初  詣

 12月31日 寒い冬の夜、小さい堀コタツに足を重ねるようにして大晦日を迎える。大家族の家だとコタツだけではたりない。
大きな囲炉裏に、天井が燃えやしないかと思うほど火を燃やして、甘酒をすすりながらシンシンと降る雪の中で、祖父や祖母の話を聞く。雪国ならではの風情である。
 夜も12時に近づくと、「ホラ! お宮さんに行くゾ。ローソクは?賽銭は持ったか?」
  六角提灯に灯をともし、重い腰をあげる。羅紗のマントを頭からかぶり、ワラ靴をはく。
粉雪を踏みしめ、微かな提灯の灯をたよりに夜道を黙々と行く。40段の石段 というよりは、雪の急坂を登り、更に100メートルほどの雪道を、足もとを確かめたしかめ、鎮守の社「お宮さん」にたどりつく。
   20畳ほどの狭いやしろに ローソクの灯に顔身知りの顔が並ぶ。
新年のあいさつを交わし ドドーン、ドドーンと太鼓を打って帰路につく。屋台の店もない。ふるまい酒もない。質素な初詣ではある。

 時には吹雪くこともあり、いやいやながら出かけた「お宮さん」だが、何かをやったという安心感と一種の優越感で、帰りは意気揚々と雪の道をかけおりる。  < A男 >


  
正月の夜遊び

 ふだん、こどもの夜遊びは禁じられているが、正月のー日からー週間位は許される。
代わり番こにこどもたちの家に集まり、トランプ、カルタ、百人一首、クジ引きみたいな遊び(名前は忘れた)などをして、夜更けまで遊ぶ。
 途中でその家の人が用意してくれる餅や、ミカン、漬物などで、お茶をご馳走になるのがまた楽しみであった。 <B男 >


  
正月の夜遊び [その2]

 今から考えるとどうして小学生の夜遊びが、学校でも許していたのか不思議に思うが、そのころは、正月一週間と小正月の夜は、近所の子供たちと 元日はどこ、2日は誰の家と自分たちで勝手に決めて遊び廻った。
 当番になった家の家族はその夜は奥に引込み、近所の子供たちに占領される。
押掛けた子供たちは感心にも、行ったときと帰るときに大きな声で「おせわになりにきました!」、「おせわになりました!!」と一人ひとり その家族にあいさつをする。
   たのしい正月の風習だったが、テレビの普及の影響もあり、僕が中学校のころが最後になったような気がする。  <D男 >

  
小正月

 1月14 日は 「まゆ玉」といって 欅(けやき )の小枝を部屋の隅に取り付け、色とりどりの餅や、五本の箸を使って作る梅の型をした花餅、稲穂餅などを吊り下げ、その年の豊作を祈る習慣がある。そして翌15日に取り払う。
 餅をつるす時を田植え、取り払うことを稲刈りといって、14日、15日はお百姓さんにとっては大切な日であった.
 14日は、「歳取り(大晦日)」のようにご馳走をする。
この日は夜明かしする日で、あちこちの家に集り、一晩中遊びやワラ仕事をして、夜を明かした。そのころの遊びは、花かるた、「ほ(宝)引き」などで、大変にぎやかであった。   < A男 >

  
小正月 [その2]

 正月14日の夜に「まゆ玉」を吊った。近所の家はほとんど自分の家で搗いた餅がだけであったが、我が家は父が柏崎に勤めていたせいもあって、赤や青の餅とは別に、まゆ玉用のモナカやセンベイを買ってきてくれた。いっしょに飾るととてもきれいであった。
近所の子供たちがそれを見にくると、子供心に誇らしく思った記憶がある。   <D男>


  
味噌玉

 冬になると、何年にー回であったか、毎年であったか忘れたが、家族総がかりの味噌玉作りがあった。直径80センチ、高さ1.5メートルもあるような大きなドラム缶状の釜を囲炉裏いっぱいに据え、大豆をー日かけて煮る。
    煮た大豆をトコロテンを突出すみたいに 大きな機械(挽き肉の機械みたいな)でニョロニョロと絞り出す。それをみんなで丸めて、直径15センチ、高さ20センチ位の円筒状の味噌玉を作る。
 この味噌玉をガンギに並べたり、家によっては囲炉裏の近くに吊るして乾燥させる。そして乾燥した味噌玉を庖丁で薄く切り、椛や塩を加えて蔵に寝かす。
今はこんなことをして味噌を作る家庭はないだろうな! <D男>


    
サイの神

 1月15日 小正月の大行事。
朝早くから、子供たちは、各戸からワラや門松・しめ縄を集めて廻る。おとなたちは生木を山から伐りだす仕事を始める。
 市野新田にはブナ林が沢山ある。 ノコギリ、ナタを腰に、力ンジキをはいて、山に行く。
10メートルくらいのまっすぐに伸びた、素性のよいブナの木を切り倒し、ヨイショ ヨイショと雪の中を引張り出す。
持ち寄ったワラを枝木にくくりつけ、それらをピラミッド型に組みあげる。爆竹の演出をするために、孟宗竹を入れ、集めた門松やしめ縄を積みあげ、最後にグミ縄で巻きあげる。
  サイの神のかたちが整うと 子供たちは、我先にサイの神のてっぺんにまでよじ登り、自分の書いた書初めをくくり付ける。火の勢いで空高く舞い上がるほど、字が上手になるといわれている。

 早夕食を済ませる。夕闇も迫ると、"ブオーブオー"と法螺貝の音が鳴り響く。それを合図に住民が集まる。人寄せに、子供たちの作った"チンチン小屋"にまず点火する。そしてまもなく本番。その年の年男によってー年の五穀豊穣と、無病息災を祈願して、サイの神に火が入る。
サイの神の煙のたなびきかたによってその年の作柄を占う。煙のたなぴいた方向が豊作になるといい、この煙を顔にあてると風邪をひかないともいう。

 真っ暗な空に、そのあたりだけ赤々と燃え盛り、見上げると大きなボタ雪が火に煽られながら舞う。幻想の世界だ。
火が少し衰えてくると、それぞれ持ち寄った餅を焼く。
まだまだ火は強過ぎて、なかなかうまくは焼けない。煙にむせぴ、灰だらけになった餅の灰を手でたたき落としながら、口にはこぶ。
 サイの神も終わりに近づいた。若者がナタで燃え木を払い、短く裁断する。この燃え木を持ち帰り、それを春の畔豆の穴棒として使うと、豆が沢山とれるというのである。
  サイの神も昭和40年ころはまだまだ賑やかであった。
各最寄り毎に斎の神を作り、いち時は市野新田だけで4つもできたことがある。
それぞれが見えるような位置に作り、燃え盛るさまを競い合ったものである。しかし今は部落にひとつのサイの神を作るのが精一杯となってしまった。
過疎のため住民が少なくなり、一方でコンバインの普及でワラが無くなってしまったからである。   < A男 >

       

  
ストーブ

 冬になると学校でストーブをたく。我々のころ薪のストーブから途中で石炭のストーブに変わった。今はどうしているのかな。
   ストーブの上に大きな金網の籠をぶらさげたり、近くに木の棚を作ったりしてお弁当を暖めた。ストーブの熱で暖かい弁当が食べられたわけだがそれぞれいろいろな弁当を持ってくるので、教室中にゴチャゴチャの匂いが充満し勉強に身が入らない。
 最近は全く無くなったが、当時アルミかブリキのような金属製の鉛筆のサック(キャップ)と、セルロイド製の下敷があった。
下敷の古いものを小さく刻み、その破片を鉛筆のキャップに詰める。キャップのお尻の方を平たく潰したものをストーブの上に置いて机の陰にかくれる。
ストーブの熱でセルロイドに引火し、勢いよくガスを噴射。その推進力で鉛筆のキャップはスッ飛んでい<。「ロケット」である。

 とても面白いが、どこに飛んでいくかわからないし、お尻を完全に閉じてしまうとセルロイドのガスで暴発するなど、大変危険な遊びである。
 もちろん、まもなく禁止された。また鉛筆のキャップも子供が口に入れて遊んでいるうちに、うっかり飲込み大騒ぎしたこともあり、後年キャップの先端に小さな穴があけられるようになった。   < C男>

  


 道つけ

 長い冬将軍の到来!  朝一番の仕事である。
部落内をニつに分け、沖仲(おきなか)から神社までと、下の家持から上野の只八(ただはち)までとに分担して「道踏み」が始まる。
 吹雪ともなると、道の曲り具合がわからなくなるため、各家から持ち寄った竹や棒を雪道の上に立てておく。一晩に1メートル近く積もったりした時は通常ニ人組のところ六人位で道踏みに出る。
コンパスの小さい人や婦人にとっては大変な重労働である。
    先頭を時々交替しながら、約1キロの道踏みをする。
朝6時ころに出発して、往復に2時間近くもかかる。そして登校する子供たちが安心して歩けるように、それまでに帰ってこなければならない。
帰る途中で 2、30人の登校の子供たちに行き合うことがある。
道の端によけてやり、子供たちが通り過ぎるのを長い時間待つことが多い.
  おはようございます。」「ご苦労さんでした! 」 と
子供たちはあいさつをする。
    今は道路も完全舗装され無雪道路になった。
 そして 子供は一人もいなくなった。      < A男 >


 
冬の登校

  毎年3メートル、4メートル、時には5メートルも大雪が積もる鵜川。
子どもの頃40分も50分も道草を食いながら通ったみちのりも、冬の吹雪の日は最悪であった。今のように除雪車はなく、村の人達が交替で、上野部落までの道付けをしてもらう。積もるときはー晩で1メートルも積もるのである。
この長い距離を、おとなたちニ人がかりで、腰のあたりまで雪に埋まりながら、力ンジキをはいた足を高くあげながら、みんなの為に道づくりをしてくれた。
  道踏みに時間がかかって間にあわない時は、登校の子供たちが追いつき、おとなの後にくっついて、ゾロゾロとー列になって歩く。

"あの石橋がー番イヤだったなあ"
人家もなく原っぱの真ん中に橋がー本、風当たりがー番強く、道をつけても吹雪がすぐ消し飛ばし、あとかたもなく平らになり、道が全然見えなくなる。
吹雪で顔もまともにあげられないので、蟹の様に横歩き。
ー歩間違えればヤブの中にズブ゙リ!  マントをかぶった顔や頭は吹雪で真っ白になる。ワラを敷いた長靴の中にも雪が入り込み冷たい。靴の中の雪を出そうにも、後に続く友達のことを考えると、立ち止まって靴から雪を出しているひまはない。 自分がつまづけば、みんなこの激しい風の中に立ちん捧になってしまって申し訳ない。
学校に着く頃には、靴の中の雪はとげてビショビショ、足はマッ力になってしまう。顔も手も足も、しもやけだらけになる。
今 思いだしても涙が出てきそうだ。   <E子 >


 
ワラ仕事

 冬になると囲炉裏を囲んでお年寄りたちはワラ細工を始める.
見よう見まねと手習いで、アシナカわらじ、草履、荷縄と結構つくったものだ。
友達とワラを持ち歩きワラニ階に陣取り、時には夕方まで居座ったこともある。
   おとなの留守を幸いに、おひつのごはんを空にしたり、餅を見つけて続いたりして、しかられたこともある。
草履を作っても、右と左が不揃いになったり、長くなり過ぎたり、短かかったりでなかなかむずかしい。それでも少しは、家のためになっているという満足感で結構楽しかったものである.   < A男 >




 
力マド・イロリ

 カマド、イロリの燃料はボイや割木(ワリキ)である。
時には杉の葉や松の葉が重要な燃料であった。どこの家も山があり、毎年300把ほどのボイを切りニオをつくった。
 一時は、「改良かまど」といってヌカ釜が流行した。一斗箕の籾殻でニ升くらいの米は楽に炊けた。
また イロリの中でワラを燃やしながら なべごはんを炊いたこともあった。

 「煮えたかなぁ・・・.」と  なべのふたを取るたびにワラ灰がごはんの上に落ちてしまう。
イロリの中の片隅にワタシと火箸があり、傍には火吹き竹とツケ木があった。  くA男>

●ワタシ : 鉄製。オモチャの汽車のレールみたいになっていて、脚がついている。この上で餅などを焼く
●.ツケ木 : 紙のように薄くそいだ木の片側に硫黄が塗ってあり、マッチの火をこれで受け、火付け用として用いた。火がつくと硫黄の匂いがツンと鼻を突く。といっていやな匂いと思ったことはない。



  
うさぎ追いし・・・

 ヤブのしみるころなると、昼の陽射しを受けて、大きな木のまわりの雪は他のところよりも解けかたが早く、根元には大きな隙間ができる。
春が近づくと 積雪はまだ1メートルもあるのにその木のまわりでは土が見え出す。
  そんなある日、住民総出みたいなスケールで「兎追い」をしたことがある。(昭和25-26年ころ?)
時「鉄砲打ち」とよばれる猟師が何人かおり、そういうベテランの指揮に従って、子供たちは、あっちの山こっちの山へと駆けづり回り、木の根っこの穴の中に潜んでいる兎を見つけだす。
木の技やスキーのストックを振回し 大声をあげながら、横隊を<んで里の方へ里の方へと迫出す。
  兎は山を駆け登るのは極めて速いが山を駆け降りたり、平地を走るのはそれ程速くはない。(前足が後足に較べて短いからと信じていた。)
とうとう追い詰めて数羽の兎を仕留めた。
  ある「兎追い」の時には、 モーモンガーを追出したことがあった。ムササビである。(正確にはモモンガァとムササビは別種らしいが・・・)
走る姿はリスやイタチみたいにスマートですばしこい。木を見つけるとー気に登り、テッペンからコウモリのように皮膜をひろげ数十メートルも滑空して飛ぶ。
モモンガーの歯と爪は鋭く、顔にでも張り付いたら大怪我するぞ!と脅かされながら遠巻にして、兎のときと同様、里の木のない所に追い出して、最後は投網のような物で捕える。
うそのような本当のはなし。  <C男 >



  
アイロンとコテ

  祖母や母が大事にしていた裁縫道具のひとつにアイロンがあった。
アイロンといっても電気のそれではなく、炭火を入れて使う、極めてアンチックなアイロンのことである。今それを見つけたら、きっと懐かしさでうれしくなると思う。
もうひとつは、「火のし」として使う「コテ」である。
囲炉裏や火鉢、ときには炭コタツの灰の中に入れて熱くし、その熱で布の「火のし」をする。
  あるとき、このコテを母に黙って持ち出し、スキーのロウ塗りに使ってひどく叱られた。スキーにロウを塗るコテは、似たような形ではあるが、ひとまわり大きく、しかもごっついコテが専用にあったが、兄弟が奪い合って使うものだからなかなか順番がまわってこない。 とうとうしびれを切らし、例のコテを引張り出したわけである。
今思うに まことに申し訳なく とんでもないことをしたものである。 <C男 >












  
夜着・ワラぶとん

  冬の厳しい寒さで、寝室(当時は寝間)はすっかり冷え切っている。
今のようにストーブも電気毛布もない時代である。
毛布の代わりに「夜着」を、マットレスの代わりに「ワラぶとん(またはくずぶとん)」を使った。
夜着(ヨギ)は袖のついた掛ぶとんのことで、綿をたっぷり入れた大きなふとんで、首まで掛けると非常に暖かい。(カイマキとも言った)
  ワラぶとんは 稲ワラをすぐったワラくずの軟らかい部分を、ふとんいっぱいに詰めたもので、ワラを入れ替えした時にはよくその上で遊んだものである。
使っているうちにだんだん堅くなり、ほんとうの「せんべいぶとん」になってしまう。 < A男 >


  
ダイモチ (橇・そり)

  雪が積り、山々の雑木も小さな凸凹も雪に埋もれ、山全体がなだらかなスロープに変わる。そして春も近づいてヤブもしみるようになると、雪の中で伐採された大木を運ぶには格好の季節となる.
  ダイモチという作業が子供のころよく見うけられた。
イタヤの木で作られたダイモチとよばれるソリがあり、これを背負って山に登り、これを2本並べて置いて丸太棒を2本交差させ、縄穴を利用してこの丸太棒をダイモチにくくりつけると大きな橇ができる。
大木の先端を持ち上げて組立てたダイモチを差込み、さらに大木とソリをくくり、2条の太い縄で左右に振り分けてひき縄にする。
山を下だるときはこの太い縄に人が引張られるようにして木をひき出し、里におりると今度は数人づつが力を合せて木をひく。極めて危険でしかも重労働である。
  特に急な斜面を滑り落とすときは大変危険で、子供たちはそれに近づくことを禁じられていた。里まで下ろすと、子供たちがワーッと引き縄に群がり、ワッショイ ワッショイと掛声をかけて雪の上をひく。方々の山からその掛声が響く。
  今ならブルドーザなどで木を運び出すであろうが、冬の雪を積極的に利用したこと、村人総出の作業ということでムラの結束を培うことできたのではないかと思うと、なかなかの知恵であったと思う。   <C男 >