ヒンデミット 交響曲「画家マティス」 〜第86回の演奏曲目に関して〜

2007年5月13日 第58回定期演奏会向けに初版作成
2007年 7月 1日 イーゼンハイムの祭壇画の構造、各楽章の解説を追加
2008年 2月20日 ベルリン・フィルと第三帝国のDVD記事追加
2022年 5月15日 第86回定期演奏会向けに全面改訂
2022年 8月6日 「8」を追加

 横浜フィルハーモニー管弦楽団の第86回定期演奏会(2022年12月)で、パウル・ヒンデミット作曲・交響曲「画家マティス」を取り上げます。
 第58回(2007年11月)以来の2回目です。
 ということで、前回書いた記事を現時点で全面的に改訂することにしました。

 もともとは、タイトルとなっている画家マティスことマティアス・グリューネヴァルト(本名はマティス・ゴットハルト・ナイトハルト)のこと、グリューネヴァルトが描いて交響曲の各楽章のタイトルとなっている「イーゼンハイムの祭壇画」のことなど、あらかじめ知っておいた方がよいことを自分で調べてまとめておこうというで書いたものでした。
 その後の 2012年にはフランス・アルザス地方のコルマールを訪れて念願の「イーゼンハイムの祭壇画」をじかに見る機会に恵まれました。コルマールはジブリの「ハウルの動く城」のモデルになった美しい街でした。 (そのときの記事はこちら)
 また、その当時は実際に映像として歌劇「画家マティス」を見ることなど夢のまた夢(というか、ほとんど上演されることもない)だったのですが、現在ではDVDで歌劇の映像を鑑賞することもできます。

 そういった経験の追加分も含めて、記事を全面的に改訂しました。

パウル・ヒンデミット(1895〜1963)
Paul Hindemith




1.ヒンデミットの生涯

 パウル・ヒンデミット(1895〜1963)はドイツの作曲家です。ただし1930年代に台頭したナチスとの折り合いが悪く、指揮者フルトヴェングラーが新聞紙上でヒンデミットを擁護したいわゆる「ヒンデミット事件」によってドイツを離れ、スイスを経て1940年にアメリカに亡命します。これは「20世紀の音楽史」には必ず出てくる有名な話です。
 ヒンデミットの経歴については、第83回定期(当初予定は2020年5月だったが、実際に開催できたのは2021年4月)のときにまとめたものがありますので一部見直して再掲します。(代表曲、有名曲の作曲の履歴も入っています)

1895年11月16日:ドイツのハーナウに生まれる。ハーナウは、ヘッセン州の町で、フランクフルト(・アム・マイン)の東約20 km にある。グリム童話で有名なグリム兄弟の生誕地でもある。父親は職人だったが、子供達には夢を託して音楽教育を行った。
1908年(12歳):フランクフルトのホッホ音楽院に入学。ヴァイオリンと作曲を学ぶ。
1913年(17歳):劇場オーケストラのヴァイオリン奏者として活動を始める。
1916年(20歳):フランクフルト・ムゼウム管弦楽団(フランクフルト歌劇場管弦楽団)のコンサートマスターとなる。
1918年(22歳):第一次大戦に従軍。父親は戦死。戦後は主にヴィオラ奏者として活動しながら作曲を始める。
1919年(23歳):ヴィオラ・ソナタ Op.11-4無伴奏ヴィオラ・ソナタ Op.11-5
1920年(24歳):アマール弦楽四重奏団を結成、ヴィオラを担当。
1921年(25歳):「室内音楽第1番」Op.24-1(12の独奏楽器のための)
1922年(26歳):「小室内楽曲」Op.24-2(木管五重奏曲)
1924年(28歳):フランクフルト歌劇場の首席指揮者ロッテンベルクの娘ゲルトルートと結婚。「室内音楽第2番」Op.36-1(ピアノと室内管弦楽団)
1925年(29歳):「室内音楽第3番」Op.36-2(チェロと室内管弦楽団)、「室内音楽第4番」Op.36-3(ヴァイオリンと室内管弦楽団)。この頃「朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された『さまよえるオランダ人』序曲」(弦楽四重奏)を作曲。

1927年(31歳):ベルリン音楽大学の作曲科教授。ベルリンで、Vn. ヨーゼフ・ヴォルフスタール(没後はシモン・ゴールトベルク)、Vc. エメヌエル・フォイアーマンと三重奏団を結成。「室内音楽第5番」Op.36-4(ヴィオラと室内管弦楽団)、「室内音楽第6番」Op.46-1(ヴィオラ・ダモーレと室内管弦楽団)、「室内音楽第7番」Op.46-2(ヴィオラ・ダモーレと室内管弦楽団)。
1928年(32歳):「室内音楽第8番」Op.46-2(オルガンと室内管弦楽団)。
1934年(38歳):フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルで交響曲「画家マティス」が初演され好評を博す。しかし三重奏を組むシモン・ゴールトベルクがユダヤ人であったことからヒンデミットとナチス政権との折り合いが悪く、交響曲の本編である歌劇「画家マティス」の上演許可がおりなかった。これに新聞紙上でフルトヴェングラーが抗議したことから、フルトヴェングラーはすべての公職、ベルリン・フィル、ベルリン国立歌劇場音楽監督の地位を解かれることとなった(ヒンデミット事件)。ヒンデミット自身も帝国音楽院の顧問を辞職してトルコに逃れた。なお、この事件をきっかけにベルリン歌劇場第一楽長の地位にあった指揮者のエーリヒ・クライバーは、南米アルゼンチンに移住した(なので、息子は「カール」ではなくカルロス・クライバー)。
1935年(39歳):歌劇「画家マティス」を完成したが初演のめどは立たない。「白鳥を焼く男」(ヴィオラ協奏曲)を作曲。
1936年(40歳):公式にドイツ国内でのヒンデミットの作品の上演が禁止された。ヒンデミットはトルコの音楽教育の編成、アンカラ音楽院の創設に尽力。
1938年(42歳):スイスに亡命。1935年に完成していた歌劇「画家マティス」をスイスのチューリヒで初演。バレエ音楽「気高い幻想」、そこから抜粋して組曲「気高い幻想」。

1940年(44歳):アメリカに亡命。「交響曲変ホ調」。
1943年(47歳):「ウェーバーの主題による交響的変容」。
1946年(50歳):アメリカ市民権を得る。ダラス交響楽団の委嘱により「シンフォニア・セレーナ」。
1951年(55歳):スイスのチューリヒ大学教授。バーゼル室内管弦楽団創立25周年記念に交響曲「世界の調和」(同名のバレエ音楽から)。
1953年(57歳):スイスに移住。
1956年(60歳):ウィーン・フィル初来日に指揮者として随行。
1958年(62歳):ピッツバーグ市創立200年記念に「ピッツバーグ交響曲」を作曲。
1963年(68歳):スイスの自宅で高熱を発し、診察に訪れていたフランクフルトで死去。
 

2.ヒンデミットとナチスとの関係

 ヒンデミットは、ナチスに迫害されたのでユダヤ人だと思われがちですが、ユダヤ人ではなく、れっきとした「アーリア人」(いわゆる純正ドイツ民族)です。その前衛的な音楽が、既存の伝統を破壊する革命的なのものであったことが、ナチスに否定された理由のようです。
 ヒトラーは、1929年のヒンデミットのオペラ「今日のニュース」初演を見て、その中の入浴シーンに激怒し、ヒンデミットの音楽を反社会的と決めつけたようです。
 なんだか、ショスタコーヴィチのオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を見て不快に思ったスターリンが、いわゆる「プラウダ批判」(音楽の代わりの荒唐無稽)を展開し、「社会主義リアリズム」芸術を強要したのと似ていますね。

 ナチスは、反社会的として排除しようとした芸術を十把一絡げに「頽廃芸術」と呼びました。
 「頽廃音楽」として排除の対象となったものには、1つにはユダヤ人作曲家の音楽があります(メンデルスゾーン、マイヤベーア、マーラー、ツェムリンスキー、シェーンベルク、クルト・ワイル、クルシェネク、コルンゴルトなど)。もう一つは、いわゆる「モダニズム」に属する音楽で、このような「伝統的ドイツ」にそぐわない芸術を、ナチスは「文化的ボルシェヴィキ」と呼びました(「ボルシェヴィキ」とは、レーニンが率いてロシア革命を導いた政党名。ロシア語で「多数派」を意味する)。ヒンデミット、ヴェーベルン、ベルクなどが該当します。
 「頽廃音楽展」なるイベントが、1938年にデュッセルドルフで行われています。
 この「頽廃音楽展」のパンフレットは、クルシェネク作曲/歌劇「ジョニーは演奏する」をモデルにしたもののようです。(ダビデの星を胸につけた黒人のジャズ奏者!)(クルシェネクは、 マーラー/交響曲第10番の補筆完成に登場します。また、歌劇「ジョニーは演奏する」は、小澤征爾氏が2002年にウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任して、初めて新演出で取り上げた演目です)

「頽廃音楽展」ポスター 1938年にデュッセルドルフで開催された「頽廃音楽展」のパンフレット

 

3.歌劇「画家マティス」  

 交響曲「画家マティス」は、本編である歌劇「画家マティス」の「予告編」として、今でいえば発売前の「プロモーション用」に作られました。
 一昔前のように王侯貴族お抱え作曲家としてオペラを書くのと違って、19世紀以降の作曲家は苦労して長時間かけてオペラを作っても、上演してもらえる保証はありませんでした。そのため、オペラの作曲に先立って、予告編として管弦楽による「交響曲」や「組曲」を作って聴衆や批評家の評判を確認したり、スポンサーや歌劇場からの上演予約を取り付けることが多くなりました。また、なかなか演奏されないオペラやバレエの素材を組曲や交響曲に取り入れることもありました。
 ベルクの「ヴォツェックからの3つの断章」や「ルル組曲」はオペラの予告編として作られ、またプロコフィエフのバレエ組曲「ロメオとジュリエット」はバレエ全曲の上演に先立って演奏され、交響曲第3番は歌劇「炎の天使」、交響曲第4番はバレエ「放蕩息子」の素材を用い作曲されています。

 交響曲「画家マティス」は、オペラを企画中(リブレットもヒンデミット自身が書いている)の1933年にフルトヴェングラーから作品の依頼があったことから、オペラの題材を用いて管弦楽曲として構成し、1934年に初演されました。この交響曲が好評だったことから、ヒンデミットはオペラを1935年に完成させます。

 ヒンデミットは、おそらくナチスとの折り合いを付けたいと考えてこのオペラを作曲したのではないかと思います。
 取り扱っている「イーゼンハイムの祭壇画」は、もともとドイツの領内であったアルザス地方で製作され残っている絵画であり、それが作曲当時は第一次大戦の結果としてフランス領となっています。それをドイツが誇る伝統的な芸術としてとり上げることは、ある意味でヒトラーの好むところだったはずです。
 また、オペラのテーマとしては「芸術と社会、民衆との関係」であり、それに対するヒンデミット自身の「信条告白」的な内容で、極めて純粋で高尚な芸術論となっています。これもヒトラーやナチスの好むものなのではないかと思います。
 だがしかし、1920年代までの「アヴァンギャルド」な曲の存在や、ユダヤ人のシモン・ゴールトベルク(Vn)やアマヌエル・フォイアーマン(Vc)と三重奏団を組むなど、結果的にはナチスの「ヒンデミット嫌い」を払拭するには至らなかったようです。


 画家「マティス」とは、どの解説にも書いてありますが、近代フランスのアンリ・マティス(Henri Matisse, 1869〜1954)ではなく、中世ドイツの マティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grunewald, 1470/1475頃〜1528、本名はマティス・ゴットハルト・ナイトハルト Mathis Gothart Neithart)のことです。
 ヒンデミットは、通常呼ばれる「マティアス・グリューネヴァルト」ではなく、本名である「マティス・ゴットハルト・ナイトハルト」の方を採用して「画家マティス」(Mathis der Maler)と名付けたわけです。

 歌劇「画家マティス」のあらすじは次のとおりです。

 時はドイツ農民戦争(1524〜1525)の頃、舞台はドイツのマインツ(フランクフルト近くのライン川沿いの都市)近郊ですが、マティスが描いた「イーゼンハイムの祭壇画」は、フランスのアルザス地方のイーゼンハイム村の修道院で描かれ、現在はその近くの町コルマールにある「ウンターリンデン美術館」(この美術館も古い修道院をそのまま美術館にしている)に展示されています。(イーゼンハイム村は、現在はフランス語読みで「イッセンハイム Issenheim」と呼ばれるようで、コルマールの南約20kmのあたりにあります)
 コルマールは、フランス西北部のライン川東岸の都市ストラスブールの近くにあり、このオペラの時代から第一次大戦までドイツの一地方(この時代はおそらくマインツ大司教の領地)でした。(ストラスブール Strasbourg は、ドイツ名で『シュトラスブルク Strassburg』(街道の街)だった)
 ただ、「イーゼンハイムの祭壇画」が描かれたのは 1511〜1515年頃、ドイツ農民戦争が 1524〜1525年なので、マティスが農民戦争後に描いたのは「イーゼンハイムの祭壇画」ではないようです。
 その辺のストーリーと実際の歴史とがどの程度一致しているのかは、よく分かりません。オペラはあくまでフィクションとして考えればよいのでしょう。

第1景/修道院の中庭
修道院で絵を描きながら、マティスが自分の天職である画家に疑問を感じて物思いにふけっている。神は満足しているのだろうか。
そこに農民一揆の指導者のシュヴァルプとその娘のレギーナが連邦軍に追われて逃げこんで来る。
マティスは修道士たちとシュヴァルプの傷の手当てをし、食事を与え休ませてやるが、シュヴァルプは「こんな大変な時代にのんびり絵を描いているとは」とマティスを非難する。
連邦軍が迫って来るので、マティスは馬を提供して逃がしてやる。
連邦軍士官のジルヴェスターはマティスが逃走を助けたことを咎めるが、大司教お気に入りの画家であるために、その場で逮捕はできない。

第2景/マインツのアルブレヒト大司教邸
マインツにあるアルブレヒト大司教の屋敷には人々が集まり、大司教がローマから帰るのを待っている。中ではカトリックとルター派の市民および学生が三つ巴で言い争っている。 やがて大司教がマインツの守護聖人である聖マルティンの聖遺物を持って到着し、争いは収まる。
人々は退出し、部屋には親しい数名の者だけが残り、お抱え画家マティスもやって来る。大司教はルター派の富豪町人リーディンガーに声を掛けると、一緒にいたその娘のウルズラを「貴女はとても聡明で美しい女性だ」と褒め称えるので、彼女は頬を赤らめた。
リーディンガーは経済的に苦しい大司教に資金援助を申し出、その代わりにルター派の書籍の焚書の禁止を嘆願する。大司教は焚書命令の撤回を約束し、リーディンガーとウルズラは帰って行く。
しかし、副大司教はローマへの反抗は許されないと指摘し、結局大司教は焚書を認める書類に署名をしてしまう。
そこへ連邦軍士官のシルヴェスターが現れ、マティスの姿を見付けると「農民一揆の首謀者を逃がした罪で逮捕する!」と息巻くが、マティスは農民の反乱の取り締まりに荷担しないようアルブレヒト大司教に熱心に懇願する。
大司教はマティスに理解を示し、そのまま彼を逃がしてやる。

第3景/マインツの商人リーディンガー邸
ルター派の富豪リーディンガーの屋敷では、人々がルター派の大切な書物を隠しているが、やって来た大司教の顧問官カピトに見つかり、書物はどんどんと外へ運び出されていく。広場では焚書が行なわれ、次々とルター派の書物が焼かれる。
そんな中、カピトは「本は焼かれても信仰は消えない」といい、宗教改革者ルターから大司教に宛てた手紙を取り出す。中には進歩的な聖職者は結婚すべきとあり、大司教が率先して前例を作るように提案されていた。
リーディンガーを含めて市民はそれに同意し、早速リーディンガーは娘のウルズラに大司教の結婚相手になるよう命ずる。彼女は画家のマティスを愛していたので困惑する。
ウルズラはやって来たマティスに愛していることを打ち明けるが、既に絵を描くことに無力さを感じ農民一揆に身を投じることを決意したマティスを引き留めることはできない。 立ち去るマティス。残されたウルズラは大司教との結婚に同意する。

第4景/マインツ近郊の村
農民軍は領主であるヘルフェンシュタイン伯爵とその夫人を捕らえ、城から引きずり出して伯爵を処刑する。
農民たちは城内を略奪するとともに、伯爵夫人にも襲いかかろうとするが、そこに現れたマティスが制止する。マティスは逆に「農民でもないのに邪魔するな」と襲われそうになるが、農民の指導者のシュヴァルプとその娘のレギーナが現れて事なきを得る。
そうこうしているうちに、攻めてきた連邦軍との戦いでシュヴァルプは戦死し、マティスも軍士官ジルヴェスターに捕えられそうになるが、伯爵夫人が「彼は命の恩人です」とマティスを助ける。
マティスは、連帯しようとした農民たちにも失望し、為すことすべてに疑問を感じて、孤児となったレギーナを連れその場から逃げ出す。

第5景/マインツのアルブレヒト大司教邸
大司教の顧問官カピトは、財政立て直しとルター派市民との融和のため大司教に金持ちの娘との結婚を勧め、大司教も同意する(この大司教は、信念もなく付和雷同タイプのようだ)。
その相手として連れて来られたのが商人リーディンガーの娘ウルズラであることに大司教は驚く。
大司教は政略結婚に同意したことを責めるが、ウルズラは自分が結婚することでルター派に寛容な大司教が人々の争いを鎮めてほしいと真剣に訴える。彼女の言葉に感銘した大司教は、贅沢を手放し、戒律を守って聖職者としてあるべき独身でつつましい生活を送ることを決意する。そして、ルター派の教えにも祝福を送る。

マティスと大司教が、心の中に迷いを感じながら、それぞれ自分の厳しい道を歩む決心をすることが、間奏曲として交響曲第3楽章冒頭の部分が流れることで暗示される。

第6景/森の中
マティスとレギーナが森の中をさまよって逃げている。レギーナは、父が亡くなってほとんど正気を失っている。
怖がるレギーナを寝かしつけながら、マティスは天使の奏でる音楽の話をし、彼女は民謡「三人の天使は歌う」を一緒に歌う(この部分がオペラの序曲の素材であり、交響曲の第1楽章である)。
レギーナが眠ると、自分の無力さを嘆き溜息をつくマティスは、聖アントニウスになってさまざまな「誘惑」を受ける。(いわゆる「聖アントニウスの誘惑」)
まず、伯爵夫人の化身が「富」を、副大司教が権力を、愛するウルズラは物乞いの姿になって際限ない施しを、娼婦になって欲望に身を任すことを、そして殉教者の姿で犠牲を要求する。大司教の顧問官カピトは学問と知識を、農民一揆の頭のシュヴァルプは戦いを・・・。そして魑魅魍魎の悪霊たちの合唱がマティスを苦しめる。

すると場面が変わり、そこに聖パウロとなった大司教アルブレヒトが現れる。
聖人は生き続けるが、自分は既に死んでいるというマティスに、聖パウロは「神に与えられた才能を、再び人々のために活かすために絵筆を取れ!」とマティスに訴える。自分の生きる道を悟ったマティスは、神への感謝の言葉「アレルヤ!」を叫ぶ。

(交響曲第3楽章のフィナーレの部分のコラールで、オペラの最も感動的な場面。ここでオペラを終わってもよいくらい)

第7景/マティスのアトリエ
マティスは、絵を描くという天命に目覚め、寝食を忘れて絵を描いている。(おそらくここで、自分が体験したものを含めて「イーゼンハイムの祭壇画」を描いている)
傍らには生死の境をさまようレギーナが横たわり、ウルズラが看病している。
レギーナは、マティスの絵の中の瀕死のキリストを自分の父親と混同して怖がる。最後に「3人の天使が歌う」を口ずさみ、父の顔が怖くなくなったと言ってレギーナは静かに息を引き取り、交響曲の第2楽章「埋葬」が間奏曲として流れる。

「イーゼンハイムの祭壇画」が完成する。マティスは「世界に、そして神に、持てる力を全て捧げた」と言う。
アルブレヒト大司教が訪ねてきて絵の完成をねぎらい、マティスに報酬や住まいの提供を申し出るが、マティスはそれを断る。大司教は「名前は忘れられても、作品は語り続けるだろう」といって帰っていく。
マティスの最後の語りは交響曲の第2楽章「埋葬」の上で歌われ「死」を暗示する。
(交響曲・第2楽章のエンディングで、静かにオペラ全編の幕を下ろす)  
 

4.イーゼンハイムの祭壇画

 このマティアス・グリューネヴァルトの描いた「イーゼンハイムの祭壇画」が、オペラとも密接に関連しており、結果として交響曲『画家マティス』にも深く関係しています。
 「イーゼンハイムの祭壇画」は、複雑な構造をしていて、なかなか全貌がつかみにくいです。
 また、写真で見ただけでは、実際の大きさと質感(木の板に平板的に塗られています)が時間できないと思います。
 実物はかなり大きく、その威圧的な迫力に圧倒されます。

イーゼンハイムの祭壇画の構造

 まずは、イーゼンハイムの祭壇画が展示されている、フランス・アルザス地方のコルマールという町にある 「ウンターリンデン美術館」のホームページを見てください。(フランス語ですが・・・)
 このページから、まず 上のメニューの「COLLECTIONS」をクリック。
 次に、その中の 「The altarpiece of Issenheim」をクリック。
 そこから、祭壇画の各部分を選択して表示できます。

 一見教会の中のようですが、もともとあったイーゼンハイム村の修道院ではなく、コルマールにあるウンターリンデン美術館内(この美術館自体が古い修道院の建物を利用している)の元礼拝堂に、分解して3列に並べてあります。(本来、扉の裏表になっているものを、表と裏を分離して展示している)
 この絵の大きさは、下記の写真で人の大きさと比べてみると分かります。かなり大きな絵です。

ウンターリンデン美術館でのイーゼンハイムの祭壇画の展示風景

 3面に分けて、しかも裏表に絵が描かれている。

イーゼンハイムの祭壇画の展示風景

私が見に行ったときにはこんな感じで展示されていましたが、現在の美術館のホームページを見ると展示位置などが少し変わっているようです。

 この祭壇画は、聖アントニウスの像を納めた祭壇を取り囲む外面や扉に描かれた絵です。日本の仏壇を想像して、その側面や扉に絵が描いてある、しかも、その扉が二重の扉で、それぞれ表と裏に絵が描いてある、と考えればよいと思います。
 この構造を、簡単な平面図(祭壇を上から見たところ)にしてみました。
 美術館には、この祭壇の構造そのままではなく、第1面から第3面を3つに分解して、扉を開けたり閉めたりしなくとも見られるように分割・分離して展示してあります。美術書などの写真も、第1面から第3面をそれぞれ別々に掲載しています。(だから全体の構造が分かりづらい)

(注)全体が立体的に分かりにくいこともあり、ウンターリンデン美術館には、立体的に絵の構造を示したミニチュアをお土産として売っているらしいのですが、見つけられませんでしたが。

 これを、各々の面が立体的にどの部分に相当するかを示したのが、下記の平面図(上から見た図)です。各面の写真と見比べてみると、ようやく全体の構造と、絵の位置が分かります。(図中に赤字で示したのが、交響曲「画家マティス」の楽章に対応する絵です)

イーゼンハイムの祭壇画の平面図(上から見た図) イーゼンハイムの祭壇画の平面図(上から見た図)

 

第1面(外側)=上の平面図の青:扉を閉じたときの、正面(扉外側)と側面、台座部分。
(平日には扉が閉じられ、この絵が見えていた。平日面または第1面)

・正面(扉外側)がキリスト磔刑の図
・左側面には聖セバスティアヌス、右側面には聖アントニウス
・台座部分が「埋葬」の図。一般には「ピエタ」(哀歌、悲しみ)と呼ばれる。
 

イーゼンハイムの祭壇画第1面イーゼンハイムの祭壇画第1面

(付記)この絵を見ると、バッハの「マタイ受難曲」を思い出します(私の持っているグスタフ・レオンハルト指のラ・プティット・バンドの「マタイ」のジャケットにはこの絵が使われている)。ちなみに、キリスト磔刑の図で、左にたたずむのが聖母マリア様。いわゆる「スターバト・マーテル」(悲しみの聖母)です。

私の持っているバッハ「マタイ受難曲」のCDジャケット。
 「イーゼンハイムの祭壇画」のイエス受難の場面の一部です。


 

第2面=上の平面図の橙:扉を開いたときの扉裏面(両側)と内扉表面(中央)
(日曜日のみに扉が開かれ、この面が見えていた。日曜面または第2面)

・中央部(内扉の表面)に「キリスト降誕」(この左側が「天使の合奏」
・左パネル(外扉裏面)に「受胎告知」、右パネル(外扉裏面)に「キリストの復活」

イーゼンハイムの祭壇画第2面イーゼンハイムの祭壇画第2面

 

第3面(最内面)=上の平面図の緑:内扉(第2面)を開いたときに、聖アントニウス像を安置した 厨子が現れる。このときに両側に見えているのが内扉(第2面)の裏面。
(聖アントニウスの祝日にのみ開かれた)

・中央部:像3体(中央に聖アントニウス、左が聖アウグスティヌス、右が聖ヒエロニムス)
・左(内扉裏面)に「聖アントニウスの聖者パウロとの出会い」、右(内扉裏面)に「聖アントニウスの誘惑」
・台座部分には、キリストと12使徒の像。ちなみに、台座部分の第1面の内側には絵はないようです。ここは、扉ではなく、単なる覆い板なのでしょうか。

イーゼンハイムの祭壇画第3面イーゼンハイムの祭壇画第3面


 

5.交響曲「画家マティス」の各楽章の解説

 イーゼンハイムの祭壇画を見た上で、交響曲「画家マティス」の各楽章を眺めてみましょう。

第1楽章:天使の合奏 "Engelkonzert"

 オペラでは「序曲」として使われています。
 音楽の素材としては、第6景「森の中」で、農民一揆のリーダー・シュヴァルプの娘レギーナを連れて逃亡中に、恐怖に震えるレギーナを寝かしつけるのに天国の天使の奏でる音楽のことを語って聞かせる場面です。レギーナが歌う民謡「三人の天使は歌う」が最初のトロンボーンのモチーフです。
 イーゼンハイムの祭壇画では、第2面、3人の天使が右半面の聖母子に音楽を奏でている部分に相当します(チェロだかガンバだかを演奏している天使の弓の持ち方が変ですが)。

イーゼンハイムの祭壇画「天使の合奏」「キリスト降誕(キリストと聖母マリア)」

イーゼンハイムの祭壇画「天使の合奏」部分拡大



 この楽章は序奏付きソナタ形式で、序奏部分でトロンボーンが奏でるのが民謡「三人の天使は歌う」。
 テンポが上がると提示部で、練習番号「3」(以下カッコ付きは練習番号)の8小節前から始まるフルートとヴァイオリンが演奏するのが第1主題。第2主題は「7」からヴァイオリンで演奏されます。「10」からのフルートの一節は、とても印象的で、構造的には第3主題と呼ぶべきでしょうか。
 「12」の4小節前から展開部に入ります。第1主題と第2主題が絡み合い、クライマックスとなったところで、突然「16」から「3人の天使が歌った」が再登場。譜割りは「2/2拍子」と「3人の天使が歌った」の「3/2拍子」が並行して進みますが、音楽としては整然としています。
 これが終わった「18」から、テンポが落ちて緩やかに第1主題が演奏され、再現部の準備をします。  「20」からが再現部で、最初にフルートの第3主題が再現されて、「22」の3小節前から第1主題が再現されます。第2主題の再現は、ほとんどコーダといってよい「23」の6小節前にちょっとだけ。すでに盛り上がっていて、そのまま終結部へなだれ込みます。終結部はちょっと唐突な印象です。

第2楽章:埋葬 "Grablegung"

 オペラでは、第7景/マティスのアトリエで、レギーナが息を引き取った後の間奏曲で、この間にマティスは「イーゼンハイムの祭壇画」を完成させます。
 そして、最後にマティス自身が自分の人生を満足気に振り返る場面にも使われ、この楽章の音楽がオペラ全体の最終場面になり、マティス自身の死を暗示します。
 イーゼンハイムの祭壇画では、台座部分の「墓に横たわったキリスト」、通称「ピエタ」の部分が相当するといわれています。

イーゼンハイムの祭壇画「墓に横たわったキリスト(ピエタ)」


第3楽章:聖アントニウスの誘惑 "Versuchung des heiligen Antonius"

 導入部は、オペラでは第5景/マインツのアルブレヒト大司教邸と第6景/森の中との間奏曲に相当する部分です。
 「迷い」と「試練」を象徴する音楽なのでしょう。  この部分の楽譜には、ラテン語で  

 "Ubi eras bone Jhesu / ubi eras, quare non affuisti / ut sanares vulnera mea?"
(主よどこにいらしたのですか? どうして、ここにいらして私の傷を癒していただけなかったのですか?)

と書かれています。「迷い」と「試練」なのでしょう。

 次に、「1」と「2」の間 "Sehr Lebhaft" (非常に活き活きと)から始まるテンポの速い主部。ここは、オペラでは、第6景/森の中で、レギーナを寝かしつけた後にマティスを襲うさまざまな迷い・誘惑と、それに混乱させられるマティスを描いた部分。
 イーゼンハイムの祭壇画の第3面の右側、魑魅魍魎や悪魔に誘惑される聖アントニウスを描いた「聖アントニウスの誘惑」の部分に相当します。

イーゼンハイムの祭壇画「聖アントニウスの誘惑」

イーゼンハイムの祭壇画「聖アントニウスの誘惑」部分拡大



 「6」の9小節前から、荒れ狂う魑魅魍魎のたちの中から、フルートの姿が残り、「6」からのオーボエが新たな主題を演奏します。クラリネットに受け継がれ、盛り上がりますが、「10」でいちど「拒絶」します。

 「13」の6小節目から急に静かになり、チェロが哀愁のある主題から弦楽器中心の中間部となります。ここは誘惑する女性として現れるウルズラの姿です。

 その後、「17」の10小節前(Lebhaft:活き活きと)からは、再現部で前の2つの部分のさまざまな再現です。
 まず最初(Lebhaft)は「10」の部分の再現ですが、リズム的に複雑に変化しています。
 「21」からは中間部の再現。
 「24」の6小節前から出るホルンの主題は、中間部後半(「16」の4小節前の Sehr Breit )に出る音形の再現です。
 「25」の7小節目から始まる金管の主題は、主部の冒頭(「1」と「2」の間の "Sehr Lebhaft" )の変形した再現。
 「28」の14小節前からの弦楽器による細かい音形は、序奏の「迷い」と「試練」の変形です。「28」の9小節目から出てくるクラリネットの主題(後でホルンに引き継ぐ)は、明らかに序奏1小節目の音形です。(これ、12音による音列主題かと思ったのですが、音が11個しかないこと、うち重複するものが1つある(=B)ことから、12音のうちの10個しか使っていません。ちなみに、ない音はCとFです。これは何かを象徴しているのでしょうか?)

 「31」からがコーダ。ここで、木管にコラール風の主題が登場します。ここには楽譜上にラテン語で "Lauda Sion Salvatorem" (シオンよ、救い主を讃えよ)と記されており、どうやらこの木管の主題はグレゴリオ聖歌に関係するようです。
 オペラのどの部分に相当するのかはよく分かりません。

 この部分がクライマックスに達したとき、「35」の6小節前から、金管による "Alleluia" (アレルヤ)が鳴り響きます。これは、交響曲には登場しない「聖アントニウスの聖者パウロとの出会い」(イーゼンハイムの祭壇画の第3面左側)に相当する場面で、数々の誘惑を乗り越えたマティス(ここでは「聖アントニウス」になり切っている)が「聖パウロ」に出会い、天から与えられた絵の才能を人々のために使うことを勧められ、自分の生きる道を見出します。その啓示を受けて、神に感謝の「アレルヤ!」を叫ぶ場面の音楽です。マティスの「芸術家としての確信」を象徴しています。
 オペラの最も感動的な瞬間が、交響曲のエンディングとして使われています。

イーゼンハイムの祭壇画「聖アントニウスの聖者パウロとの出会い」



 

6.フルトヴェングラーのいわゆる「ヒンデミット事件」について

 交響曲「画家マティス」は、1934年3月にフルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルによって初演されています。初演は成功だったらしいのですが、ヒンデミットの音楽は、芸術を含めた大衆操作をもくろむナチスと折が合わなかったことから、ヒンデミットの作品の演奏はナチスによって妨害されるようになります(上に掲げた「頽廃音楽展」ポスターのデザインからも、ナチスが嫌った音楽の傾向が想像できます)。フルトヴェングラーは、ナチスの妨害に対してヒンデミットを擁護する論文を新聞に掲載し、ナチスと対立します(1934年11月)。いわゆる「ヒンデミット事件」です。
 フルトヴェングラーは、純粋に芸術的観点から論文を執筆したようですが、当時のナチスは芸術も「政治的」な道具と考えており、このような世間知らずの発言によってフルトヴェングラーは政治的に窮地に立たされ、ベルリン・フィル主席指揮者を含む全ての公職から辞任させられます。結局は、フルトヴェングラーが妥協する形で、演奏活動を許されるようになりますが、それゆえに戦後「ナチス協力者」とみなされることにもなります。芸術家といえども、社会体制とは無縁ではいられない20世紀の悲劇の一つでしょう。

 ただ、ヒンデミット自身はグリューネヴァルトを「権力に反抗して自己の信念を貫く芸術家」として、自分の化身のように共感してこの曲を作ったのでしょうか? どうも、必ずしもそうではないようです。
 この曲が作曲された1933年は、ナチスが総選挙に勝利して政権を握った年ですが、ヒトラーの政権はそう長続きしないと考えられていたようです。また、1933年11月に発足したヒトラー政権下の「全国音楽院」(総裁:R.シュトラウス、総裁代行:フルトヴェングラー)の「作曲家職分団」の指導評議員にヒンデミットが招聘されており、翌1934年2月の全国音楽院の「第1回ドイツ作曲家会議」設立祝賀演奏会では、ヒンデミットの「弦楽合奏と金管のための音楽」が演奏されたということです。ということから、ヒンデミットの側には、ヒトラー政権と対立しようという政治的意図はなかったようです。
 逆に、それまでかろうじて許容範囲内とみなされていたヒンデミットが、フルトヴェングラーの純粋に芸術的で「政治音痴」な行動に対して、ナチスに反対する勢力や国際社会が政治的英雄のように取り扱ってしまったことに対するナチスの警戒感によって、急激に危険分子のレッテルを貼られて攻撃・排除の対象となってしまったということのようです。

 

7.交響曲「画家マティス」のおすすめCD/DVD

ヒンデミット/交響曲「画家マチス」、ウェーバーの主題による交響的変容、他(フランツ=ポール・デッカー/ニュージーランド交響楽団)
 マイナーな団体ながら、ナクソスが世界中から選んだだけあって、なかなかよい演奏です。録音も鮮明です。

ヒンデミット/交響曲「画家マチス」、他(マリン・オールソップ/ウィーン放送交響楽団)
 現在の Naxos の「画家マティス」はオールソップ女史のものが表看板のようです。

ヒンデミット/交響曲&管弦楽曲集(交響曲「画家マチス」他)(ブロムシュテット/サンフランシスコ交響楽団、他) 3枚組
 オーソドックスで重厚な演奏。3枚組で、ヒンデミットの管弦楽曲が一通りそろいます。ヒンデミットの楽器であるヴィオラと管弦楽による「葬送音楽」「白鳥を焼く男」も入っています。
 ただし廃盤で入手困難な模様。

ヒンデミット/交響曲「画家マチス」他(アバド/ベルリン・フィル)

ヒンデミット/交響曲「画家マチス」他(カラヤン/ベルリン・フィル、1957年録音)
 カラヤンは、ヒンデミットをあまり取り上げていません。

ヒンデミット/交響曲「画家マチス」他(エッシャンバッハ/北ドイツ放送響)

ヒンデミット/交響曲「画家マチス」他(ケーゲル/ドレスデン・フィル)

ヒンデミット/交響曲「画家マチス」他(パーヴォ・ヤルヴィ/フランクフルト放送響)
 これも廃盤で入手困難な模様。

 歌劇の全曲盤の影像も出ています。  2012年のウィーンでのライブで、ベルトラン・ド・ビリー(Bertrand de Billy)指揮のウィーン交響楽団が演奏しています。
 演奏、舞台とも見ごたえがあり、是非一度ご覧になることをお勧めします。
 交響曲「画家マティス」をより深く理解することにつながると思います。
 ステージ上にモニュメントとして置かれていていて、舞台が回転しても常に一部が見えている巨大な十字架上のキリストは、「イーゼンハイムの祭壇画」から写し取ったものです。
ヒンデミット/歌劇「画家マティス」全曲(ベルトラン・ド・ベリー指揮/ウィーン交響楽団、2012年12月 アン・デア・ウィーン劇場でのライブ、日本語字幕付き)


 

8.マティスに関する無駄情報  

8.1 ウィリアム・ウォルトンの「ヒンデミットの主題による変奏曲」  

 イギリスの作曲家ウィリアム・ウォルトン(1902〜1983)は、現エリザベス女王の戴冠式後進曲「宝珠と王杖:Orb and Sceptre」(1953年)やその父君であるジョージ6世の戴冠式行進曲「王冠:Crown Imperial」(1937年)で有名ですが、1963年に「ヒンデミットの主題による変奏曲」という管弦楽曲を作曲しています。
 ウォルトンとヒンデミットは、ウォルトンが1929年に作曲した「ヴィオラ協奏曲」が初演を予定していたライオネル・ターティス(1876〜1975)に拒否されたときに、ヒンデミットが初演を申し出て、ヒンデミットのヴィオラ独奏、作曲者ウォルトンの指揮によって1929年の「BBCプロムス」で初演されたこともあり、相互に尊敬しあう友人だったそうです。
 そんな縁もあり、ウォルトンは1963年に、ヒンデミットのチェロ協奏曲(1940年)の第2楽章の主題に基づく「ヒンデミットの主題による変奏曲」を作曲します。作曲中からヒンデミットはこの曲を気に入り、初演の指揮を申し出ていたそうですが、ヒンデミットは体調を崩し(その年に亡くなることになる)、初演は作曲者の指揮によって行われました。
 この曲は、主題と9つの変奏、そしてフィナーレからなる25分程度の曲ですが、そもそもの主題の最後の部分に「交響曲・画家マティス」の3楽章中間の弦楽器による静かな部分の主題(オペラでは画家マティスを誘惑し惑わす女性たちの場面の経過的なテーマ、練習番号「15」の6小節目から)が現われ、各変奏でも繰り返し登場します。さらに、第7変奏では「画家マティス」の第2楽章を、第9変奏では第3楽章最後の金管によるコラール「アレルヤ」やフーガを彷彿とさせる場面も登場します。明らかに「画家マティス」を意識して作曲されていると思います。  

「ヒンデミットの主題」は、下記のチェロ協奏曲の第2楽章(9:00 あたりから)、画家マティスの類似部分は 10:40 あたりからです。
ヒンデミット「チェロ協奏曲」(1940)  

 ウォルトンの「ヒンデミット変奏曲」の主題では、、画家マティスの類似部分 下記の演奏の 1:50 あたりから。
 第7変奏は 13:30
 第9変奏は 18:00
あたりから。
ウォルトン「ヒンデミットの主題による変奏曲」(1963)

 

9.参考文献

(1)「第三帝国と音楽」(明石 政紀・著) 水声社 (1995/11)

(2)「第三帝国と音楽家たち」(長木 誠司・著) 音楽之友社 (1998/04) (これは廃刊のようで中古のみ)

(3)「第三帝国のR.シュトラウス―音楽家の“喜劇的”闘争」(山田 由美子・著) 世界思想社 (2004/04)

(4)「カラヤンとフルトヴェングラー」(中川 右介:著)幻冬舎 (2007/01)



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