(7)武豊駅長時代(明治19年〜)

◆高橋駅長は、24歳の時、馬場駅長に着任以来、長浜、武豊、名古屋、大阪、新橋の各駅長を歴任してきた。
   Web情報から、高橋駅長のエピソードを探ってみた

  新美南吉浪漫・「各駅停車 武豊線物語」
  URL http://homepage1.nifty.com/tokaicore/SLtaketoyosenn.htm    
              http://w01.tp1.jp/~a031566531/SLtaketoyosenn.htm
  


       
 各駅停車・武豊線物語

  
はじめに
 

 武豊線は、東海道線の全通に先立つこと3年前、明治19年3月1日に開通した。わが国最初の鉄道開通は、明治5年9月、新橋・横浜間に敷かれたものであった。それから14年後に、武豊線は開通した。当初は荷役線として開設されたものであった。あれから117年の歴史を刻んできた。武豊線の昔を知る人も少なくなってきた昨今、武豊線の歴史をたどって見るのも決して無意味ではないだろう。題して、「各駅停車 武豊線物語」。
 

  
武豊駅開業時の武豊線

 

 明治19年3月1日武豊線の武豊・熱田間が開通し、武豊・半田・亀崎・緒川・大高・熱田の各駅が営業を開始した。
 開業時には、愛知県渥美郡失神の出身の
高橋善一武豊駅長が武豊・熱田間の総括駅長として、全ての業務を行っていた。武豊・熱田以外は、駅員が2名程度配属されていたものと思われる。
 列車は、客車と貨車の混合列車で1日2往復運転されこの間の所要時間は1時間45分であり、表定速度18.9km/hであった。その後の列車の運転は、武豊・木曽川間が開通した明治19年6月1日から1日3往復となり、途中1日2往復期間があり、明治21年9月1日浜松・大府間開通時から武豊線大府・武豊間は、線内折り返し運転となる。
 東海道線全通時の明治22年7月1日から1日3往復となったが大府の接続は悪くなった。
資材輸送は、明治20年4月25日まの武豊・長浜間全通まで行われ、引き続き明治20年初めから東海道線建設の資材輸送へと移行していった。
 営業は、旅客のほか荷物も取り取り扱った。
乗客数は、開業時10ケ月間の1日平均で見ると、熱田78名、半田50名、全駅合わせて233名であった。これを1ケ列車平均で見ると約40名程度となる。明治19年6月1日〜20年4月25日まで3往復運転) 当時は、客車2両連結のため、1車両には20名以下の乗客であった。1人当たりの平均運賃は19銭で半田・大高間の運賃に相当する。中等には、武豊から平均1日当たり3名ほど乗車した。旅客運賃が高額であるにもかかわらず、これだけの乗客があったのは驚きである
 
       
 (後略) 
            
高橋善一

明治6年鉄道省に入る。
明治15年初代長浜駅長。
武豊線が開通すると同時に武豊駅長になり、後に名古屋、大垣、大阪、新橋、初代東京駅長を歴任した。

   

「知多っ子・知多半島を旅する U 武豊線物語」より 

   

  

新美南吉浪漫・
「各駅停車 武豊線物語」



 明治時代の武豊駅
   












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