 新聞記事(紙名不明)
 高橋駅長
 駒塚橋
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奇行、珍談、ありし日を偲ぶ 高橋初代駅長の三十三回忌法要
既報、初代東京駅長高橋善一氏の三十三回忌に当たる二十日、故人の薫陶を受けた六代目駅長加藤源蔵(椿山荘支配人)元主席助役板橋清蔵(名古屋貨物自動車社長)らを始め五代目駅長だった天野辰太郎(鉄道貨物専務)現駅長中村真の諸氏ら六十余名の多数が集い、東京芝の青松寺で十三時から追悼法要を盛大に営み、ついで高橋さんの晩年の住居であった関口台町の史蹟芭蕉庵跡を五月雨そぼふるなかを訪ねて故人を偲び、十五時から椿山荘で懐旧座談会を開いた。
座談会は雷親爺のようだった故人の奇行や珍談が飛び出し、他界してから三十三年という長い歳月を忘れて昨日まで在世した人を語るようで、また慈父をしたう子供にかえって賑やかに想い出話にふける教え子たちの胸底に面白い懐旧談を拾うと高橋さんの面影がなお生々と脈打っているようだった。
◆高橋さんは交際範囲の広い人で、皇族、政界、官界をはじめ実に知己が多く特に相撲界では大した顔だった。
◆実によく怒鳴る人で、「馬鹿野郎」「大飯ぐらい」を連発、駅員の肝を冷やすのが常だった。停車中駅員に「馬鹿野郎、何故電気を消すのだ」と雷声で怒鳴りつけたほどで、これは駅員にばかりでなく、宮様にも 「発車二十分前に駅に来るのは田舎者だ」と注意したこともあった。
◆英語ができなかったが、外人に話しかけられると如何にも英語が判るような堂々たる調子で、「イエス、イエス、オーライ」を繰り返すだけで、すぐ英語のできる案内掛を呼びにやった。
◆部下をひどく怒鳴りつけたが、その反面、部下の面倒をよくみた人で事故をやってもその場でしかることはなかった。一度東京駅で使った部下は長く自分の手許で使い、また自分の気の染まない職員は東京駅への転勤の辞令が出ても追い返してしまった。
◆某職員が十歳を頭に三人の子供を残して死んだとき十歳の子供を強引に東京駅に奉職させてこの家の危機を救った。当時でも十歳の少年職員は例のないことだった。
※掲載紙は不明。発行時期は昭和31年(1956)?
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