(8)東京駅誕生の背景とカミナリ名物駅長

◆『汽笛一声』・・・ それから 40年もたってから”東京駅”が誕生!・・・
   ”東京駅”誕生の時代背景と初代東京駅長の豪快な人柄が紹介されている

       
  原っぱにできた 中央停車場

  ルネッサンス式赤煉瓦三階建ての
    
荘厳にして雄偉なる世界に誇る大建築

 大正三年十二月二十日、当時まだ原っぱに近かった丸の内に東京駅が開業した。左右両翼には寺院のようなドーム(惜しいことに空襲で焼けた)、辰野金吾博士の設計で、六年がかりの大工事、いかにも日本の玄関にふさわしい駅ができあがった。

 四つのホームから発車した列車、電車は一日127本・・・それが、54年後のいまは約2450本の”過密ダイヤ”。この数字が、なによりも雄弁に国鉄の歴史を物語っている。
 明治5年、品川ー横浜間の鉄道開通以来、政府は東海道本線の開通を官鉄(国鉄)で手がけただけで、地方の路線はもっぱら私鉄にまかせていた。私鉄といっても、はじめは工事を政府がやったり、資金補助をするなど、半官半民的色彩の濃いものだった。
 こうして東北線(日本鉄道)、山陽線(山陽鉄道)などの幹線鉄道は私鉄の手で伸びていった。が、政府は39年、強い反対論を押し切って、これらのおもな私鉄17社を買収し、鉄道国有化へと踏み切った。

 さて、国有化されると各線を集中して結ぶ”中央停車場”建設の声が起こり、東京駅が誕生したのである。しかし、東京駅はできても、東京ー上野間はまだつながっていなかった。当時の山手線電車は「の」の字形に走っていたわけで、現在の環状線運転がはじまったのは、大正14年になってからだった。
 
  
初代駅長のカミナリ
 
 初代東京駅長の高橋善一氏は、鉄道開通のときに新橋駅の油さしで鉄道にはいった人だが、豪快な人柄で名物男だった。テレビの「旅路」で『コノ、大めしぐらい』」とどなる駅長が登場したが、これは高橋駅長の口癖だった。

 当時、駅長小僧(駅長付きの当番)をしていた宮入千秋さんの話。
「夜勤が夜中に駅を一巡することになっていたけど、ある日、駅長が『ゆうべの夜警はだれだ、オレんとこのイヌが鳴かなかったぞ』と、カミナリ落としましてね。官舎は、駅のはずれにあるんですよ。それからは、わしら、夜警だというと、官舎のヘイをけとばして、イヌが鳴いたのを確認したうえで帰ってきたもんです。
 とにかく、肝っ玉がでかくて、大臣なんたって、へっちゃらなんだ。総理大臣が駅長室にきても、腰を半分浮かせて迎えるぐらいでね。だから、原敬さんがやられたときも、落ち着いてたな」
 原敬首相が、東京駅改札口付近で暗殺されたのは、大正十年十一月四日、犯人の中岡良一は東京・大塚駅の駅員で、政治の腐敗をたださんものと、高橋駅長の案内で京都行きの列車に乗ろうとしていた原首相を刺したものだった。
 東京駅では、昭和五年十一月十四日に、浜口雄幸首相が、ホームで右翼青年に狙撃され、その傷が原因で翌年死んでいる。日本の玄関駅は、二人の首相の暗殺の場所ともなったのである。
 東京駅中央には、帝室通路(現在は特別通路)と呼ばれる地下道がある。その名のとおり、皇族、外国からの国賓だけが通れる通路だ。ところが、こう暗殺が続いたのではあぶないということで、特別通路と改称され、近衛内閣のときから、首相および、ねらわれそうな要人も通れることになった。
「ところが、いまじゃ、ねらわれっこない大臣まで通りたがる」と、東京駅OBの老人たちは苦笑いしている。

         (以下略


週刊読売
昭和43年10月4日号
特別企画:鉄道特集



鉄道特集:東京駅物語・・・
”大正・昭和53年間の縮図”









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