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 「葛藤編」

 次の日の月曜の朝。イチローは自分のベッドから目覚めた。
 外は快晴の良い天気である。

 <やっぱり朝はいい。夕べは考え事が多くてなかなか寝付けなかったが、人間、暗い夜に悩み事を考えちゃいけないな>
 夕べあんなに悩んだ事がカーテンを開けた日差しの中ではそれほど大した事じゃなく思えてくるのが不思議だった。

 まるで悪夢から覚めた時のようなほっとする安心感がイチローを包んでいる。
 「ふぁぁあーっ」
 <ところで俺は夕べ、いったい何を悩んでいたのだろう?>
 そう思いながら大きなあくびをして洗面所へ向かう途中、イチローのアゴが外れそうになった。
 「おはよう」
 マーヤが微笑んでいる。
 <そうだ、こいつだ>と思い出した。

 マーヤは人間じゃないので睡眠はしない。昨夜イチローが寝るときに「私はここで」と言って流し台の脇に座ったその位置に今日も居た。あの落ち着きのないマーヤが一晩中何もしないでじっとここに座っていられたのかと疑問に思ったが、見るといつの間にか朝の食卓の用意がしてあった。
 「これ、おまえが作ったのか?」
 「うん」マーヤはにっこりと笑みをを浮かべた。
 「おおお、すげぇなあ」
 「お仕事ですので、えっへん」
 その食卓に並べられた物を見て驚いた。イチローは料理のことはよく知らないが、どれもこれも時間と手間ののかかる料理ばかりで占められていた。
 マーヤはあり合わせの物だけで一晩かけて作り上げたのだ。そもそも材料がないので質素ではあるが、マーヤの意外な一面を見た気がした。
 <新婚の夫婦なんかはこんな生活を毎日送っているのかなあ>
 イチローはうらやましがる相手もないのにうらやましかった。

 イチローは顔を洗ってからさっそくマーヤ特製の朝食を取った。独身のイチローには久しぶりの家庭料理だった。
 「おいしい?」
 「ああ、美味いよ、上出来だよ」
 「まあうれしいわ」

 マーヤは人間じゃないので食事は取らなかった。聞けば、カモフラージュとして食べたり飲んだり(味も分かるそうだが)はしても、生活エネルギー補給のための食事は必要ないのだそうだ。

 マーヤの「行ってらっしゃい」に照れながら手を振ってアパートを出た。
 彼のスーツはマーヤがアイロンをかけてくれていたのでバリッと決まっている。
 バスに乗って、電車を乗り継いで、吊革につかまって満員電車に揺られながらもイチローは、この朝の一コマを振り返ってはニヤニヤしていた。こんな生活がずっと続けばいいなとさえ思った。
 「うわあ!」
 イチローの大声に、目の前の座席で寝ていた男が「びくっ」として目を覚ました。その中年風の男は「なんだよ、人の睡眠のじゃまをして」という怒りの目でイチローを見た。しかし見上げたイチローの目がただならぬ険しさだったので男は目をそらし、また睡眠を始めた。
 <俺の命はあと6日だ。マーヤが作り出した家庭的な雰囲気のせいですっかり忘れていた。人生の最後だというのに俺はいつものように会社へ仕事をしに向かっている!>
 これがイチローの大声の理由だ。

 黒澤明監督の映画で「生きる」というのがある。普通のサラリーマンが癌であと一ヶ月の命だと宣告され、残された人生をどうやって過ごすか、という話だ。
 主人公は最後に「人は死んでも名を残す」みたいな結末であるが、そこへたどり着くまで色々やりたい放題遊び回っていた。

 <俺はどうする?>
 イチローはあの映画の主人公に自分をだぶらせた。
 <俺はあと残された時間をどのように過ごせばいいんだ? たった6日間を悔いなく過ごす事なんて出来るのか?>
 しかし結論は出ないままいつものように会社へ着いた。

 「おはようイチロー」
 同僚達が声をかけてくる。
 <いいなあ、みんな平和で...>
 自分の状況がどうであれ、周りの人間はそれを全く知らない。その全く知らない中で自分だけいつもと違う行動をとるのは意外と難しい。これが「流される」というのだろう。
 自分の行動を決めるのは、自分の意志ではなく、周りの意志の場合が多い。
 しかし他面、周りの人間があまりにも日常的だったので自分のこの非日常的、かつ危機的状況が説得力を失い、かえって気が楽になるイチローだった。

 「おはよう、イチローさん」範子が声をかけてきた。
 「引っ越し大変だった? 手伝いにいけなくてごめんね、でも課長怒ってたわよ『この大事なときに引っ越しなんかしやがって』って」
 「ホント? でもいい物件だったからなあ。この時期を逃したら引っ越しラッシュでもうチャンスはないって言われたんだよ」
 「それよりさあ、今度近くになったんだから一度遊びに行ってもいい?」
 「ああ、もちろん大歓迎だよ」
 「じゃあおいしい手料理作っちゃおうかな。私、料理得意なのよ、さっそく今日行ってもいいかな?」
 イチローは「もちろんさ」と言おうとして慌てて口をふさいだ。
 <アパートにはマーヤがいるぞ! どうする!?>
 「うう..えーと、えっ、今日?」
 「うん?」
 「ううーん、わるいっ。今日はだめなんだ、いや、だめっていうか、そのー...」
 「ああ分かった、まだ部屋を片づけてないんでしょ?」
 「えっ? あっそうそう、そうなんだよ。俺の部屋まだ物置みたいだからさあ、ちゃんと片づけて置くから今度の...」
 そう言ってもう今度もないことに気づいた。
 「どうしたの?」
 彼女が気遣うほどイチローの表情は暗くゆがんだ。
 彼女とは今週でお別れなのだ。イチローはこのまま彼女を連れだして人生の最後につきあってもらおうか、それとも潔く身を引こうか心の中でつらい選択をしていた。
 「...来週まで待ってくれないか」
 イチローは低い小さな声で言った。
 「何かあったの?」
 始業のチャイムが鳴って皆自分の場所へ戻っていった。イチローが沈んでいるので時々範子がこちらを気にかけているようだ。

 週の初めには社内放送で社長の訓辞がある。みんな、めいめいの席について聞かなければならない。いつも聞き流していたイチローだが今日は訓辞があったことさえ分からなかった。
 社長の訓辞のあとは各課で課長からの業務連絡を行う。
 今日は何か特別な連絡がある様子であった。

 「さて今日はみなさんにご紹介する人がいます。この年度末に向け、一週間の短い間ではありますが貴重な戦力として事務の方へ応援に来てもらうことになりました。じゃあ君、どうぞこちらへ...」
 課長がそう言って一人の女性を手で招いた。
 「おおー」
 そこへ現れた女性を見て、男性社員の地響きのようなどよめきが上がった。そしてそれは自ら「はははは」と言う笑い声に変わり課長の紹介の声を消してしまった。男性たちの反応は「相当美人だぞ」ということを示していた。
 「.....さんです。じゃあ自己紹介して」
 その女性が課長に促され、自己紹介を始めた。
 「一週間の短い間ではありますがみなさんの少しでもお力になれたらと思いますぅ」
 イチローの今までふせていた顔が30度ほど上へ上がった。
 <この声...?>
 「テンポラリ会社から来た『摩耶京子』といいます。よろしくおねがいしまぁす」

 そこに紹介されたのは、紛れもない「マーヤ」だった。イチローの会社の制服を着てペコリとみんなにお辞儀をした。
 みんなの視線は美人の応援者へ集中していたが、次の瞬間その全てがイチローへ移った。
 大音響を上げて、彼のデスクは斜めに傾き、椅子は4メートルほど後ろへ吹っ飛んだ。
 そのデスクと椅子の間に大きく目を見開いて口をぱくぱくさせているイチローがいた。
 そのイチローのオーバーアクションに課内が大爆笑となったが範子はむっとして目をそらしていた。
 「イチロー、自分だけ目立つなよ」誰かが言った。
 <何であいつ、この会社にいるんだ。今朝だって『行ってらっしゃい』なんて言って会社に来ることなんか一言も言ってなかったぞ。あいつ...騙したな>
 ぱくぱくしていた口はこうしゃべりたかった。

 <みんなに二人の間柄を悟られてはまずいぞ...それはマーヤだって同じはずだ。それをなんだって会社にまで乗り込んで来るんだ?>
 とりあえずイチローは他人の振りをするしかなかった。
 業務連絡が終わってマーヤは他の女の子に仕事の内容を教わっているようだ。時々笑い声が聞こえるのでそつなくやっているのだろう。そこへ同僚たちがさっきの醜態を冷やかしに来た。
 「おいおいイチロー、いったい何に驚いたんだ? さては昔の彼女か?」
 「いや、あんまり美人だったので、つい」
 「なんだよ、そんなこと言ったら範子ちゃんが泣くぞ」
 「泣きたいのはこっちだ」と思いながら照れ笑いで誤魔化した。

 イチローは動揺した自分を落ち着かせようとしてとりあえず資料のコピーを取りに行った。そうするとその機会を待っていたかのようにマーヤも書類を持ってやってきた。
 「ばか、あんまりこっちへ来るんじゃない!」
 目配せでそう合図したつもりだったが、イチローの演技が下手だったのか無視されたのか、イチローの後ろにマーヤは並んだ。
 「何しに来たんだよ」イチローは小声で話しかけた。
 「コピーを取りに」
 「しーっ、声がでかいよ...そうじゃなくって、何しに会社へ来たんだよ」
 「驚いた?」今度はマーヤも小声で返事を返した。
 「さっきの俺を見ただろう、あれがうれしくてしょうがないようにみえた?」
 「ふふ、みんなに注目されたね」
 「今朝、何も言わなかっただろう」
 「言ったらイチローどっかへ逃げちゃうでしょ。私は常にあなたの側にいなきゃいけないの、それがお仕事なの」
 「仕事? そんなこと言って....!」
 範子が近づいて来る事に気づいたイチローはあわてて話を中断した。

 この会社には社員食堂がないので仕出し弁当を取っている。昼のお弁当係の範子はその注文を聞きにやって来たのだ。
 「摩耶さんとイチローさん、お昼どうしますか?」
 「私はお弁当を作ってきたので結構です」マーヤが言った。
 マーヤは人間じゃないので食事は取らない。とっさに誤魔化したのだろうとイチローは思った。
 「まあ、摩耶さんって家庭的なんですね、イチローさんは?」
 「俺は、おねがい」そうイチローは返事した。
 「待ってイチロー、あなたのお弁当も作ってきたのよ」

 その言葉を聞いてイチローと範子が同時に「えっ?」と言った。
 「おい、君、何言ってるの。いったい何のこと?」この話は範子の前ではまずい。イチローはあわてて誤魔化そうとしたがマーヤには通じなかった。
 「何よ『君』って、私が作ったのは朝御飯だけじゃないのよ。今朝だっておいしいって言ってくれたじゃない、キャンプ用のコンロで作るの大変だったんだから」
 「わっ、ばか、ばか、言うな」
 「なによ馬鹿って、イチローが寝てる内に作ってあげたのよ、感謝しなさいよ」
 「まあ、お二人、仲がおよろしいこと。じゃあ『鈴木』さんはお昼いらないですね」
 何かを悟った範子は急に他人になってその場から早足で立ち去った。
 「ああ! 範子ちゃん、待って」
 「ねえ『仲がおよろしい』だって」
 「ばか! 何喜んでんだよ。マーヤぁ、まずいよ、今の話は」
 「別に正体がバレた訳じゃないでしょ」
 「そうじゃなくって、彼女は俺の...恋人なんだよ」
 「ええっ!」
 そこで初めてマーヤが自分の失敗に気がついた。
 「ごめんなさい、でも知らなかったから、つい...」
 「つい、じゃないよ。もう俺、嫌われちゃったよ。おまえが会社に来るのは勝手だけど、範子に誤解されるような事するなよ」
 「いいじゃない、どうせ死ぬんだし。もー、ちゃんと謝ったでしょ」
 「なにおお! そうやっておまえは俺の生活をぶち壊すんだな、会社にまで押し掛けてきやがって、俺を監視に来たのか? だいたいどうやって会社に入り込めたんだ?」
 「それは私の許された能力の一つなの」
 「ううっ...」
 死神の世界へ深入りしそうだったのでそれ以上聞くのをやめた。

 イチローとマーヤが同棲しているという噂があっと言う間に広まった。発生源は範子なのか、声の大きいマーヤなのかそれともごまかしの下手なイチロー本人なのかは不明である。


 昼休みになった。
 まるで社内恋愛の見本のようだった。マーヤ特製のおいしいお弁当を二人でいっしょに食べた。しかしイチローはその味を味わうどころではなかった。周りからずいぶん冷やかされたがイチローの返す表情は引きつっていた。

 マーヤが事務所の流し台でお弁当箱を洗っているその隙を見つけて範子が現れた。
 「イチローさん、お願い、ちょと来て」彼女の表情に笑みはなかった。
 「うん」
 ついにこの時が来たか、とイチローは範子に誘われるままついていった。
 階段を上がって非常口を開けるとそこは屋上だった。冬の冷たい外気が身を縮ませる。しかし今日のような天気の良い日には結構ここへ人が集まっている。
 イチローと範子も最近よくここへ来ていっしょに昼食を取った。

 範子は屋上であまり人の居ない一角を見つけて陣取った。そして屋上の囲いに手を掛け、空を見上げて外の空気を吸っている。
 <きっと怒ってるんだろうな>
 範子は後ろ姿で表情は見えなかった。
 「範子ちゃん...」イチローはそっと声をかけた。
 それに振り向いた範子を見てイチローは愕然となった。顔中涙だらけになっている。
 「ごめんなさい。イチローさんに聞きたいことがあったんだけど...」
 そこまで言って、また彼女の頬に涙があふれた。人間は一度にこんなにも涙が出せるのかと驚くほどだった。
 周りで「おい、痴話喧嘩だよ。ひゅーひゅー」みたいな冷やかしがあったが当の二人には全く雑音ほどにも聞こえなかった。
 「...声が詰まって...何も...聞けないっ!」語尾は叫びになっていた。
 その穏やかじゃない雰囲気に野次馬達もざわめいた。

 「イチロー、見つけた!」
 <まずい、マーヤだ>
 「イチロー、何処へ隠れたかと思ったこんな所で浮気してえ」
 「違うんだ! 範子ちゃん!」
 イチローは、マーヤの神経を逆なでする言葉に範子の肩を捕まえて弁解を試みようとした。しかし範子の目は疑いを通り越して確信になっていた。
 範子はイチローを避けようとした。「さわらないで」と言わんばかりにイチローの胸をドンと押した。イチローの勢いとその勢いが加算され、彼女は後ろへ押された。

 驚きの声を準備する暇が無かったらしく、屋上の野次馬達に一瞬の静寂があった。そして彼女の体が屋上の囲いを越え、地面へ開放された空間へ放り出された事を確認してから一斉に悲鳴のコーラスが起こった。
 「落ちる!」

 その時イチローは、大脳の判断を待たず、脊髄による反射神経で、飛んだ。後先を考えず、ただ落としてはならない大事な物をつかまえるためだけに、飛んだ。
 飛びながら、まず彼女の足首をつかみ、その体重と勢いを屋上の囲いにぶつけた。しかしイチローの足の裏がそのエネルギーを吸収できるほどの摩擦力がなかったため思いっきり腹を打ってから体が回転した。
 イチローは決して彼女を離さなかったので、つかんだ彼女の体が、ブーメランが方向を変えるようなカーブを描きながら、なおも落下した。
 もう二人の落下を止める障害は無くなったと思われたが、イチローのつま先がうまい具合に引っかかった。直角に曲げた足の先が囲いに引っかかった。
 その足の先に二人の全体重がぶら下がったためイチローに猛烈な激痛が走ったが、それを無視し、体中の筋肉に力を込めた。
 落下が止まると同時に彼女の体は布団たたきのように壁面に打ち付けられたが、彼女はそれ以前に気を失っていたらしくおとなしくしていた。彼女のスカートがスローモーションでめくれ、お尻がむき出しになったがイチローに鑑賞する余裕はなかった。

 「たいへんだ!」
 屋上の社員達は、助けに入る者、身を乗り出して彼女の安否を確認する者、ただ目を覆い隠す者と様々だったが、彼女の救済に成功したことが分かると大きな歓声が上がった。
 イチローの足がずり落ちないようにみんなが押さえた。そして階下から彼女を救い出そうと何人かが駆け出していた。
 「おい、だいじょうぶか?」
 「....」
 声を出すと力が抜けそうで答えられなかった。
 下を見ると街路樹の隙間から通行人も驚きながらこっちを見上げていて目と目が合った。その目をそらすと空中に季節はずれの蝶々がのどかに逆さまに飛んでいた。
 「今、下に行ったからな」
 すると、彼女の横の窓が開き、救いの手が何本も伸びてきた。
 <助かった>

 彼女は階下に救出され、イチローの負担は自分だけとなった。
 「よーし、もういいぞ」階下の人間が言った。彼女の救出は確認できた。
 しかし、それが良くなかった。屋上の人間のイチローを押さえる力が緩み、また、イチローも安堵感から気が緩んだ。
 「うわあああ」
 イチローは空中で犬かきをするように落下を再開した。屋上の人間は、あわてて掴み直そうとしたが、掴めたのはイチローの靴だけだった。
 階下でもイチローを助けようと手を伸ばしたが、イチローの足首を捕まえてくれる人間は居なかった。
 本人を含む誰もがイチローの死を直感した。

 「白昼の悲劇、身代わりで投身!」
 こんな新聞の三面記事のタイトルがイチローの頭の中に浮かんだ。
−−−−−

 「ご苦労様、はいこれ」
 マーヤは屋上に残されたイチローの靴を手渡しながらねぎらいの言葉をかけた。
 「俺の靴...」
 「屋上に置いてあったわよ、飛び降り自殺するときみたいに」
 「馬鹿野郎」

 イチローは街路樹の枝を折りながら植え込みの土が出ている所へ落ちた。
 大きな土煙が舞ったが、木の枝が落下エネルギーを吸収し、柔らかい地面がクッションとなったおかげでイチローは奇跡的に無傷であった。しかし衣服はぼろぼろで土だらけである。
 まさに九死に一生を得たイチローだが、見るとマーヤは自分の失敗を棚に上げ、キラキラした目でこっちを見ている。
 「おまえ、人の不幸を楽しんでいやしないか? この人でなしめ」
 「そうよ、死神よ」
 「範子を泣かせちゃったじゃないか、何でそう無神経なんだ」
 「無神経なんかじゃないわよ。彼女、あなたが死んだら悲しむでしょ、今のうちに別れておいた方が彼女のショックが和らぐはずよ。私はその役をかってでたの」
 「うっ」確かにマーヤの言うとおりだ。イチローは言い返せなかった。

 「ちきしょう、もう俺は死にたいよ。今死んでしまえばよかったな」
 「いいえ、あなたは死なないわ」
 「何言ってるんだ、俺だって人間だ、6階からまともに落ちたら普通は死ぬんだよ」
 「普通ならね」
 「普通ならねって、俺は普通じゃないとでも...!?」
 <マーヤは一週間後に死ぬと言った、じゃあ裏を返せば一週間の間は死なないということか?>
 「そうよ、あなたは不死身よ。残りの人生もおもしろくなりそうでしょ、あと6日だけどね」

 サイレンを鳴らして救急車が来た。範子とイチローは病院へ連れられたが課長の指示でマーヤが付き添いとなって付いてきた。
 範子は気を失ったまま入院したがイチローは異常なしの診断をもらって夕方には返された。
 途中、範子の親たちが駆けつけてきて心配そうにしていたがイチローからは話しかけることが出来なかった。かわりにマーヤが事情を説明していたが、どうやら美談に仕立て上げたらしく、イチローはえらく感謝された。

 警察は、人身事故ではあるが人命救助であったことと差し引いて特におとがめなしとなった。しかし次の日から屋上は使用禁止となった。

 その他の処理は課長が色々と手を回し、三面記事に載ることはなかった。この一件の処理に、この忙しい年度末に、3日間もかかり、イチローはますます課長の嫌われ者になってしまった。
 その3日間、あの映画の主人公のように遊び回ることも立派なことも出来ずにただ時が過ぎていった。
 現実はこんなものなんだとイチローは憤りを覚えた。

 イチロー死亡まであと3日。

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