日本の西洋音楽史 〜明治以降の日本のクラシック音楽〜
その2:全体の流れ

2024年 4月 1日 初版作成


 明治以降の日本における西洋音楽の歴史について、簡潔にまとめて書いてあるサイトがあまり見当たりません。
 音楽の専門家でも歴史の専門家でもありませんが、アマチュアのいちクラシック音楽愛好家として、自分が聴いてきたものを中心に、明治以降の日本でのクラシック音楽の歩みを簡単にまとめてみようと思います。

 先に「君が代」ができるまでの経過をまとめましたが、ここでは明治維新から現在までの大まかな流れを概観してみることにします。



1.明治維新直後の直輸入期

 開国直後の「国歌」に必要性も含めて、西洋音楽は主に「軍楽隊」の演奏曲として持ち込まれたと思われますが、それが一般庶民にかかわることはほとんどなかったでしょう。

 軍楽隊以外に目を転じると、最初に「音楽」が論じられたのは「教育の場」でした。
 学校制度を含む社会制度が整えられていく中で、音楽をどのように教育していくかが論点となったわけです。
 そして、音楽教育をどのように進めればよいのか模索する上で、それを調査・研究する機関として、1879年(明治12年)に文部省の中に「音楽取調掛」が発足しました。
 これ以降、日本の西洋音楽は「文部省」を中心に進められることになります。
 このときに、音楽取調掛の中心となったのが伊沢修二(1851〜1917)でした。

 当時の音楽教育の在り方として
・全面的に西洋音楽化する
・西洋音楽を取り入れながら、日本の旧来の音楽も取り入れる
・全面的に日本の音楽の上で教育を行う
の3つが議論されたようですが、伊沢は「折衷案」を採用することとしました。
 それが「東西二洋ノ音楽ヲ折衷シテ新曲ヲ作ル」との理念でした。

 伊沢は、アメリカ留学(1875〜78)で指導を受けたルーサー・メーソンを招き、「小学唱歌集・初編:1881年(明治14年)」を皮切りに、日本語の歌詞で歌う「唱歌」を整備していきます。その時点では、外国の民謡や外国人の作曲したものに日本語の歌詞を付けたものがほとんどでした。「翻訳唱歌」と呼ばれます。

 伊沢はその後1887年に創立された東京音楽学校(現・東京藝大)の初代校長となって、音楽教育を担う人材の育成も行うことになります。

小学唱歌集・初編:1881年(明治14年)

中等唱歌集:1889年(明治22年)



 

2.日本人作曲の歌が作られ始める

 「君が代」ができるまでの経過にも書いた1893年(明治26年)に公布した文部省制定「祝日大祭日歌詞並楽譜」の8曲では、作曲者のほとんどは皇室の雅楽家でした。
 その他、伊沢修二(1851〜1917)のような明治最初期に海外留学したり、小山作之助(1864〜1927)のように音楽取調掛で学びながら見よう見まねで作ったような状態だったのでしょう。

 そんな中で、「音楽取調掛」は1887年(明治20年)に東京音楽学校として発展的に解消され、そこで外国人教師を招いたり、海外留学を経験した日本人教師などによって、日本人の演奏家、作曲家、教員の養成が始まりました。

 その成果もあり、1890年代以降には日本人の作曲した唱歌が登場するようになります。
 この頃には小山作之助(1864〜1927)、瀧廉太郎(1879〜1903)などがいます。

 小山作之助の曲としては、「夏は来ぬ」(佐佐木信綱作詞、小山作之助作曲:1896年「新編教育唱歌集(第五集)などがあります。

 1894年に東京音楽学校に入学し1898年に卒業した瀧廉太郎は、1900年に日本人作曲家による初めてのピアノ独奏曲「メヌエット」を作曲するとともに、「花」(春のうららの墨田川・・・)を含む歌曲集(組歌)「四季」や、「お正月」(もういくつ寝ると・・・)、「雪やこんこん」、「はとぽっぽ」などの童謡、「箱根八里」、「荒城の月」などを作曲しましたが、残念ながら1901年からのドイツ留学中に結核を発症し、留学を中断して帰国後24歳で早世しました。

瀧廉太郎・組歌「四季」(1900年)
1. 武島羽衣作詩「花」
2. 東くめ作詩「納涼」
3. 瀧廉太郎作詩「月(秋の月)」
4. 中村秋香作詩「雪」

瀧廉太郎「メヌエット」(1900年)

瀧廉太郎「憾(うらみ)」(1903年)

 これらの日本人作曲家の曲は、主に文部省唱歌として作られて行きます。
 たとえば、
幼年唱歌初編 (上巻)(明治33年(1900))
  「金太郎」石原和三郎・作詞、田村虎蔵・作曲

幼年唱歌二編 (上巻)(明治34年(1901))
  「うさぎとかめ」石原和三郎・作詞、納所弁次郎・作曲

幼年唱歌初編 (下巻)(明治34年(1901))
  「花咲爺」石原和三郎・作詞、田村虎蔵・作曲

 さらには、1904年に入学した山田耕筰、1905年に入学した信時潔などが、その後の日本の音楽界をけん引していくことになります。
 

3.文部省唱歌以外の歌曲

 文部省唱歌は、その後も「中等唱歌」「幼年唱歌」なども含め、明治・大正・昭和と作り続けられていきます。
 ところが、文部省が制定した「唱歌」は、お堅い内容でまじめな歌であったことから、「唱歌校門を出ず」と言われて一般に広まることがなかったようです。
 そういったことを受けて、誰でも歌える親しみのある歌、日本の伝統や情緒を活かした歌、特に子供が歌うやさしい歌(童謡)を作る動きが民間で、文部省とは独立して進められることとなります。

 「赤い鳥運動」などもその一環でした。
 鈴木三重吉、北原白秋、西條八十らによって1918年(大正7年)に創刊された子ども向け雑誌「赤い鳥」に、当時の一流の詩人たちが次々と作品を発表し、これらに山田耕筰、本居長世などの作曲家たちが曲をつけ、それまでの日本の童謡にはなかった新しい芸術性をもたらすことになります。
 ここから生まれた代表作には下記のものがあります。
 「文部省唱歌」に比べて、庶民的な言い回し、人生の悲喜こもごもや情緒、ユーモアやメランコリーにあふれていて、親近感がもてるものになっています。

  「カナリア」 西條八十・作詞、成田為三・作曲(1919)
  「揺籃(ゆりかご)のうた」 北原白秋・作詞、草川信・作曲(1921)
  「赤い靴」 野口雨情・作詞、本居長世・作曲(1922)
  「あわて床屋」 北原白秋・作詞、山田耕筰・作曲(1923)
  「からたちの花」 北原白秋・作詞、山田耕筰・作曲(1925)
  「この道」 北原白秋・作詞、山田耕筰・作曲(1926)
  「赤とんぼ」 三木露風・作詞、山田耕筰・作曲(1927)
 

4.太平洋戦争までの管弦楽曲など

 日本国内では、大正年間(〜1920年代)までは、上に書いたように主に「唱歌」という形で「歌曲」を中心に作曲されました。
 では、ピアノ曲や管弦楽曲が作られなかったかといえば、決してそうではありませんでした。
 たとえば、山田耕筰は、ドイツ留学中に日本人の手になるおそらく最初の管弦楽曲「序曲二長調」(1912年)を作曲するとともに、日本人最初の交響曲「交響曲ヘ長調『かちどきと平和』」(1912年)も作曲しています。ドイツ・ロマン派のシューマンっぽい曲で立派なものです。
 ただし、帰国後の日本では、作曲しても演奏する団体も、発表する場も、それを聴く聴衆もいませんでしたので、作曲するモチベーションは全くなかったのでしょう。

 山田耕筰は、同じくドイツに留学して帰国した近衛秀麿などどともに、交響楽団を立ち上げるべく、1925年に「日本交響楽協会」を設立し、これが翌1926年(大正15年、昭和元年)に「新交響楽団」(現NHK交響楽団)として実現します。
 これによってヨーロッパ音楽が日本でも演奏されるようになり、ベートーヴェンの交響曲などがどんどん日本初演されて行きます。そして、日本人作曲が管弦楽曲を作る試みも行われるようになります。

 そんな中、山田耕筰などは、ヨーロッパ流の「主題労作」や「対位法」に基づくモチーフの発展や、ソナタ形式などの形式は日本人には合わないと感じていたようで、日本やアジアに適した音楽や、日本語の発音に適した歌曲・オペラの作曲を模索していたようです。
 また、海外留学先で身に付けた「モダニズム」を持ち込んだ大澤壽人や、北海道で独学で作曲していた伊福部昭などは、当時の保守的・東京音楽学校を中心とした権威主義的な日本の音楽界ではほとんど無視されたようです。

 この頃の音楽界には、大きな流派(派閥)として
・東京音楽学校派(伊沢修二〜島崎赤太郎〜信時潔〜橋本國彦、下総皖一など)
・山田耕筰などの東京音楽学校出身だが学外で活動した在野派(山田耕筰、成田為三、清瀬 保二、高木東六など)
・海外留学派(諸井三郎、大澤壽人、池内友次郎、平尾貴四男など)
・国内での独学派(伊福部昭、大木正夫など)
があったようです。

 この時期の主な楽曲としては、下記のものを挙げておきます。(個別の作曲家や作品は、別途個別に取り上げていく予定です)

 山田耕筰「序曲二長調」(1912年)ベルリン留学中に作曲
 山田耕筰「交響曲ヘ長調『かちどきと平和』」(1912年)ベルリン留学中に作曲

1926年「新交響楽団」設立(国内初のプロ・オーケストラ)

 大木正夫「工場交響曲(交響曲第1番)」(1932年)
 深井史郎「5つのパロディ」(1933年、後に「パロディ的な四楽章」に改訂)
 大澤壽人「ピアノ協奏曲第1番」(1933年)ボストン留学中に作曲
 大澤壽人「交響曲第1番」(1934年)ボストン留学中に作曲
 諸井三郎「交響曲第1番」(1934年)ベルリン留学中に作曲
 伊福部昭「日本狂詩曲」(1935年)チェレプニン作曲賞を受賞
 諸井三郎「ピアノ協奏曲ハ長調」(1937年)第1回新響邦人作品コンクールで入選。
 山田和夫(一雄)「日本の俗謡による前奏曲」(1937年)日本放送協会コンクール第1位入選
 山田和夫(一雄)「小交響楽詩『若者の歌える歌』」(1938年)第1回新響邦人作品コンクールで入選
 大澤壽人「ピアノ協奏曲第3番『神風協奏曲』」(1938年)

 1938年から1940年にかけて、日本放送協会・東京放送局(JOAK)が国民に向けた平易な管弦楽曲として委嘱した17曲の「国民詩曲」というものがあり、この当時の管弦楽曲のレベルや傾向を知る上で役に立ちそうですが、残念ながらほとんど演奏されることも録音もありません。当時のソ連の「社会主義リアリズム」のような「日本民謡を主題とする」ことが要件だったようです。
 当時の日本の音楽を理解する上で、歴史的な存在として再評価されてもよいのではないかと思います。せめて実際の演奏を音として聴いてみたいものです。  下記の17曲です。(山田和男「交響的木曽」はCD録音がある)

 飯田信夫「夏祭り」
 池内友次郎「馬子歌」
 大木正夫「日本狂詩曲第1番」
 太田忠「狂詩曲第一」
 大中寅二「お茶節による前奏と歌」
 清瀬保二「日本民謡の主題による幻想曲」
 江文「田園詩曲」
 須賀田礒太郎「東北と関東」
 菅原明朗「交響写景『明石海峡』」
 杉山長谷雄「富士、箱根の印象」
 服部正「日本風牧歌」
 平尾貴四男「俚謡による変奏曲(機織唄による変奏曲)」
 深井史郎「日本民謡による嬉遊曲」
 松平頼則「南部子守唄を主題とするピアノと管弦楽のための変奏曲」
 宮原禎次「ピアノと管弦楽のための交響曲第2番」
 山田和男「交響的木曽」
 山本直忠「日本幻想曲」

 そして、「皇紀2600年」である1940年には、国内のいろいろな作曲家が「皇紀二千六百年奉祝曲」を作曲して、その花を咲かせることになります。
(奉祝曲として国内で作曲された曲はこちらの記事を参照)

 橋本國彦「交響曲第1番」
 信時潔「交声曲『海道東征』」
 山田耕筰「歌劇『黒船』」(初演時は『夜明け』)
 早坂文雄「序曲二調」
 大木正夫「羽衣」
 大澤壽人「交響曲第三番『建国の交響楽』」
など。

 また、太平洋戦争の勃発とともに、作曲家たちも「報国」「戦意高揚」へと駆り出されます。特に東京音楽学校の作曲家たちは国家からの要請を真正面から受け止めることになります。
 たとえば、
  信時潔作曲「海ゆかば」、詞は大伴家持
などは戦時歌謡として広く歌われました。
 また、橋本國彦は南京陥落を祝って
  交声曲(カンタータ)「光華門」(詞・中勘助、1937年)
山本五十六元帥の戦死を受けて
  「英霊讃歌」(詞・東京音楽学校校長・乗杉嘉壽、1943年)
などを作曲しました。 (橋本國彦氏は太平洋戦争敗戦時にこれらの楽譜を破棄したそうで、戦前・戦中のSPレコードがあるはずなのですが、現在 YouTube などでも音源を聴くことはできません)
 

5.太平洋戦争後

 太平洋戦争の敗戦により、それまで戦争の協力を中心となって推進していた東京音楽学校派はその責任を取って自粛を余儀なくされ、東京音楽学校には伊福部昭が招聘されます。
 そこから、黛敏郎、芥川也寸志、團伊玖磨などの戦後世代が飛び立っていくことになります。
 さらに、東京音楽学校とは独立に、様々な作曲家が多方面で活躍するようになります。その中から、武満徹などが登場します。
 ここからは、百花繚乱の時代になりますので、またあらためてまとめてみたいと思います。
 



参考資料:

おけらの唱歌サイト

NAXOS「日本作曲家選輯」シリーズの解説書

片山杜秀「音楽放浪記・日本之巻」(ちくま文庫)



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