第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業

第4節 「特定」の諸相

   「特定」の在り方は様々に感じ取られ、その語られ方も一様ではない。「特定」は次のように語られることがある。

"a red rose"中の "red"は、"rose"という語の充当可能性[applicability]を、バラという集合全体の内の一つの特定的[particular]部分集合へと制限する[restricts]。つまり、"red"は、白いバラや黄色いバラを除外することによって、私が言及しているバラを特別化し[specializes]限定する[defines]。」(Jespersen, The Philosophy of Grammar, p.108)
    ここでの「特定」の在り方は、例えば、"a widow"よりは"a poor widow"の方が「特別[special]」であり、"a poor widow"よりは"a very poor widow"の方が更に高度な「特別化」を達成している(Jespersen, ibid)という類の指示内容の絞り込みである。「未亡人」という集合の一部が「貧しい未亡人」であり、「大変貧しい未亡人」は更にその一部であるといった段階的外延画定がここでの「特定」の在り方である(CGEL, 2.31参照)。"a red rose"は、「(一輪の?)赤いバラ」という外見を装いながら、実は「赤いバラ(という集合)」、即ち、色彩を基準にしてバラを区分した時の「バラの部分集合」を指示すると話者の視点から告げられている。"a red rose"の話者であるJespersenの告げるところに従えば、ここでは、「特定」は実現されているが、「不特定の一輪のバラ」という程度の「個別性」も実現されていないと判断することを受け手は求められているように見える。しかしながら、"a red rose"という孤立した語句に依拠する限り、受け手の視点からは、この名詞句が「赤いバラ(という集合)」(バラの部分集合)を指示するのか、「不特定の一輪の赤いバラ」(単なる一個体)を、あるいは「特定の一輪の赤いバラ」(特別な一個体)指示するのか、あるいは「赤いバラ(の観念)」を指示するのか、判断し難いとしか言いようがない[1−26]

   「特定」は次のように語られることもある。

aには、特定のものを示す用法と、不特定のものを示す用法との二つがある。例えば、I saw a bench in the shade.〈日陰にベンチが一つあるのが見えた。〉におけるa benchは、話者が実際に見たベンチが存在していたわけで、必要があれば、これがそのベンチだと言って示すこともできるはずである。I have a book in my hand. It(=The book) is red.〈私は手に本を一冊持っています。それは赤い本です。〉などの例においても、aは不定冠詞ではあるが、特定の本を指していることは明らかであろう。(安井稔『改訂版 英文法総覧』, 11.1.2)
   この記述を一部補いつつ、この記述が行われている視点を確認しておかねばならない。

   「…の二つがある」はこの記述の筆者=安井が下している判断である。「話者が実際に見たベンチが存在していた」の中の「話者」は"I saw a bench in the shade."という発話の話者(おそらく安井とは別人)」であり、「…わけで」はこの記述の筆者=安井(と同時におそらく、発話の受け手の視点に身を置いてもいる安井)が下している判断である。

   「必要があれば」の箇所は、おそるおそる「これがそのベンチだと言って示す必要があれば」のことであろうかと見当をつけてみるとしても、そうした必要が生じるような事態を私には思いつくことが出来ない。

   「これがそのベンチだと言って示すこともできる」の箇所は、「(安井とは別人である)話者は示すこともできる」であって、「(安井もその一人である)受け手は示すこともできる」ではないはずである。現に、この発話の受け手の一人である私には、"a bench"がどのベンチのことなのか、皆目見当もつかないし、従って、「これがそのベンチだと言って示すこと」など到底できない。

   「…はずである」はこの記述の筆者=安井が下している判断である。「aは不定冠詞ではあるが、特定の本を指していることは明らかで」は、「(安井とは別人である)受け手には明らかで」ということだと判断するには、「特定の本」の「特定」の中身が明らかであることが要件となる。"a bench"の場合の「特定」と同じように、「必要があれば(書棚を眺め渡し、その本の書名や装丁といった個体識別情報をもとにして)これがその本だと言って示すこともできる」という在り方の「特定」のことであれば、これは話者の念頭においては実現されている類の「特定」ではあっても、そのような「特定」が実現されていることは受け手には伝わらず、それゆえ受け手には"a book"が「特定の本を指していることは明らかで」はないことになる。ここでの「特定」が、"a book"には書名も著者名もあるしその装丁に特徴もあるが、受け手にはそこまでの詳細は明らかではなく、"a book"が本というものの内の任意の一冊ではないという点で特定の一冊の本であるというような「特定」の謂であれば、"a book"が「特定の本を指していること」は安井とは別人である受け手には「明らかで」ある。

   「…あろう」は受け手の視点からは無用な叙法的装飾であり、その出所は話者のものでも受け手のものでもない視点から記述を行っている筆者=安井である。

   以上、かように記述の視点が無闇に転変としていることを、この記述の筆者=安井はおそらく意識していない([1−26]参照)(これが学習用文法書中の記述であるという事情は斟酌するが、そうした斟酌は、それならなおのこと明解な記述を、といったやぶへびにもつながるかもしれない)。以上の点を勘案して安井の記述を再現すると以下のようになる。

   「aには、特定のものを示す用法と、不特定のものを示す用法との二つがあると私は判断する。例えば、I saw a bench in the shade.〈日陰にベンチが一つあるのが見えた。〉におけるa benchは、話者が実際に見たベンチが存在していたと私は判断するし、必要があれば、話者はこれがそのベンチだと言って示すこともできると私は判断する。I have a book in my hand. It(=The book) is red.〈私は手に本を一冊持っています。それは赤い本です。〉などの例においても、aは不定冠詞ではあるが、特定の本を指していることは受け手には明らかであると私は判断する。」

   以下では、孤立した発話([1−6]参照)"I saw a bench in the shade."を受け手の視点から、そして、あくまでも発話の内側にとどまって吟味する。この発話内の名詞句"a bench"は発話の外部世界に存在する「どのベンチ」に照応するのか(この発話は現実の体験に照応するのかそれとも虚構なのか、この"a bench"は発話の外部世界に実際に存在するのかという点を含め、「必要があれば、話者は発話の外部世界でこれがそのベンチだと言って示すこともできる」かどうか)などという点については、私には語りようもない。また、そのような「発話外照応」にまつわる諸問題は本稿の直接的記述対象には含まれていない[1−27]。外部世界の誘惑は時には抗い難いほど強力なことは確かであるけれども。

   さて、"a red rose"の場合とは異なり、"I saw a bench in the shade."中の"a bench"は「ベンチという集合」も、その「部分集合」も指示してはいない。この"a bench"は「任意の一脚のベンチ」でもなく、既に「特別な一脚のベンチ」であると、即ち、ここで実現されている「特定」の在り方は「特別な個別性([1−27]参照)」であるということが受け手には伝わる。では、受け手に伝わるこうした「特別な個別性」は何によって実現されているのか。不定冠詞の"a"によって実現されているのか、それとも、「話者の思い([1−25]参照)」によって実現されていると判断してよいのか。つまり、次のように。

一般に、現実世界に存在している一定のものを指すと話し手が考えている場合の「a+単数名詞」表現は、特定的(specific)であるということができる。(安井稔, ibid)(下線は引用者。安井稔編『コンサイス英文法辞典』(specific の項)では"specific"は次のように説明されている。「specific (特定的):通例、不定名詞句(indefinite noun phrase) の指示(REFERENCE)について用いられる。文中の不定名詞句が現実世界にある特定の対象を指し示している場合、その不定名詞句は「特定的」であるという。」)
   「…は、特定的(specific)であるということができる」の箇所は、「…は、特定的(specific)であると受け手(ないしは、受け手の視点に身を置いた安井)はいうことができる」、もしくは「…は、特定的(specific)であると受け手はいうことができる、とこの記述の筆者=安井は判断する」のいずれかであろう。記述の視点を我知らず自在に転々とする筆者によって下されているこうした判断の妥当性を受け手の視点から改めて吟味するには、"I saw a bench in the shade."を極限まで圧縮した断片的語句からなる発話"A bench."を吟味することが役立つ。次のような問いを立ててみる。

   二語から成る孤立した発話"A bench."についても同様の判断が下された場合、受け手はそうした判断をどの程度妥当であると見なしてよいのか。つまり、孤立した発話"A bench."中のこの「a+単数名詞」は「現実世界に存在している一定のものを指すと話し手は考えている」がゆえに、"a"は「特定のものを示す」用法の不定冠詞であり、"a bench"は「特定的(specific)である」(と同時に、このベンチは「現実世界に存在している」)という判断が、「話者の思い」を斟酌し得ると主張する何者かによって下された場合、受け手はそうした判断をどの程度妥当であると見なしてよいのか。つまり、受け手はそうした判断をその告知者とどの程度共有し得るのか。

   次のように問いの「向き」を変えることも出来る。
   受け手は、孤立した発話"A bench."の中に話者の思い(この「a+単数名詞」は「現実世界に存在している一定のものを指す」)を斟酌することを可能にするほどの情報を見出せず、それ故、話者の思いを斟酌し得ず、従って、"a bench"の指示内容は、話者の念頭においては、「特別な一脚のベンチ」であるにもかかわらず、受け手の視点からはその指示内容は「ベンチ(という集合)」あるいは「任意の一脚のベンチ」であると判断するのがせいぜいであるとしたら、この発話に関する受け手の了解には欠損あるいは錯誤を指摘し得るのか。

   同様の問い。
   孤立した発話"The true religion."中の名詞句"the true religion"の指示内容はそもそも、現実世界に存在する特定の一宗教、カトリック教[1−28]のことである、というのが話者の思いであるにもかかわらず、受け手の方は、"the true religion"の指示内容は漠然とした《真実の宗教》であると判断するにとどまるとしたら、受け手はその《誤解》の咎をその身に負うことになるのか。

   もちろんそうではない。孤立した発話"A bench."中の"a bench"の指示内容は「特別な一脚のベンチ」である、というのが話者の思いであるにもかかわらず、受け手にはそのことが伝わらないとしたら、その原因は、そのような「特定」が既に実現されていることを受け手に伝える働きをする情報がその発話内に言語表現という形で示されていないということであるか、あるいは、そうしたことを受け手に伝える上で言語表現に代わる働きをする「当該発話に関わる非言語的脈絡([1−6][1−25]参照)」が話者と受け手に共有されていないということである。ちょうど、孤立した発話"The true religion."中の"the true religion"の指示内容は現実世界に存在する特定の一宗教、カトリック教のことである、というのが話者の思いであるにもかかわらず、受け手にはそのことが伝わらないとしたら、その原因は、そのような「特定」が既に実現されていることを受け手に伝える働きをする情報がその発話内に言語表現という形で示されていないということであるか、あるいは、そうしたことを受け手に伝える上で言語表現に代わる働きをする「当該発話に関わる非言語的脈絡」が話者と受け手に共有されていないということであるのと同じである。そのような「特定」が既に実現されているということを受け手に伝えるのに必要な情報が発話内に言語表現という形で示されていないがゆえにそのことが受け手に伝わらないことの咎、さらには、そうしたことを受け手に伝える上で言語表現に代わる働きをする「当該発話に関わる非言語的脈絡」が話者と受け手に共有されていないことの咎、つまるところ、話者の思いを受け手が斟酌し得ないことの咎は、受け手が一身に負うべき性質のものではない。

   《"the true religion"はカトリック教を指示する》という話者の思いも、《"a bench"は特定のベンチを指示する》という話者の思いも、受け手側がそれを斟酌することを可能にする情報が発話内に言語表現という形で示されていない限り、あるいは、それを受け手に伝える上で言語表現に代わる働きをする「当該発話に関わる非言語的脈絡」がたまたま話者と受け手に共有されているのでない限り、受け手は斟酌し得ない。そこに示されている言語表現の働きだけでは実現され得ないような「特定」がそこでは密かに実現されているのだという「話者の思い」が受け手に伝わるためには、即ち、そのような「特定」を密かに実現している(話者の念頭にあるに過ぎない)「当該発話に関わる非言語的脈絡」を受け手が共有し得るには、その発話が改めて言語的脈絡(発話の流れ)ないしは非言語的脈絡の中に置かれることが必要である。つまり、そこでは既に何らかの「特定」が実現されているということを受け手に伝える働きをする情報が言語表現という形で示されるか、もしくは、話者に独占されている「当該発話に関わる非言語的脈絡」を受け手が共有し得るようになることが必要である。例えば言語的脈絡の中に置かれれば、"Fish that night."[1−29]という発話中の"Fish"には既に何らかの在り方の「特定」が実現されているということさえ、受け手に伝わるかもしれない。

   場合によっては、孤立した発話を前に、立ち止まってじっと考え込むことを賢明な姿勢であるとは言えそうもなくなる。書物を読んでいて、"A prince was zealous about the true religion." 〈ある君主は真実の宗教に熱心であった。〉という記述に行き当たった時[1−30]、頁をめくる手を休め、"the true religion"の指示内容をめぐって沈思熟考を試みることは、受け手に認められている自由裁量の一部ではあろうが、沈思熟考に見えて実は、時には性質の悪い恣意的解釈を捏ね上げかねないある種の思考停止となるやもしれない。

   "the true religion"の指示内容は記述を辿るにつれて判明してゆくであろう。発話の流れの中で《真実の宗教》をめぐって直接間接に重ねられて行く叙述は次第にその質と量を増し、ついには、話者の思いの内にあるのがいかなる宗教であるのかが受け手に伝わることになるかもしれない。受け手は数々の宗教(数々の《真実の宗教》)の中からある特定の宗教(あるいは宗派)に思いが及ぶようになるかもしれない。発話の流れの中で"the true religion"の指示内容が唯一的に特定されることになるかもしれない。しかしながら、結果的に受け手に伝わることになるかもしれない「話者の思い」は、孤立した発話"A prince was zealous about the true religion."の内奥に潜んでいるわけでもないし、そこに言語表現という形で示されているわけでもない。それゆえ、言語的脈絡を形成する発話の流れから抜き出され孤立したこの発話を前にしても、"the true religion"の指示内容は既に唯一的に特定されているのだという話者の思いが受け手に伝わることない。

   要するに、与えられているのが孤立した発話である場合、その発話内の名詞句の指示内容には既に何らかの在り方の「特定」が実現されているのだという話者の思いが受け手に伝わるとしたら、そこで既に実現されている在り方の「特定」は、その発話の一部もしくは全体によって、いずれにせよそこに示されている言語表現の働きによって実現されているが故に伝わることになる。そうでないとしたら、もしそうした「特定」の実現が言語表現の働きによるのではなくその発話に関わる非言語的脈絡の密かな働きによるのであるとしたら、そのような非言語的脈絡がたまたま話者と受け手に共有されているが故に伝わることになる。

   いずれにせよ、そこには既に何らかの在り方の「特定」が実現されているということを受け手に伝えるのは「話者の思いの丈」ではない。例え、"A bench."という発話中の"a bench"が《現実世界に存在している一定のものを指すと話し手が考えている「a+単数名詞」である》としてもそれだけでは、"a bench"にそのような「特定」が実現されていることは受け手には伝わらないし、受け手は「"a bench"は特定的(specific)である」という判断を下し得ない。"A bench."という発話内に言語表現という形で示されておらず、話者の念頭にあるだけで受け手には共有されていない情報によって密かに実現される類の「特定」は、受け手にとっては実現されていない「特定」であり、受け手には伝わることのない密かな「特定」である。

   また、"I saw a bench in the shade."中の"a bench"には「特別の個別性」という在り方の「特定」が既に実現されていることを受け手に伝えるのは、不定冠詞"a"でも「話者の思い」でもなく、この発話全体である。この発話をピリオドまで辿り終わった時点で、(この発話が念頭にあれば)受け手はこの"a bench"について何ごとかを語り得ることになる。ひとたびこの発話をピリオドまで辿り終わったときには、受け手はこの"a bench"、即ち、"the bench"へと既に成り変わっている"a bench"について「それが日陰にあるのを《話者》は見た」["The bench, which he saw in the shade, …"]と語り得るのである。こうしてここでの"a bench"は「ベンチという集合」であることも「任意の一脚のベンチ」であることも脱する。「それが日陰にあるのを《話者》は見た」といったことがらは、この発話中の"a bench"については語り得ても、「ベンチという集合」や「任意の一脚のベンチ」については語り得ない。特別な一個体こそがこのような属性を内包する。

   この"a bench"にはかくして「特別」という刻印が捺されることに、「特別な個別性」という在り方の「特定」が実現されることになるが、これは「制限的修飾要素」による指示内容の絞込みというよりむしろ、内包の充填とでも言うべき過程を経て実現する。ある名詞句の指示内容について語り得ることがらが言語表現という形で示されることで、その指示内容には属性があることが明示されるのである。領域の不明確であった拡がりの内側が充たされることで結果的に拡がりの範囲、即ち外延が画定されるように感じられる。この発話がピリオドにまで至った時点で、受け手はこの"a bench"について、日本語を用いて表現すれば(制限的修飾を担う後置修飾要素も、非制限的修飾を担う「カンマを伴う後置修飾要素」も、押し並べて前置修飾要素へと置き換えられることになるが)、「日陰にあるのを《話者》が見たベンチ」と記述し得るのである[1−31]。ただ、この"a bench"には既にそのような「特定」が実現されていることを受け手に伝えるにあたっては、「話者の思い」も不定冠詞"a"も無力である[1−32]

   話者の思いが無力である以上、「必要があれば、これがそのベンチだと言って示すこともできるはずである」(安井稔, ibid, 11.1.2) という見解について、受け手の視点からは次のように述べておかねばならない。

   "a bench"に既に実現されている「特定」の在り方は、話者の思いとは無関係に、この発話内に示されている言語表現の働きで実現されるような「特定」の在り方であり、ここでは「特別の個別性」である。受け手に伝わるのは、名詞句"a bench"の指示内容は同種の個体の内の「任意の一個体」ではなく「特別な一個体」であるということに過ぎない。そして、その「特別な一個体」はこの発話に関わる脈絡の中で「どの一個体」に照応するのかが受け手に伝わることを可能にするような情報は言語表現という形でそこに示されてはいない。従って、この「特別な一個体」が当該脈絡の中で「どの一個体」に照応するのか、受け手には不明であるし、受け手は「これがそのベンチだと言って示すことはできない」。ましてや、「発話外照応」に関わる諸問題(例えば、"I saw a bench in the shade."中の"a bench"は発話の外部世界で「どの一個体」に照応するのか)は、この孤立した発話(脈絡から抜き出された発話)の内側にとどまって記述を続ける限り、受け手の語り得る領域の外に位置する課題である。話者の思いの丈はどうあれ、受け手の視点から判断し得るのは、この"a bench"には「特別の個別性」という在り方の「特定」は実現されているが、その「特別な一個体」が当該脈絡の中で「どの一個体」に照応するのかという在り方の「特定」(即ち、「脈絡内照応性」という在り方の「特定」)は実現されていないということである。

   "I have a book in my hand. It(=The book) is red."中の"a book"について、「aは不定冠詞ではあるが、特定の本を指していることは明らかであろう。」(安井稔, ibid, 11.1.2)と語られるが、受け手の視点から判断し得るのは、ここでも、実現されているのは「特別の個別性」という在り方の「特定」であるということである。こうした孤立した発話内で実現されている「不十分な特定」とも言えるような「特別の個別性」が、「より十分な特定」(この個体が当該発話に関わる脈絡の中で「どの一個体」に照応するのかという在り方の「特定」)の実現にまで至るには「話しの続き[1−33]」が、当該発話に関わる脈絡が明かされることが必要なのである。

   ただし、少なくとも「特別の個別性」が実現されているからこそ、「a+単数名詞」を「itまたは『the+名詞』で受けることができる」(安井稔, ibid)と言えるのである。(「単なる個別性」が実現されている「a+単数名詞」は"one"で受けることになるだろう[1−34]

   「特定」は問わず語りに語られることもある。「a+単数名詞」に実現されている「特別の個別性」という在り方の「特定」について、CGELの「不定冠詞」に関わる箇所には明示的記述を見出すことはできない。CGELは不定冠詞の用法を、
     @「(a/an Xの)Xの指示内容[reference] を唯一的に特定し得ない[not uniquely identifiable]」場合(CGEL, 5.36)(受け手の視点からの判断である)、
     A「指示的働きというよりむしろ(叙述的形容詞に似た)叙述的働きをしている」場合(CGEL, 5.37)、
     B「数詞的機能が優位である」場合(CGEL, 5.38)
   に分類しているが、「特別の個別性」という在り方の「特定」が実現されている「a+単数名詞」に関する記述は、次のような、冠詞について語る前に整えるべき仕度の一部となる記述の中に、それを見出す努力をして初めて見て取れるに過ぎない。以下の記述は未だ冠詞に関わるものではない

冠詞の用法を区別するに際し、我々は個別的[specific]指示と総称的指示を区別せねばならない。以下の文例[1][2]を比較せよ。
A lion and two tigers are sleeping in the cage. [1]
Tigers are dangerous animals. [2]
文例[1]では、指示は個別的[specific]である。なぜなら、我々は「トラ」という集合中の特定の個体[particular specimens]を念頭に置いている[have in mind]からである。しかし、我々が文例[2]を発話する場合、指示は総称的である。なぜなら、我々は特定[particular]のトラを個別的[specific]に指示することなしに「トラ」という集合を思い浮かべているからである。
(CGEL, 5.26)(下線は引用者)[1−35]
   ここでの記述は話者の視点から行われている。以下では、「話者の視点から行われているこの記述」を受け手の視点から吟味することになる。

   ところで、上記CGELの「文例[1]では、指示は個別的[specific]である」という話者の判断を受け手は共有し得る。ただし、「我々(=話者)は特定の個体を思い浮かべている」という話者の思いがそれを可能にしているわけではない。そうではなく、"I saw a bench in the shade."中の"a bench"には「特別の個別性」という在り方の「特定」が既に実現されていることが受け手に伝わったのと同じように、文例[1]の名詞句についてもそこには「特別の個別性」という在り方の「特定」が既に実現されていることが受け手に伝わるからである。文例[1]中の"two tigers"について「(話者は)特定の個体を思い浮かべている」ことが受け手には伝わるのと同様、"A lion"についても「(話者は)動物種という集合ではなく特定の個体を思い浮かべている」ことが受け手には伝わる。もし仮に、発話が"A lion."(「不定冠詞+名詞+ピリオド」)という名詞句だけで構成されている場合、孤立した発話"A lion."の唯一の構成要素「a+単数名詞」には、話者の思いによれば、既に何らかの在り方の「特定」が実現されているのだとしても、そのことは受け手には伝わらないことは既に述べたとおりである。たとえ「我々(=話者)は特定の個体を思い浮かべている」のだとしても、その結果、どのような在り方の「特定」がそこで実現されているのだとしても、そのことは受け手には伝わらない。ところが、"A lion and two tigers are sleeping in the cage."中の"A lion"に「特別の個別性」という在り方の「特定」を実現しているのは、話者の思いではなくこの発話全体であるがゆえに、この"A lion"には「特別の個別性」という在り方の「特定」が既に実現されていることが受け手に伝わるのである。

   Zandvoortは「a+単数名詞」に「特別な個別性」という在り方の「特定」が実現される場合について、次のような明確な記述を残している。(「単なる個別性」という在り方の「特定」が実現される場合との区別もある程度行われていると判断していい。)

不定冠詞の中心的機能は、我々が関わっているのは、その名詞によって示されている人物、動物あるいは事物の集合[class]の内のある単一の個体[a single specimen]であるということを(多くの場合、同じ集合中の他のいかなる個体でも全く同様に用が足りるという含みをもたせつつ)指示することである。
A bus stopped close to me and so I climbed to the top of it, let it mount a hill and leave most of the town behind, and got off near a golf-course.
〈バスが私の近くで止まった。それで私はその屋根の上に登り、バスが丘を登って行き、町の殆どを後にするにまかせ、ゴルフ場近くでバスを降りた。〉
…特別な[special]名称が必要であるとすれば、これは不定冠詞の個体化機能[individualizing function]と称されよう。
(Zandvoort, A HANDBOOK, 342)(斜体・太字は引用者)
   「不定冠詞の個体化機能」と語られるが、これまで述べてきたように、名詞句の指示内容に「個体性(あるいは個別性)」を実現するのは不定冠詞の働きではない(クロースが"the"を「特定化の指標」([1−32]参照)と呼称したのに倣って、ここでの"a"は「個別化の指標(個別化標識)」とでも呼称する方がむしろ適切であろう)。「the+名詞」が言語的脈絡の中で「どの個体」に照応するのかという「発話内照応性」を実現するのが「定冠詞の特別化機能[specifying function]」(Zandvoort, ibid, 320)ではないのと同じである([1−32]参照)。「the+名詞」に「発話内照応性」を実現する働きをするのは当該発話に関わる言語的脈絡、多くの場合、「the+名詞」に先行する発話の流れである。このことをZandvoortは次のように述べている。
大多数の事例において、定冠詞が示すのは、続く名詞は同種のその他のもの[others of the same kind]から区別される[distinct from]特別な[special]人物、動物、あるいは事物に言及しているということである。従って、我々が"The evening was quiet: there was no wind." 〈その晩は穏やかであった。風は全くなかった。〉を読む場合、筆者が意図しているのは、その物語中で述べられている特定の[particular]日の晩であることが了解される。(Zandvoort, ibid, 320)(下線は引用者)
   ここでは、"the evening"は「特定の日の晩」であることが、この「the+名詞」に実現されているのは「特別の個別性」という在り方の「特定」であることが受け手には伝わる。この「特定の日の晩」はここには示されていない言語的脈絡の中で「その他の日の晩」とは区別される「特定の日の晩」に照応するのであろうと受け手は判断し得る。ただし、この「特定の日の晩」が当該発話に関わる言語的脈絡の中で「どの日の晩」に照応するのかという「脈絡内照応性」は、ここに示されている言語表現の働きによって、ましてや「定冠詞の特別化機能」によって実現されるのではない。「脈絡内照応性」という在り方の「特定」は、「その物語」というここには示されていない言語的脈絡を形成する発話の流れ[1−36]」の働きによって実現されることになるはずである。ここでの"the"はそのような「脈絡内照応性」を示唆しているに過ぎない。

   「a+単数名詞」の場合、時には、「話者は必要があれば、その個体はこれだと言って示すことができるはず」であるどころか、「示すことができる」に違いないし、その個体の固有の名称を告げることさえできるに違いない、と受け手には感じられることがある。 

Less than a year before I had produced a play at the Repertory Theatre. (Zandvoort, ibid, 343) 〈それより一年にも満たない以前に、私はレパトリー劇場である芝居を上演したことがあった。〉(下線は引用者)
   この孤立した発話を前に、"a play"の指示内容について、立ち止まってじっと考え込むとしたら、即ち、この発話の外部世界に思念を向けてこの"a play"についてあれこれ語ろうとしたら、受け手は次のようなことも呟き得ることになる。

   この"a play"には単に「特別の個別性」という在り方の「特定」が既に実現されているだけではなく、「個体識別」の可能性さえ感じる。「ある芝居」と言われていながら、話者は具体的なある芝居を、それも芝居である以上、題名や筋書きなどといった固有性を当然備えている芝居を念頭に置いているはずだ……。

   "I saw a bench in the shade."中の"a bench"が固有の識別特徴を備えているとは感じ取りにくかったのとは対照的な事態である。しかし、ここで感じられる対照とは言語表現の働きによって実現されている対照ではなく、"a play"と"a bench"について受け手の念頭にある非言語的脈絡に由来する対照である。「芝居」には題名や筋書きという明瞭この上ない個体識別特徴が(必ず)備わっているが、「ベンチ」にはそれらに匹敵するほどの個体識別特徴は備わっていない(はずだ)という、これらの語について受け手の念頭にある非言語的脈絡にその淵源を見出し得る対照である。ベンチを専門的に製作している職人の目から見れば、一見何の変哲もない「一つのベンチ」にも、それ固有の識別特徴がふんだんに備わっているかもしれないのである。

   しかしながら、この発話内にとどまって語ろうとする限り、この"a play"に備わっているはずの固有の名称を突き止めるために必要な情報も、この「特別な一個体」を外部世界における「特定の一個体」に照応させるために必要な情報も、この発話内には求めようもないと判断せざるを得ない。"a bench"の場合と同じように、"a play"の場合にも、そこに実現されている「特定」の在り方は、発話全体によって実現される「特別の個別性」であり、その点では相違はない。そしてこの"a play"がこの発話に関わる脈絡の中で「どの一個体」に照応するのかという「脈絡内照応性」という在り方の「特定」が既に実現されていることは、受け手には伝わりようもない。それに必要な言語的脈絡が受け手には示されていないからである。とまれ、「特定」の在り方は様々に感じ取られるし、様々に語り得るのである。

   関係詞節による「制限」を受けている「a+単数名詞+関係詞節」に実現されている「特定」の在り方が、特別な一個体を指示するという「特別な個別性」なのか、それとも、「同種の他のいかなる個体でも全く同様に用が足りる」(Zandvoort, ibid, 342,) 任意の一個体を指示するという「単なる個別性」なのか、不分明な場合がある。

Leonard wants to marry a princess who speaks five languages.
〈レナドは五つの言語を話せる王女と結婚したいと思っている。〉
この文からは、レナドはどこかの王女と知り合いで、彼女と結婚したいと思っているのかどうかも、自分の未来の妻に求める極めて厳しい条件を示しただけなのかどうかも分からない。多分、五つの言語を話せる王女は実在しないであろう。
(CGEL, 5.37) (斜体・太字と下線は引用者)
   CGELはここでは話者の視点からではなく受け手の視点から記述を行っている。それというのも、話者の視点から記述を行うことになれば、この「a+単数名詞+制限的関係詞節」の指示内容について、「話者(である我々)は特定[particular]の個体を思い浮かべている」という記述さえ可能となり、その結果、そこに実現されている「特定」の在り方が必ずしも明確ではないこの「a+単数名詞+制限的関係詞節」という名詞句について、「指示は個別的[specific]である」という了解を受け手に強要することにもなりかねない。受け手からすれば超越的としか言いようのない話者の視点を共有することを受け手は強いられるはめに陥るのである。翻ってみれば、CGELは先に示した例(A lion and two tigers are sleeping in the cage.)の場合でも、「指示は個別的[specific]である。なぜなら、話者は特定[particular]の個体を思い浮かべていると受け手である我々は判断し得るからである」と記述すべきであった。ただし、そう記述した場合、その後始末が容易ではないのは、既に"a bench"の場合について示した通りであるのだが。

   この「a+単数名詞+制限的関係詞節」という名詞句の場合、この孤立した発話に依拠する限り(「この文からは」)、CGELの記述にある通り、「特別な個別性」という在り方の「特定」が実現されている(即ち、レナドが実際に見知っている一王女が指示されている)のか、「単なる個別性」という在り方の「特定」が実現されている(即ち、「五つの言語を話せる王女」という条件を充たすような女性が示唆されている)のか曖昧である。願望が纏っている現実性の程度は様々であるがゆえに、「レナドが結婚したいと思っている五つの言語を話せる王女」が特別な一女性を指示するのか、レナドが未だ見えぬこのような女性類型に属する一女性を示唆するに過ぎないのかは、孤立した発話を元にしたのでは判断を下しがたい(また、「判断を下し難い」というのが適切な判断である)。もし後者であるとして、レナドはそうした女性の実在性を体験できるのかどうか、つまり、そうした(「極めて厳しい条件」を充たすような)女性に出会えるのかどうかも不明である。

   このように、関係詞節による「制限」を受けている「a+名詞+関係詞節」に、「単なる個別性」という在り方の「特定」が実現されていると判断する場合でも、そこで実現されている「個別性」には「実在的指示対象」が欠けている(「多分、五つの言語を話せる王女という条件を充たす一女性は実在しない」)ように感じられる場合もある。このことはCGELでは「A/anは実際には全く何も指示していないことがある」(CGEL, 5.37) と記述されることになる(ここでは「発話外照応性」が間接的に言及されている)。ただし、こうした判断を可能にするのもまた、「五つの言語を話せる王女」について受け手〔CGELの著者たち〕の念頭にある非言語的脈絡である。CGELの著者が下している判断とは異なり、東洋の島国に暮らすこの身には、ヨーロッパなら、そんな王女が実在してもいいような気もする。Dick Francisの小説(例えば BOLT )に登場する"Princess Casilia"(結婚適齢期は過ぎた女性ではあるが)なら「五つの言語を話せる」のではないかと思ってみたりもする。

   要は、ここでの「a+単数名詞+制限的関係詞節」という名詞句については、その「指示対象の実在性」はさておき(「発話外照応性」を本稿は直接的記述対照とはしていないことは既述の通りだ。ただ、繰り返すが、外部世界の誘惑は強力ではある)、「特別の個別性」という在り方の「特定」が実現されているのか、「単なる個別性」という在り方の「特定」が実現されているのか不分明であることを確認しておくだけで十分だということである。孤立した発話に対する過大な要求はないものねだりである。

   次のような「a+単数名詞[a book]」の場合にも何らかの「特定」が実現されていると判断していい[1−37]。少なくとも「単なる個別性」という在り方の「特定」は実現されているのである。

他方、同じくa bookでも、非特定的な(non-specific)用法の場合もあり、この場合は、現実世界に、その対応物が存在しておらず、またこれを、(同じ非現実の世界の中で話が続いている場合は別として)itで受けたり、「the+名詞」という形で受けたりすることはできない。例えば、I want to write a book. *It(=The book) is red.〈私は本を一冊書いてみたい。それは赤い。〉とは言えない。
(安井稔『改訂版 英文法総覧』, 11.1.2) (記号「*」については[1−24]参照)
   記述の視点は「この記述の筆者=安井」の視点、いわば独自の視点である。ここでは安井は、"I want to write a book."という発話の受け手の視点に身を置いてはいないし、さりとて、話者の視点から記述を行っているともみなし難い。なぜなら、この記述中の発話"I want to write a book."の《話者(あるいは受け手)》は、「I want to write a book. *It(=The book) is red.とは言えない。」という判断を下すことを求められているからだ("I saw a bench in the shade."という発話の話者(あるいは受け手)であるためには格別の資格を求められることはなかった)。ここでの《話者(あるいは受け手)》は、「I want to write a book. It(=The book) is red.と言える。」という判断を下す話者(あるいは受け手)とは互いにその「文法理論」を異にするような《話者》だからだ([1−24]参照)。

   これが学習用文法書中の記述であることを考慮すれば、受け手に伝わるのは、"I want to write a book."中の"a book"には「単なる個別性」という在り方の「特定」が実現されているということである(「この名詞句の指示対象は非特定的である」)という筆者の判断は妥当なものだろう[1−38]。しかし、受け手の視点からはここでも、"Leonard wants to marry a princess who speaks five languages."の場合と同様、この「a+単数名詞[a book]」については「特別の個別性」という在り方の「特定」が実現されているのか、「単なる個別性」という在り方の「特定」が実現されているか不分明である、と述べておかねばならない。

   なるほど、これから稿を起こされるべきいまだ成立していない書物["a book"]を想定すれば(この発話に関わる非言語的脈絡の探索である)、「現実世界に、その対応物が存在しておらず」とは確かに言えるだろう(繰り返しになるが、「発話外照応性」を本稿は直接的記述対照とはしていない)。しかし、「発話外照応性」に関わる点("a princess who speaks five languages"という名詞句について指摘し得た実在性の疑わしさや、ここでの"a book"について指摘し得るかもしれない実在性の欠如など)を等閑に付しても、「特定」は、脈絡(言語的脈絡あるいは非言語的脈絡)次第で、様々な在り方で実現されることになる。

   本を書きたいと思っているのなら書きたい具体的内容が念頭にあるはずだから"a book"は「非特定的な本」ではなく、「これをitで受け」、例えば、"It is on …"〈それは〜に関するものだ。〉などとも言えるだろうし("I want to write a book."と呟く私はその"a book"についてあれこれ語ることができる)、漠然と本を書きたいと思っているだけなら本の具体的内容などは未だ構想されてはいないだろうから"a book"は「非特定的な本」であるはずだ、などとも言えるだろう。"I want to write a book."中の"a book"について、例えば、"I want to buy a ball-point pen."中の"a ball-point pen"の場合と同じように、「単なる個別性」という在り方の「特定」が実現されているに過ぎない(それゆえ、これを"it"で受けることは出来ない[1−38]参照)と受け手が判断するとしたら、そうした判断は「本」を始めとする様々なことがらについて受け手の念頭にある非言語的脈絡による濾過を経たものであり、受け手の世界認識の在り方に根拠を見出せるものである。いつもながらのことだが、"I want to write a book."にも脈絡が決定的に不足している。

   「a+単数名詞+制限的関係詞節」という名詞句の指示内容である「特別な一個体」は発話の外部世界に存在する「どの一個体」に照応するのかという「発話外照応性」を実現するのに役立ちそうな個体識別情報が、発話全体によって提示されていると感じ取れる場合もある。既に述べたように、「特定」の在り方は様々に感じ取られるし、様々に語り得るのである。

(1−6)
A WOMAN who claimed she had been raped by a colleague faced a bill of more than £500,000 last night after a jury decided she had made up the allegations.
〈同僚に強姦されたと主張する女性は、陪審員団が彼女はその主張をでっち上げたという判断を下した後、昨夜、五十万ポンド以上の(賠償金の)請求書を突きつけられた。〉
(注) この記事冒頭の一文。
(False rape claim costs £500,000, PAUL WILKINSON AND FRANCES GIBB, The Times Online, February 8 2000)(大文字表記"A WOMAN"は原文通り。太字体と下線は引用者)

(1−7)
In March, a jury in Portland, Ore., awarded $81 million to the family of a smoker who died of lung cancer.
〈三月には、オレゴン州ポートランドの陪審員団は肺がんで亡くなったある喫煙者の家族に八千百万ドルを裁定した。〉
(Tobacco industry wins major Fla. decision, USA Today.com, 09/03/99)

   こうした孤立した発話を前に、「a+単数名詞+制限的関係詞節」という名詞句の指示内容について、立ち止まってじっと考え込むとしたら、特に、(受け手はこれらの発話は発話の外部世界の出来事に照応するはずだという判断へと導かれやすいがゆえに)この発話の外部世界に思念を向け、発話内のこの特別な一個体とこれに照応する外部世界内の一個体との関係についてあれこれ論じようとしたら、次のようなことも論じ得ることになる。

   (1−6)の場合、これを英国の出来事であると判断した上でこの発話から得られる情報を元にすれば、名詞句"A WOMAN who claimed she had been raped by a colleague"の指示内容である「特別な一女性」を英国社会内の数多の女性の中から選り抜き、「この女性だ」と指差せるかもしれない。この名詞句によって示されている情報(「同僚に強姦されたと主張する(女性)」)に加え、「裁判で五十万ポンド以上の賠償金の支払いを命じられた(女性)」が加われば、この名詞句の指示内容である「特別な一女性」に照応する一人の女性をほぼ唯一的に特定するに足る個体識別情報が得られたと言えるかもしれない……。

   (1−7)の場合、この発話全体をもってすれば、「三月に、オレゴン州ポートランドの陪審員団によって八千百万ドルの賠償金を裁定された家族の一員で、肺がんで亡くなった一喫煙者」を合衆国社会内の数多の死者の中から選り抜き、「この死者だ」と指差せるかもしれない(果たして指差す先には何があるのだろうか)。この喫煙者の家族についても合衆国の人口二億八千万人の中から選り抜いて唯一的に特定することも可能だろう……。

   (1−6)と(1−7)の場合、発話が完結した段階で、「a+単数名詞+制限的関係詞節」という名詞句については、この名詞句の指示内容である「特別な一個体」に照応する外部世界内の一個体を唯一的に特定するのに十分なほどの情報を示されており、「発話外照応性」という在り方の「特定」がほぼ実現されているのではないか……。

   しかしながら、(1−6)と(1−7)いずれの場合でも、発話の内側にとどまって記述を続ける限り、受け手の視点からの判断は、これらの「a+単数名詞+制限的関係詞節」という名詞句に実現されているのは「特別な個別性」という在り方の「特定」である、という単純なものである。そして、「必要があれば、これがその人だと言って示すこともできるはずである」とか、これらの「特別な一個人」が外部世界で「どの一個人」に照応するのかという課題は、本稿の記述の水準とは異なる位階に位置する。「発話外照応性」については、思いつくまま課題を連ねるくらいのことしかできそうもない。

   発話内で「特別の個別性」という在り方の「特定」を既に実現されている名詞句の指示内容である「特別な一個体」が、外部世界内では「どの一個体」に照応するのかを、果たしてどれくらいの言葉を積み重ねたら確かめられるのか。どのような作業の果てになら、「発話外照応性」は実現されたと判断し得るのか。

   「ウィンストン・チャーチルの伝記三部作[trilogy]の第三巻"Defender of the Realm"は、1998年に見舞われた卒中の後遺症のため完成の見込みはないことを告白せざるを得なかったウィリアム・マンチェスターなる人物」(cf. Editorial: Silence of the lion's voice, Chicago Tribune.com, August 15, 2001; Ailing Churchill Biographer Says He Can't Finish Trilogy, DEXTER FILKINS, The New York Times ON THE WEB, AUG 14, 2001)は、この世界内では「どの人物」に照応するのかを、どのようにすれば確かめられるというのか。その数々の著作を積み上げ、これらの書物の筆者がその人であると言って見たとて、「これらの書物の筆者」とはこの世界内では「どの人物」に照応するのか。かくかくしかじかの住所にかくかくの屋敷にかくかくの人物とともに暮らしている人物であり、その人物の個人情報は、ほら、この通り、であるだけではまだ事足りず、その人物の個人情報を頼りにその人を求めて訪ね歩き、ついにその人を目の前に、「これがその人物だ」と言って示すことができるまで、「発話外照応性」を実現するための作業は続くことになるのか(その人物が既に鬼籍に入っていたらどうしたらいいのか)。あるいは、更に作業は続くのか。格好の漫才ネタではないか。

   かくして、そこに実現されている「特定」の在り方は様々に感じ取られ語られることになるが、受け手の視点からは(発話の外部世界の誘惑に屈することさえなければ)そこにさほどの多様性は見て取れない。

   "a red rose"のように、指示内容を絞り込んで部分集合を指示するという在り方の「特定」が実現されていると話者に示唆されているが、受け手の視点からは、その指示内容が「赤いバラ(という集合)」(バラの部分集合)なのか、「不特定の一輪の赤いバラ」(単なる一個体)、あるいは「特定の一輪の赤いバラ」(特別な一個体)なのか、あるいは「赤いバラ(の観念)」なのか、"a red rose"という孤立した語句に依拠する限り、判断し難いとしか言いようのない名詞句もあった。

   "A lion and two tigers are sleeping in the cage."中の名詞句"A lion"のように、発話全体によって「特別な個別性」という在り方の「特定」が実現されていると判断し得る名詞句もあった。

   "Leonard wants to marry a princess who speaks five languages."中の名詞句"a princess who speaks five languages"のように、「特定」が実現されてはいても、その在り方が「単なる個別性」なのか「特別の個別性」なのか判然としない名詞句もあった。

   "I want to write a book."中の名詞句"a book"のように、そこに実現されている「特定」の在り方が「単なる個別性」なのか「特別の個別性」なのか判然としないにせよ、「単なる個別性」という在り方の「特定」が実現されているという判断に傾きやすい([1−38]参照)ような名詞句もあった。

   「a+名詞」に寄り添う関係詞節さらには発話全体が、「発話外照応性」に関わる問題へと受け手を引きずり込みそうな名詞句もあった。名詞句の指示内容である「特別な一個体」は発話の外部世界では「どの個体」に照応するのだろうといった難題へと受け手を誘い出すような、外部世界の誘惑を強力に感じさせる名詞句もあった。

   しかしながら、発話の内側にとどまって記述を続ける限り、受け手を外部世界へと誘惑しかねない名詞句についても、そこには「特別の個別性」という在り方の「特定」が実現されていると判断すれば足りた。

   とまれ、そこに何らかの在り方の「特定」が実現されている場合、そのような「特定」が実現されていることを受け手に伝える上では、話者の思いも、不定冠詞"a"も無力であった。そのような「特定」が実現されていることを受け手に伝えることを可能にするのは、まずもって、「特定」が実現されることになる名詞句の置かれている環境、即ち、発話(あるいは発話の流れ)であった。"a book"の指示内容が「特別な一冊の本」であることが受け手に伝わるには、"I have a book in my hand."という発話が必要であった。いわば、叙述による「特定」の実現[1−39]である。また、こうした「特別な個別性」という在り方の「特定」が孤立した発話の中で実現されている場合、「その特別な一個体」が当該発話に関わる脈絡の中で「どの一個体」に照応するのかが受け手に伝わるには、そのことを受け手に伝えるのに必要な情報が言語表現という形で示されるか、そのような言語表現に代わる働きをする非言語的脈絡が話者と受け手に(たまたま)共有されるかすることが必要であった。そして、当該発話内の名詞句の指示内容である「特別な一個体」が、発話の外部世界で「どの一個体」に照応するのかという「発話外照応性」は本稿の直接的記述対象からは外れることは繰り返し述べてきたことである。

  

(第一章 第4節 了)

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© Nojima Akira