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みかきもりの気ままに小倉百人一首

2009/05/17 8人の天皇
(2009/05/25 コメント追加)

小倉百人一首の作者には8人の天皇がいますが、その8人の天皇とその天皇に縁の深い
藤原氏を通して、小倉百人一首に日本の歴史や文学史を垣間見ることができます。
定家は小倉百人一首に日本の歴史の象徴として8人の天皇を入れたのではないでしょうか。
最初(天智・持統)と最後(後鳥羽・順徳)が親子の天天と、まるでダブルクォーテーション(”)で
囲むようになっています。57代陽成院、58代光孝天皇は天天が並んでいてもよさそうなのに、
河原左大臣(源融)「陸奥の」が割り込んでいます。
定家はきっと意味や構造を考えて作者を並べているのでしょうね(^^)

No. 天皇代 作者
(生年-没年)
縁の藤原氏
(生年-没年)
作者や縁の藤原氏に関するできごと 日本文学史上のできごと
1 38代 天智天皇
(626-671)
秋の田のかりほの庵のとまをあらみ
わがころもでは露にぬれつつ
藤原鎌足
(614-669)
鎌足、藤原氏の始祖。
645年、大化の改新。
669年、中臣鎌足、臨終に際して天智天皇から大織冠とともに藤原姓を賜る。
統一国家形成で集団から個へ意識が変わり、個的な心情を和歌で表現。
・万葉がな(漢字の転用)
・歌体が5音、7音に定型化。
■万葉集 第1期
素朴ながらも清新
舒明天皇(629即位)〜壬申の乱(672)頃
・代表歌人 天智天皇、額田王
■万葉集 第2期
枕詞・序詞・対句などの技巧が発達
壬申の乱(672)頃〜平城京遷都(710)頃
・代表歌人 持統天皇、柿本人麿
■万葉集 第3期
知的な傾向を強め、繊細で洗練
平城京遷都(710)頃〜天平5年(733)頃
・代表歌人 山部赤人
■万葉集 第4期
社会不安が深まり、繊細で感傷的
天平5年(733)頃〜天平宝字3年(759)
・代表歌人 大伴家持
2 41代 持統天皇
(645-702)
※天智天皇の第2皇女
春過ぎて夏来にけらし白妙の
衣ほすてふ天の香具山
藤原不比等
(659-720)
※鎌足の次男
不比等、藤原氏の実質的な家祖。
697年、不比等、持統天皇の孫である42代 文武天皇(15歳)の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てくる。
698年、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされる。
701年、大宝律令の制定。

■日本最初の国史「日本書紀」(720年完) 神代〜持統天皇まで
13 57代 陽成院
(868-949)
筑波嶺の峰より落つるみなの川
恋ぞつもりて淵となりぬる
藤原基経
(836-891)
基経、藤原氏が天皇より権勢が強くなったことを世に知らしめた。
基経、清和・陽成・光孝・宇多の四代にわたり朝廷の実権を握る。
884年、基経、陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てる。
    (公卿会議で源融が天皇に名乗りを上げるが基経が退けた)
887年、基経、宇多天皇が大政を委任し、日本で最初の関白となる。阿衡事件で基経が天皇に謝罪させその権勢を世に知らしめた。

■六国史6番目「日本三代実録」(901年完) 清和天皇〜光孝天皇まで

[みかきもり] 小倉百人一首No.13-15の作者である陽成院、河原左大臣(源融)、光孝天皇は、 まさに基経が陽成天皇を廃位して光孝天皇を立てたときの関係者です。
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(13)陽成院「筑波嶺の」
陽成院の上皇歴65年はNo.1の記録で退位後、光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上と、光孝天皇からの皇統継承5代を見ています。 筑波山の分かれた峰から流れるみなの川のように分かれた光孝天皇からの皇統がいつしか5代にもなってしまったことがこの歌に感じられます。
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(14)河原左大臣(源融)「陸奥の」
臣籍に下り天皇への道が遠くなっても天皇になりたいという源融の忍ぶ想いを表しているように感じます。
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(15)光孝天皇「君がため」
光孝天皇は自分を天皇にした基経に大政を委任し、自らの皇子を臣籍に下ろしています。 「君がため」の歌はあなたのために雪が降る中で苦労して若菜を摘んだと、若菜を贈る相手に誠意を示しています。 若菜を摘むことが皇子を臣籍に下ろすことを連想させ、誠意を尽くした光孝天皇にふさわしい歌と定家は感じたのではないでしょうか。
唐が衰え、唐風文化から国風文化復興の転換期。
・かな文字の普及。(万葉がなの簡略化)
・漢詩文が衰退し、和歌が復興。
894年、遣唐使を停止。
90x年、竹取物語(最古の作り物語)
90x年、伊勢物語(最初の歌物語)
905年、古今集(最初の勅撰和歌集)
   勅命:醍醐天皇
   撰者:紀貫之 、紀友則、壬生忠岑、
       凡河内躬恒
15 58代 光孝天皇
(830-887)
君がため春の野に出でて若菜つむ
わが衣手に雪は降りつつ
68 67代 三条院
(976-1017)
心にもあらでうき世にながらへば
恋しかるべき夜半の月かな
藤原道長
(966-1028)
道長、藤原氏の権勢の絶頂期。
996年、一条天皇、道長を左大臣に任ずる。
1016年、道長、三条天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。 1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。
1018年、道長、後一条天皇に三女の威子を入れて中宮となした祝宴のときの即興の歌
「この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

[みかきもり] 三条院の歌「心にも」は道長に促され譲位を決意した退位1か月前のものです。 この歌と道長の歌「この世をば」とが絶妙にコントラストを描いています。
宮廷や後宮の女性たちによる女流文学の開花。
1001年頃、枕草子(清少納言)
1007年頃、和泉式部日記
1008年頃、源氏物語(紫式部)
1010年頃、紫式部日記
77 75代 崇徳院
(1119-1164)
瀬を早み岩にせかるる滝川の
われても末に逢はむとぞ思ふ
藤原俊成
(1114-1204)
院政により藤原摂関家の権勢が衰える。
1086年、白河院、院政をはじめる。
1123年、院政を行う祖父・白河院(71歳)のもとで3代目の幼主となる崇徳天皇(5歳)即位。
1142年、院政を行う父・鳥羽院(40歳)に疎んじられ、崇徳天皇(24歳)は異母弟・近衛天皇(4歳)に譲位。
1156年、崇徳院(38歳)は保元の乱に敗れ、讃岐に流罪。
1164年、崇徳院(46歳)が亡くなる前に俊成(51歳)に見せよと書き置いた歌
「夢の世になれこし契り朽ちずして さめむ朝(あした)にあふこともがな」
夢のようにはかない世でのあなたとの絆がこのまま朽ちないで
迷いの夢から覚めた浄土で再び逢いたいものだ。

[みかきもり] 「瀬をはやみ」の歌は「夢の世に」の歌とオーバーラップして崇徳院の俊成に対する想いが感じられます。 またぶつかりあう保守と革新の和歌の流れを俊成が調和させ和歌の流れを一つにしたこともこの歌から感じます。
俊成、保守と革新を調和させ、優美で静寂な余情・幽玄の世界を開拓。
1127年、金葉集(八代集5番目)[革新的]
   勅命:白河院
   撰者:源俊頼
1151年、詞花集(八代集6番目)[保守的]
   勅命:崇徳院
   撰者:藤原顕輔
1188年、千載集(八代集7番目)
   勅命:後白河院
   撰者:藤原俊成
99 82代 後鳥羽院
(1180-1239)
人もをし人もうらめしあぢきなく
世を思ふゆゑに物思ふ身は
藤原定家
(1162-1241)
※俊成の次男
鎌倉幕府と朝廷との権力の二重構造になる。
1192年、源頼朝、征夷大将軍となる。
1200年、定家、後鳥羽院の院初度百首に詠進し以後院の愛顧を受ける。
1201年、後鳥羽院、新古今集を下命する。定家ら6人が撰者となり、1205年に奏覧。1216年まで切継。
12xx年、順徳院、幼少期より定家を和歌の師とする。
1220年、順徳院の内裏歌会に提出した定家の歌が後鳥羽院の怒りに触れて公の出座・出詠を禁じられる。

承久の乱で朝廷が敗れ、鎌倉幕府の権勢が強くなる。
1221年、承久の乱に敗れ、後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡に流罪。
1226年頃、後鳥羽院、歌論書「後鳥羽院御口伝」で定家の歌を評価
「惣じて彼卿が歌のすがた、殊勝のものなれども、人のまねぶべき風情にはあらず。 心有様なるをば庶幾せず。
たゞ、ことばすがたのえんにやさしきを本体とせる間、其骨すぐれざらむ初心のものまねばゞ、正体なき事になりぬべし。
定家は生得の上手にてこそ、心なにとなけれども、うつくしくはいひつゞけつけたれば、殊勝のものにてこそはあれ。」
[要旨]定家の歌の姿は優れているが心の深さを求めていない。 定家は生まれながらの上手なのでその歌の心がどうであろうと優れた歌をつくる。 初心者が定家の歌をまねると中身のない歌になってしまう。
1232年、順徳院、佐渡で百首歌を詠じて定家と隠岐の後鳥羽院のもとに送って合点を請う。
1237年、定家、順徳院にこの百首歌の評語を添えて進上する。
1237年、藤原家隆、薨去(80歳)(承久の乱後も後鳥羽院と音信を絶やさなかった)。
1239年、後鳥羽院、崩御(60歳)。
1241年、藤原定家、薨去(80歳)。
1242年、順徳院、崩御(46歳)(絶食の果ての自殺といわれる)。

[みかきもり]
(99)後鳥羽院「人もをし」
この歌は定家の後鳥羽院に対する想いを表しているように感じます。 後鳥羽院が隠岐へ流されてはじめて、 後鳥羽院がいたから定家が思い描いていた和歌の世界があったのだと気づいたのではないでしょうか。
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(100)順徳院「ももしきや」
この歌は定家が和歌で活気のあった宮中をもはや遠い昔のこととして偲んでいる気持ちを表しているように思います。
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家隆、後鳥羽院、定家、順徳院がまるでドミノ倒しのように亡くなっていったのは、 和歌を心の支えに生きてきて、才能を認め合った者が一人亡くなり、また一人亡くなりとする中で ぽっかりと心にすき間ができてしまったからなのでしょう。
定家、優雅で艶やかな美しさを言外に感得させる余情美・有心の世界を説き、幽玄をさらに押し進める。
1205年、新古今集(八代集最後)
   勅命:後鳥羽院
   撰者:藤原定家、藤原家隆、
       飛鳥井雅経、寂蓮、
       源通具、六条有家

定家、承久の乱の後、平淡で典雅な歌風となる。
1235年、新勅撰集
   勅命:後堀河天皇
   撰者:藤原定家
100 84代 順徳院
(1197-1242)
※後鳥羽院の第3皇子
ももしきや古き軒端のしのぶにも
なほあまりある昔なりけり
■参考文献
・明説日本文学史      全国高等学校国語教育研究連合会(尚文出版)
・原色シグマ新日本文学史        秋山 虔、三好 行雄(文英堂)
・百人一首 全訳注           有吉 保      (講談社学術文庫)
・全訳古語辞典(第二版)        宮腰 賢、桜井 満 (旺文社)

■参考URL
・Wikipedia 院政千人万首 崇徳院千人万首 藤原定家千人万首 後鳥羽院千人万首 順徳院後鳥羽院御口伝附(《後鳥羽陰御口伝》に現われた後鳥羽上皇の定家評)Wikipedia 陽成天皇Wikipedia 光孝天皇Wikipedia 崇徳天皇Wikipedia 藤原鎌足Wikipedia 藤原不比等Wikipedia 藤原基経Wikipedia 藤原道長Wikipedia 藤原俊成Wikipedia 藤原定家

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