チャイコフスキーとシベリウス 〜第67回定期演奏会の演奏曲関連〜

2011年 11月 25日 初版作成



 横浜フィルハーモニーの次回(第67回)演奏会では、ロシア、北欧ものを演奏します。

   シベリウス/交響詩「春の歌」作品16
   シベリウス/ヴァイオリン協奏曲 作品47
   チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」作品74

 チャイコフスキーとシベリウスについての、ちょっと耳寄りな話を集めてみました。
 内容は、適宜充実させていきます。



1.チャイコフスキーのこと

 チャイコフスキーの一般的な伝記や代表作の解説などについては、書籍やインターネット上の情報を参考にして下さい。

作曲家 人と作品 「チャイコフスキー」(音楽の友社)

カラー版作曲家の生涯「チャイコフスキイ」(新潮文庫)(現在絶版)

 要点だけを挙げておくと、次のようになります。

@チャイコフスキーは、法律学校出身で、19歳で学校を出た後、法務省の役人になった。働きながら、趣味で音楽の勉強を始め、1862年(22歳)にアントン・ルビンシテインがペテルブルク音楽院を創設するとその学生となる。1863年には、役人を辞めて音楽に専念する。
 1865年にペテルブルク音楽院を卒業し、1866年からアントンの弟ニコライ・ルビンシテインが開設したモスクワ音楽院の講師となる。その年に、交響曲第1番「冬の日の幻想」Op.13を完成。以降、音楽院講師・作曲家としての活動が始まる。

A鉄道会社経営者の未亡人であるフォン・メック夫人(1831〜94)より、1876〜1890年にわたって経済的援助を受けた。この間、2人は大量の文通をしているが、ついに直接会うことはなかった。この援助により、チャイコフスキーは1878年にはモスクワ音楽院の仕事を辞め、作曲に専念する。なお、1878年に初演された交響曲第4番は、フォン・メック夫人に献呈されている。

B同性愛者であったこと。このため、基本的には生涯独身だったが、一度だけ、37歳の1877年7月に、音楽院の教え子で9歳年下のアントニーナ・ミリューコヴァと結婚するが、9月にモスクワ川で自殺未遂事件を起こしてそれ以降生涯にわたり別居する。(籍はそのままで、生涯仕送りは続けたようだが、二度と会うことはなかった)

 チャイコフスキー

(1)他の作曲家とのニアミス

 その中で、意外と知られていない逸話をひとつ。
 チャイコフスキーは、経済的なパトロンであったフォン・メック夫人とは、かなりの量の手紙をやりとりしていますが、生涯に一度も会うことはありませんでした。

 フォン・メック夫人

 でも、メック夫人に会っている、それも召抱えられた有名な作曲家がいます。一体誰でしょうか。
 それは、ドビュッシーなのです。
 チャイコフスキーとドビュッシーは、生きた時代が違うような気がしますが、チャイコフスキーは1840年生まれ、ドビュッシー(1862〜1918)は1862年生まれですから、22歳違い、一世代ほども離れていない、ということです。チャイコフスキーが亡くなった1893年には、ドビュッシーは既に31歳になっていて、「牧神の午後への前奏曲」を作曲中でした(1894年初演)。
 ドビュッシーは、まだパリ音楽院の学生だった1880年(18歳)に、夏休みのアルバイトとして、避暑地を巡るフォン・メック夫人一家のお抱えピアニストとして、長期旅行に同行しました。ドビュッシーの作曲した「ボヘミア舞曲」という曲を、フォン・メック夫人はチャイコフスキーに送ったようですが、チャイコフスキーは冷淡な反応だったとか。また、ドビュッシーは。フォン・メック夫人に献呈された「交響曲第4番」(1877年作曲)のスコアを見ていたようです。
 ドビュッシーがフォン・メック夫人の一家と行動を共にしたのは、最初の年1880年に約4ヶ月(ヨーロッパ中を旅行)、翌1881年にも約4ヶ月(ロシアから、イタリアのフィレンツェ、ローマなど)、さらに1882年にも約2ヶ月(モスクワからウィーンなど)とかなり長期にわたります。ドビュッシーの音楽に、どれだけの影響を与えたのでしょうか。

 この頃のドビュッシーに関しては、詩人ヴェルレーヌの奥さんの母親にピアノを習っていたこともあり、ヴェルレーヌを訪ねてきた美少年詩人ランボーともニアミスしていたのでは、といったちょっと危ない世紀末パリのデカダンを論じているピアニスト青柳いづみこ氏著「ドビュッシー」が面白いです。おっと、ヴェルレーヌもランボーも同性愛者でしたね・・・。
 音楽の友社の「人と作品」シリーズも、ドビュッシーに関しては大変な名著だと思います。

青柳いづみこ・著:「ドビュッシー ― 想念のエクトプラズム」(中公文庫) ¥ 1,200

松橋麻利・著:人と作品「ドビュッシー」(音楽の友社) ¥ 1,470

 前にもどこかに書きましたが、チャイコフスキーは、1892年に自作の歌劇「エウゲニ・オネーギン」のドイツ初演に立ち会うためハンブルク歌劇場を訪れています。最初自身で指揮するつもりでしたが、ドイツ語歌詞が理解できなかったため(当時は現地語に翻訳して上演するのが通例だったらしい)、歌劇場の指揮者だったマーラーに指揮を任せています。チャイコフスキーは「優秀な指揮者だった」と手紙に書いています。

 さらに、チャイコフスキーは、1876年に開催された第1回バイロイト音楽祭を聴きに行っています。当時のモスクワの新聞社の特派員として、「ニーベルンクの指輪」全曲の初演に立ち会っていて、新聞に何通かの寄稿をしているようです。当然、主催者のワーグナーとも面会しているものと思われます。

(2)チャイコフスキーの室内楽

 チャイコフスキーは、もっぱら管弦楽曲が有名ですが、私が昔から好きな曲に、ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出のために」作品50があります。
 タイトルから分かるように、モスクワ音楽院の創設者であるニコライ・ルビンシテイン(アントンの弟)の死を追悼して作曲されたものです。室内楽ですが、やっぱりチャイコフスキー。でも、チャイコフスキーのちょっと別な面も垣間見ることができます。

 ちなみに、このチャイコフスキーのピアノ・トリオに続き、チャイコフスキーの死を悼んでラフマニノフが「悲しみの三重奏曲第2番Op.9」(1893)を、チェロ奏者カルル・ダヴィドフの死を悼んでアレンスキー(1861〜1906)が「ピアノ三重奏曲第1番Op.32」(1894)を、そして音楽学者・評論家イワン・ソレルツィンスキーの死を悼んでショスタコーヴィチが「ピアノ三重奏曲第2番Op.67」(1944)を作曲するなど、ロシアにおいて「ピアノ・トリオ」が死者を追悼して作曲されるさきがけとなったようです。
(私は、残念ながらチャイコフスキーとショスタコーヴィチしか聴いたことはありません)

(3)ここだけの話

 チャイコフスキーは、同性愛者だったといわれています。
 短期間だけ不幸な結婚生活を送りましたが、チャイコフスキーの自殺未遂で解消しています。
 この同性愛者であったことが、「生水を飲んだことによるコレラ感染が死因」とする表向きの突然の死の理由に対して、いろいろな憶測を生むことになります・・・。

 交響曲第6番「悲愴」は、この謎の死に先立つ9日前に初演されています・・・。

(4)ロシア音楽の王道

 ロシア音楽の伝統の系譜・王道は、ロシア国民音楽の祖グリンカ〜チャイコフスキー〜リムスキー・コルサコフとされています。誰がそう決めたか、というと、「ソビエト共産党」です。
 ショスタコーヴィチは、ロシア音楽の伝統を外れているとして、1936年の「プラウダ批判」、1948年の「ジダーノフ批判」を浴びています。「プラウダ批判」は時の指導者スターリン直々の批判と言われ、「ジダーノフ批判」は当時のソビエト共産党中央委員会書記だったジダーノフによる批判で、いずれも国家政策に基づく文化・芸術の統制です。
 そして、この路線の延長線で、1957年には共産党が主導する第2回全ソ連作曲家会議で、共産党中央委員会書記シェピーロフの演説で、ロシア音楽の正しい伝統として、グリンカ〜チャイコフスキー〜リムスキー・コルサコフが挙げられているのです。
 このときのシェピーロフの演説の中では、「リムスキー・コルサコフ」のアクセントを間違えて失笑を買ったそうです。
 正しくは「リムスキー・コールサコフ」と言うべきところを、「リムスキー・カルサーコフ」と発音したようです。会議でこの演説を聞いたショスタコーヴィチは、生前には未発表の「反形式主義的ラヨーク」(ラヨークとは見世物小屋のからくり芝居のこと)の中で、このシェピーロフのアクセントの間違いを面白おかしく歌にしています。(こちらの記事の「反形式主義的ラヨーク」の項参照

 21世紀の今日では、ショスタコーヴィチが客観的に評価されるようになり、ロシア音楽の伝統がグリンカ〜チャイコフスキー〜リムスキー・コルサコフ〜ショスタコーヴィチと引き継がれてきたと言えるようになったのではないでしょうか。

2.シベリウスのこと

 シベリウス(1865〜1957)は、マーラー(1860〜1911)よりも5歳若いだけですが、しかし、マーラー没後46年も生きました。

 「国民楽派」という意味では、デンマークのニールセン(1865〜1931)と同い年、ロシアのグラズノフ(1865〜1936)とも同い年です。
 3人とも民族主義的、シンフォニストであるところが共通といえるでしょうか。
 なお、ドビュッシー(1862〜1918)、R.シュトラウス(1864〜1949)、エリック・サティ(1866〜1925)などもと同世代です。

 シベリウスの伝記や人物の詳細を伝える解説書は、ほとんど見当たりません。私も、ほとんど詳しいことを読んだ記憶がありません。
 そういう意味で、シベリウスは「ほとんど知らない人」です。

(1)シベリウスの生涯の要約

 まとまった本もないようなので、簡単に生涯を要約してみました。

・1885年、19歳のときにヘルシンキ音楽院に入学。1889年にドイツ、ウィーンに留学。
・1891年に「クレルヴォ交響曲」Op.7を作曲。好評であったが、3度演奏された後は、生涯演奏されることはなかった。
・1892年結婚。
・1894年、劇付随音楽「カレリア」作曲。この中から「カレリア」序曲Op.10、「カレリア」組曲Op.11を発表。
 この年、交響詩「春の歌」Op.16作曲(1903年に改訂)。
・1899年「愛国記念劇」の音楽を作曲。この中の1つを改作して交響詩「フィンランディア」Op.26発表。交響曲第1番Op.39作曲。
・1902年に交響曲第2番Op.43作曲。
・1903年にヴァイオリン協奏曲Op.47作曲。(1905年改訂)
・1925年に交響詩「タピオラ」Op.112を発表して以降(このとき既に60歳だった)、1957年に他界するまで新作をほとんど発表せず、この間の活動がほとんど知られていない。

(2)フィンランドという国

 そもそも、フィンランドという国自体をあまり知りません。北欧三国(フィンランド、スウェーデン、ノルウェー)の区別すらつきません。
 フィンランドで有名なのは、携帯電話メーカのノキアぐらいでしょうか。

 ということで、フィンランドの概要を。(Wikipediaの要約です)

・概要
 正式名称は、フィンランド語では Suomen tasavalta(スオメン・タサヴァルタ)、通称 Suomi(スオミ)。スウェーデン語では Republiken Finland(レプブリケン・フィンランド)、通称 Finland(フィンランド)。
 人口:533万人(2008年) (112位)  ちなみに、神奈川県の人口は約900万人です。
 面積:338,145km2 (68位)   日本は:377,930km2(62位)でほぼ同じ。
 言語(公用語):フィンランド語、スウェーデン語
 民族:フィン人(92%)、スウェーデン人(5%)、その他(3%)

・歴史
 先史時代(〜1155年)、スウェーデン時代(1155年〜1809年)、ロシアによる大公国時代(1809年〜1917年)、独立後の現代(1917年〜)の四つの区分。
 1155年にはスウェーデン王エーリク9世は北方十字軍の名のもと、フィンランドを征服し、同時にキリスト教(カトリック)を広めた。1323年までにはスウェーデンによる支配が完了し、正教会のノブゴロド公国との間で国境線が画定したことで、名実ともにスウェーデン領になった。(スウェーデン時代)
 ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると、1809年にロシア皇帝アレクサンドル1世はフィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任することになった。その後スウェーデンが戦勝国となったが、フィンランドはスウェーデンにもどらず、ロシアに留め置かれた。(ロシア時代)
 19世紀のナショナリズムの高まりはフィンランドにも波及し、『カレワラ』の編纂など独自の歴史の探求が研究された。その一方でロシア帝国によるロシア語の強制などでフィンランド人の不満は高まった。
 1917年にはロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言。(独立国となる)
 第二次世界大戦ではソ連と対抗するために枢軸国側に付いて戦い、敗戦国となった。
 戦後はソ連の勢力下に置かれ、ソ連の意向によりマーシャル・プラン(アメリカの経済援助)を受けられず、北大西洋条約機構にもECにも加盟しなかった。自由民主政体を維持し資本主義経済圏に属するかたわら、外交・国防の面では共産圏に近かったが、ワルシャワ条約機構には加盟しなかった(ノルディックバランス)。この微妙な舵取りのもと、現在に至るまで独立と平和を維持した。ソ連崩壊後には西側陣営に接近し、1994年にはEU加盟、2000年にはユーロを導入した。

・経済
 かつては森林産業(パルプなど)が経済を支えてきたが、1990年代に経済不振に陥り、官民挙げての産業構造再構築の結果、情報技術産業が急速に発達した。特に、ノキアは世界最大の携帯電話メーカとなり、ノキアだけで輸出総額の約20%を占める。その他、エレクトロニクス、電子技術産業の輸出が経済を主導する。

(3)交響詩「春の歌」

・作曲の経緯
 作曲された年は1894年ごろ。初演はその年、シベリウス自身の指揮で行われました。ただ、この時には交響詩としてではなく「管弦楽のための即興曲」として発表され、何の標題も付けられていませんでした。
 初演は好評をもって迎えられましたが、彼はその結果に満足せず、すぐに改訂作業に入り、調性をニ長調からへ長調に変更、また曲の最後にあったスペイン風舞曲をカットしました。改訂版は1895年に初演され、この時初めて「春の歌」というタイトルがつけられました。
 その後もう一度改訂を経て現行の形となり、決定稿として1903年に出版されました。

 今回演奏するのは、この決定稿のようです。

 上記の原典版と決定稿は、BISから出ている「シベリウス・エディション」Vol.1に両方が収録されているようです。(私はそこまでシベリウス・フリークではないので、これは持っていません)

 通常の決定稿による演奏としては、下記のものがあります。

BISシベリウス・エディションVol.1 5枚組 \5,800 オスモ・ヴァンスカ指揮/ラハティ交響楽団 上述のように原典版と決定稿の2種類を収録。

シベリウス/交響詩集 オスモ・ヴァンスカ指揮/ラハティ交響楽団 \1,978 上記「シベリウス・エディション」の単売で、「春の歌」は決定稿と思われます。

シベリウス/交響詩集  ネーメ・ヤルヴィ指揮/エーテボリ交響楽団(BIS、1980年代) \1,978

シベリウス/管弦楽曲集  ネーメ・ヤルヴィ指揮/エーテボリ交響楽団(DG、1990年代) 3枚組 \2,272

シベリウス/交響詩全集  シナイスキー指揮/モスクワ・フィル 3枚組 \1,463

 私の持っているベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団のCDは、現在は廃盤のようです。

3.スコア情報

(1)シベリウス/交響詩「春の歌」:国内版なし。ドーヴァー版なし。無償版あり。

ただし、ペトルッチのフリー楽譜サイトからダウンロード可能。
http://imslp.org/wiki/Spring_Song,_Op.16_%28Sibelius,_Jean%29#Full_Scores

(2)シベリウス/ヴァイオリン協奏曲:国内版あり。ドーヴァー版あり。無償版あり。

シベリウス/ヴァイオリン協奏曲 :日本楽譜出版社 \1,155

シベリウス/ヴァイオリン協奏曲 ロベルト・リーナウ社 小型スコア \2,100

ドーヴァー版大型スコア:シベリウス、エルガー、グラズノフの3曲を収録して\1,583

ペトルッチのフリー楽譜サイトからダウンロード可能。
: http://imslp.org/wiki/Violin_Concerto,_Op.47_%28Sibelius,_Jean%29

(3)チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」:国内版あり。ドーヴァー版あり。無償版あり。

チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」 音楽之友社:\1,575

チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」 全音楽譜出版社:\1,575

チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」 ドーヴァー版小型スコア:\654  ←スコアとしては最安値!

チャイコフスキー/交響曲第4番〜第6番「悲愴」 ドーヴァー版大型スコア:\2,407 (第4番〜第6番の3曲を収録)

ペトルッチのフリー楽譜サイトからダウンロード可能。
: http://imslp.org/wiki/Symphony_No.6,_Op.74_%28Tchaikovsky,_Pyotr%29



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