No. | 作者 | 歌 | 解釈 |
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42 | 清原元輔 | 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは |
■古今和歌集 古今和歌集 巻第二十 東歌(あづまうた)(1093番) 君をおきて あだし心をわがもたば すゑの松山 浪もこえなむ ---------- あなたをさしおいて、他の人に心を移すようなことがあったならば、あの末の松山を 波が越えるようになってしまうでしょう(そんなことはけっしてあり得ません)。 ---------- [みかきもり] 貞観地震から36年後、「日本三代実録」から4年後の延喜5年(905年)に成立した 古今和歌集にはこの「君をおきて」の歌が載っています。 松山は防潮林で、津波や高潮に対して幾重にも防衛ラインが築かれ、その最後の砦が 末の松山だと考えます。そしてたぶん貞観地震では津波が末の松山を越えたのだろう と思います。 「君をおきて」はストレートにいえば「あなたから心変わりしたら破滅です」と言っていますが、 それをたとえば自然の姿に仮託してオブラートにくるみ和を貴ぶのが日本人の心であり、 和歌なのだと思います。 ■小倉百人一首 小倉百人一首(42番) 清原元輔 契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは ---------- 二人はかたく約束しましたね。おたがいにいく度も涙に袖をしぼりながら、あの 末の松山を決して波が越すことがないように、どんなことがあっても二人の仲は 末長く変わるまいと。 ---------- [みかきもり] 「契りきな」の歌は、心変わりした女性に贈るため、清原元輔が代作した歌です。 「君をおきて」を踏まえており、ストレートにいえば「約束を破って心変わりしたあなたは 破滅です」と強烈になじっているのを、和を貴びとげとげしい言葉を使わず間接的に 和歌で表現しています。 この歌には清和天皇(19歳)の御代に発生した貞観11年(869年)の貞観地震を感じると ともに出羽清原氏との連想で東北がイメージされます。 清和天皇は同年10月13日「陸奥の国震災賑恤(しんじゅつ=物品等で難民や貧者を救う) の詔」を発して、地震や津波の被害にあった陸奥国に対し、税(租・調)を免除して自活 できない者には食料を支給しています。また地震は陸奥国と常陸との国境が最も甚だし かったと述べています。 清和天皇には貞観8年(866年)藤原高子が入内し、貞観10年(869年)貞明(陽成天皇)を 産みます。その半年後に貞観地震が発生しています。 小倉百人一首13番から15番の歌には貞観地震と天皇の御心が感じられます。 小倉百人一首(13番) 陽成院 筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる 小倉百人一首(14番) 河原左大臣 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに 小倉百人一首(15番) 光孝天皇 君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ 貞観地震を決して忘れないよう後世に伝えるため、自分にできることとして定家は 小倉百人一首にこの「契りきな」の歌を選んだのではないでしょうか。 |
■参考文献 ・百人一首のなぞ 國文學編集部 (學燈社) ・古今和歌集(四) 全訳注 久曾神 昇 (講談社学術文庫) ・百人一首 全訳注 有吉 保 (講談社学術文庫) ・全訳古語辞典(第二版) 宮腰 賢、桜井 満(旺文社) ■参考URL ・Wikipedia 貞観地震 ・Wikipedia 清和天皇 ・Wikipedia 陽成天皇 ・Wikipedia 藤原高子 ・Wikipedia 出羽清原氏 ・貞観地震・津波からの陸奧国府多賀城の復興