next  back  modoru  home

 「奔放編」

 今日は金曜日。イチローは今日も出社した。
 範子はあれからすぐ退院したが出社してこない。きっとこのまま会社を辞めるだろうとみんなが噂していた。

 <出来ることなら、もし俺が死なずに済むのなら、まず最初に彼女の元へ行って誤解を解いてくれるように言うだろう。しかし俺は死ぬ。彼女との間柄が修復できても出来なくても死ぬ。マーヤの言ったように、彼女のために誤解されたまま死んでいくのも悪くないだろう。彼女のショックもきっと少なくて済むだろう>
 そんな考えもあってイチローはあれから範子に会っていない。このままひっそりと死んでいくことを心に決めていたのだ。

 その日のイチローは溜まった仕事を要領悪くこなし、定時で業務を終えた。今日はマーヤの送別会が行われるのだ。

 「摩耶京子君、短い間ではあったがありがとう。では、乾杯!」
 課長の音頭で宴会が始まった。マーヤは勧められるままに酒を飲んでいた。死神は、飯も食わないんだから酒もタバコもやらないだろうと思っていたが、(フリかもしれないが)ずいぶん飲んでいた。
 マーヤが原因でこじれた社内恋愛の一件もあり、場は盛り上がらないだろうと思われていたが、逆に酒飲みの席にはもってこいとなった。
 悲劇のヒロイン範子が来ないため、みんなはイチローとマーヤの冷やかしを酒のネタにした。
 「いつから同棲している?」「彼女との馴れ初めは?」「イチローは女ったらし」など興味本位にみんなが問いつめてきた。

 みんながおだてたせいで二次会が終わったあと、マーヤはすっかり恋人気取りで寄り添ってきた。イチローの腕に手を組んでぴったり付いて離れない。
 みんなと別れて家路へと向かう途中もずっとそうしていた。
 「おまえ、死神だろ?」
 「ふぁーい、そうれーすぅ」マーヤはすっかり酔っている。
 「そんなにくっついて俺を誘惑するなよ」
 「あのねえ、私ねぇ、じ・つ・わあ、この世にひとつう、未練があったのぉ!」
 「あーもう、耳元で声がでかいよ...何だよその未練って?」
 「私の未練ってぇっ? 聞きたい、聞きたいぃ?」
 「あー聞きたいよ」
 「ほんと? でも笑わない? ねえ、きっと笑わない?」
 「笑わないよ、言ってみなよ」
 「うふふふっ、それはねぇ、わたしわぁ...きゃーっはっはっはっ、はずかしー」
 「なんなんだよ、言いたくなきゃ聞かないよ」
 「あっ、あっ、聞いて、聞いて」
 「んじゃあ早く言えよ」
 「早くぅ? うん...ナマムギナマゴメナマチャメゴ。あっ、早く言えなーい。きゃはははは」
 「....(沈黙)」
 「あっ、怒ったぁ、イチローが怒ったぁ」
 「全然怒ってないから...さあ、おじさんに、何もかも話してごらん」
 「あはははは...うん」
 そう言ってマーヤは腕組みを解いてイチローを見た。
 「私はねぇ、一度ぉ、...」
 「一度、なに?」
 「一度ねえ...」
 「うん」
 「燃えるような恋がしてみたっかたのぉ!」
 彼女の目は真剣になった。しかもその視線がイチローをじっと見ている。

 しかし一方のイチローの目は点になった。
 <彼女の燃える「恋」の相手はこの俺なのか!?>
 マーヤは急に周りのビルをキョロキョロと見渡し始めた。
 「ねえここ入ろう!」
 そう言って、甘えるような目をしながらイチローの手を引いた。
 <入ろう? もしかして、ホテル?>
 しかしそこは古ぼけたただの雑居ビルだった。一階に八百屋がこの時間まで店を開いている。店の親父がよそ見をしてる隙にその脇の非常階段からこっそり中に侵入した。
 「このビルに何かあるのか?」
 「黙って付いてきて、試したいことがあるの」
 「試すって、こんなとこ黙って入ったら怒られるだろ」
 「大丈夫ぅ」

 二人はそのビルの屋上に来ていた。
 「おいマーヤ、こんなとこまで来て誰かに見つかったらやばいぞ」
 「あーいいきもち」マーヤは深呼吸している。
 「そうか? ちょっと寒いぞ...何を試すんだ?」
 「あのね、このビルだけ屋上にフェンスがなかったの」
 「...それで?」
 「一番見晴らしがいいかなと思って」
 「なに、それだけ?」
 「うん」
 マーヤの言う「試す」というのはこんな他愛のないことだったのかと拍子抜けするイチローだった。
 ふと、マーヤがさっき言った言葉を思い出した。
 「そう言えばおまえさっき『この世に未練』って言ってたよな。」
 「うん」
 「でもおまえは世を忍ぶ仮の姿じゃないのか? 死神がこの世に未練があるってどういう意味だ?」

 マーヤはその返答に少しためらい、「わー、きれい」と言いながら夜空を見上げた。
 夜空を見ながら決断が付いたらしく上を向いたまま話し始めた。
 「実はね、私はね、死神になる前は普通の人間だったのよ。今はそのときの姿を借りてやってきたの」
 イチローはマーヤがあまりに美人なのでずっと作り物じゃないかと思っていた。こんな美人が実在していたのならそのときに会ってみたかったなと思った。
 「でも病気で死んじゃったの、2年もベッドで生活していて、何も楽しい事なんかなかった。誰かに優しくしてあげたくても優しくされるのはいつも自分の方で、それがかえってつらかった」彼女は夜空をずっと見上げたままだ。
 「いつもベッドの上で本ばかり読んでいて、本の中のラブストーリーにいつもあこがれていたの...私もこの物語のヒロインのように自由奔放な恋をしてみたいなって。
 それがある日、私にも死神がやってきて『あなたの寿命はあと一週間です』って言うの、わたし死ぬのは怖くなかったけれど、最後に一度でいいから『人もうらやむような恋がしてみたい』って死神さんにお願いしてみたの。
 その死神さんはとてもいい人で、色々と勇気づけてくれたり遊んでくれたりしたんだけれど、もう今からでは間に合わないから、もし夢を叶えたいなら人間界に携わることが出来る死神になってみないかって言うの、推薦してあげるよって...
 そして、その人が私の教官になってくれて、色々教わって、今の私がいるんだけど、こうしてみんなとお酒飲んだり、お話ししたり、ちやほやされたり、男の人と二人でロマンチックな夜空を見たり出来てとっても楽しい...生きてるときに出来なかったことが出来て、夢のよう、イチローはとてもいい人だし...
 でも、だから、イチローに彼女がいることが分かったとき、少しショックだったんだよ」
 イチローはその言葉に動揺した。

 マーヤは何かひらめいたらしく、振り返ってイチローの手を掴んできた。
 「ねえこうしよう、イチローも死んだら死神になろうよ、今度は私が推薦してあげる。そして二人で死神コンビになろうよ」

 マーヤの誘いにイチローはすぐに返事が出来なかった。「俺はもうすぐ死ぬけど死後の生活は安心だ」とは手放しに喜べない話だ。しかも範子が聞いたらどう思うだろう。きっと恨めしくて生きたまま化けて出てくるに違いない。
 「ごめんよマーヤ、せっかくだけど俺はまだ死んだあとのことなんか考えられないよ。それに範子のことを考えると、俺が死ぬだけでも悲しむだろうに、申し訳なくって...」
 それを聞いたマーヤの顔が少し寂しげだった。「そうね、ごめんなさい」と言った後マーヤはまた夜空を見上げ何かを考え込んでいるようだ。

 すると急に「クックックッ」と引きつり始めた。
 「あっははは、なーんちゃって、全部ウソだよー」
 「な、な、なにぃー!」
 「イチローったら真顔になっておかしい」
 「何だよ、ウソかよ、悪い冗談はよしてくれよこのいたずらっ子め、おまえ真剣に見えたからマジに答えたじゃないか」
 「はははは、あーおかしい」彼女は両手を広げ踊るように夜空を見上げていた。
 「君にはやられたよ、もう付き合いきれないなあ」

 イチローが「なあ、そろそろ帰ろうゼ」と言いながら彼女に背を向けたとき、ハイヒールが「タン」と音を立てた。振り返るとマーヤが屋上の囲いの上に立ってこっちを見ている。
 「ねえ、私が飛び降りても彼女みたいに助けてくれる? 不死身のイチロー君」
 「おい、馬鹿なこと言うな、そこ危ないぞ」
 イチローが一歩踏み出したとき、マーヤは微笑みをこちらに向けたまま軽くジャンプした。
 しかし降りる方向はイチローの立っている屋上ではなく6階下の地上へだった。

 「マーヤっ!」
 またもやイチローの脊髄反射が起こって飛びついた。しかし今度は彼女に手が届かない。それどころか何の障害もなくイチローの体は空中へオーバーランした。
 「ぅわーーーっっ!!」
 もうイチローの進行方向は彼の意志では決められなくなった。落下しながらマーヤがやや左方向前方に見えたが追いつくことなど不可能である。
 「ぶつかる、ぶつかる!」
 二回言うだけであっと言う間に地面に到達した。

 「うわあ、なんだぁ!?」
 八百屋の親父は仰天した。まず左側に女、そして右側に男が落ちてきた。
 左の女は地面に直撃して2、3回バウンドした。右側の男は、八百屋の張り出したビニール屋根を突き破り、今朝仕入れたキャベツの段ボールの山に墜落した。これでキャベツは全滅となった。
 墜落時のエネルギーはすさまじく、猛烈な音が響きわたり、キャベツの破片がそこらじゅうに飛び散った。
 驚いたのは八百屋の親父ばかりではなく、付近にいた通行人も一体何事なのかとかと皆、八百屋の方へ振り返った。
 「人だ、人が落ちたぞ!」
 往来は悲鳴を上げるもの、目を背けるもの、とにかく見に行こうとする野次馬などで大騒ぎとなった。しかし八百屋の親父も群衆も、落ちてきた「人」には近づくことが出来ず、遠巻きに見ていた。
 その群衆の中、キャベツを見ていた一人が「うわあ」と言ってのけぞった。
 イチローが粉々になったキャベツと段ボールの中から急に飛び出したのだ。
 「マーヤ、マーヤ、マーヤはどこだ?」
 イチローはまとわりつくキャベツを振り払いながらさまようミイラ男のようにマーヤを探した。体中の節々が痛くてうまく歩けない。周りを取り囲んだ観衆はミイラ男のタフさに驚きながらも「そら、左だ、君の左側にあるのが君の探しものだ」と視線で知らせた。
 そしてイチローは、左側にそれを発見した。

 頭を地面に伏せ、長い髪が放射状に広がっている。両手は地面へ八の字に開き、両足をくの字に畳んでいる。誰も彼女を助け起こそうとはしておらず、それが彼女の生存の可能性のないことを説明していた。
 「死んだのか? おい、ウソだろマーヤ...おまえが死ぬなんて、俺より先に死ぬなんて...」
 イチローはマーヤの前に跪き、横たわるマーヤを地面から剥がすように抱きかかえた。
 「ぅうっ、マー!....」イチローは絶句した。

 周りの野次馬もよく分からない状況ながら、イチローの悲痛な叫びに思わずもらい泣きをする者さえいた。
 「誰か救急車を呼んでくれ!」見かねた八百屋の親父が叫んだ。
 「おい、電話だ電話」「もう手遅れだよ」「警察も呼べ」「誰かあの二人に毛布を」「私は医者だ」
 周りは騒然となっている。その中でイチローはある声を聞いた。
 「バーカ」

 「なんだとお!」
 イチローが野次馬に猛烈な剣幕で言い返した。イチローの視線がその中にいた一人の女性に向けられたのでその女性は「ええっ? 私が何かしました?」と、急に着せられた濡れ衣に狼狽した。
 「ホントにもう、バカなんだから」
 「ん?!」
 声の主はイチローの腕の中にいた。
 「お、おまえ、生きてるのか?!」
 「そうよ、私が死ぬ分けないでしょ。また騙されてるぅ」
 「おおーっ!」「生きてるぞー」「なーんだ、冗談かよー」「おいおい、冗談で助かる状況かよ」「一体どんなトリックだ」
 野次馬達がまた騒然となった。
 「だってほら、私って身軽じゃない」とマーヤは立ち上がって飛び跳ねて見せた。
 <とほほ、じゃあ今の大立ち回りは何だったんだ>
 立ち上がったイチローの全身には脱力感が駆けめぐっていた。
 「死んだと思ったでしょ、あははは、さっきのイチロー真に迫ってたよ」マーヤがスキップしながら言った。

 バシッという音を立ててイチローの放った平手打ちがマーヤの動きを止めた。イチローの眉毛は金剛力士像のようになっていて、打たれたマーヤは顔を押さえてうずくまった。
 「おーっ」と言う声が野次馬からもあがった。
 「馬鹿野郎! 人の気も知らないで!」
 「なによ、痛いじゃない!」思いっきりぶたれて痛かったのか、マーヤは涙目になっていた。
 「おまえなんか、ホントに死んじまえ! この酔っぱらい!」
 「酔っぱらいのいたずらだとよー」「全く人騒がせだな」「警察に突き出せ!」
 野次馬達もあきれてしまっていた。
 イチローは「警察」の言葉で我に返った。この間の墜落事件もあったばっかりで、また課長を奔走させるわけにはいかない。
 「マーヤ、来い!」
 イチローは酔っぱらったマーヤの手を引いて、人垣をくぐり抜け、八百屋の親父に「おじさんごめんよー」と叫びながら一目散に走って逃げた。
 「こら! 待てー、キャベツどうしてくれる!」
 八百屋の親父が追いかけてきたが、今度は、事後処理を3日もかけるほどイチローの寿命に余裕はなかった。

 イチローに引かれ走って逃げながら、マーヤの瞳は涙でいっぱいになっていた。
 その涙はさっきイチローにぶたれた痛さによるものではなかった。

 「ごめんねイチロー、ホントはとても嬉しかったの」
 背後に救急車とパトカーのサイレンが鳴り響いていてその言葉はイチローに聞こえなかった。

 イチロー死亡まであと2日。

next  back  modoru  home