ラフマニノフの音楽 〜次回(第72回)の演奏曲のちょっとした情報〜

2014年 4月 29日 作成
2014年 6月 4日 「4」追加

次回(第72回)定期演奏会でラフマニノフ2題を演奏します。ということで、ラフマニノフに関する準備情報をいくつか。



1.スコア

 まずは、スコアを読んでおきましょう。

 交響曲第2番、ピアノ協奏曲第2番とも、国内版が出ています。また、IMSLPサイト(International Music Score Library Project)から無償ダウンロードも可能です。

(1)交響曲第2番 E-moll 作品27

 オケのパート譜は、「Boosey & Hawkes」で、

   (C) 1908 By Edition Gutheil, Leipzig
   (C) Assigned 1947 to Boosey & Hawkes Inc. For All Countries

と記されています。オリジナルは初版のGutheil 版のようなので、おそらく Dover 版も同じでしょう。

・国内版:
  音楽之友社:(出ていない模様)
  全音:(出ていない模様)
  日本楽譜出版:\2,160
     

・海外版
  Boosey & Hawkes版:ポケット版 \3,888
     

  Boosey & Hawkes大型版: \5,068
     

  Dover大型版:\2,280
     

・無償版
   こちらのIMSLPサイト(International Music Score Library Project)
     First edition
     Moscow: A. Gutheil, n.d.(1908).
   

(2)ピアノ協奏曲 C-moll 作品18

 オケのパート譜は「Kalmus」なので、おそらくDover 版と同じ。

・国内版
  音楽之友社: \1,512
     

  全音: \1,512
     

  日本楽譜: \1,296
     

・海外版
  Doverポケット版: \941
  ( Hawkes & Sons (London) Limited, 1901 からのリプリント)
     

  Dover大型版(ピアノ協奏曲No.1/2/3): \2,761
     

・無償版
   こちらのIMSLPサイト(International Music Score Library Project)
     Moscow: Muzgiz, 1947-48.
     Reissue (offprint) - Muzyka, n.d.(1965).
   

2.ラフマニノフの生涯

 ラフマニノフの伝記のような本は読んでいませんので、生涯についてはWikipedeaを参照ください

 ラフマニノフの簡単な伝記が出ていました。安いので、興味があれば読んでみてください。

 一応、生涯の概要だけ書いておきます。

1873年:帝政ロシアのノヴゴロド州(サンクト・ペテルブルクの南)で、裕福な貴族の家に生まれる。
1887年:ピアノのレッスンを始める。
1882年:一家は破産。ペテルブルクに移住。ペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学。
1885年:モスクワ音楽院に転入。チャイコフスキーに才能を認められる。同級にスクリャービンがいる。
1891年:モスクワ音楽院ピアノ科を卒業(スクリャービンと金メダルを分け合う)。ピアノ協奏曲第1番(作品1)完成。
1892年:モスクワ音楽院作曲科を卒業。卒業制作は歌劇「アレコ」(金メダル受賞)。ピアノ曲集「幻想的ピアノ小曲集」(作品3)作曲。この第2曲目が「前奏曲嬰ハ短調作品3の2」(浅田真央がバンクーバーオリンピックでこの曲の管弦楽編曲版を使用。ラフマニノフとの縁は協奏曲だけではない)。

1893年:チャイコフスキー逝去、追悼のピアノ三重奏曲第2番「悲しみの三重奏曲」(作品9)作曲。
1895年:交響曲第1番(作品13)作曲。
1897年:交響曲第1番の初演大失敗(指揮はグラズノフ)。これにより神経衰弱に陥る。
1898年:バス歌手シャリャーピンと親交。チェーホフ、トルストイとも知り合う。
1900年:2台のピアノのための組曲第2番、ピアノ協奏曲第2番を作曲。この成功により自信を取り戻す。
1902年:従妹のナターリャ・サーチナと結婚。

1906〜9年:家族とともにドレスデンに滞在。この間の1907年に交響曲第2番を完成。
1908年:交響曲第2番の初演が成功(グリンカ賞を受賞)。
1909年:アメリカに演奏旅行。
1910年:1月にマーラー指揮のニューヨーク・フィルでピアノ協奏曲第3番を共演。

1913年:ローマに滞在(チャイコフスキーが滞在した家を借りた)。そこでエドガー・アラン・ポーの詩(のロシア語訳)による合唱交響曲「鐘」(作品35)作曲。
1915年:ロシア正教の典礼に基づく「晩祷」(徹夜祷、ヴェスペレ)作品37作曲。スクリャービン逝去(43歳)。
1917年:ロシア十月革命。ラフマニノフは12月に家族とともに北欧の演奏旅行のため出国し、そのまま二度と祖国に帰ることはなかった。
1918年:アメリカに移住。以降、生活のため主にコンサート・ピアニストとして活動。

1931年:スイスのルツェルン湖畔に「セナール荘」という家を建ててヨーロッパの拠点とする(Senar=セルゲイ (Sergei) + ナターリヤ (Natalia) + フマニノフ (Rachmaninov) の頭文字)。ここで「パガニーニの主題による狂詩曲」「交響曲第3番」などを作曲。
1942年:第2次大戦を避けてアメリカのカリフォルニア州ビバリーヒルズに移住。

1943年: 70歳の誕生日を目前に、ビバリーヒルズの自宅で逝去。
     本人は、モスクワのノヴォデヴィチイ墓地に埋葬されることを望んだそうだが、戦時中でかなわなかったと、ウィキペディアに書いてありました。
     (2013年に訪問したノヴォデヴィチイ墓地についてはこちらを参照ください)

 なお、幻冬舎新書「二十世紀の10大ピアニスト」(中川右介・著)には、ピアニストとしてのラフマニノフが取り上げられています。
    

3.ラフマニノフの代表曲

 まずは、今回演奏するピアノ協奏曲第2番、そして1970年代以降には、指揮者のアンドレ・プレヴィンがカットなしの演奏を復活させた交響曲第2番でしょうか。
 交響曲第2番は、聴いていませんが山田一樹氏指揮/仙台フィルの演奏が気になります。

 ラフマニノフ/交響曲第2番 アンドレ・プレヴィン指揮/ロンドン交響楽団

 ラフマニノフ/交響曲全集 アシュケナージ指揮/コンセルトヘボウ管弦楽団

 ラフマニノフ/交響曲第2番 山田一樹指揮/仙台フィル

 ラフマニノフ/ピアノ協奏曲全集 アシュケナージ(p)/アンドレ・プレヴィン指揮/ロンドン交響楽団

 ラフマニノフ/ピアノ協奏曲No.2/3 アンドレイ・ガブリロフ(p)/ムーティ指揮/フィラデルフィア管弦楽団

 ラフマニノフ/ピアノ協奏曲No.2 キーシン(p)/ゲルギエフ指揮/ロンドン交響楽団

 それ以外には、ピアノ協奏曲第3番、パガニーニの主題による狂詩曲といったところ。

 生前は、コンサート・ピアニストとして活躍したラフマニノフですが、現在ではピアノ曲はそれほど演奏されません。
 浅田真央さんのバンクーバーオリンピックでの「前奏曲嬰ハ短調作品3の2」があります。鐘の響きを模しているため、別名「鐘」と呼ばれることもあるようです。

 でも、ラフマニノフの「鐘」といえば、普通は 交響合唱曲「鐘」作品35 を指すでしょう。
 エドガー・アラン・ポーの詩のロシア語訳に付けられたオーケストラと独唱、合唱の曲です。
 第1楽章「鈴の音にのって疾走するそりの姿。銀の鐘は若さの輝き」、第2楽章「聖なる婚礼に鳴り響くのは金の鐘」、第3楽章「激動の騒乱を告げる真鍮の警鐘」、第4楽章「鉄の鐘が告げるのは弔いの悲しみ」といった構成で、ソプラノ独唱、テノール独唱と、混成合唱、管弦楽で演奏されます。

 ラフマニノフ/合唱交響曲「鐘」 スヴェトラーノフ指揮/ソビエト国立交響楽団

 ラフマニノフ/合唱交響曲「鐘」 ラトル指揮/ベルリン・フィル

 室内楽では、チャイコフスキーを追悼して作曲したピアノ三重奏曲第2番「悲しみの三重奏曲」。ロシアでは、亡き人を追悼してピアノ三重奏曲を作る、という伝統をチャイコフスキーが作り、次のような曲があるようです。

 ・チャイコフスキー/「偉大な芸術家の思い出に」作品52: ニコライ・ルビンシテイン(1881没)を偲んで
 ・アレンスキー/ピアノ三重奏曲 第1番 ニ短調 作品32: チェロ奏者、カルル・ダヴィドフ:1889没)を偲んで
 ・ラフマニノフ/悲しみの三重奏曲 第2番 ニ短調 作品9: チャイコフスキー(1893年没)を偲んで
 ・ショスタコーヴィチ/ピアノ三重奏曲 第2番 ホ短調 作品67: イヴァン・ソレルチンスキー(1942没)を偲んで
 ・ゴリデンヴェイゼル/ピアノ三重奏曲 ホ短調 作品31  ラフマニノフ(1943没)を偲んで

 ラフマニノフ/悲しみの三重奏曲No.1/2 アシュケナージ他

 ラフマニノフ/悲しみの三重奏曲No.1/2 ボザール・トリオ

4.ラフマニノフあれこれ

(1)「前奏曲集」

 ラフマニノフは、作曲家であると同時にピアニストでしたので、ピアノ曲をいくつか作曲しています。(「多数作曲しています」と書きたいところですが、作品番号の付いた45曲の中で、ピアノ独奏曲は11曲だけです)

 この中で、先輩ショパンにならって「前奏曲集」を作曲しています。これもショパンにならって、すべての長調・短調で合計24曲。
 先輩ショパンは、「24の前奏曲」作品28として、24曲のセットで作曲しました。これは、これまた大先輩のバッハの「ほどよく調律されたクラヴィーアのための前奏曲とフーガ(通称「平均律クラヴィーア曲集」)第1巻(24曲、BWV846〜869)、第2巻(24曲、BWV870〜893)が各々すべての長調・短調の合計24曲でセットになっていることにならったものです。

 ところが、ラフマニノフの「前奏曲集」は、実は1つのセットとして作曲されものではありません。次の3曲の合計で完成しているということです。

 ・「幻想的小品集」作品3(全5曲)の第2曲「前奏曲」(単独で演奏されるときは「作品3-2」)
 ・「10の前奏曲」作品23
 ・「13の前奏曲」作品32

 この3つを合計して、すべての長調・短調の合計24曲がそろいます。

 何故、すべての長調・短調の合計24曲か、ということについては、そもそもピアノ独奏曲に何故「前奏曲集」という曲種が存在するのか、ということと密接に関連します。その辺の事情は、こちらのサイトに書きましたので参照ください

 ちなみに、上記以外に、ピアノ独奏曲として、ドビュッシーが「前奏曲集・第1巻」(12曲)、「第2巻」(12曲)の24曲を、スクリャービンが「24の前奏曲」作品11を、ショスタコーヴィチが「24の前奏曲」作品34および「24の前奏曲とフーガ」作品87を作曲しています。全て「24曲のセット」ということです。

(2)ラフマニノフの作曲した曲種

 ピアノ独奏曲が意外に少ない、ということで調べてみたら、ラフマニノフの作品番号の付いた曲は全部で45曲あります。

 このうち、ピアノ独奏曲は11曲、ピアノ連弾・2台のピアノのための曲が3曲。  意外に多いのが歌曲集で8曲あります(のべ曲数としては74曲)。合唱曲が5曲。  これに、交響曲3曲、協奏曲5曲(パガニーニ狂詩曲もここに入れる)、管弦楽曲4曲、室内楽曲4曲、歌劇2曲を加えて、全45曲。

 これらうち、ロシア革命でロシアを離れる前に、作品39のピアノ独奏曲である「練習曲集『音の絵』」(1916〜17作曲)までが書かれています。つまり、ロシアを離れた以後は、1943年に没するまでの26年間に、たった6曲しか作曲されていないということです。作曲家としてではなく、ピアニストとして後半生を過ごした、ということなのでしょう。

 ロシアを離れた後の作品は、「ピアノ協奏曲第4番」作品40(第2番、第3番に比べ、ほとんど演奏されません)、「3つのロシアの歌」作品41(歌曲)、「コレルリの主題による変奏曲」作品42(ピアノ独奏)、この時期では最も有名な「パガニーニの主題による狂詩曲」作品43(ピアノ独奏と管弦楽)、交響曲第3番・作品44、そして「交響曲舞曲」作品45です。

 最近読んだリヒャルト・シュトラウスの伝記(今年2014年が生誕150周年なので)には、R.シュトラウスが晩年(1949年没)まで「近代市民社会」(ドイツで言えば1918年に崩壊したドイツ帝国以前)に立脚し、自らその伝統の「幕引き」を強く意識して作曲を続けていたのではないか、という記述がありました。「時代遅れ」を自認しながらも、それが自分以外にはできないミッションであると自覚して。そこで引合いに出されていたのが、「時代とのギャップを知ることで作曲ができなくなった」ラフマニノフとシベリウスでした。



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