No. | 作者 | 歌 | 伊勢物語 |
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17 | 在原業平 | ちはやぶる神代も聞かず龍田川 からくれなゐに水くくるとは |
第71段 昔、男、伊勢の斎宮に内の御使にてまゐれりければ、かの宮にすきごといひける女、 わたくしごとにて、 ちはやぶる神の斎垣(いがき)も越えぬべし大宮人の見まくほしさに 男、 恋しくは来ても見よかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに [みかきもり] ちはやぶる この段は業平と斎宮恬子内親王との禁忌の関係を想起させます。 恬子内親王は文徳天皇の皇女で業平が仕えた惟喬親王の妹です。 第6段 昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、 いと暗きに来けり。芥川といふ河を率(ゐ)ていきければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ」 となむ男に問ひける。 ゆくさき多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降り ければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、男、弓・胡籙(やなぐひ)を負ひて戸口に居り、 はや夜も明けなむと思つつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴る さわぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見ればゐて来し女もなし。足ずりをして泣けども かひなし。 白玉かなにぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを (以下略) [みかきもり] 神代も聞かず 業平がやっとのことで藤原高子を連れだしたのを、藤原国経・基経の兄弟に連れ戻されます。 藤原基経の同母妹の藤原高子(二条后)は後に25歳で入内し清和天皇(17歳)の女御となり、 その2年後陽成天皇を産みます。 第106段 昔、男、親王たちの逍遥し給ふ所にまうでて、竜田河のほとりにて、 ちはやぶる神代もきかず竜田河からくれなゐに水くくるとは [みかきもり] 龍田川 この「ちはやぶる」の歌は、古今集の詞書に「二条后の春宮の御息所と申しける時に、 御屏風に龍田川に紅葉流れたる形をかけりけるを題にてよめる」とあります。 この歌は業平の二条后へのメッセージに感じられます。 「秋の女神の龍田姫のように美しいあなたが天皇家(天皇旗は紅)の御簾をくぐるとは!」 第9段(9x1=9) 昔、男ありけり。その男身をえうなきものに思ひなして、「京にはあらじ、あづまの方(かた)に 住むべき国求めに」とて行きけり。もとより友とする人ひとりふたりしていきけり。道知れる人もなくて まどひいきけり。三河(みかわ)の国八橋(やつはし)といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、 水ゆく河の蜘蛛手(くもで)なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける。その沢のほとりの 木の陰におりゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、 ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字(いつもじ)を句の上(かみ)に据ゑて、旅の心をよめ」と いひければ、よめる、 から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ とよめりければ、 皆(みな)人、乾飯の上に涙おとしてほとびにけり。(以下略) [みかきもり] から 業平が斎宮恬子内親王との件や藤原高子(二条后)との件で京に居づらくなって東下りを することになったことが感じられます。 第18段(9x2=18) 昔、なま心(ごころ)ある女ありけり。男近うありけり。女、歌よむ人なりければ、心見むとて、 菊の花のうつろへるを折りて、男のもとへやる。 紅(くれなゐ)ににほふはいづら白雪の枝もとををに降るかとも見ゆ 男知らずよみによみける、 紅(くれなゐ)ににほふがうへの白菊は折りける人の袖かとも見ゆ [みかきもり] くれなゐに 「紅ににほふ」から藤原高子(二条后)が感じられます。 第27段(9x3=27) 昔、男、女のもとに一夜いきて、又もいかずなりにければ、女の、手洗ふ所に、貫簀(ぬきす)を うちやりて、たらひのかげに見えけるを、みづから、 我ばかり物思ふ人は又もあらじと思へば水の下にもありけり とよむを、来ざりける男立ちききて、 水口(みなくち)に我や見ゆらむかはづさへ水の下にて諸声(もろごゑ)になく [みかきもり] 水 業平と藤原高子(二条后)との御簾ごしのやりとりが感じられます。 第63段(9x7=63) つくも(9x11=99) 昔、世心(よごころ)つける女、いかで心なさけあらむ男にあひ得てしがなとおもへど、言ひ出でむも たよりなさに、まことならぬ夢語りをす。子三人(みたり)を呼びてかたりけり。二人の子はなさけなく いらへてやみぬ。三郎なりける子なむ、「よき御男ぞいでこむ」とあはするに、この女気色(けしき) いとよし。「こと人はいとなさけなし。いかでこの在五中将にあはせてしかなと思ふ心あり。狩しありき けるにいきあひて、道にてむまの口をとりて、「かうかうなむ思ふ」といひければ、あはれがりて、来て 寝にけり。さてのち、男見えざりければ、女、男の家にいきてかいまみけるを、男ほのかに見て、 百年(ももとせ)に一年(ひととせ)たらぬつくも(九十九)髪我を恋ふらし面影に見ゆ とて出でたつ気色を見て、むばらからたちにかかりて家に来てうちふせり。男かの女のせしやうに しのびて立てりて見れば、女なげきて寝(ぬ)とて、 さむしろに衣かたしきこよひもや恋しき人にあはでのみ寝む とよみけるを、男あはれと思ひてその夜は寝にけり。 世の中の例として、思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬものを、この人は、思ふをも思はぬをもけぢめ 見せぬ心なむありける。 [みかきもり] くくるとは 清和天皇と藤原高子(二条后)との間には3人の子ども(陽成天皇、貞保親王、敦子内親王)がいます。 また二条后は896年55歳の時に東光寺の座主善祐と密通したという疑いで皇太后を廃されており、 ここでも二条后が感じられます。業平が二条后より17歳年上で、55歳で亡くなったことを考えると、 この段でこの女性は30歳代を想像します。 中国では百は完結し、九十九は無限を意味しています。数字の『九九』と永遠を意味する『久久』は 同じ音を持っています。つくも(九十九)が九九と永遠で「くくるとは」です。 「ちはやぶる」の下の句から連想される伊勢物語の段がすべて9の倍数なのはこの九十九のために あるのかもしれません。ここまで計算して伊勢物語がつくられていたとは驚きです。 そうすると、第99段と第100段が気になります。 第99段 昔、右近の馬場のひをりの日、むかひに立てたりける車(くるま)に、女の顔の下簾よりほのかに 見えければ、中将なりける男のよみてやりける、 見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめ暮さむ 返し、 知る知らぬなにかあやなくわきていはむ思ひのみこそしるべなりけれ のちは誰と知りにけり。 第100段 昔、男 後涼殿のはさまを渡りければ、あるやむごとなき人の御局より、忘れ草を「忍ぶ草とやいふ」 とていださせ給へりければ、たまはりて、 忘れ草生ふる野べとは見るらめどこは忍ぶなり後もたのまむ [みかきもり] 水くくるとは 第99段、第100段でも藤原高子(二条后)が感じられます。 第100段では「とは」もあり、しっかり完結しています。 【参考】古今集仮名序 ありはらのなりひらは、その心あまりてことばたらず。 しぼめる花のいろなくてにほひのこれるがごとし。 [みかきもり] 在原業平「ちはやぶる」と伊勢物語を組み合わせるとこんなに奥が深くなるとは 思いもしませんでした。定家は仮名序での業平の評価も踏まえながら、この「ちはやぶる」を 選んだのだと思います。また「水くくる」か「水くぐる」かの議論について、定家は「水くくる」が 「御簾くぐる」を掛けているとして「水潜る」と考えたように思います。 |
■参考文献 ・百人一首 全訳注 有吉 保 (講談社学術文庫) ・伊勢物語(上)(下) 全訳注 阿部 俊子 (講談社学術文庫) ・古今和歌集(一) 全訳注 久曾神 昇 (講談社学術文庫) ・全訳古語辞典(第二版) 宮腰 賢、桜井 満 (旺文社) ■参考URL ・Wikipedia 伊勢物語 ・Wikipedia 在原業平 ・Wikipedia 藤原高子 ・露草色の郷/伊勢物語を語る ・九十九学校 ・バロッコな日々 ・志あるリーダーのための「寺子屋」塾/前田比良聖 第31話「千早振る」