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 「絶望編」

 あれから4時間、イチローは何もせず、ただベッドに座っていた。
 動きたくても動けなかった。
 誰が彼を押さえつけているわけでもなく、がんじがらめにロープで縛られているわけでもなく、ただ動けなかった。
 今の彼を3センチ動かすことはインド象を逆立ちさせるより難しいであろうとさえ思えるほどであった。

 あれを見た最初はそうではなかった。

 彼が最初にとった行動は誠に奇怪であった。何を思ったのか、流し台にたまっていた汚れた皿を急に洗い始めたのだ。しかも、洗剤を流し落として洗い終った皿にまた洗剤を付けて、何度も何度も繰返し洗い続けた。
 それを見かねたマーヤが現在の不動の位置へ彼を移動させていたのだ。

 引越したばかりのイチローの部屋の中はマーヤが片づけてしまっていた。
 マーヤはこの部屋でしばらく暮らす事を決めていたらしく、その部屋をきれいしなければ気が済まなかったらしい。
 元々それほど荷物はなかったし、重たい家具はイチローが既に運び込んであった。
 きれいに掃除も済ませ(もっとも洗い物はイチローがピカピカにしたのだが)部屋の中は見違えるようになっていた。

 片づけを済ませたマーヤは「よしっ」と小さくガッツポーズを決めた。「さてイチローはどうなった?」とマーヤは彼の方を見たが、ベッドには大きなぬいぐるみのようになったままのイチローがいた。
 マーヤはちょっと肩を落しながら彼の傍らに並んで座った。
 「ねえっ、いい加減元気出してよぉ。ほらっ、きれいになったでしょ?」
 「....」
 「おなか空いた?」
 「....」
 「お茶飲む?」
 「....」
 「何かゲームしようか?」
 「....」
 何を聞いてもイチローの口は開かなかった。
 「もうっ、つまんない、せっかくイチローのためにせっせと働いたのに!」
 彼がかまってくれないのでマーヤはふくれてプイッと横を向いた。
 そしてすっくと立上がり2、3歩どすどすと歩いてから他に片づける物はないかと周りを見回してみた。しかし、もうこれ以上片づける物など残っていなかった。
 「ふあーああっ」
 マーヤは一つ大きな伸びをした。

 しかしマーヤは急に何かひらめいたのか突然流し台を探し始め、目当ての荷造り用ロープを見つけた。
 「これぐらいかな」
 マーヤはそのロープを10メートル位の長さに切り、片側をイチローの座っているベッドの足に結びつけた。そしてロープの反対側を自分の腰に巻いてしっかりと結んだ。
 「イチローさん、今度どこかへ行ってしまったらこのロープを引っ張ってねっ」
 マーヤはイチローにそう伝言を残し、両手を広げて「うん」と何かを念じた後空中へ浮かんだ。

−−−−−
 4時間前へさかのぼる。

 「空を飛べですってぇ?!」
 マーヤはその元々大きな目をさらに大きくしてイチローを見た。
 「そーか、その手があったか、待ってました」と言わんばかりの様子にイチローの彼女を押しやる力が少し抜けた。

 「わたし飛びますぅ」
 「ああ、飛べるもんなら飛んで見ろ。窓を開けてやろうか? でもここ2階だから落ちたら痛いぞ。ドアならこっちだ。そら、お帰りは..こち..ら?」
 イチローはそう言いながらマーヤを見る自分の視線がだんだん上へ上がっていくことを感じた。
 「錯覚かな?」とよくあるアニメのシーンのように目をごしごしと拭いてからもう一度見ると今度は目前に彼女の胸が迫っていた。彼女の細身の体にしては以外と立派なバストだ。そしてなぜかそのバストがぷりぷりと揺れている。
 照れもあって思わず目を伏せ、視線を下にした。その視線の先にイチローは全く意外な状況を見た。
 「う...浮いてるっ!」
 イチローの視線の落とした先のマーヤの足は床から50センチ上にあった。たまげて上を見上げるとマーヤの頭が今まさに、天井に届かんとしていた。
 「う..う...」
 イチローのその声はもう声にはなっていなかった。

 そして次の瞬間、マーヤへの視線がもっと上へ上がった。その理由はイチローの腰が抜けたからであった。今度はイチローの方が下がって、マーヤを下から見上げる形となった。
 「きゃっ」
 マーヤはスカートを押さえ、空中で赤く頬を染めた。
 イチローは腰を抜かしながらも視線は空中のマーヤへ釘付けとなっていた。
 <いったいここで何が始まったんだ>
 見逃すまいとして観察を続けるマーヤの空中遊泳はまだ続いていた。

 スカートを押えた際にバランスが崩れたのか、マーヤはふわふわと自分の意志とは違う方へ漂い始めた。そしてどんどん壁の方へ向かっている。
 マーヤが何とか軌道修正しようともがく姿は滑稽であったがイチローは笑えなかった。
 そして壁にぶつかって跳ね返るかと思った時イチローはまたしても信じられない光景を目の当たりにした。
 マーヤの体は吸込まれるように壁の中へとけ込み、隣人の部屋へと消えていったのだ。はたして、こんな芸当はいったいどんなトリックを使えば可能なのだろうか。
 しばらくして、Uターンに成功したマーヤが壁の中からイチローの部屋へ戻ってきた。相変らずじたばたともがいていて未だに制御が利かないようだ。
 そして勢い余って今度は反対側の壁を通過して外へ出ていった。そのあと急に外で犬が吠えだした。

 その後マーヤの消息はしばらく不明であったが、しばらくして玄関から歩いて帰ってきた。靴を履いていかなかったので正に地に足をつけて帰ってきた。
 部屋では腰を抜かしたままで無様な格好のイチローがそれを出迎えることになった。
 帰ってきた彼女が見せた表情には、二つの要素が含まれていた。
 一つは「飛び方が下手で恥ずかしい」という照れと、もう一つは「どう、これでわかったでしょ」と言う勝利に満ちた微笑みとである。
−−−−−

 ベッドに座るイチローの体は相変わらず固まったままだが、頭の中では全思考回路がF1レースのようにフルスピードで走っていた。ただし、出口のないサーキットコースをただぐるぐると回っていた。
 <マーヤは本当の死神で居候><自分の寿命はあと一週間><死にたくない><そんなはずはない><彼女はうそつき?><でも空を飛んだ><壁も抜けた><彼女は本物だ><マーヤは本当の死神で居候><自分の寿命はあと一週間><死にたくない><そんなはずはない><彼女はうそつき?><でも空を飛んだ><壁も抜けた><彼女は本物だ><マーヤは本当の死神で居候><.....(繰り返す)>
 そんなとき、「ピン」と張ったロープがイチローの顔に当たった。
 「何だ?」
 彼はここで、終わりのない思考のインループから抜け出すことが出来た。そのロープは、なぜか彼の足下から隣宅の壁の中へと伸びている。
 イチローは、うるさい蠅を追い払うようにそのロープを振り払った。
 「きゃーっ」
 そのロープの先のマーヤが叫び声とともに壁の中から引き戻され、どすんと床に落ちた。
 マーヤは「痛あい」と言いながら床へ落ちたあたりをさすっている。
 「おまえ、いったい何やってるんだよ」

 「わあ、正気に戻った」
 「俺はいつでも正気だよ...あれ?」
 イチローは自分の部屋の様子が変わっていることに初めて気づき、周りを見回した。
 「ほらっ、きれいになったでしょ?」
 「うん....」イチローはまだ少しぼーっとている。
 「おなか空いた?」
 「いいや....」
 「お茶飲む?」
 「....」イチローは首を横に振った。
 「何かゲームしようか?」
 「....」もっと強く首を横に振った。
 「もうっ、つまんない!」
 「つまんないって...そういやぁ、今、隣をのぞいてただろっ」
 「ちがうよ、空を飛ぶ練習してただけだよ」
 「あんまりブンブン飛び回るなよ、今だって隣の人に見られたんじゃないのか?」
 「大丈夫、朝からずっと寝てるみたいだよ。部屋中参考書だらけで、受験生か浪人生みたいだった」
 イチローは挨拶廻りもまだだったので、どんな人間が他に入居しているのか知らなかった。
 日曜の日中は不在者が多く、挨拶に回るのは月曜の夕方にしよう考えていた。
 「やっぱりのぞいたんじゃないか」
 「えへへ」
 イチローが正気になってやっと話し相手が出来たマーヤだった。


 イチローは一つの決断をした。
 <もうこうなったらマーヤの言うこと全てを信じるしかないな。そうだ、その中でうまく生き残る方法を考え出してやれ>

 「マーヤ、ちょっとこっち来てくれ」
 イチローは手招きでマーヤを呼んだ。
 イチローが真顔だったので(腰に巻いたロープをほどきながら)マーヤは素直に彼のそばへ寄った。
 「マーヤ、俺は君の言ったこと全てを信じるよ、俺は来週死ぬんだな?」
 「うん」
 マーヤはうなずいて答えた。
 「じゃあ聞くが、いったいどこでどうなって死ぬのか教えてくれ、いいだろ」
 「それは....」マーヤは口ごもった。
 「なあ、もったいぶらずに教えてくれよ、交通事故か? 病気か? それとも何かの事件に巻き込まれるのか?」
 「....」
 マーヤがなかなか答えてくれないのを見てイチローはゾッと寒気がした。
 <俺の死に方は、彼女が口に出せないほど残酷なものなのか?!>
 「...そうか、そんなにひどいのか...」
 ゆがんだ顔をしたイチローが思わずそう漏らした。
 「いいえっ、違うの、私も知らないの」マーヤは大きく首を振りながら答えた。
 「イチローさんは、今、たぶん、なんとか運命から逃れようと考えてるんでしょ? 私から聞き出して、例えば交通事故なら外へ出ないようにしようとか、墜落事故なら高いところへは行かないようにしようとか」
 「...うん」イチローはうなずいた
 「実は昔からそういう不手際がよくあって、死神の仕事に支障が出てきたの。そこで今では担当する死神には死因や場所は知らされないことになってるのよ、中には情が移ってこっそり教えてしまう死神もいたから。だから私が知らされているのは鈴木一郎さんが来週の今日、死んでしまうということだけなの」
 <しまった、俺の考えには先手が打たれていやがったのか>
 「それに、もし私が知っていたとして、それをイチローに教えたとしても、そのときは私が責任をとらされて...」
 「マーヤが?...どうするの?」
 「私がイチローさんを...」
 「俺を?(ゴクッと生唾を飲む)」
 「殺すの」
 「げっ...」イチローは声とも呻きともとれない音を発した。
 「この、鬼め! 悪魔め!」
 「いいえ死神よ」
 そう言うマーヤの目は「ちゃんと死んでね」と言わんばかりだった。

 イチローは、命拾いの参考にはならないが、マーヤから他にも教えてもらった。
 現代人間界の「死神」のイメージは、不手際を起こした死神が、死を逃れた人間を自ら始末する姿が誇張されたものだそうだ。
 あの大きなカマを持って人間を追いかける姿(正にイチローが描いていたイメージである)は、その様子を描いたものだそうだ。

 また死神は悪鬼とされているが本当は天使の一部で、人間の言う天使は誕生を、死神は死を受け持つ水先案内人であるのだそうだ。
 人の「死」に対する恐怖や不安のイメージから悪く言われて続け、今まで死神はじっと耐えてきたのだという。もはやそのイメージの悪さに耐えられなくなった死神界がマーヤのようなユニークな人材を採用に踏み切ったというのだ。

 確かにマーヤのような死神が増えれば死神へのイメージは一変される事だろう。
 「天使のような」とは言えないまでも「どこにでもいる普通の子」のイメージとして。

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