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みかきもりの気ままに小倉百人一首

2012/07/15 五徳大事
(2012/07/16 説明追加)

江戸時代の川柳で「智ではじめ徳でおさめる小倉山」があります。
これは小倉百人一首が天智天皇で始まり順徳院で終わっていることからできた川柳です。
「小倉山」は 26 貞信公(藤原忠平)ですから、「貞信」と「廷臣」を掛けている感じがあって
なかなかよくできた川柳だなあと思います。

No. 作者 解釈
81 後徳大寺左大臣(藤原実定)
(1139生-1191没)
ほととぎす鳴きつる方をながむれば
ただ有明の月ぞ残れる
[みかきもり]
この川柳で作者名が少し気になり、「智」「徳」を含む作者を調べると以下の6名でした。
1 天智天皇 「秋の田の」
45 謙徳公(藤原伊尹) 「あはれとも」
77 崇徳院 「瀬を早み」
81 後徳大寺左大臣(藤原実定) 「ほととぎす」
99 顕徳院(後鳥羽院) 「人もをし」
100 順徳院 「ももしきや」

後鳥羽院は定家が亡くなる前の延応元年(1239)2月に崩御し、同年5月に「顕徳院」と諡号が贈られました。 定家が亡くなった後の仁治3年(1242)7月に「後鳥羽院」と追号が贈られましたので、定家にとっては想定外だったと思います。
順徳院は定家が亡くなった後の仁治3年(1242)9月に崩御し、建長元年(1249)7月に「順徳院」と諡号が贈られました。 承久の乱に敗れて佐渡に配流された順徳院に対して「徳」を含む諡号が贈られるのは定家の予測の範囲内であったでしょう。
百人一首で「○○公」は藤原氏全盛の基礎を築いた貞信公(藤原忠平)、謙徳公(藤原伊尹)の2名だけです。

左大臣となった祖父の実能(徳大寺家の祖)が徳大寺左大臣と呼ばれたことと区別するために、 実定は後徳大寺左大臣と呼ばれました。
後徳大寺左大臣以外は諡号ですので、「後徳大寺左大臣」の名前はちょっと意味ありげです。 「後徳大寺」は「五徳大事」といっているように感じます。 五徳とは儒教で説く五常の徳目ですが、百人一首で「徳」を含む作者も5名です。
この5名は俊成・定家にとって大変縁があり、定家も特別な思いを持って選んだと感じます。

45 謙徳公(藤原伊尹)
  ・和歌に優れ、天暦5年(951)に2番目の勅撰集「後撰和歌集」編纂の別当となる。
  ・天徳4年(960)5月に右大臣であった父の師輔が急死した。
   この時、伊尹は従四位上蔵人頭兼春宮権亮兼左近衛権中将だったが、
   村上天皇の強い意向で同年の除目で参議となる。
   伊尹は村上天皇、冷泉天皇との関係を維持して師輔の家系の存亡の危機を
   救う。(伊尹は師輔の長男)
   康保4年(967)1月に権中納言となった伊尹は弟の兼通・兼家を蔵人頭に
   送り込むことに成功した。
    忠平(貞信公)―(次男)師輔(幼名は大徳)―(三男)兼家―(五男)道長
     ―(六男)長家【御子左家】―忠家―俊忠―俊成定家
77 崇徳院
  ・俊成、久安百首の作者の一人に取り立てられる。
  ・俊成に辞世の歌を遺す。
81 後徳大寺左大臣(藤原実定)
  ・平家全盛期の嘉応2年(1170)7月に皇后宮大夫を辞して叔父の俊成に譲る。
   皇后は後白河院の皇后藤原忻子(実定の姉でのちに皇太后となる)
99 顕徳院(後鳥羽院)
  ・俊成を和歌の師とする。
  ・定家、正治二年院百首の詠進をきっかけに内昇殿が認められる。
  ・俊成(釈阿)のために九十の賀を催す。
100 順徳院
  ・定家を和歌の師とする。

またわずか5首で歌番号がぞろ目2首(77,99)や平方数2首(81,100)があって、 まるで「掛け算してください」と言っているようです。 その数を掛け算するとそこには崇徳院、後鳥羽院、順徳院の鎮魂を感じます。

45 謙徳公(藤原伊尹)→4x5=20 元良親王「わびぬれば」
 「わびぬれば」の歌は宇多天皇の女御 藤原褒子との密事が露顕した時に元良親王が詠んだ歌ですが、 そのかなえられない恋は保元の乱、承久の乱を起こした崇徳院、後鳥羽院、順徳院に重なります。
77 崇徳院→7x7=49 大中臣能宣朝臣「みかきもり」
 大中臣能宣朝臣は皇室の氏神である伊勢神宮の祭主です。
81 後徳大寺左大臣(藤原実定)→8x1=8 喜撰法師「わが庵は」
 「喜撰法師」の名から定家が「喜んで選んだ」ことの示唆を感じます。
99 顕徳院(後鳥羽院)→9x9=81 後徳大寺左大臣(藤原実定)「ほととぎす」
 「五徳大事」を繰り返し強調しているようです。

「徳」を含む名前というと思い浮かぶのが聖徳太子ですが、聖徳太子は冠位十二階を定めています。 冠位十二階は五常の徳目(仁礼信義智)及びそれを統べる意としての「徳」で成り立っており、 「小智」で始まり、最上位は「大徳」です。 五常の徳目がこの順序に置かれていることに聖徳太子の慧眼を感じます。
師輔の幼名が「大徳」というのも興味深いです。

■冠位十二階
  大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智

■五常の徳目(五徳):儒教で説く5つの徳目
 【仁】人を思いやること。
 【礼】仁を具体的な行動として表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度。
 【信】友情に厚く、言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。
 【義】利欲にとらわれず、なすべきことをすること。
 【智】学問に励むこと、知識を重んじること。

実定は、 頼長養女で近衛天皇に入内また二条天皇に再入内した妹・多子、 後白河天皇に入内した姉・忻子、 後白河院の寵愛を受けた平滋子(建春門院)、 天皇(後白河院、二条天皇)、 公家(九条兼実)、 武家(平清盛、木曽義仲、源義経、源頼朝)、 25歳年上の叔父・俊成、 あるいは自らも参加した俊恵法師の歌林苑の歌人たちなどの関係の中で、 誰に対しても五徳を持って接したことがうかがえます。
定家は百人一首に「後徳大寺」と「五徳大事」を掛けていとこの実定を取り上げつつ、 五名の「徳」のある作者を選んで、その徳を称えたのではないでしょうか。


藤原実定年表
年(西暦) この年のできごと 実定の年齢 実定のできごと
久安6年(1150)  12歳 妹・多子(11歳)(左大臣藤原頼長養女)、近衛天皇(12歳)に入内(1月)
久寿2年(1155) 近衛天皇崩御(7月)
後白河天皇即位(7月)
17歳 姉・忻子(22歳)、後白河天皇(29歳)に入内
保元元年(1156) 保元の乱(7月)
・後白河天皇方の勝利
・敗れた崇徳上皇方の藤原頼長死去
平清盛、播磨守となる(7月)
18歳 姉・忻子、後白河天皇中宮となる
従三位に叙任(11月)
保元3年(1158) 平清盛、大宰大弐となる(8月)
二条天皇即位(8月)
20歳 正三位、権中納言に任官
平治元年(1159)平治の乱(12月) 21歳  
永暦元年(1160) 平清盛、参議となる(8月) 22歳 妹・多子(21歳)、二条天皇(18歳)に再入内(1月)
中納言に任官
永暦2年(1161) 平滋子、後白河院の第七皇子(憲仁/後の高倉天皇)を出産(9月)
平清盛、権中納言となる(9月)
23歳 父・公能(正二位右大臣)が47歳で薨去(8月)
長寛2年(1164)六条天皇(2歳)即位(6月) 26歳 権大納言に任官
歌林苑歌合に出席
永万元年(1165) 二条院崩御(7月)
平清盛、権大納言となる(8月)
27歳 権大納言を辞し、正二位に叙任(8月)
永万2年(1166)平清盛、内大臣となる(11月) 28歳  
仁安2年(1167)平清盛、武士で初めての太政大臣となる(2月) 29歳  
仁安3年(1168)高倉天皇(8歳)即位(2月) 30歳  
嘉応2年(1170)  32歳 皇后宮大夫を辞し、叔父の右京大夫俊成(57歳)に譲る(7月)
・後白河院の皇后藤原忻子
住吉社歌合(10月)
藤原隆季と建春門院北面歌合を結構する(10月)
承安元年(1171)平清盛の子・徳子が高倉天皇に入内(12月) 33歳  
安元2年(1176) 平滋子(建春門院)、亡くなる(7月)
六条院崩御(7月)
38歳  
治承元年(1177)安元の大火(太郎焼亡)(4月) 39歳 大納言に還任(3月)、左近衛大将を兼任(12月)
治承2年(1178)治承の大火(次郎焼亡)(3月) 40歳 「右大臣藤原兼実家百首」歌会参加
治承3年(1179)平清盛、後白河法皇を幽閉(11月) 41歳 厳島神社(平家が崇敬)に参詣(3月)
治承4年(1180)安徳天皇即位(4月)
以仁王、平氏討伐の令旨(4月)
平清盛、福原遷都(6月)
平清盛、京都に都を戻す(11月)
42歳 京に戻って多子の御所で月見をする(8月)
治承5年/養和元年(1181) 高倉院崩御(1月)
平清盛死去(閏2月)
養和の飢饉
43歳  
寿永2年(1183) 後白河法皇、藤原俊成に千載集撰歌の院宣(2月)
木曽義仲、入京(7月)
後鳥羽天皇即位(8月)
木曽義仲、後白河法皇・後鳥羽天皇を幽閉(11月)
45歳 内大臣となる
松殿師家に内大臣職を貸す
寿永3年(1184) 源義経、入京(1月)
木曽義仲死去(1月)
源頼朝、公文所(後に政所と改称)、問注所を設置
46歳 木曽義仲死去で松殿師家は失脚し、内大臣に復官
元暦2年(1185) 壇ノ浦の戦いで平氏滅亡、安徳帝崩御(3月)
元暦の大地震(7月)
源義経の求めにより源頼朝追討の宣旨(10月)
・恩賞の与えられない義経に呼応する武士団あらわれず
源頼朝、守護・地頭の設置を認められる(11月)
九条兼実、源頼朝の強い推薦で内覧となる(12月)
47歳  
文治2年(1186)九条兼実、摂政となる(3月) 48歳 後白河法皇、大原御幸(4月)
・実定らを引き連れて建礼門院(平徳子)を訪れる
右大臣となる(10月)
文治4年(1188) 千載集奏覧(4月)
源頼朝の求めにより源義経追討の院宣
50歳  
文治5年(1189) 源頼朝により奥州藤原氏滅亡(9月)
九条兼実、太政大臣となる(12月)
51歳 左大臣となる(7月)
・九条兼実を補佐して朝幕関係の取り次ぎに活躍
建久元年(1190)源頼朝、入京(11月) 52歳 左大臣を辞す(7月)
建久2年(1191)九条兼実、関白となる(12月) 53歳 病により出家(法名 如円)(6月)
53歳で薨去(閏12月)
・吾妻鏡「幕下殊に溜息し給う。関東由緒あり。日来重んぜらるる所也」 と源頼朝(幕下)からの信頼の厚さがうかがえます。
建久3年(1192) 後白河法皇崩御(3月)
源頼朝、征夷大将軍となる(7月)
   


■参考文献
・別冊歴史読本 百人一首100人の生涯        (新人物往来社)
・田辺聖子の小倉百人一首       田辺 聖子  (角川文庫)
・百人一首 全訳注          有吉 保   (講談社学術文庫)
・全訳古語辞典(第二版)       宮腰 賢、桜井 満(旺文社)

■参考URL
・Wikipedia 藤原忠平(貞信公)
・Wikipedia 藤原師輔Wikipedia 藤原伊尹(謙徳公)
・Wikipedia 崇徳天皇Wikipedia 後白河天皇Wikipedia 高倉天皇Wikipedia 後鳥羽天皇Wikipedia 順徳天皇Wikipedia 徳大寺家Wikipedia 徳大寺公能Wikipedia 徳大寺実定(後徳大寺左大臣)
・Wikipedia 九条兼実Wikipedia 平清盛Wikipedia 平滋子(建春門院)
・Wikipedia 平徳子(建礼門院)
・Wikipedia 源義仲Wikipedia 源義経Wikipedia 源頼朝Wikipedia 藤原俊成Wikipedia 藤原定家Wikipedia 保元の乱Wikipedia 平治の乱Wikipedia 治承・寿永の乱Wikipedia 鎌倉幕府Wikipedia 千載和歌集Wikipedia 冠位十二階Wikipedia 儒教Wikipedia 五常Wikipedia 伊勢神宮やまとうた/蜀山先生 狂歌百人一首やまとうた/徳大寺実定やまとうた/正治二年院百首諡法解/「徳」諡号の示すもの NEXT GATE/諡号考月桜/藤原実定平安夢柔話/藤原実定 ~激動の時代を生き抜いた風流人辛酉夜話/太皇太后宮小侍従ノート 二八章 太皇太后宮女房のころ(一)University of Virginia Library/平家物語竹内みちまろのホームページ/平家物語のあらすじと登場人物、その2竹内みちまろのホームページ/平家物語のあらすじと登場人物、その5

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