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みかきもりの気ままに小倉百人一首

2019/02/11 滝の糸は

猛烈な寒波によってナイアガラの滝が凍結しているニュース画像や堺屋太一氏が
先日2/08に亡くなられテレビで「峠の群像」オープニングの滝の映像が流れるのを
見て、「滝の音は」の初句が異なる「滝の糸は」をふと思い浮かべました。

峠の群像(堺屋太一)
この時の峠で 人はみな それぞれに生き それぞれに悩んだ
だが時は ひたすらに下り坂を行き ただ一つの評価を残した

No. 作者 コメント
55藤原公任滝の音は絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れてなほ聞こえけれ
[みかきもり]
「滝の音は」の初句は、『拾遺集』では「滝の糸は」、『千載集』では「滝の音は」となっています。
長保元年(999年)九月十二日に嵯峨上皇の離宮であった大覚寺に左大臣道長とともに行った
藤原行成の日記『権記』には「滝音能絶弖久成奴礼東(たきのおとのたえてひさしくなりぬれど)」
とあるので「滝の音は」でよいのでしょうが、『拾遺集』でなぜ「滝の糸は」かが気になります。
『拾遺集』は花山院(968-1008没)の親撰といわれ、藤原公任(966-1041没)撰の『拾遺抄』が
もとになっているといわれます。花山院と藤原公任は同じ時代を生きており、花山院が天皇で
あった寛和元年(985年)の内裏歌合では公任が出詠した2首が花山天皇と結番されています。

・『拾遺抄』(996~999年頃に花山院が公任に編纂を命じたと想定される)
・『拾遺集』(3番目の勅撰和歌集;1006年頃成立)
・『千載集』(7番目の勅撰和歌集;1188年奏覧)


花山院は永観二年(984年)に17歳で第65代天皇に即位します。しかし、寛和二年(986年)
19歳で突然に宮中を出て剃髪し仏門に入って退位します。これは寵愛した女御藤原忯子が
妊娠中に亡くなったことで花山院が悲しみにくれたことが素因ですが、『大鏡』は藤原兼家が
外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えます(寛和の変)。

藤原公任は名門小野宮家の生まれで、公任が12歳の時に父頼忠は関白となり、翌年は姉の
遵子が第64代の円融天皇の女御として入内します。公任は天元三年(980年)15歳の時に
元服し臣下として初めて宮中清涼殿で元服式を行います。天元五年(982年)遵子は中宮に
なります。
しかし、遵子は御子に恵まれず、兼家の次女詮子が懐仁親王(一条天皇)を宿したことで、
公任の運命は暗転します。寛和二年(986年)に一条天皇が即位すると、父頼忠は関白を辞し、
代わって一条天皇の外祖父である兼家が摂政となり、以後公任の昇進も遅れがちになります。

長徳二年(996年)中関白家の隆家が花山院一行を襲った長徳の変で中関白家が排斥されて
道長に権力が移ると、公任は道長に接近して、長徳五年(999年)従三位、長保三年(1001年)
正三位と昇進を果たします。
長保六年(1004年)10月に1歳年下の藤原斉信が従二位に叙せられ位階で越えられたことで、
公任はただちに出仕をやめて12月に中納言左衛門督の辞表を道長に提出し不満を示します。
結局翌寛弘二年(1005年)7月に従二位に叙せられるまで7カ月も出仕しませんでした。公任は
道長にさらに接近することになります。公任は寛弘六年(1009年)権大納言、寛弘九年(1012年)
正二位になりますが、この時にはすでに花山院は亡くなっています。

花山院と公任は兼家によって同時に滝のように落とされた人生を歩んでいます。
「滝の糸は」からは自らを滝の糸と重ね合わせて、公任の糸と花山院の糸とが織りなした
『拾遺抄』『拾遺集』とともに自らの名が残ってほしいという願いを感じます。

滝の糸は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ


■参考文献
・百人一首 全訳注           有吉 保    (講談社学術文庫)
・別冊歴史読本 百人一首100人の生涯          (新人物往来社)

■参考URL
・Wikipedia 花山天皇Wikipedia 藤原公任Wikipedia 藤原兼家Wikipedia 藤原道長Wikipedia 拾遺和歌集Wikipedia 千載和歌集Wikipedia 寛和の変Wikipedia 長徳の変Wikipedia 四納言Yahooニュース/氷点下20℃の猛烈寒波で「ナイアガラの滝」一部凍結YouTube 峠の群像 OPUta-Net(歌詞) 糸(中島みゆき)


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