第二章 個々の読解の在り方を吟味する
(1―1)
A big Martin Marina rescue plane, containing a crew of 13 men, quickly took off.
〈マーティン・マリーナ号という大型救援機は、乗員十三名を乗せて、すぐに飛び立った。〉

第6節 【読解  その6】について

【(1―1) の―ing句の読解  その6】
「直前の名詞句を説明する形容詞要素である。非制限的関係詞節で書き換えても意味内容の違いは感じられず、関係詞節で書き換えられる。ただし《分詞構文》(副詞要素)なのか形容詞要素なのかという議論は重要とは考えない。」

   この読解の前半部に関しては、【読解その5】について述べたことで足りるはずだ。「《分詞構文》(副詞要素)なのか形容詞要素なのかという議論は重要とは考えない」という姿勢についてはその根拠を具体的に述べることは到底できそうもない。思い浮かぶことを書き綴ってみる。

   分詞の暗黙の主辞が意識されているだけで十分、あるいは、文例(1−1)の分詞句は直前の名詞句に関わっているという判断さえあれば足りる、という姿勢であるのかもしれない[2−23]。意図的であるやなしやはいざ知らず、文法的整合性という概念は意識されていない。その点から言えば整合性の乱れは初めからありえようもない。

   しかし、英語教師が教室でこうした姿勢を取ることは難しそうである。ある分詞句を《分詞構文》(副詞要素)と判断しようと「形容詞要素」と判断しようと、要は英文を適切に読めればいいということになる(その通りであると私は思う)が、整合性を等閑視する結果、整合性の乱れがあちらこちらから顔をのぞかせることになるはずである。整合性を指向する諸範疇の放恣を許容することになれば、合理的論拠を提示した上で、あらゆる範疇の不要性を学生たちに納得させない限り、秩序、つまり、範疇相互間の整合的関係は多かれ少なかれ犠牲にされざるを得なくなるからである。

   「英文を読むということ」について何ごとかを記述することは出来なくなる。なぜそう読むか、ではなく、こう読む、だけが大切だとされることになるからである。重要なのは結果だけで、そこに至る過程ではない。英語が既に日常的な手段となっている場合には成立しうる姿勢であるかもしれない。

   それで何の不都合も生じないのは、これが教室を離れた英語教師が個人として英語に接する際の姿勢である場合だ。英語の知識の実践的運用に熟達し、どんな形態のものであれ分詞句の読解に格別の不自由を感じていない非英語教師(あるいは教室を離れた英語教師)の姿勢としてであれば、ここであれこれと評定するまでもない姿勢である。ただ、英語力を自在に活用するという段階にいまだ至っていない人間には身に備えるのが至難の姿勢であるし、私を含め、英語学習者には取るべくもない姿勢である。英文に込められている意味内容を読み取る際に、分詞句に関わる基本的了解の違いが、読み取り内容の違いをもたらす例をこれからの記述の中で示すことができるはずである。具体的には、分詞句の読解と訳出との間に際立つ相関性を見て取れる場合があることを、架空の文例ではなく実際の英文に則して示すことができるだろう。

     異言語を前に、人はあるがままを受け止めることにはとどまれず、ために佇んでは考えてしまうこともしばしばである。

(2−10)
[Being] a student of science, he was not interested in politics. (中原道喜『マスター 英文法』, p.398)(下線は引用者)

Being stupid and having no imagination, animals often behave far more sensibly than men.(山口俊治『全解 英語構文』、p.149)(下線と斜体は引用者)([7−61]参照)

Loving him, she shot him dead on the spot.

   「科学の徒である彼は」、「愚かで全く想像力のない動物は」、「彼を愛していた彼女は」とそのまま読むのが業腹であるせいか、「科学者だったので、彼は政治には関心がなかった」(中原道喜, ibid)(下線は引用者)、「愚かで想像力はないけれども、動物は人間よりずっと賢い振る舞いをすることがよくある」(山口俊治, ibid)(下線は引用者)、「彼を愛していたので/愛していたが、彼女は彼をその場で射殺した」とか何とか、あれこれ考えをめぐらせてしまうのである。 それも我知らずの内に。

  

(第二章 第6節 了)

(第二章 了)


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© Nojima Akira