の女性のテーマ9002'35"
ドン・ファンの甘いささやき(Hr)9902'57"
クライマックス!14904'27"
2度目のクライマックスはちょいと弱い156 (G)04'41"
次の女性への意欲が動き出す16004'50"
第1主題の回帰
(ドン・ファン、次の女性を口説く)
ドン・ファン復活!169 (H)05'03"
ドン・ファンの誘惑 (Va, Vc)197 (K)05'44"
だめよ、だめよ! (Fl)20305'56"
ドン・ファンは再度誘惑 (Va, Vc)20806'06"
だめよ、だめよ! (Fl)21506'20"
ドン・ファン「行くぜ!」 (Hr, Trp)22106'30"
第3主題
(第2の女性との愛の場面)
女性は陥落、愛の交歓(その2)232 (L)06'52"
第2の女性のテーマ
 (伴奏形は「ドン・ファンの誘惑」)
23507'00"
ドン・ファンの甘いささやき (Hr)24807'33"
小さなクライマックス、女性の甘え(Cla)26608'18"
コトの終わり、沈静化30209'50"
そして、むくむくと再起!31010'10"
第4主題
(ドン・ファンの冒険への出発)
ドン・ファンのテーマ(2)
 第2の女性はうろたえる(Ob)
31410'18"
展開部
(ドン・ファンの冒険と遍歴)
悦楽の嵐33710'54"
謝肉祭の喧騒35111'14"
女性のきらびやかな魅力38111'53"
高揚感(短調、金管)386 (S)12'00"
ドン・ファンのテーマ(2)が見え隠れ(Trp)39312'11"
女性のきらびやかな魅力と悦楽の嵐41112'33"
「絶叫!」と不吉な運営の暗示421 (U)12'50"
不吉な女性の流し目(「恨み目」か?)43113'04"
第1の女性の面影(コールアングレ、木管)
 (短調なのは「#MeToo」か?)
43713'19"
第2の女性の面影(Vn独奏)
 (これも「#MeToo」か?)
44413'30"
ドン・ファンの復活の兆し45713'58"
再現部序奏の再現悦楽の嵐474 (W)14'24"
第1主題の再現ドン・ファンのテーマ(1)46714'27"
高揚感(金管)の再現490 (X)14'48"
第4主題の再現
 
(第2主題、第3主題は再現され
ない。過去の女に用はない・・・)
ドン・ファンのテーマ(2)510 (Y)15'15"
高揚感、絶頂!556 (Bb)16'32"
悦楽の嵐、再び56416'43"
終結部快楽の終結への猛進!57416'48"
ゲネラル・パウゼ58517'08"
断末魔、そして死58617'13"

 

3.R.シュトラウスのちょっと寄り道

(気が向いたら、R.シュトラウスのいくつかの曲について、書いてみたいと思います)

(つづく)

4.R.シュトラウスの音源

 R.シュトラウスの演奏、オペラDVDはたくさん出ていますので、ご自分の好みと評判で選べばよいと思います。
 ここでは「いろいろ聴いてみる」という趣旨で、R.シュトラウスの曲を集めたものをいくつか挙げておきます。いずれも演奏面では問題ないと思います。

管弦楽作品集/ルドルフ・ケンペ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(CD9枚組)
 R.シュトラウスの定盤。

管弦楽作品集/カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(CD5枚組)
 これもR.シュトラウスの定盤。
 「アルプス交響曲」のバンダとして伊藤先生も録音に参加しています!

管弦楽作品集、協奏曲集、管楽アンサンブル/ブロムシュテット、プレヴィン、アシュケナージなど指揮 サンフランシスコ交響楽団、ウィーン・フィルなど(CD13枚組)
 主だった作品はこれで手に入ると思います。

管弦楽作品集/ズビン・メータ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団など(CD8枚組)

 オペラの代表作としては「ばらの騎士」でしょう。定番のカルロス・クライバー指揮ウィーン国立歌劇場のDVD国内盤は現時点では出ていないようです。オペラには「字幕」が必須なので、代わりにこちらを・・・。
歌劇「ばらの騎士」ティーレマン指揮ルイ・フレミングの元帥夫人他



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