『カンマを伴う分詞句について』(野島明 著)
第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業

第1節 戦国乱世


〔注1−6〕

   「意味内容」(単に「意味」と表記することもある)は、一定の言語的脈絡あるいは非言語的脈絡の中に置かれたある記号(列)あるいは音素列について、その記号(列)あるいは音素列の受け手(話者=受け手である場合もある)が語り得る(と判断している)ことがら(の一端あるいは全て)である(脈絡がゼロである場合を含む)。言語活動に関与するものにとって、ある記号(列)の「意味内容」は不変ではない。"ichneumon"の「意味内容」が不変ではないように、である。

ある人物のことを初めて耳にしたり、新聞で彼のことを初めて読んだりしたときには、彼は「単なる名前」に過ぎない。しかし、彼について多くのことを耳にしたり読んだりすればするほど、その名前はそれだけいよいよ多くのことを意味するようになる。小説中の一人物に関する知識が読み進むにつれてどのように増大して行くかについても考えてみよ。しかし、正に同じことが、全く馴染みのない、例えばichneumonといった「普通名詞」の場合にも起こる。こうした場合もまた、その語の意味あるいは内包[connotation]は知識の増大とともに増大する。(Jespersen, The Philosophy of Grammar , p.66)
   本稿ではいわゆる語用論[pragmatics]的な観点に主軸を置いて、意味を考えることになる。今この瞬間、世界を飛び交っている英語に様々な用例を求めることを契機として生まれたとも言える本稿では、脈絡から抜き出された発話(いわば「孤立した発話」)を吟味するには細心の注意を要すると考える。ここで発話とは、ひとかたまり(開始からピリオドもしくはそれに相当する休止まで)の有意味の記号列もしくは音素列である。本稿では有意味の文字列からなる発話を専ら吟味の対象とする。相互に関連し連続的な複数の発話の集合を「発話の流れ」、あるいは「言語的脈絡」と呼ぶ。単一の有意味の文字列からなる発話と混同される怖れがない場合、「発話の流れ」を全体として「発話」と表記することがある。文の一部を発話とは表記しない。文については定義しない。

   「文字列から成る発話」の「書き手」と「音声で実現された発話」の「話し手」のいずれをも、特に区別が必要な場合を除いて、「話者」と表記する(CGEL, 5.27[Note]参照)。発話を読む・聞く側である「受け手」についても同じである。話者(受け手)と発話の関係については概ね次のようなことが言える。「話し手は発話内容についての自分の信念、発話状況に関する認識、社会・文化的な背景的知識などに支えられて発話文を発し、一方、聞き手もまた、自分のもつ信念、状況認識、背景的知識などに基づいて発話文を理解すると考えられる。」(『コンサイス英文法辞典』pragmatics(語用論)の項)同辞典では、「話し手・聞き手のもつ信念、状況認識、背景的知識などを発話文のコンテクスト」(ibid)と呼んでいるが、このような「コンテクスト」を本稿では、「発話に関わる非言語的脈絡」に含め、「発話に関わる非言語的脈絡」には更に、音声によって実現された発話の場合の、発話に伴う話者の身振り手振り、発話の行われた場面や状況なども含める。また、一定の非言語的脈絡の中で音声によって実現された発話が改めて文字で表記され、更に「話者の身振り手振り、発話の行われた場面や状況など」といった非言語的脈絡が今度は文字で表記し直された場合、これは既に「その発話に関わる言語的脈絡」である。

   発話全体の意味内容の了解に際してはもちろんのこと、発話内の語句の意味内容の了解に当っても多かれ少なかれ脈絡が一定の役割を果たすと言わねばならない。例えば、私の部屋の室内装飾の一環として壁に飾られている交通標識や表示は、私の行動を規制することもなければ、私をどこに導いてもくれない。「それ自体として理解された記号は、多くの場合、それと指定できるような指向対象をもたない」(『言語理論小事典』p.391)のであるし、そのような記号には行き場がないのである。

   "A prince was zealous about the true religion."〈ある君主は真実の宗教に熱心であった。〉中の"the true religion"の意味内容は、簡略な辞書を調べて得られる「真実の宗教」であるにとどまることはないだろう(本章第4節の記述、及び[1−30]参照)。その発話が言語的脈絡の只中に置かれている場合、その名詞句の指示内容が受け手[読み手]に伝わるのは、受け手が言語的脈絡という発話の流れ全体を丁寧に辿る過程においてであろう。そして、指示内容の把握と並行的に成立する意味内容の了解は、当該の言語的脈絡に関して受け手が有する非言語的脈絡の広がりと相関的に、受け手ごとに、様々に成立することになろう。

   本稿では「意味(内容)の迷宮」に足を踏み入れるつもりはない。なぜ「迷宮」なのか。
   例えばこうである。

   "cat"の意味内容は「猫」ではない。「猫」の意味内容が"chat"(フランス語)ではないようにである。「意味内容」とは「呼称」や他言語の記号を用いた「置き換え」にかかわる事柄ではない。ある記号(列)を、音韻・表記文字・統語法などの点で別の体系のもとにある記号(列)に置き換えることは、文字通り「置き換え[書き換え]」に過ぎない。同一の言語体系内とて実は同じことだ。 日本の煙草屋の店先に掲げられている表示、@「未成年者の喫煙は禁じられています」という発話の意味内容はA「二十歳に満たない人たちは煙草を吸うことを法律で禁じられている」ではない。これでは、記号列@が別の記号列Aに置き換えられたに過ぎない。置き換え作業の実行は、置き換え可能であることを実証することであり、もとの記号列が「有意味」であると認知されていることを明かしているに過ぎない。

   そのほんのとば口に立って中を覗いてみるという程度の記述を、「意味内容」の了解、発話の了解について行ってみよう。例えば、発話@の構成要素「未成年者」の意味内容の了解は、次のような「世界認識」を媒介としている。了解の成立は、了解の主体の意識内で、例えば以下のように《世界》が限りなく分節化されていることの証である。《世界》には成年と未成年者の区別がある、《世界》ではその区別は精神的・生理的・肉体的基準によるのではなく、誕生してからの物理的時間を尺度として規定されている、《世界》ではその規定は《法》の一部を構成している、《世界》には《私》という存在の在り方を様々に規制したり許容したりする《法》が存在する、こうした《法》が強制力を持つ《世界》即ち国家に《私》は生きている、《世界》では《法》は基本的に国家を単位として成立し、《世界》は諸国家からなる等々。一人の《無垢であるはずの子供》が女性を強姦した上殺害し金品を奪っても、その一人が依然として《無垢であるはずの子供》であるような《世界》は、分節化されて初めてそこに在ることになる。

   別の観点から「意味内容」について記述してみる。次のような場面を想定する。

   《背もたれのある椅子の傍らに立つ人物甲は左手を背もたれの上端に置き、右手の人差し指の先端をおおよそ椅子の座面に向け、甲の前、数メートル離れた地点に立っている人物乙に対し、「ここに座れ」と言った。乙は甲に近づき、そのまま身体を沈め、床に正座した。》

   「ここに」の指示対象が椅子の座面であることが受け手に伝わるためには、「椅子」(その用途などを含む、この《世界》におけるその「意味」)が受け手に了解されていることが条件となる。「座る」という動作は平面を動作実現の場とすることが普通であり、椅子がその場にある場合、その平面は床ではなく椅子の座面であることが多いということが受け手に了解されていることも必要である。「座る」という動作のあり方も、正座、胡坐、時に座面の位置の在り方によっては、臀部を座面につけたとき、脚は伸ばしたままであったり、両脚を下に垂らしたり、脚を組んだり、あるいは膝を曲げ両脚を腕で抱きかかえる、等々、一様ではない。ある発話の意味は、受け手内部の数々の個別的了解からなる「世界認識」がどのように成立しているかに応じて受け手に了解され、その了解の程度に応じて、例えば「ここに座れ」という発話は、話者の意図を十分にあるいは不十分に実現することになる。ある発話の了解には、多くの場合、過不足がつきまとうことは不可避であるように見える。

   これだけの記述でさえ、すでに迷宮に入り込んでいる。

(〔注1−6〕 了)


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