/// 随心院と小野小町 ///  (01/06/06)

 随心院の歴史を遡れば牛尾山曼陀羅寺と
号し、正歴二年(991)に仁海僧正が創建
したと伝わります。仁海僧正は夢の中に
亡き母が牛となって鳥羽の地にいることを
知り、その牛の世話をし孝行を尽くします。
その亡き後、牛皮をもって両界曼陀羅に
仕上げ本尊としたと云います。牛尾山の
号は仁海僧正が牛の尾を山上に埋めて、
菩堤を弔った為と伝えられています。
古い文献には牛皮山と書かれているものも
あります。
また、仁海僧正は神泉苑において請雨の
法を幾たびもおこない、恵みの降雨を
もたらした雨僧正としても知られます。
勧修寺と同じくのびやかな境内
時を経て、増俊阿闍梨の世に曼荼羅寺の
子房として隨心院が建立され後堀河天皇
より門跡寺院の称を受けて随心院門跡と
云われるようになります。

ここ随心院は小野小町ゆかりの寺院と
しても知られます。この地は「和名抄」
には小野郷と云う地名が見られ、小野氏が
勢力を誇った所だそうです。
小野小町の生涯はよくは判らないようです。
本名は小野比右姫で弘仁6年(815)、
出羽の国司を勤めた良実の娘として生まれ、
小野篁(たかむら)の孫にあたると云う
一説もあります。
小野小町の歌碑、衣装は十二単…?
京都で10月に行われる時代祭では、小町は
奈良時代の衣装を受け継ぐ唐様で登場し、
生年が平安初期と云うことなれば納得ですが、
よく小倉百人一首などに描かれる小野小町の
十二単の姿は平安中期以降の装束の話なので、
どちらが本当っと思ってしまいます。

この謎に満ちた小野小町は絶世の美女と
云う伝説と、晩年の不幸な伝説の二面が
語られるようです。
有名なのは「深草少将百夜通(ももがよい)」
伝説。小町を慕って小町の「百日通われて
こられたなら、あなたの許に参りましょう」
と云う言葉に、伏見の深草から小野の里に
雨の夜も雪の夜も通い続けたけれど、
化粧井戸、朝夕に水で化粧した美人
九十九日目の夜、降る雪と病により 最後の
一夜を前に世を去った深草少将との話です。

毎年3月の終わりにはこの随心院で
「はねず踊り」が行われますが、はねずとは
梅の花の薄紅色のこと。この「はねず踊り」
で踊りと共に歌われる百夜通は少し結末が
異なっていたりします。
九十九日目には雪も降るし、体調もすぐれ
ないので深草少将は別人に通いを頼むの
ですが、小町はよくぞ雪の中を通って来たと、
別人を家の中に招き入れます。そこで別人で
あることが知れて、小町は愛想も尽きて
しまい、その後小野の地で平穏に暮らしたと
あります。
小野小町にまつわる伝説は微妙にニュアンスが
異なっていたりする話が多くあったり、
その広がりも秋田県、鳥取県、京都府の丹後
地方にまでに残るなどしています。
この異説、諸説の裏を返せば小野小町の史実が
ほとんど残っていないことの証です。
小町文塚、祈願すれば恋が叶うとか…
ここ随心院は小野随心院とも云われ、小野氏が
勢力を誇った地であることは確からしく、
地名も小野の名が残りますが、別に小野は
禁裏の局の名称でもあったらしく話は
ややこしい。
絶世の美女で知られ歌にも優れた小町の
ことだから、、同じ小野の名にあやかって
幾多の伝説が生まれてゆくこともありそうな
気がします。

歌と云えばあまりにも有名な小倉百人一首を
思い浮かべます。

「花の色は うつりにけりな いたづらに 
  わが身世にふる ながめせしまに」

花の色は色あせてしまった、むなしく我が身に
降り続く雨を眺めているうちに…

晩年の伝説は美女を裏返すように髑髏伝説
とか九相伝説などが残りますが、こちらは
あまり紹介されることは無いようです。
案内板がなければ気づかぬ化粧橋
謡曲、「あなめ小町」ではススキ野原の中で
「あなめあなめ」(目が痛い)との声に僧侶が
見回すと、どくろがあって、その目から
ススキが生えていて、それを抜き取ってみると
それは小町のどくろだったなどです。
松姫、鈴虫姫伝説の残る安楽寺でも小町の
末路を九相に描いた小野小町九相図が残り、
一般公開の折りには説明と共に見ることが
出来ます。この九相図は仏道の戒めの絵図の
ようです。

随心院と近くには小野小町にまつわる卒塔婆
小町像、文張地蔵、小町化粧井戸、小町化粧橋
などが残ります。

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