何時でも願い続けてきた
決して叶わない願いだとわかっていても それでも祈らずにはいられない 【 Easy Come,Easy Go! 】 Another story for PSYCHIC FORCE Act.3
***** あめの日 *****
「俺? 俺は一人で居る方が好きだよ」 バーンがブラドを見上げながら答えた。憂鬱な雨の中、それでも明るい笑顔で。 最近バーンはこんな風にブラドと一緒に居る事が多い。大抵ブラドは本を片手にきちんとソファに座っていて、バーンはといえばテーブルを挟んで差し向かいの位置に陣取り、テーブルの上にソファのクッションを抱いた形で上半身をだらしなく預けて。そのまま話もせずにお互いただ黙って過ごす事やバーンがそのまま寝てしまう事が多かったが、たまには今日のように会話も成立した。 「だって他人と居ると何かと煩わしいだろ?」 驚いた眼で自分を見つめるブラドにバーンはほんの少し言葉を補足する。それでもブラドは驚きの表情を変える事はなかった。おかげでバーンは何だか少し居心地が悪くなる。 「俺、何かヘンな事言ったかな?」 「いや、ヘンとかそういうんじゃなくて─」 ブラドは言葉を慎重に選ぶようにしながら二の句を継いだ。 「何だか君の台詞じゃない気がするよ。いかにも僕が言いそうな事じゃないか」 「うーん、そうかなあ。確かに『煩わしい』ってのはちょっと違うかもな」 バーンがクッションを抱きながら唸る。頭を抱え込んでしかめ面をしながら悩んでいる様をブラドは半分あきれ顔で眺めていた。 ひとしきり唸ってから、バーンは首を捻りつつもう一度答えた。 「他人の気持ちが重い…のかな?」 「─そりゃ重いだろうよ。あんなに他人のために動いていたら」 考え抜いた末でのバーンの言葉にブラドはあきれつつもついそんな感想を漏らした。それをバーンは笑って否定する。 「ああ、それは違うよ。俺は他人のためだけに何かしてやった事なんてないって」 怪訝そうに自分に視線を向けるブラドに、バーンは時折考えつつゆっくりと言葉を足した。 「俺は周りの人間が笑っているのを見ているのが好きなんだよ。それが自分に関係ない奴でも。それを実現させるために動いているだけなんだ。だから端から見ると如何にも他人のために色々と世話を焼いているように見えるだけで、全部自分のためにしているんだよ。俺は我がままだからな、不幸に成りたがってる奴でも俺の側に居るのならイヤでも幸せに笑っていて貰うさ」 悪戯っぽい笑みを浮かべながらそう言った後、バーンは少し表情を曇らせた。 「でも、それが時々重くなる。やりたくてやっている事のはずなのに重くて投げ出したくなる。──そう思っちまうのがイヤなんだよな」 最後には拗ねたような怒ったような、そんな口調になってバーンはブラドから眼を逸らしてそっぽを向いた。その様子にブラドは思わず吹き出した。少し顔を赤くして咎めるような視線でバーンが見上げているのに気付いて悪いとは思っているのだろう、ブラドは何とか笑いを堪えようと俯くが、それでも肩が震えて笑みがこぼれる。 「何でそこで笑うんだよ」 すっかり拗ねて不満そうに訴えるバーンにブラドは押さえ切れない笑みのまま答えた。 「いや、笑ってしまったのは申し訳ない。でもそれが君の良い所だと思うよ」 「それ、誉めてるのか?」 「そりゃもう最大限に」 不満そうなバーンに対してブラドは終始にこやかに答えた。からかうように宣誓のポーズを取ってみせたりする。バーンはいまいまし気にひとつ舌打ちすると、そのまま抱いていたクッションにすっぽりと顔を埋めた。そんな自分を多分微笑んで見ているであろうブラドの視線を感じてバーンはどうにも気恥ずかしくてそのまま顔が上げられなくなった。 自分でもちょっとズレているとは思っているのだ。ふと我に返ると、自分には関係ないのに何でこんな事までやっているのかと首を傾げてしまう時も少なくはない。それでもどうやら性分らしく考える前に身体が動いているような気がする。自分でもバカだとは思うのだが何時の間にかそうなってしまう。だから一人の方がいいと、一人になりたいと切望している自分が居た。 「でも、それなら─」 不意にブラドの声が降ってきたので思わずバーンは顔を上げると、こちらを不思議そうに見下ろしているブラドの視線とかち合った。ブラドは表情通りの不思議そうな声音でバーンに向かって問いを漏らした。 「それなら、どうして君は何時でも僕の側に居るんだい?」 「そりゃ、あんたの仕事に協力しているからさ」 間髪入れずに満面の笑顔でそう答えてから、バーンはふとその顔から笑みを消してまじまじとブラドを見つめた。真剣な、それでも何処かふに落ちない表情で、黙ってただ一心に見つめ続けるのでブラドは非常に居心地が悪く感じられる。沈黙に耐えられなくなって何か言葉を発しようとブラドが口を開きかけた時に、バーンが突然呟いた。 「──本当だな。何で俺、あんたの側に居るんだろう?」 あっけに取られているブラドを無視してバーンはしきりと首を傾げていた。本当に、何故なんだろう? 「ま、何にしろすっげー協力的なんだからさ。何かご褒美くれ」 ついさっきまで真剣な面持ちで悩んでいたくせに、急にバーンはブラドに向かってにっこりと笑いかけた。その変化にブラドはついていけずにあっけに取られたままだ。 「ご褒美って…」 「頭撫でて♪」 「………はいっ?」 人に髪を触わられるのが好きなんだと、当たり前の様にバーンは付け加えた。だが、このあまりにも突拍子のない申し出に対してブラドは間の抜けた返事を返すのがやっとだった。その様子を訳の分からない事を言い出した張本人はにこにことクッションを抱いたまま見上げていた。どうやらブラドが行動を起こすのを待っているらしい。確かにテーブルに上半身を預けている今の彼の頭にはたやすく手は届くが…。 ブラドは目眩がするのを自覚していた。先の『おかあさん』発言が頭の中をぐるぐると駆け回る。何となく恥ずかしくなって外した視線の端に映るバーンの姿を確認して、彼は自分をからかっているつもりも冗談を言っているつもりもない事を再認識したブラドは密かにため息をついた。そうして諦めたように微笑む。 「分かった分かった」 ブラドの指がそっとバーンの頭に触れる。静かに髪に触れられる感触に、バーンはくすぐったそうにネコのように伸びをした。 静かな雨の音と柔らかな手の感触。それがとても気持ちが良かった。思わずうとうとと微睡みかけるバーンの頭の中に、突然いつぞやの夜の光景が浮かんだ。あの時の自分以外の人間が発する優しい声、しっかりと抱きとめてくれた暖かな腕の感触。そう言えば泣く事自体久し振りだった。人前で泣いたのなんて最後は何時の事だっただろう? そして、バーンはその瞬間まで気がついていなかった。夜も眠れないほどだったのに。 自分はつらかったのだと。眠る事さえ出来ないほどただ恐かった、耐えられないほど苦しかった、そして誰かに助けて欲しかった。あの腕の内でそんな自分の感情に初めて気がついたのだ。 「やっぱり俺、バカかもしれないなあ…」 自分自身に対してあまりにも鈍感すぎる事を改めて自覚して、バーンは思わず顔を赤らめながら呟いた。その言葉を聞き咎めたブラドがバーンの顔を覗き込んだが、バーンはただ黙って眼を閉じたままその視線をあからさまに無視した。とにかく恥ずかしかったからだ。ブラドもその気配を察して何も問い返す事はなかった。が、急に彼にしては珍しくバーンが良く見せるような悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「ねえ、このトサカ引っ張ってみてもいいかい?」 そう言いつつ髪に手を伸ばしたブラドの仕草にバーンは慌ててばっと両手で頭を抱えた。そんな様子をブラドはおかしそうに眺めている。 「いいじゃないか、減るモンじゃなし」 ケラケラと笑いっぱなしのブラドにバーンは頭を抱えたまま恨めしそうな視線を向けた。 「…どうしてこのお兄さんはこーいう意地悪を言うのかなあ」 「でもやっぱり興味があるよ。ちょっとでいいから」 「イヤだってば! あんた、性格悪くなったぞ」 そんなバーンの態度にブラドは本当におかしそうに笑っていた。完全に拗ねてそっぽを向いてしまったバーンを笑顔のままなだめて、ブラドはもう一度彼の頭に手を伸ばす。もちろん髪を引っ張る事はなく。 思いっきりからかわれた事を意識してバーンは不満気に唸り声をあげていた。それでも髪を掻き揚げる柔らかな感触につられたようにほどなく大人しくなる。ブラドはそんな彼の姿を黙って微笑んだまま見つめていた。 ─どうして自分は彼の側にいるのだろう?─ 眠りかけた頭でバーンはもう一度自問した。自分は一人の時が一番安心出来るのだと思っていた。他の誰かの事を考える事もなく心配する事もない。あまり認めたくはないのだが、他の全てを切り捨てた自身だけが存在する感覚を心の奥底では求めている気がした。 だがこうしてブラドの側に居る方が一人の時よりずっと安心出来た。言葉を交わさなくても、ただ側にいるだけでも何だかとても心地良い。けれどもどうしてそう感じるのかはさっぱり分からなかった。ひとしきり頭を悩ませてからバーンはまあいいか、と思考そのものを中断して眼を閉じた。 その内きっと分かる日が来るだろう。その時にまた考えればいい。今はただこの心地良い瞬間を過ごせる事を感謝しよう。この一時を与えてくれた全てのものに。 おしまいのその時まで。 ***** かぜのつよい日 *****
「あたしね、ブラドが来て嬉しい事がひとつあるの」 誰かに向かって、というよりほとんど独り言のようにウェンディが呟いた。夕食の準備を手伝っていた─正確に言えばウェンディの方が手伝っているようなものだったが─ブラドがその突然な言葉に手を休めて彼女に眼を向ける。 「ブラドが来てからバーンってばずっと此処にいるでしょ。あいつったら、それまでは朝から晩まで何処かに行ってる事が多かったから…。やっぱりちょっと不安だった」 何時もの彼女とは違って何処となく神妙にそう言ってから、思いついたようにキッチンから居間の方を覗いてため息をつく。 「ま、眼の届く所に居たら居たで邪魔なんだけどね」 そんな酷い評価を受けているとは露知らず、バーンは何時ものようにテーブルに突っ伏して居眠りの真っ最中だった。 「僕、バーンって分からないな」 ウェンディに捕まってムリヤリ手伝わされていたエミリオが彼女の視線の先に居る人物をしげしげと眺めながら呟いた。 「どうして自分に関係ない事に、あんなに一生懸命になれるんだろう?」 不思議そうにそんな疑問を口にするエミリオに、ウェンディは眉を寄せてうんうんと肯く。 「そうよね、キースとの件にしても最初の時点で逃げちゃえばこんなひどい目に遭わなくても済んだでしょうしねえ」 そうしてウェンディとエミリオはどちらともなく見つめ合って、二人同時に口を開いた。 「やっぱりバカだからじゃない?」 期せずして妙にシンクロさせて同じ台詞を吐く二人を見ながらブラドは苦笑するしかなかった。確かにその評価はとても正しいような気がする。 『他人のためだけに何かしてやった事なんてない』とはバーン本人の口から出た言葉だが、多分彼は気がついていないのだ。彼が他人に気持ちを傾けるくらいには自分自身を気にかけてはいない事に。自分のためだと言いながら彼は周りの人のために動く。確かにその行為自体が彼の幸せに繋がるのだろうが、その割りには自身に対しての関心があまりにも希薄な気がする。そのアンバランスさが彼の強さになっているのか脆さになっているのかは分からないが。 ─何にしろ、バカには違いないな─ やはりブラドも二人と同じ結論に達してやれやれとため息をついた。 「それにしても彼は良く眠るね」 端で好き勝手言われている事に気づかずに幸せそうにうたた寝しているバーンを眺めてブラドはあきれたように呟いた。未だに眠れない夜を過ごしているのかもしれないが、昼間これだけ寝ていればまず身体の方は大丈夫だろう。 「でも私、バーンの寝ている姿なんて見た事なかったわよ」 ブラドの呟きを聞き咎めてウェンディはちらりと彼に眼を向けた。何だか少し怒っているように見える。 「貴方が来てからよ。バーンがこんな風に眠ってる姿を見せるようになったのって」 やはり少し怒った口調でそう言うとウェンディはぷいとブラドから視線を逸らした。彼女がどうして急に機嫌が悪くなったのか分からずに、ブラドは黙って首を傾げるだけだった。 ウェンディの方はといえば、困った表情のブラドとご機嫌斜めな自分とをにやにやと眺めているエミリオに目一杯キツイ視線を投げかけながら、ブラドに悪いと思いつつ心の内でそっと呟いた。 ─だってやっぱり何だかちょっと…。ムカつくわっ!─ ***** はれの日 *****
雲ひとつない青空が広がっていた。空の青と丘陵になだらかに広がる草原の蒼。その二つが交錯して形造っているラインは不思議と曖昧な微妙な色彩を持っている。ちょうど良い木陰を提供してくれる大木の根元に足を投げ出して座りながら、ブラドはその光景を眺めていた。暑くもなければ寒すぎる事もない。下草は日陰特有の涼しい感覚を与えてくれていた。客観的に見れば爽やかだった。それでも彼は少し─いや非常に─暑苦しい思いをしていた。ブラドは何とも複雑な表情で自分の膝の上にちゃっかりと陣取っている金色の頭を見下ろした。そこでは何時もの人懐こい青い瞳を閉じて、毎度毎度どうしてこう幸せそうなのか聞いてみたいような表情でバーンが眠っていた。 もういい加減慣れては来たのだがどうしてこう彼は傍若無人なのだろう? もっと理解出来ないのが自分はそれをたいして迷惑だとは思っていないという事実だった。むしろ彼の熱を感じる事を心地良いと思う方が多い。どうにも理解しがたい感情だ。 他人と関る事はとても恐ろしかった。心を移した人間に何をしでかすか分からないもう一人の自分の存在を感じるのが嫌だった。他の人間から逃げて、自分から逃げて、でもその先には何もない。分厚い壁に八方から塞がれているように何も出来ない。逃げられない事が分かっているのにまだ逃げている。もう取り返しがつかないのに。 取り返しがつかなかったはずなのに彼は現れた。逃げ道のない空間に何時の間にかするりと入り込んで何をするでもなくただ笑っている。そしてひとつの言葉を紡いだ。 ─大丈夫だ。心配ないって─ ブラドはため息をつき、まじまじとバーンの顔を見つめてぽつりと呟いた。 「…しかし、どうしてこう君は僕に引っつきたがるのかな?」 「だってあんたの側に居ると落ち着くんだよ」 独り言のつもりだったのに返事を返されてブラドはさすがに慌ててしまう。バーンはそれでも眼は閉じたままだ。 「何だ、起きていたのかい?」 「起きてたというか…、うとうとしてた」 そうして初めて眼を開く。 「あんまりこっちをじっと見てるからさ、恥ずかしくて眼を開けられなかったんだ」 バーンはあきれた表情で自分を見下ろす瞳にニッコリと微笑んだ。ブラドはその笑顔を見ているとどっと疲れが出てしまう。何ともまあ本当にこの男は。一瞬肩の力が抜けて楽になった気がしたが、ふと彼の言葉が気にかかった。思わず深刻な表情でバーンを見下ろす。それを彼は不思議そうに見つめ返した。 「落ち着くって…、僕と居て? どうして?」 「どうしてって言われると困るけど…。でもそうなんだからしょうがないよ」 妙に深刻な面持ちのブラドの態度に首を傾げつつ、バーンは正直に答えた。本当に理由が分からないのだからそうとしか答えられなかった。 「君、僕の事が恐かったりはしないのかい?」 「恐い? 何で?」 真剣な表情でさらに問い掛けるブラドにバーンは困惑する。彼の言わんとしている事が良く分からなかった。 「君はもう一人の僕に会っているね。もし今彼が現れたら、幾ら君でもあんなに無防備だったら殺されてしまうよ。そんな僕が恐くはないのかい?」 真剣な、何処か泣き出しそうな表情のブラドをあっけに取られたようにしばらく見つめて、何故かバーンは彼に向かって笑いかけた。その笑顔の意味が掴めなくてブラドはからかわれたような気分で腹がたつ。こっちは真面目に聞いていると言うのに…! しかしその後のバーンの答えはあまりにも予想外だった。 「うーん、何つーかさ。あんたに殺されるなら別にいいや」 笑いながらとんでもない言葉を口にするバーンにブラドは二の句を継げなかった。あきれるというよりも信じられないと訴えている顔でこっちを見ているブラドにバーンは悪戯っぽく微笑みかけた。 「あんたもさ、俺になら殺されてくれるか?」 「やなこった」 「つ、冷たい…」 ブラドの即座の切り返しに思いきり傷ついた表情をしてみせてバーンがうなだれる。が、ブラドの膝の上から起き上がって真っ正面に彼の姿を見据えると、すぐにその顔をほころばせて嬉しそうに言った。 「でもまあ安心した」 「何が?」 「だってあんた、最初に会った時はすぐにでも死にたがっているように見えたから」 それだけ言えれば大丈夫だよな、とバーンは明るく笑う。その笑顔をぼんやりと眺めながらブラドは戸惑っている自分を持て余していた。 死にたがっていた。そう、確かにそうだ。だが自分で手を下す事も出来ずに息を潜めてその瞬間をただ待っていた。まるで恋焦がれた恋人の到着を待つように。それなのに、そのはずだったのに。今自分の口から出た言葉は以前なら考えられない言葉だったと思う。いつからだろう。いつから自分はこうなったのか? 「バーン」 いきなり名前を呼ばれて怪訝そうな視線を向けるバーンをブラドはまじまじと見つめてその唇からひとつの問いを漏らした。どうしても彼に聞いてみたい問い。 「君は今、幸せか?」 「多分そうだと思うぜ?」 いきなりの言葉に戸惑いつつもバーンは真っ直ぐブラドに視線を向けて応じた。翳りのない、迷いのない瞳で。 「──こんなに苦しい目に遭っていても?」 『人を殺す事になるような』、とはブラドは敢えて言葉にしなかった。バーンはそれでもその意味を悟ったのだろう、ほんの少し真顔になって考えを巡らせているように視線を宙にさ迷わせる。しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと口を開いた。 「うーん、確かにかなりひどい目に遭ってるとは思うけど…。まあ概ね良い人生だよ」 そしてブラドを真っ直ぐ見据えて笑う。 「あんたにも会えたしな」 瞬間、ブラドは脳裏が真っ白になった気がした。 どうして─、どうして彼はこんな言葉をこんなにあっさりと口に出来るのだろう? あまりに驚きすぎて、ブラドはバーンが自分に向かって何事か言っている事も遠い彼方の出来事のように感じてしまう。 「ブラド…、ブラドってば! 何ぼんやりしてんだよ」 既に立ち上がって自分を見下ろしているバーンをブラドは夢の中での出来事のような気がしてただ見上げていた。彼があきれ顔でいるのは分かった。 「あんまり遅くなるとウェンディがうるさいからさ。帰るぞ、ほら」 バーンはそう言って当然のごとくブラドに向かって手を差し出す。差し出された手を眺め、そのまま上まで見上げると怪訝そうに自分を見つめているバーンと目が合った。その途端ブラドは何故か可笑しくなって笑い出してしまう。 「何笑ってるんだ?」 あきれた顔で自分を眺めているバーンの手を笑いながら取り、ブラドは立ち上がった。 「いや、あの時しがみついて泣いていた坊やだとは思えないくらいたくましく見えるなと思って」 そうして耳まで真っ赤になったバーンを残してクスクスと笑いながらブラドは先を歩く。すると後ろから恨めしそうな情けない声が響いた。 「あんた、絶対性格悪くなったぞ」 笑いが収まらずに笑顔のまま後ろを振り返ると、バーンが赤くなりながら半分涙目でこちらを睨んでいた。ブラドはその瞳に笑いかける。 「性格が悪くなったとしたら君のせいだよ」 「何で俺のせいなんだよ!」 「分からないのならいいよ」 「全然良くない!」 どうにもブラドは笑いが止まらない。何だかとても楽しくて笑うのを止めようという気分にもなれない。ふと見ると、バーンは未だしかめ面のまま自分を睨み続けていた。その様がまた可愛らしくてブラドはつい微笑んでしまう。 「悪かった。すまない。謝るからそう拗ねるな」 笑いながらそう言ってブラドはバーンに手を伸ばした。自分に向かって差し出された手をバーンは少しびっくりした顔で見つめて、そして笑顔に戻って当たり前のようにその手を取った。 当然のように差し伸べた手をためらう事なく取る相手がいる。ただそれだけの事がこんなに嬉しい事だとは今まで知らなかった。 ***** くもりの日 *****
それでもおしまいの時はやって来る。 「きゃああっ!!」 ウェンディの悲鳴と同時に皿の割れる音が部屋中に響く。バーンは急激に夢の世界から現実に舞い戻り乱暴にソファから立ち上がった。自分の動悸がやけに耳について煩い。躊躇する間もなく身体が動いた。立ち上がりざまキッチンへと駆け込む。 最初に目にしたのは怯えきったウェンディの表情だった。胸元で堅く両手を握り締めて真っ青な顔で足元に目を向けている。声も上げられずに泣き出しているように見えた。その視線を追って眼に入ったのは無残な割れた皿の残骸と苦しそうにうめいている人物の折り曲がった身体。喘ぎの中で声にならない悲鳴を上げている。 「ブラド…! おい、しっかりしろ!」 バーンは散乱した破片に構わずウェンディの足元に駆け寄ると膝を付き、ブラドの身体を抱き起こすように支える。その時苦し気に息を漏らすブラドと視線が合った。色素の薄い赤い瞳が鮮血に染まっているように見えてバーンの背筋に冷たいものが走る。 「…バーン、バーン…!」 うわ言のように自分の名を呼ぶウェンディの声に彼女の存在を思い出してブラドを支えた腕はそのままに声の方を振り返った。そしてせっぱつまった表情で彼女に言う。 「お前はエミリオを連れて二階に行ってろ。俺が呼ぶまで下に降りて来るんじゃないぞ、いいな!」 そうしてバーンは彼女に向かってにっこりと微笑んだ。 「大丈夫だ。心配するな」 そのまま笑顔で狼狽するウェンディを促して彼女がこの場から立ち去ったのを確かめると、表情を引き締めて自分の腕の内で未だ苦痛にうめいているブラドに目をやった。身体中から汗が吹き出ているように全身が冷たくて、二つ折りに自分の身体を抱え込んで荒い息を漏らしている。 「ブラド、しっかりしろ! 俺の声が聞こえるか!?」 バーンの呼びかけに応えるようにブラドはぼんやりとした表情でバーンを見上げた。彼の瞳に自分が映っているのかバーンには分からなくて情けない歯痒い気持ちになってしまう。 ──と、その瞳の色が変わった気がした。気のせいではなかった。ゆっくりと、バーンに思い知らせるように変化する。赤から紅に。深紅の血の色に。そうして凶悪な光が宿る。さっきまで苦痛を訴えていた唇にゆったりとした笑みが浮かんだ。バーンの身に戦慄が走り抜ける。自分を驚愕に満ちた眼差しで声もなく見つめているバーンに向かってブラドの唇が動いた。 「久し振りだな。会いたかったぜ」 ブラドの紅い瞳が暗い輝きを放つ。それを認めた瞬間、バーンは反射的にその身体を抱きしめた。そうして彼の唇に自分の唇を押し付ける。頭の中を極彩色の光が踊っているようで目眩がした。何をやっているんだか彼自身にも分からない。 『ブラド』も相当驚いたのだろう、顔から笑みを消してようやく唇を離したバーンの顔をあっけに取られて見つめていた。 「悪いんだけどさ」 バーンが不敵に笑って『ブラド』に向かって言い放った。決して他の誰にも見せないだろう、好戦的な狂気に満ちた眼差しで。 「今はお前に構っている暇はないんだ。もう少し待っていてくれたら好きなだけ付き合うよ。──その時はちゃんと俺が殺してやるから」 平然と、当然のごとくそう言いきったバーンをブラドはしばし茫然と見つめていた。その内紅い瞳が輝く顔に笑みが浮かび、ブラドは不意にバーンの身体を引き寄せた。 急な事にバランスを崩してされるがままに引き寄せられるとブラドの眼前にバーンの肩口が差し出された形になった。その肩にブラドはうっとりとした表情で歯を立てる。鋭い痛みに思わず表情を歪めるバーンに構わず血が流れ出すくらい強く噛み締め、それからゆっくりとその肩口から離れるとブラドは彼の耳元で何事か囁いた。そうして茫然とした様子でこちらを見ている瞳に向かって笑いかける。何処か残酷な雰囲気を伴ったその笑顔にバーンがぞくりと肌が粟だつのを自覚した瞬間、ブラドはがっくりと彼の腕の内に身を落とした。バーンは慌てて糸が切れたように崩れ落ちるブラドの身体を抱き止める。そうして恐る恐るその表情を覗き込んだ。 「ブラド…?」 その声に反応してのろのろとブラドは顔を上げた。夢から覚めたような表情で自分を見つめるブラドの瞳から凶々しい光が消えている事を確認して、バーンはようやく安堵の息をついた。嬉しさのあまりにブラドの身体をきつく抱きしめる。ブラドはただぼんやりと、抵抗する事もなくその腕の内に身体を預けていた。 「…血が出ている…」 ふと顔を上げてブラドが血で滲んだバーンの肩口を見咎める。自分の口の中に広がる鉄の味を感じてブラドは自分をほっとした表情で見ているバーンを見上げた。 「これ…、僕がやったんだね…?」 「ああ、これか? こんなのたいした事ないよ」 バーンはさして気にする風情も見せずにブラドに笑いかける。けれどもブラドは俯いて肩を震わせた。 「すまない」 「ホントに大丈夫だよ。俺、丈夫が取り得だから」 「すまない…」 俯いたまま震える声で謝り続けるブラドにバーンはどうしてやれば良いのか分からなかった。困った表情でブラドを見下ろすとほんのちょっと思案して、もう一度ブラドのその細い身体を抱きしめた。慌てるブラドにバーンは少し怒ったような口調で言う。 「あんまり泣くなよ。俺、困るよ」 そう言ってからまた妙に深刻な表情で考え込んで、バーンはもう一度口を開いた。 「──訂正する。泣きたい時は泣くのが一番だな。大丈夫だ、俺が居るから」 バーンの言葉にブラドは思わず吹き出した。泣きたいくらい苦しいのにおかしくてたまらない。 「君のその自信は何処から来るんだい?」 「そりゃもう日々精進してるから」 冗談とも本気ともつかない口調で照れる事もなくバーンはそう言ってブラドに笑いかける。ブラドは笑っていた。涙を流している自分を自覚しながら。バーンはその顔を見ないようにしっかりとブラドの身体を抱きかかえる。堪えるように低い鳴咽を漏らすブラドの背を優しくさすりながら低い声で囁いた。 「いいから声出して泣けよ。俺が側に居るから。ずっとあんたの側に居る」 自分だって決して泣き声を上げなかったくせにと心の内で密かに毒づきながら、ブラドは素直に声を上げて泣いている自分を何処か遠くで眺めていた。そう言えばこんな風に泣いた記憶がない事に気づいて思わず苦笑する。自分を塞いでいた高い壁が融けるような開放感が気持ち良かった。 『ずっと側に居る』 実現出来る訳がないのを知っていて平気でそんな言葉を口にする。彼は本当にいい加減な男だ。しかし今のブラドには何よりも嬉しい、信じたい言葉でもあった。 その日の夕食は静かだった。ブラドはもちろんウェンディもエミリオも黙々と手と口を動かすだけで何も語らない。バーンもさすがに今日ばかりは大人しくしていた。 「何だエミリオ、眠いのか?」 夕刻の出来事の緊張が解けたのか、エミリオがうつらうつらとしているのをバーンが見咎める。スプーンを握る手元がおぼつかない。 バーンは立ち上がって有無を言わさずエミリオの身体を抱き上げた。半分眠って、でも狼狽して抗議の声を上げるエミリオに気を留めずにバーンはウェンディに声をかける。 「ちょっとエミリオを上に寝かしてくるから」 そうしてさっさと階段の方へ消えていった。後に残ったウェンディとブラドはお互い気まず気に視線を交わすと、どちらともなくため息をついた。 「まあ飯も大事だけどさ。眠い時は寝るに限るぞ」 自分で歩けると訴えるエミリオを無視してその小さな身体をベッドまで運ぶとバーンはようやく降ろしてやる。渋るエミリオに偉そうな態度でベッドに横になる事を強要してその身体に毛布をかけ、バーンは微笑んで言った。そしてそのまま部屋を出ようと踵を返す…つもりが出来なかった。見下ろすとエミリオが自分のシャツの端をしっかり掴んでいる。 「エミリオ?」 怪訝そうにその姿を見下ろすと彼は真剣な表情でこちらを見つめていた。どうにも落ち着かなくてバーンは困惑してしまう。 「どうした、具合悪いのか?」 「─行かないで」 エミリオの口から漏れた言葉にバーンは思わずまじまじとエミリオを見つめた。思いつめたような真剣な表情がとても痛々しく見える。 「お願いだから何処にも行かないで。ずっと側に居てよ、バーン…!」 泣き出しそうな表情で訴えるエミリオをバーンはあっけにとられたまま見つめ、それから明るく笑った。 「大丈夫だ。ちゃんと側に居る。だから心配するな」 自身あり気に断言するバーンにエミリオはようやく顔をほころばせる。恥ずかしそうにバーンを引き止めていた手を離して、赤くなりながらウェンディには黙っていてくれと懇願した。バーンがただ笑ったまま返事をしないのでエミリオはちょっと拗ねたのだろう、彼に背を向けると毛布を頭から被ってしまった。 バーンは静かにその場を離れるとそっと扉を開いて外へ出た。なるべく音がしないように閉めてひとつため息をつく。気配を感じて廊下の奥に目を凝らすとウェンディが不安そうな面持ちでこちらをじっと見つめていた。バーンは黙って彼女の方に歩いていく。近付くと彼女の眼が赤いのが見てとれた。 「バーン…、あのね。あの…」 そう言ったきり次の言葉が続かない。すがるように自分を見つめてくる瞳にバーンはただ穏やかに笑ってみせた。 「大丈夫だ、何も起きない。明日になればまた何時も通りの退屈な時間が続くよ。だから今夜はゆっくり眠るといい」 そうして彼女の身体をそっと抱き寄せるとその額にキスを落とす。 「おやすみ。良い夢を」 既に夢の中に居るようにぼんやりと自分を見つめているウェンディの瞳にもう一度笑いかけてバーンはそっとウェンディの身体を彼女の部屋の方へ促した。何処かおぼつかない足取りでウェンディは素直にバーンの言葉に応じる。彼女の部屋の扉が内側から閉まるのを、バーンは黙って見つめていた。 「─スケベ」 不意に後ろを振り向いてバーンはからかうような笑みを投げる。そこではブラドがこちらをじっと眺めていた。バーンはくるりと身体を返すと咎めるように言った。 「黙って見てるんだもんな。あんたも人が悪いよ」 そうしてケラケラと笑う。何のてらいもない、影のない笑顔だった。 「俺も今日はそろそろ寝るよ。さすがに疲れた」 ブラドを暗に責めるような言葉とは裏腹にとても優しい口調だった。そのまま黙ったままのブラドを気にも止めないような風情でバーンは後ろを向いて歩き出した。何やら鼻歌を口ずさみながら、部屋に入るまで決して振り返る事もなく。 「…嫌な男だ」 バーンの消えた先を凝視してブラドは小さく呟いた。 平気な顔で残酷な嘘をつく。 ***** おしまいの夜 *****
月明りが冷たい。それでも星の輝きが定かに見えないくらいにその光は眩かった。その明る過ぎるような光が窓から漏れてくるおかげで真夜中の階段を灯りを点さなくとも労なく降りる事が出来た。靴音を響かせないように慎重に歩く。階段を降り、居間を抜けて、外へ──。ふと、こちら側を向いているソファに黒い影を認めた。何時も『彼』が座っていた場所に。その影がゆっくりと口を開く。 「『大丈夫だ、何も起きない』んじゃなかったのかい?」 そう言ってブラドが静かに微笑んだ。その言葉にバーンはバツが悪そうに頭をかいて苦笑する。 「『ずっと側に居る』とか言っていたと思うんだが…」 からかうような口調のブラドの言葉にバーンはもう一度苦笑して応じた。 「しょうがないよ。俺、嘘つきだからな」 そうしてしっかりとブラドに目を向ける。その瞳には迷いのかけらもなくて、だからこそとても痛々しく見えた。 「キースが待っているんだ。だから行かないとな」 「『僕』が現れたからね」 多分ノアが彼ら三人に構っている余裕がない事は本当だったのだろう。しかし約束を守るつもりもまた無かったのだ。もう一人の自分が現れる。それがこの約束の終了の時。何かしらの計画の準備が出来上がった合図。幾らヤツでも一人で彼ら三人を相手にすれば無事では済むまい。しかし彼らもきっと深手を負う事になるだろう。僕に心を移したせいで。優しい人間らしい心のせいで自らを傷つけてしまう。その傷つき弱った隙を狙われてしまえばひとたまりもなく、全てが終わる。バーンは初めから、自分が告げたキース様の…キースの言葉からその事を察していたのだろう。彼は待っていたのだ。大きな計画への足がかりが整った、一番組織の気が緩むであろうその瞬間を。 「キースは…、あいつは優しいんだよ。俺なんかよりもずっと。自分じゃ気がついていないだけなんだ。だから自分から逃げる事は出来ない。…何とかしてやらなくちゃな」 バーンは優しく微笑んでいた。本当に優しい柔かな笑顔で。 「─それに、このままじゃキースだけじゃなくて俺も一歩も動けない」 ほんの少し厳しい表情を覗かせてバーンは自分に言い聞かせるように呟いた。それも一瞬の事ですぐに笑顔に戻ってブラドを見つめる。 「ひとつ頼みがある。ウェンディとエミリオな、今夜くらいはゆっくり眠らせてくれないか? …きっとしばらくは安心して眠れる時間は過ごせないだろうからな。夜が明けるまででいい、俺の代わりにあの子達を守ってくれ」 「『僕』がウェンディとエミリオを傷つけてしまうかもしれないよ?」 ブラドにはバーンの願いを承諾する事は出来なかった。『殺す』という言葉は使いたくなかったが、今でこそ静かにはしているが心の闇の奥底で鎌首をもたげるように時を待っているもう一人の存在をずっと感じている。とてもそんな約束をする事など出来ない。 バーンは小首を傾げるとしばし口をつぐみ、それから唐突にブラドに尋ねた。 「あのさ、あんたに言う言葉でもイッちゃってる方のあんたには聞こえてるのかな?」 ─イッちゃってる─。いくら何でもあまりの言われ様だと思ったが、妙にぴったり合っているような気がして否定出来ない。ブラドは内心ふてくされつつも、多分聞こえていると返答した。するとバーンはそりゃ良かったとにっこりと笑い、ブラドを追い越したその先を見つめるような視線を向けた。 「─おい、聞こえてるか? 俺の居ない間にウェンディとエミリオに傷ひとつ付けるなよ。もし何かしたら絶対お前に食われてなんかやらないからな!」 妙に楽しそうに『ブラド』に命令するバーンをブラドはあっけに取られて眺めていた。何事が起きているのか良く理解出来ない。 「もしお前が何かしでかしたら逃げて逃げて、絶対お前なんかと遊んでやらないからな! いいか、約束したぞ!!」 一気に言葉を吐いてバーンは満足気に笑う。ブラドは茫然としたままで何も言えなかった。何か言うべきだとは思ったのだがびっくりしすぎて頭が上手く働かない。しかし胸の内の衝動がすっかり大人しくなっているのに我ながら驚嘆していた。 「これで多分大丈夫だろ」 自信満々で断言するバーンにブラドは疑わし気な目を向けた。 「どうして君にそんな事が分かるんだい?」 「あいつは俺に惚れてるからさ」 あっさりとそう言ってのけてバーンはニヤニヤと笑う。ブラドはあきれてしまって何も言えなかった。 「もう一人のあんたは一日早いお出ましだったらしいぜ。そんなに俺に会いたかったのかな? おかげで時間に余裕が出来て大助かりだよ」 おかしそうに笑いながらそんな言葉を口にするバーンにブラドはもう一度あきれ返る。 「まさかその言葉を信じているんじゃないだろうね?」 「もちろん信じてるよ」 またもやあっさりと返答されてブラドは二の句を継げなかった。絶句しているブラドの様子にバーンはケラケラと笑って、しかし不意にその笑みを引っ込めると真顔でブラドを見つめた。あまりに真摯な眼差しなのでブラドは彼の瞳から視線を逸らせなくなる。息の詰まる逃げ出してしまいたいような沈黙が流れたが、その内バーンはふっと視線を和らげると静かに微笑んだ。 「俺、あんたが好きだよ。イッちゃってる方も別に嫌いじゃないな。はた迷惑な奴だけど自分に正直だもんな。──俺は嘘つきで偽善者だからさ」 そう言ってバーンは恥ずかしそうに苦笑する。ブラドはただ黙ってバーンの言葉を聞いていた。 「あんたと居ると本当に楽しかった。もっとあんたと一緒に居たかったな。……本当に、出来ればこのままずっと」 「なら還って来い」 唐突に響いたブラドの声に今度はバーンが絶句した。心底びっくりしたような眼で彼を見つめている。けれども一番驚いているのはブラド自身だった。どうしてこんな事を口にしたのか。それでも一度口にしてしまったものはしょうがないと、ブラドは信じられないほど冷静な自分を自覚した。 「だったら還って来ればいいだろう? ちゃんと待っていてやるから」 最後にはからかうような笑顔を覗かせてブラドはバーンのために言葉を紡ぐ。バーンは未だに茫然とした表情でただ黙ってブラドを見つめ…、そしてにっこりと微笑んだ。月明りを背に受けて、自分だけに向かって。 今まで数え切れないくらい彼の笑顔を見てきた。しかしこの時ほど泣き出してしまいそうな、それでも嬉しそうな明るい彼の笑顔をブラドは見た事がなかった。 「──ああ、きっと。…必ず!」 そうしてその笑顔のまま軽く手を挙げてバーンは部屋を出て行った。一度も振り向かず、歩みを緩める事もなく。 ブラドはしばらくぼんやりと彼の姿が消えた扉を見つめていた。ちょっとした後悔の念と妙に清々しい気分がその身を浸している。窓から見える月明りを何の気なしに眺めながら、ブラドは小さく呟いた。 「とても君のように全人類の幸福を願う気にはなれないけどね…」 それでもただ一人の、たった一人の人間の幸福を願わずにはいられなかった。どうか死に急ぐ事のないように。もう一度その姿を見る事が出来るように。そして…、何時までも明るく笑っていられるように。 ──どうか 彼が 幸せになりますように──
了 1999.8.8
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